43話 アズリア、訓練場での一幕
右眼の力を開放せずとも、元々アタシの身体能力は一般的な大人の男よりも高いのは。故郷にいた頃で既に証明済みであった。
そのアタシが目の前に朝食がぶら下げられているのだ。
前に走っていた訓練生らを次々と追い越し。二周目に突入する直前には、一番先頭を走る四人組をも抜き去っていく。
「な、何だあいつ? お、女じゃねえかっ」
「新入りか? にしても、は、早えぇっ……」
追い抜いていく瞬間に、すれ違うアタシが耳にしたのが。駆け足の早さに驚く声に混じって、アタシが女である事に驚く声だ。
つい先程、アタシが見渡した限りでは、訓練場に出てきた連中に女の姿を見る事は出来なかったが。今の反応を見るに、どうやら本当に養成所にはアタシ以外の女はいないのだろう。
一番先頭の人間を抜いた事で、当然ながらアタシの前を走る人影は既にない。
完全な独走体勢となり、それでも速度を緩める事なく二周を走り終え。三周目に突入したアタシは。
「──あ。そういや」
先頭を確保した事で、朝の食事を間違いなく確保出来たと安堵し。
一度は食欲に負け、頭の片隅に追いやっていた好奇心が復活し。アタシの視線は再び、訓練場の真ん中にいた所長と訓練生らに向けられていく。
「これで全員か?」
「「は、はいっ……」」
気付けば、走る事に意識を向けていた合間に。三人、或いは二人だった組にも寝過ごした人間が合流し、四人が揃っていたが。
訓練場を走るのをまだ許されず、所長が手にしていた「何か」を寝坊した人間のいる組全員の足元に乱暴に投げ捨てる。
見るとそれは、少し大きめの革袋だった。
「じゃあいつも通りに、その袋いっぱいに土を詰めてから、背負って訓練場を一〇周だ」
所長の号令を合図に、待たされていた寝坊組の全員が飛び付くように地面の革袋を拾い上げ。
「い……急げっ!」
指示通りに、革袋の中に訓練場の土を詰めていこうとするが。手持ちの道具が何もないからか、手で掘り返すのに苦戦していた。
昨日、アタシが模擬戦をした時の感想に加え。今も走りながら足裏での感触から、この訓練場の土はどの箇所もしっかりと踏み固められていたからだ。
この時点で、各人の行動に差が現れる。
意地でも素手で掘り続ける者もいれば、模擬戦で使った剣や槍を取りに行く者も。或いは、より掘り返しやすい箇所を探す者がいたりと。
「なるほど、ね。アレが罰ッてワケかい……」
これが養成所における寝坊に対する罰か、とアタシは思わず声が口から漏れる。
感嘆や関心といった感情ではなく、この罰を考えた人間の悪意に、だが。
そもそも、今アタシらがいる施設とは。いずれ戦場に立つ兵士を養成するための場所だ。
見れば、所長が今回の罰のために用意した革袋は人の頭ほどの容量だ。そんな袋一杯に土を詰めて走り続ければ、重量でより一層の訓練になるのは間違いない。
だがそれは、何も代償がない場合の話だ。
まだ空が暗い中、広い訓練場を走る行為の結果には。朝の食事が確保出来るか否かが掛かっているのだ。
速度を落として尚、先頭を走っていたアタシが五周目を終えようとしていたのに。
未だ寝坊組は誰一人、革袋を満たすのを完了していない時点で地面を掘るのに苦戦しているのが痛い程に理解出来る。
寝坊した連中は、果たして今日の朝食を口にする事が出来るのだろうか。
事前にランディから話を聞いていなかったら、もしかしたらアタシは悪意を感じる事はなかったのかもしれないが。
固い土を掘り返させ、遅れた上に重い荷物を背負わせるという罰に。所長の「絶対に寝過ごした事を許さない」という悪意を読み取ってしまい。
アタシの背中に思わず寒気が奔る。
「あ、アタシ、絶対に寝坊はしないよ……ッ」
寝坊組から視線が外せなかったアタシだが、名前も知らない寝坊組にまで同情を寄せる心の余裕はない。
何しろ彼ら全員は例外無く。養成所に昨日入ったばかりのアタシと違い、既に養成所に入所していた訓練生であり。
当然、養成所の決まり事や懲罰も知った上で、彼らは起床出来なかったのだから。
それに。
「はぁッ、はぁ、ッ! コレで……残るは後二周だけどッ──」
先頭を維持したまま、八周目を終えた時点で。荒い息遣いと一緒に、アタシの身体に異変が現れる。
いや、現れたというよりは体が思い出してしまったと呼ぶべきか。
「あ、足がッ……はぁッ、はぁ、痛むッ……」
昨日の所長との模擬戦で、後先を考えずに右眼の力を開放してしまった代償。全員の筋肉の痛みを再び強く感じるような状態。
朝、起きた時や訓練場に歩いてきた時の鈍い痛みではなく。地面に足裏が触れる度に、腿と脚に痺れるような痛みを感じ。アタシは苦痛で顔を歪め。
まだ一〇周を走り終えてない時点で、脚が痛むだけでなく、かなりの体力を削られていた。
明日以降、身体が万全の状態ならばどうかは知らないが。少なくとも右眼の代償がまだ残っている今日、あの大きさの土と革袋を背負い、一〇周などという距離を走っていたら。
息を切らし、脚を痛めるだけでは済まなかっただろう。
「はぁ、ッ……はぁ、ッ……し、仕方ねえ……少し、速度を落とすしか──」
さすがに現状を維持しながら、あと二周を走り続けるのは無理、と判断したアタシは。
地面を蹴る脚の動きを緩め、寝坊組の様子を観察する時以上に速度を落とし。残る二周を何とか完走しようとする。
しかし先頭を駆ける足が鈍れば、二番手以降の人間が追い付いてくるのは自明の理だ。
二、三周目くらいに追い抜いた連中が、再びアタシの背後にまで迫ってきたのだが。
「抜かされた時には、とんでもない奴だと思ったが、やはり女か」
「体力がないのに背伸びをするからだ」
息を荒らげながら追い付いてきた訓練生らの声が、アタシの耳に入ってきた途端。男らの言葉で、足の痛みで一度は折れかけた心に再び火が着く。
「……は?」
故郷では黒い肌だという事を忌避されていたが、女である事を理由に軽んじられるというのは、肌の色を指摘されるのと同等かそれ以上の憤りを覚えた。
何より、元来アタシは人に負けるのが大嫌いで、後の事を深く考えない性格であり。
昨日、所長との模擬戦でもわざわざ使わなくてもいい右眼の力を使ってしまったし。
思えば、故郷でアタシへの反応が厳しくなった理由も。「白薔薇姫」という偉い貴族の娘との勝負で負かしてからだった気がする。
……ともあれ。
こちらを馬鹿にする言葉を聞いてしまった以上。そんな連中にみすみす先頭を譲ってやる程、アタシの器は広くはない。
故郷ならば、アタシに浴びせた暴言に反論すると街中から人が集まり。収拾が付かなくなるため、出来る限り口論を避けていたが。
「は、ッ! 後ろに走ってたアンタらがいつまでも 追い付いてこないから、脚を緩めてやっただけだよッ!」
「……な、なんだとぉっ⁉︎」
ここヘクサムの養成所では、故郷のような遠慮をする必要もない。
追い付いてきた連中に、同じ程度の挑発的な言葉を吐き捨てた後。アタシは歯を食い縛りながら、痛む脚に力を込めて、一度は落とした速度をもう一度上げていく。
アタシを「女だ」と馬鹿にした連中を、再び突き放すために。




