64話 アズリア、過去の心の傷を抉られ
昨日の朝と同じく、廊下から聞こえてくる起床と朝の鍛錬の合図に。
無言ながら既に準備を終えていたイーディスも。寝台から慌てて跳ね起きるサバランも、これまた同じ光景。
「お……おわぁっ⁉︎ って、あ、アズリア?」
一つだけ違うのは、目覚めたばかりのサバランの眼前に。アタシが拳を握り締めて立っていた事だ。
まだ寝起きで頭が回っていないながら、目の前にアタシの姿があったのを不思議に思うサバランだったが。
一番の疑問だったのはやはり、握り締めていた拳だろう。
「惜しいねえ。目を覚ますのがもう少し遅かったなら、優しく起こしてあげられたのにさ」
「い、いやいや……それ、全然嬉しくねえぞ」
アタシが入所してから朝を迎えたのはまだ二日だが、それでも。
昨日のランディらの会話から、サバランが朝に寝過ごすのは恒例の出来事だと理解していた。通常の朝の鍛錬でも遅れれば、余分な訓練を追加され食事の量を削られるが。
さすがに今日は所長直々の命令だ、遅れるのは許されない。
だからアタシは、昨日のようにサバランが寝過ごしそうになったなら。
握り締めた拳を気持ち良さげに寝ているその頭に落とし、文字通り叩き起こしてやろうとしていたのだが。
今日の遠征の事を辛うじて憶えていたのか、それとも寝ながら危機を察知したのか。アタシが拳を落とす直前に目を覚ましたという訳だが。
「所長の鉄兜を叩き割るお前の拳なんぞで殴られたら、目を覚ますどころか二度寝しちまうわ……」
もし、起きるのがあと少し遅れていたら……自分に何が起きた事態を想像したサバランは頭を押さえる。
──確かにアタシは入所した初日。
サバランら三人と顔合わせした直後の所長との模擬戦で。
サバランが言うように所長が装着していた鉄兜を、刃を潰した練習用の剣で両断してみせたが。
日時的にそんな膂力を発揮出来る訳では当然ながら、ない。
アレ──鉄兜を両断したのは、右眼に宿した謎の力を発現させたからだ。
「ヒドい言われようだね……勿論、大事な遠征が控えてるんだ。そんなコトにならないよう加減はするさ」
サバランの言動に気を悪くしたような素振りを見せ、アタシは背中を向けた。
半分は演技だったが、もう半分は本当にサバランの言葉で機嫌を損ねたからだ。
サバランの言動に悪気はない、という事は充分に理解しているのだが。
発動に代償を必要とする右眼の力を使い、どうにか所長との模擬戦を勝利で終わらせたというのに。
まるで力の発現を悪し様に言われたようで。
しかしサバランは、完全にこちらの態度を冗談を交えたやり取りの一環と思い込み。
背を向け、機嫌を損ねたアタシを軽口で遇らう。
「あーはいはい、そういうのはいいから」
寝台から起き上がり、制服の袖に腕を通して手早く着替えを終えたサバランはそのまま。一番に部屋を出ようとする。
「ほら皆んな、早くしないと所長に怒られちまうぜ」
「……お前が言うな。なあアズリ──」
一番遅く目覚めたサバランの、実に調子の良い発言にさすがに苛立ちを隠せなかったのか。
口数少なく、起床してから一言も発していなかったイーディスが呆れたような口調で異論を挟み。何気なくアタシへと同意を求めてきた──が。
「アズリア?」
イーディスの呼び掛けは、アタシの耳にも届いてはいたものの。
先程のサバランの冗談混じりの発言に、少しばかり過去の心の傷を掘り返されてしまい。反応を返す事が出来なかったのだ。
「……アタシだって、こんな化け物じみた力。欲しかったワケじゃないよ」
そう呟いたのは、アタシが望まぬ力を持って生まれた事。
アタシは生まれながらにして、右眼に何らかの謎の力を宿し。その力を発揮出来る事を自覚したのは一〇歳の頃。
右眼の力を発現させると、子供の腕でも鉄製の剣を素手で曲げられるほどの脅威的な膂力を発揮出来るようになる。
しかしこの右眼は魔力を開放させずとも、日常的にアタシの全身の筋力を人並み以上に増大させていた。
現に、右眼に謎の力が宿っている事を知った一〇歳の頃には既に。大人が数人掛かりでようやく動かす重さの大岩を、アタシ一人で持ち上げてしまえた程だ。
故に「黒い肌」「魔法が使えない」という要素に「人を超えた怪力」が加わり。さらに街の人間のアタシへの差別的な態度がいや増す原因となってしまう。
それだけならば、まだ良かった。
悪意や暴言を浴びせてくる人間の反応が、ほんの少し変化しただけなのだから。
実は──故郷の街にも、数少ないアタシへの理解者がいたのだが。
まだ己の人を超えた膂力を自身が理解していなかった頃、力の加減を間違えて迷惑を掛けた事があった、しかも何度も。
運ぶ荷物を壊してしまったり、負傷させてしまったりと。
失敗を苦笑いながら許してくれる人もいた一方で、力の加減が出来なかった事で「化け物」と罵倒され。アタシの理解者から態度を一変、差別する立場に変わってしまった人も少なからず存在し。
これまで自分を理解してくれ、優しい言葉を掛けてくれた人間が暴言を浴びせてくるのは。
慣れるまでずっとアタシの心を抉り続けた──という悲しい記憶。
「アタシにゃ、力の加減なんて出来ないさ……」
サバランの冗談めいた言葉は。力の加減が出来なかった事で悪し様に言われ、アタシを罵倒する側へと回った数人の顔を思い出すに充分だった。
ボソリと再び、過去を悔いるように絞り出すような小声を口から呟き。
アタシは口唇の端をキュッと噛み締めた、まさにその瞬間だった。
「……いっ。おいっアズリア!」
「──は、ッ?」
ようやくアタシの耳と頭に、あれからずっと呼び掛けられていた自分の名前と声が伝わり。
さらに肩を掴まれる感触と続けて身体を揺さぶられた振動で、過去の回想から引き戻される。
見れば、呼び掛けていたのはイーディス。
そして、肩を掴んで身体を揺らしていたのはランディ。
二人とも明らかにアタシを心配してか、不安げな表情でジッとこちらの顔を覗き込んでいた。
「あ。ああ……わ、悪かったね、何でもない。ただちょっと嫌なコトを思い出しちまってただけさ、気にするなよッ」
アタシは顔合わせの際に、ランディらには過去の出来事を語りはしたが。つい先程に思い出す事となった「心の傷」については何一つ話してはいない。
別に隠す事でもないし、この場で説明しても良いと思っていたが。
遠征に出発する時間も差し迫っていたためか、アタシは理由を話さずに。笑って誤魔化す選択をしてしまうと。
案の定。二人とも、アタシから理由を説明されると思っていたからだろう。まるで納得がいっていない顔のままでアタシを見続けている。
「アズリア……っ」
「それより早く集合場所に行こうぜッ、所長を怒らせちまうだろ」
しかし、一度「誤魔化す」という選択をした以上は今は貫き通すしかない。
肩に手を置いていたランディを強引に振り解き、部屋の扉の前に立っていたサバランを横へと押し退け、廊下へと出ようとしたが。
「……へ、ッ?」
部屋を出ようとしたアタシの脚が不意に止まる。




