109話 アズリア、街の救援を呼ぶ
「──あ」
だが、憤りに駆られたのはほんの一瞬。
イーディスの頬を叩いた直後、アタシはハッと我に返り、まだ叩いた感触が残った手を見る。
「わ、悪いッ? 何も、殴るつもりじゃ……」
咄嗟の事だったが、不幸中の幸いだったのは。イーディスの頬を殴ったのが握った拳ではなかったのと、手には大した力が込もっていなかった事だ。
殴られたイーディスも、まさかアタシに平手打ちを喰らうとは思ってもみなかったらしく。
突然、頬を叩かれた事に怒るというよりも。唖然とした表情で、短剣を持つ手を止めたアタシを見ていた。
「驚いた……まさか、止められるとはな」
「そ、そりゃ、アンタの言う通り、不意を突かれて背中を焼かれたんだ」
相手も殺す気で襲ってきたのだ、ならば返り討ちに遭い、生命を落とす覚悟は当然ながら出来ているのだろう。
アタシは、掻き切られる直前で短剣の刃が首から離れたばかりの取り巻きへと視線を移すと。
拳を握り締めてみせた。
「アタシだって……コイツら全員の顔を一撃、本気で殴ってやりたいさ」
『んっ⁉︎ ん……んんっ!』
殺される一歩手前から解放され、すっかり安堵していた取り巻きも。睨むようなアタシの視線に気付き。
まだ生命の危機が去っていないと察知し、怯えたような声を口に当てた布越しに漏らす。
さらには。
「……いや、アズリア。お前がその馬鹿力で本気で殴ったら、それこそ死んじまうだろ」
背後からはサバランが、アタシの言葉を本当に実行したらどのような結果になるか……を呆れたような口調で割り込んでくる。
「サバラン……アンタねぇ……」
アタシの腕力が人並み以上だとしても、サバランの言葉はさすがに過大評価が過ぎる。右眼の力を解放していない状態であれば、いくら本気で殴ったとしても、精々(せいぜい)が顎の骨が砕ける程度だろう。
だが、動けなくなる程魔力を使い過ぎ、身体を休めていた筈のランディが。
「ああ、確実に死ぬな」
「つまりは手加減して頬を叩かれた俺は幸運だった、という事か……」
イーディスもまた、サバランとランディの言葉に同意するように何度も頷いている。
「ランディに……イーディスまでッ⁉︎」
今朝、出発前の部屋での会話で。アタシの人並み外れた馬鹿力への認識を改善出来た、と思っていたアタシだったが。
誤解が解けたどころか、ランディやイーディスにまで馬鹿力の認識が広がっていた事に開いた口が塞がらなかった。
しかし、一方で。
今の三人とのやり取りで、直前に取り巻きの生命を奪おうとしていた事や。凶行を止めるため、イーディスの頬を叩いた事による張り詰めた雰囲気が緩んだ。
アタシは一度、気持ちを切り替えるために大きく息を吐いた後。イーディスへと頭を下げていく。
あらためて緊急だったとはいえ、仲間に手を上げてしまった行動を謝罪するために。
「イーディス、その……頬を叩いて、悪かったね。痛かっただろ?」
「……いや。俺も、此奴らを始末しようという気持ちが先走って、独断で動いたのも悪かった──それに」
イーディスもまた、先程の一連のやり取りが緊張感が解されたのか。頬を叩いた直後に比べ、表情や反応が軟化しており。
頭を下げたアタシへ、事前承諾無しで取り巻きの生命を奪おうとした事を認め、謝罪の言葉を口にした。
「その理由にお前を使ったのは卑怯だった」
アタシが思わず手が出る程に激昂した理由は、何も取り巻きの生命を奪おうとした事ではない。
たとえ同じ訓練生だったとしても。こちらを殺す目的で襲い掛かってきた敵を返り討ちにして、誰に非難される謂れがあろうか。ましてや今アタシらがいるのは、養成所の外なのだから。
現に、サバランが言うようにアタシの本気の拳の一撃が連中の生命を奪う程の威力だったと理解しても尚。アタシの背中を焼いた連中の顔を殴ってやりたい気持ちに変わりはない。
死んでも構わない、そう思っているのが本音だ。
そう、正に。
アタシがイーディスに憤ったのは、取り巻きの首を刈る理由にアタシを使った事だ。
とはいえ、養成所に来てまだ三日しか経っていないが。
殺害した責任の所在をアタシに押し付ける意図など、イーディスには微塵もない事はアタシも疑ってはいない。
それでも、他人が人を殺す理由に。まだ人間の生命を奪った事のない自分の名前を使われた事に、感情を抑えられなかったのだ。
アタシの報復を望む気持ちを代弁してみせたように、今回もまたイーディスはアタシの心の中を汲み取り。率直な謝罪をしてみせたのだったが。
しかしイーディスの謝罪は。先程の四人でのやり取りで緩んだこの場を、再び気まずい雰囲気で支配しそうになる。
「わかってくれたのなら、この話はコレで終わりだよ」
そんな空気の変化、緊張を察知したアタシは。
頭を下げていたイーディスへと手を伸ばし、先程取り出してみせた色付きの小枝をひょいと掴むと。イーディスが起こした焚き火へと投げ入れる。
「お、おいっ?」
救援をヘクサムに伝えるための手段、その小枝が火に焚べられたのを見て。サバランが驚きの声を上げ、アタシと焚き火とを交互に見る。
今、炎に投げ入れた色付きの小枝は、特殊な染料を染み込ませた枝で。
火に焚べられた枝は早速、炎と反応して枝と同じく赤みを帯びた煙をもうもうと発生させていく。
特異な色の煙を、ヘクサムの監視役が発見すれば。街の外で緊急事態が起きた事を察知し、街や養成所から救援を呼び寄せる仕組みだが。
次いでランディもまた、驚いた様子でアタシに行動の是非を問う。
「いいのかアズリア? 小枝を使うって事は……」
「ああ、わかってるさ。遠征を途中で止める、つまりは失敗したのを認めるッてコトだろ?」
今のアタシらは、昨晩の騒動の決着……或いは騒ぎを起こした懲罰という名目で。今回の遠征という訓練を受けさせられている。
そのアタシらが遠征を中断するという事は、帰還後何らかの追加の罰が与えられる可能性だってある。
ランディはその事を懸念し、今の発言に繋がったのだが。
「いいさ、失敗でも。アタシも死にたかないし、それに──」
アタシは傷を負った側頭部を指差して、自分の傷を理由にイーディスの提案に賛同した旨を伝える。
確かにアタシの頭の傷は、決して浅くはなかったし。背中に魔法が直撃し負った火傷は、慣れてきた今でも相当に痛む。
出来る事なら今すぐ養成所へと帰還し、治癒術師の魔法で傷を癒やして貰いたかったのは、紛れもない事実ではあった──が。
本音を言えば。盾を破壊されたサバランや、魔力を使い過ぎたランディが心配だったのもある。
さらにイーディスの懸念通り、ナーシェン含む四人の捕虜を数日間も連れ歩く負担もまた、耐えられるものではない。
それに。
ヘクサムの近郊にまで「村喰い」なる強力に変異した小鬼の集団が迫っていた事実も。ヘクサムに報告しなければいけない案件だろう。
様々な理由はあるが。先程はアタシを理由にしたイーディスを叩いてしまった手前、その本音を口にする訳にもいかず。
「アタシがアタシ以外の事を理由にするのは、卑怯だからね」
アタシは一瞬だけイーディスを見て、片目の目蓋を閉じた後。殴ってしまったのと同じ側の自分の頬を撫でてみせる。




