8話 アズリア、雷神を乗り越える
もう一度アタシを取り込もうと、黒い影がその巨大な右腕を動かし、掴みかかってきた手の平を。
握り拳を作った右腕で、全力で殴りつける。
明確な拒絶の意思を持って。
「……悪いけどさぁ」
「ば、馬鹿な……人の子ごときが……精神体である我に触れた……いや、弾いた?」
まさか拒絶されると思っていなかったのか、それとも黒い影が下に見ていた存在に迫る指を弾かれたのが、そこまで驚きだったのか。
「アタシは馬鹿だからさ、敗けるとわかってても……よく知らないアンタに身を任せてまで勝
利を拾おう、なんて思えないんだよねぇ……」
黒い影に両眼と口のような光が浮かんだ姿しか見えない存在だが、明らかに動揺しているのが伝わってきた。
「……ま、待て人の子よ、勘違いするな。何も貴様の身体を永久に支配しようと言っているのではない。あの魔王とやらを倒すまでだ、その後は貴様に身体を返すと約束────」
我慢出来ずに言葉を割り込ませるアタシ。
「ふざけるなよたかが魔術文字の分際で」
「────なっ、何だと貴様。人の子の分際で」
だってそうだろう。
地下遺跡の壁画に記されていた記述では、確かに太古の昔は凄まじい能力を持っていた存在だったのかもしれないし、あの遺跡にいた魔神と関連があるのかもしれない。
理由こそアタシが知る由もないが。壁画の古代文字をもっと詳しく研究すれば、それこそ記した文字を魔導王国ゴルダ辺りに持ち込めば、或いはその辺りの事情や歴史が判明するのかもしれない。
だが、今は違う。
今のコイツは、魔術文字に姿を変えて、アタシの身体を奪わなければ目的を果たす事も出来ない存在なのだ。
先程、迫り来る奴の手の平を殴り返した時、その右腕には「ουρανός」の魔術文字が浮かんでいたにもかかわらず。
奴はその右腕すら支配を奪って、取り込もうとするのを拒む行為を止めることさえ出来なかったのだ。
アタシは、右腕に自分の魔力を集中させて。
右腕に浮かぶ目の前の存在の魔術文字を制御しようと試みる。
すると、今まで見上げる程に巨大だった黒い影が揺めき始めるや否や、少しずつだがその大きさが縮んでいくように見えた。
「な……んだ、と。我の魔力が、精神体が、魔術文字ごと、人の子ごときに抑え込まれる、だとぉ……こ、こんな筈では」
黒い影から漏れる声には、焦りが色濃く感じられるようになってきた。
それでも黒い影の力の根源、もしくは象徴とも言える右腕の魔術文字からは、アタシの制御から逃れようと、その文字から溢れ出す魔力がバチバチと火花を散らす雷撃に形状を変えて周囲で暴れ回り、絶えず抵抗を繰り返してくる。
「アタシはさ……この世界でもう誰も使うことのなくなった魔術文字を刻んで生まれてきたんだ」
だが、アタシは怯まない。
何故ならば、忌み子として蔑まれ、想い人を失い故郷を捨てたアタシに残されているのは、魔術文字だけなのだ。
その魔術文字に身体まで支配されてしまうとしたら、それは最早、アタシは何のために生まれてきたのか、その全てを否定された事になってしまう。
────冗談じゃない。
そんな事は何よりもアタシが一番許さない。
「……だから、もう一度言ってやるよ」
アタシが右腕に魔力を集中した、その瞬間。
先程まで激しく周囲に舞い散っていた雷撃の火花が、右腕の魔術文字へと吸い込まれ、浮かんでいた文字が消えていき。
それと同時に、何故か右眼が熱く疼き出す。
右眼に宿る筋力増強の魔術文字を発動させたわけでもないのに。
そして、目の前に映る景色に異変が起こる。
黒い影も、黒い空間も今まで見ていた全てのものが、まるで霧のように消えて無くなり。
ουρανόςに言ってやりたかった台詞を口にする前に、アタシはまた意識が混濁し。
────次の瞬間。
アタシの意識は、また魔王との対決の場へと戻ってきたようだ。まだ疼きの収まらない右眼の目蓋を微かに開き、その先に見えたのは。
目に捉られない動きではなく、歩いてこちらへと近寄ってくる魔王様の姿だった。
「何だ、雷針をあれだけマトモに受けたのにまだ意識を刈り取れなかったとはな。入りが甘かったのか、お前が頑丈すぎるかだな……アズリア」
どうやら魔王様が追撃もせず、アタシを担いで連れ去って移動した様子もないことから。意識を失ってそれ程の時間は経過していないようだった。
倒れていたアタシは、立ち上がろうと手足の先に力を込め、指が動くかを確かめていく。まだ「雷針」の効果が残っていたら動かすのは困難だったろうが。
指は、動く。
腕も、脚も、立ち上がることは可能そうだ。
なら、まだアタシは戦える。
そして、口から先程言いたかった台詞が漏れる。
「……たかが魔術文字だ。なら……アンタもアタシが従えてやるよ、九天の主」




