2話 アズリア、腹を満たす
声が聞こえる。誰かを罵る強い口調で。
「肌の黒い……コイツは呪われた『忌み子』だ!」
────違う。
「その眼、その筋力……ば、化け物め!」
──違う、違うんだ。コレは。
なあ、何とか言ってくれよ母さん。
「寄らないで。あなたなんて産まなければよかった」
幼い頃の母親の声に罵られ、アタシは目を覚ます。
◇
……ん……ここは?
目蓋を開けた先には見知らぬ天井。
アタシはどうやら見知らぬ場所で寝床に寝かされていたようで、知らない男の声が横から聞こえてきた。
そして同時に、腹の虫が盛大に鳴ってしまう。
「おっ、ようやく起きたか。まずは名乗らせてくれ、俺はランドル。余計な世話だったかもしれんが、行き倒れてたアンタをここまで運ばせてもらった」
目の前にいる声の主は、見た目三十代より上、といった感じだろう。やや赤みがかった金髪を短く切り揃え温和そうな笑みをこちらへと向けているが。
その実はアタシを頭の上から足の先まで、観察するのを忘れていない……そんな視線だ。
男が言っている行き倒れ……ということは王都を目の前にして記憶が途切れたのは、空腹で意識をそのまま失った、というわけか。
やけに腹が減ってる理由にも納得がいった。
「いやいや……余計な世話だなんて思ってないよ。此処まで運んでくれた礼を言わせてもらうよ、ありがとう」
アタシは寝床から上半身を起こして、ランドルと名乗る生命の恩人に恭しく頭を下げていき。
名を聞いた以上は、こちらも名前を明かすのが礼儀だ。
「アタシはアズリア。理由あって一人身ながら旅をしていたんだが……途中、色々とあってね。手持ちの食糧が尽きてご覧の有様さ」
「ふーん?……一人で旅、その理由、ねえ」
訝しむ視線をこちらへと向ける、ランドルと名乗る男。
それも当然のことだ。この国では、都市や街に続く石畳の街道が敷いてはあるものの。道中には凶暴な獣や魔物が闊歩し、無法を繰り返し街を追い出された犯罪者らが徒党を組んで襲ってくる場合もある。普通の住民は街の外に出て、他の町や村を行き交う事は基本的に……ない。
商品を運搬する商人や領主や貴族、王などの決定を伝令する役割の兵士など、やむを得ず街から街へ移動する場合でも。馬車や馬で移動したり、護衛に腕利きの戦士や傭兵を雇うのがお約束だからだ。
だからアタシのような女が、一人で街の外を旅して歩くというのは非常に稀な話なのだ。
するとこのランドルという男は、壁に立てかけてあったアタシの大剣に視線を移す。
「……何だい?言いたいコトがあるならハッキリと口にしたらどうなんだい?」
「まあ、事情は誰にでもあるからな。その辺の話も含めて、色々とアズリアには聞いておきたいことがあるんだが。まずは食事を用意して──」
その言葉を聞いて、思わず寝床から立ち上がり。
「食事……だと──ッ⁉︎」
彼の言葉に被せ気味に返答してしまったが、それも仕方ない事なのだ。
何しろ路銀が尽きてしまったアタシがまともな食事にありつけるのは、実に七日ぶりになのだから。
「お……おお、さ、さすがに食事はここじゃなく、別室でしてもらうがな。こ、こっちだ……」
アタシの剣幕に一歩後退りしたランドルと名乗った男の案内に着いていき、寝ていた部屋を出る。
なるほど、ここは彼の家ではなく。旅人用の宿屋だったようだ。
街の外からやってくる旅人用の宿屋は、基本的に二階や離れの部分が宿泊部屋となっていて、受付となる一階の部分は主人の住居区画を兼ねた酒場になっていたりすることが多い。
階段を降り、案内されたのは一階にある酒場の卓の一つだった。
その卓上には、料理が湯気を上げて並んでいた。
「……じゅるッ」
今、目の前の卓上に並んでいる料理の数々とは。
焼いたばかりのパンに、具に野菜の切れ端が浮かんだ煮汁に。皿の上に乗ったのは、動物の肉を焼いた小さな塊。
どの料理もごくありふれた品ではあったが。
それは、今アタシの空きっ腹が欲してやまない物だった。
「えーと……あのな……そんな急いで食べなくても誰も取らないから、な? ……おーい?」
残念ながら、もはやランドルの声はアタシの耳に届いておらず。
空腹だったアタシは、ただひたすらに目の前の料理に手を伸ばし、匙を右手に、左手にはパンを持ちながら両手を忙しなく使って口に運んでいた。
もし今、アタシの食事を邪魔するモノが現れたとしたら、喩えそれが戦神ゴゥルンでも竜属でも。
一撃で屠ることが出来る──と断言する。
アタシが、まず最初に口にしたのは白いパン。
「……む、ぐ」
口に入れると保存食用の石のように固い黒パンとは全然違い、焼き立てを出してくれたのかフワリと柔らかく小麦の味と香ばしい香りが口いっぱいに広がる。
「じゅるじゅるじゅる!」
口に入れたパンを、木の匙ですくった野菜の煮汁で流し込む。
甘く煮込まれた人参や芋と一緒に煮たのだろう、柔らかくなった煮汁の具の干し肉を含むと。汁の中で適度に戻った干し肉の歯応えと塩味、そして野菜の甘味が広がり。
口の中に残るパンが煮汁でふやけ、次から次へと喉に流し込まれていく。
「ふぅ……それじゃ、お次はいよいよッ」
そして、何らかの動物の肉を焼いた塊だが。
本来なら、用意された短刀で食べる分を大きく切り出しながら食べるのだが。あまりにも空腹だったアタシに肉を切る余裕などなく。
皿の上の香ばしく表面が焦げた肉を手掴みのまま、直接持ち上げて歯を入れる。
「う、ッッ?……う、美味えええぇッッッ!」
柔らかく、それでいて「肉を食った!」と実感出来るような歯を押し返してくる弾力が何とも心地良く。
適度な脂と肉汁、そして表面に振られた塩をカリッと歯で噛んだ時に広がる塩味が口の中で渾然一体となって、食欲を猛然と掻き立てられる。
「んぐ……ゴクン。ぷはあ……驚いた、こんだけ美味くて新鮮な肉が出てくるなんて、ねぇ……ッ、はぐッ」
この野生味溢れる味と溢れてくる肉汁は、保存し塩漬けにした肉や干し肉を茹でて戻したものではなく。獲ってきたばかりの肉だ。
それも……ただの獣や魔獣の肉じゃない。
アタシの舌の記憶が確かなら、生息箇所が限られる王者鳥の肉だ。
翼を広げれば馬一頭ほどの巨大な体格の鳥で、仕留めて捕獲するのは狩人一人や二人では難しいとされる王者鳥。
アタシも運良く一度だけ口にした事があるが、口の中にこれでもか、と広がる濃厚な肉の旨味は今でも記憶に色濃く残っていた。
何よりも……空腹は一番の調味料というのはまさに今、アタシの腹具合なのを言うのだろう。
「うん……うん、どれも美味いッ! 美味いよッッ!!」
食事を用意してくれたランドルが、生暖かい視線でアタシの食べっぷりを見ていたのだが。
そんなランドルの視線に気付くこともなく、アタシは夢中で目の前の食事を皿一枚残さず綺麗に平らげ。
「げふ……ふぃぃぃ、食った食ったぁぁぁ……ッ」
空腹をすっかり満たして一息ついてから。
ようやく自分が置かれた立場を理解していき。
「あ、あのさ。ランドルさんだっけ……行き倒れから助けてもらっただけでも感謝なのに、こうしてマトモな食事まで用意してくれて」
バツの悪い表情を浮かべ、両手の指で科を作りながら猫背になり、目の前のランドルに対して言葉を濁していくアタシ。
「いやホント、何か謝礼でもしなきゃいけないんだろうけど……その、さぁ……」
「分かってるさ、金を持ってないんだろ? そうでないなら行き倒れなんかしないしな」
「ぐ……全くその通りで返す言葉もないよ……」
確かに路銀がないのは、その通りなのだが。こちらが事情を明かす前に指摘されてしまうと、少しばかり傷付いてしまうのだった。