56話 アズリア、またしても帝国貴族
普段ならば悩むにも値しない。アタシは自分の直感に素直に従い、相手にせず立ち去る一択なのだが。
振り向くか否か、その選択肢をさらに悩まていた理由は。一緒にいるランディら三人の存在だった。
アタシ一人ならばどちらを選んだにせよ。この場で声を掛けた男の不興を買い、今後に影響が出ようが所詮は自分だけの問題で片付くのだが。
養成所にいる限り、アタシは同室の三人とほぼ行動を共にする以上。アタシが被った悪意は、同室の三人にも向けられてしまう。
「……さて、どうする?」
おそらくは決して短くはない時間、アタシはこの場に立ち止まって考え込んでいたのだろう。
当然、考え込む間も周囲の時間が止まってくれている筈もなく。
アタシを女呼ばわりし、わざわざ部屋に戻るところを呼び止めようとした人物は。早足でこちらへと接近してくる。
しかも足音からするに一人ではなく、複数人。
『おいお前っ! ナーシェン様が声を掛けてくれてるのに、無視をするとは何事だっ!』
しかも、先程アタシを呼び止めた声とはまた違う怒声がこちらに放たれるも。
言葉の内容に、アタシは思わず首を傾げる。
「ん……ナーシェン、『様』?」
頭に浮かんだのは、背後から迫ってくる「ナーシェン」なる人物は、所長よりも立場が上なのだろうか……という違和感。
思うに、ここヘクサムの兵士養成所で一番上の立場にいるのが、所長であるジルガであり。次に偉い立場が副所長なのだろう。
しかし、ランディら三人もその他の訓練生も。所長や副所長の名前に「様」と敬称付けで呼んでいるのを、アタシは聞いた記憶がない。
しかし。
好奇心に負け、背後を一瞥したアタシの視界には。こちらへと迫っていた複数人、その全員が訓練生の制服を身に付けていたのだ。
「い、いや……あの服、どう見てもアタシらと同じ訓練生の、だよな?」
一瞬アタシは見間違えたのかと思い、視線を落として自分が着ていた服を見返していくが。着ている服の色や細部まで、アタシらが配給された制服と全く同一だった。
最初の予想は外れ。敬称付けで呼ばれた人物もまた、アタシらと同じ訓練生だという事となる。
養成所に入った時点で、身分や性別は等しく意味を持たず、ただ実力のみが問われるのが兵士だ──と所長は説明をしていたが。
朝の鍛錬に魔法の練習、そして夜の食事まで延々と武器を振らされた時にも。アタシが見た限りではランディら三人より実力のある訓練生は、両手の指でかろうじて数える程だったが。
その中に、背後にいる連中は見覚えがない。
つまり、敬称付けで呼ばれている理由は副所長と同じく。元々、親の身分が高いのだろう。
声の正体が徐々に知れた途端。声を拾った時の嫌な予感は、ますます大きくなった。
「こりゃ、相手にしないが正解かな」
アタシの中でようやくどちらの選択肢か、決断する事が出来たのだが。
選択までに時間を懸け過ぎたのが失策だった。
というのも、無視を貫くには相手の接近をあまりに許し過ぎてしまっていたからに他ならない。
無視をする、と選択した以上。完全に背後の人物らへの興味を失ったアタシが、視線を外したその直後。
早足で接近してきていた男らの一人が、視線を外し無視を選択したアタシの態度が気に食わなかったのだろう。
こちらに向けて走り出し。アタシの肩を掴み無理やり振り向かせようと腕を伸ばしたからだ。
『──っ! 無視してるんじゃねえ女あっ!』
足音が変わった事、そして向けられた敵意に即座に反応し。拳を握り込んで、迫る男を迎え撃とうと振り向いたアタシだったが。
伸びた腕がアタシに届く事はなかった──というのも。
『が、っ! う、ぐ、ぐお、腕がぁ……っ?』
「おっと、部屋の新入りに乱暴するのはさすがに見逃がせないな」
アタシが反応し、振り向いた時には既に。ランディが男の手首を掴んで制止しただけでなく、背中へと捻り上げていたからだ。
──アタシよりも、早く。
腕を無茶な体勢で固められた男が、苦痛に呻き声を漏らす。
『な……ナーシェン様、た、助けて下さいっ!』
今度は情けない声で、背後にいたナーシェンとやらに救援を求める。
さすがに二人が取っ組み合いとなれば、ナーシェン側の複数人も憤りを隠そうともせず。腕を拘束しているランディを引き剥がそうと、男に加勢しようと息を巻き。
そこにサバランとイーディスも参戦し、アタシの横に並んでナーシェン側の複数人──こちらと同じく三人と向き合うと。廊下は一触即発の緊張感で満たされていくが。
相手側の三名、おそらくナーシェンと呼ばれている人物が口を開いて他の二人を宥める。
『先走るなよ、お前たち。何も私は喧嘩を吹っ掛けにきたわけじゃない』
『は、はいっ、ナーシェン様っ……』
ナーシェンの言葉で気勢を削がれたのか、二人もこちらへの敵意を引っ込め。ランディに腕を拘束され暴れ藻掻いていた男も、抵抗を止めて大人しくなる。
「ほら、行けよ」
これ以上は危険がない、と判断したからか。ランディは掴んでいた男の手首を離し、男の尻へ蹴りを入れて解放していく。
「で。取り巻きを嗾けておきながら、何の要件だナーシェン」
『おお怖い怖い。私が用があるのはお前じゃなく、そちらの女なのだけどな』
男を解放したばかりのランディはそのまま、ナーシェンと会話を始めると。
訓練生にしては珍しく、手入れの行き届いた艶のある赤みを帯びた茶髪を掻き上げる仕草をしながら。会話をしているランディではなく、アタシへと視線を向けていた。
「……うへぇ」
ナーシェンの視線に、アタシは不快感を示す声を隠そうともせずに口から漏らしてしまう。
何故ならその眼は、アタシの寝込みを襲ってきた不埒な街の男と同じ眼だったからだ。という事は、ナーシェンの要件についても大概の推察は出来るのだが。
『お、女、何だナーシェン様に向かってその態度はっ!』
『いいか、ナーシェン様は勇名を馳せたラウム男爵家の次期当主という身分なのだぞっ!』
あからさまに隠そうとしなかったのだ。当然、アタシが漏らした不快感はナーシェン側にも伝わる事となり。
一度は制止をされたナーシェンの取り巻きらは、再びアタシへの憤りからか。聞かれてもいないナーシェンの身分を、わざわざ説明してくれたのだった。
だが、所長の話では。養成所に身分の貴賎はないと聞いていた。
つまり、ナーシェンが男爵家の出身であろうと、同じ訓練生である以上は接する態度を変える必要はないという事になる。
とはいえ。
この場をランディに任せ、アタシが会話を回避し続けるのはどうも得策ではないように思えた。
ナーシェンの目的はアタシとの会話であり、取り巻き──アタシとランディらと同じく同室の四人組なのだろうが──を連れて来ている以上。些細な事で四対四の乱戦になってしまう可能性もある。
副所長の私怨を買ってしまった以上、下手に騒動を起こせば懲罰の対象にされてしまう事を警戒したアタシは。
「えッ、と……で、その貴族様が、アタシに一体何の要件なんだい?」
一度は「無視をする」という選択を撤回し、ナーシェンの目的を明らかにしようとアタシから声を掛ける。




