42話 アズリア、朝食までの試練
サバランに拳を落とした時の口調とは一変した、所長の大声が響き渡った途端に。
訓練場全体に緊張感が走り、五〇を超える人数が同じ部屋の四人一組ずつに纏まり始める。
「アタシらの部屋は全員揃ってるけど」
ランディらの話では養成所では四人で一組が決まりだ、と聞いていたが。
先程、準備が一番遅れていたサバランが合流した時点で、アタシらの部屋は四人全員がこの場にいた。
「よし。四人揃ってる組はいつも通りに訓練場を駆け足で一〇周だが──」
「う、えッ⁉︎」
思わずアタシの口から声が漏れる。
昨日、所長との模擬戦で四人で動き回っても問題が出なかった程度には、この訓練場は広かった。
故郷でも衛兵や農家が活動を始めるのは夜が明けてからだっただけに。
それを、まだ空が暗いうちから一〇周も走るという事に驚いたからだ。
アタシが驚いた様子を見てか、訓練場を走る指示を出したばかりの所長は自分の顎を摩りながら。
「どうした新入り。朝から一〇周も走る、と聞いて早速挫けたか?」
「い、いやッ……ぜ、全然だっての!」
模擬戦を仕掛けてきた時と同じく挑発的な口調に。アタシは思わず声を張り上げ、首を左右に振って所長の言葉を否定すると。
横から小声でアタシに話し掛けてきたのは、何かと世話を焼いてくれているランディだった。
「……お、おいっ、本当に大丈夫なのかアズリアっ?」
「何だい、アンタまでアタシの心配かい?」
「そりゃそうだろ。想像出来ないかもしれないが、訓練場を一〇周するのは相当にキツいぞ……」
確かに最初聞いた時は驚いてしまったのは、悔しいけど事実だが。
所長に返した言葉は、決してただの強がりではない。
この訓練場を一〇周、という運動量は。一日分の食料や水を集めるため、アタシが朝から街の外にある森や山を歩き回っていたのだ。
何しろ街の人間の大半から忌避されていたアタシは、普通には食料を売って貰えなかったし、井戸を使わせても貰えなかったのだから。
食料と水の確保のために野を駆け回った距離に比べれば、同等かそれ以下だろう。
しかし、ランディがアタシを心配したのはもう一つ理由があった──それは。
「アズリア、身体はもう痛まないのか?」
「え? あ、ああ、そういうコトか」
昨日、所長との模擬戦に熱を入れ過ぎてしまったアタシは。勝利するために、右眼に宿った謎の力を使ってしまい。
開放した力の代償として、全身の筋肉が鈍い痛みに襲われ。模擬戦が終わった直後は自分の脚で立って歩く事が出来ず、ランディとイーディスの二人掛かりで肩を借り。しかも部屋に戻るや否やそのまま寝てしまったのだ。
ランディが懸念しているのは、全身にまだ痛みが残っているかもしれない状態で。訓練場を走り切れるのかという話だ。
「あの後、アンタらがゆっくりと寝床で寝かせてくれたおかげで、だいぶ楽になったよ」
「そ、そうか。なら」
ランディにはなんとか納得して貰えたが。今の言葉には一つの嘘と一つの真実が含まれている。
模擬戦直後は自分で歩く事も出来ず、腕を動かすだけで声が出てしまう程の激痛だったが。一晩寝た事で、自分で歩ける程に回復していた。
しかし、完全に全身の痛みが消えたわけではなく。ランディと話している今この時ですら、立っている両脚には鈍痛がまだ残っているのも、また事実だ。
「ま、何とかなるだろ」
寧ろ、アタシにとっては一〇周という距離よりも。身体に残る鈍痛に耐えながら、という内容の訓練とも言える。
それよりも、アタシが気になっていたのは。
「……で、だ」
所長の厳しい視線が、四人が揃っていない複数の集団に向けられている。
よく見ると、所長が見ていた幾つかある集団の中には、三人どころか二人しか揃っていない組も。
そう言えば、ランディらに「起床の合図で集合出来ないと罰を受ける」と聞いていたアタシは。
何故、四人が揃っていないと罰があるというのに。同室にいる人間が、寝ている人間を起こさないのか不思議に思ったが。
「まずはまだ寝てる馬鹿を起こしてこい。お前らへの懲罰はそれからだ」
横目で見ていたアタシは、ごくりと唾を飲む。
それ以上にアタシが興味を持ったのが、起床出来なかった組が受けるという罰の内容だった。
「……罰、ッて一体何なんだよ」
懲罰がある、とまでは話に聞いていたが、肝心の内容までは聞けなかっただけに。
朝の起床に間に合わなった場合、どのような事になるのかを是非アタシは知っておきたかった。
アタシは故郷以外を知らないが、学舎で聞いた話では街の決まり事は、街によって違うらしい。
そして、決まり事を破った場合に下される懲罰の内容も、街によって全く違うようで。
例えば、寝ているアタシの隙を狙い襲撃してきた男らは。故郷の街の決まり事に則り裁かれる場合、鞭打ちか罰金のどちらかになるが。
他の街では、故郷よりも緩い罰や厳しい罰が実施されるのだろう。
だからアタシは。
このヘクサムの、いや養成所の懲罰がどの程度なのかを把握しておきたかったのだが。
「ほらアズリア、さっさと走り終えないと朝の食事が遅くなるぞ」
「え? ど、どういうコトだいッ?」
「四人全員が一〇周を走り終えないと、朝の食事を与えられないのが養成所の決まり事なんだ」
何故ここまでアタシが、ランディの言葉に驚いていたのかというと。
故郷の衛兵であるヒューの話では。確か、養成所では寝床と朝晩二食を無償で提供されると聞いていた。
街の住人と大きな衝突を生む前に新しい環境に身を置きたい、という理由もあったが。アタシがヘクサムに来る決断をした大きな理由は、安定した睡眠と食事が手に入ると聞いたからだ。
「……それにな」
「な、何だい、まだ問題があるッてのかい?」
ランディとアタシとの会話に割り込んできたのは、サバランだった。
「食堂で用意して貰える食事は、全員分には足りない……ってことは。わかるよな、アズリア」
「走るのが遅いと、食事が……ない?」
信じられない、という気持ちで口にしたアタシの言葉に。
サバランだけでなく、横にいたランディにイーディスまでもが揃って無言で頷いてみせる。
「な、なんてこったい……」
確かに起床に間に合わなかった連中に与えられる懲罰の内容も、気にはなるが。
食事の提供が、一〇周を直ちに走り終えないと遅くなるというのなら。
好奇心と食欲。
アタシの頭の中で、二つの要素が天秤に掛けられると。心の天秤の均衡は、あっという間に片側──食欲へと傾いていく。
「こ……こうしちゃいられない、とっとと走り終えるよッ!」
直前まで会話に加わっていたランディら三人の背中を、順番に平手で叩いていき。駆ける速度を上げるように催促をすると。
脚に残る疲れや鈍痛を忘れてしまったかのように、三人をその場に置き去りにして。アタシは遠慮なく走りを加速していく。




