40話 アズリア、養成所の朝を迎え
今、アタシが目の当たりにした所長の表情は。
かつて就寝中に欲情のままに襲ってきた街の男が、手痛い反撃を受けた時に見せた顔に酷似していたが。
最初は、アタシの見間違いかと思い。
両目を腕で擦り、もう一度所長へと視線を向けると。先程アタシが見たのとはまるで違う、穏やかな表情を浮かべていたので。
「……何だ、アタシの見間違いだったか」
そもそもヘクサムの入り口で門番に扮し、アタシに接触してきた所長は。ランディら共闘した三人と同様に、黒い肌を見ても蔑視する事なく。
数少ない女の兵士として成長する事を期待する、そんな言葉を掛けてくれたではないか。
だからアタシは先程見た、所長がこちらを睨んでいた表情を忘れる事にした。
そんな事よりも。
「ぐ、うッ……ッ⁉︎」
「お、おいアズリアっ、本当に大丈夫なのかっ!」
これまでであれば、翌日に現れる代償──身体の痛みなのだが。今回に限っては、右眼の力を開放してから即座に現れたようで。
アタシは腕や肩だけでなく、いつの間にか全身に広がっていた身体の痛みに.思わず呻き声を漏らしてしまう。
側にいたランディだけでなく、先程まで地面に座り込んでいたサバランまでが心配そうにアタシに歩み寄ってくると。
一度はランディが支えてくれた腕を跳ね除け、自らの脚で立ち上がったアタシだったが。
「は……ははッ、やっぱ大丈夫じゃないみたいだ」
脚にまで及んだ痛みで、立っているだけで両脚が震えてしまい。隣にいたランディに掴まらないと立っている姿勢を保てない程に陥ってしまう。
「ほら、腕を貸せ。とりあえず部屋まで俺が連れて行ってやるからっ」
「い……痛ててッ、も、もう少し、丁寧に腕動かしてくれよ」
するとランディは、自分の頭をアタシの右脇へと潜り込ませ、アタシの右腕を首の後ろへと回す。
向かう先はアタシらの部屋だろうか。
しかし、まだ一六歳のランディはまだ身体が未熟であり。大柄な体格のアタシを支えて歩くには、少々……いやかなり力不足だったのだ。
「ふう……はあ……」
「な、なあ、ランディ──」
懸命にアタシを支えた状態で歩こうとするが、中々歩を早める事が出来ずにいたアタシとランディ。
所長との模擬戦の時よりも辛そうな顔と息遣いに、アタシは思わず肩を借りるのを止めようとしたが。
それよりも早く。
「……仕方ねえな」
先程のランディと同じく、今度はアタシの左脇に頭を潜らせ。左右双方からアタシの身体を支えようとしたのはイーディスだった。
「何だい? アタシに関心ないんじゃなかったのかよ」
「……勘違いするな。二人と違って、馴れ合うのが苦手なだけだ」
そう言えば、ランディやサバランの過去の事情はそれなりに聞いたが。会話の話に積極的に加わっていなかったのもあり、イーディスの過去の事情については「コルム出身」と「犯罪者である」事しか知らない。
これから養成所で一緒に過ごす内に、彼の話を本人から聞く事が出来るのだろうか。
すると、イーディスと同じくアタシに肩を貸そうとして出遅れたサバランが。実に悔しそうな表情を浮かべながらアタシを指差して文句を口にしていた。
「お、おいっズルいぞイーディス! せっかくアズリアに触れると思ったのに!」
「……おい」
これ幸いと思ったのか、アタシに触れたいという欲求……というか下心を言葉にしたサバランを。アタシはこれ以上ない程に冷たい視線を向ける。
ランディとイーディス、二人よりも背の高いアタシは、腕を背負われた体勢でも足が地面に着いてしまうが。
それでも左右から二人分の力で支えられた事で、移動速度は飛躍的に上昇した。
こうして、どうにか部屋に帰ったアタシだったが。
部屋に到着し、アタシに用意された寝台に寝かされた途端。模擬戦とは思えない緊張感から開放されたからか、急激に強烈な睡魔がアタシを襲ってきた。
「……なあ、さっきのあの一撃は」
きっと三人の誰かが、アタシに先程の戦闘で何が起きたかの説明を求めている。そこまでは覚えているのだが。
頭と身体を支配しようとする睡魔に抵抗するのも億劫となり、目蓋が重くなるのに任せ。
アタシはそのまま眠りに就いてしまった。
◇
目を覚ましたのは、まだ夜が明ける少し前。
誰かがアタシに近付く気配と、軋む足音でだった。
「……誰だいッ──あ、痛ッ!」
また、何者かがアタシが寝ている隙を狙って襲ってきたのかと想定し。
素早く上半身を起こそうとし、襲撃者の顔面に拳を叩き込もうと動いた時に身体に走った鈍痛。
そして、目の前にいたランディの姿に。
「ら、ランディ?」
「驚かせて悪いなアズリア。俺だ」
今、アタシがいるのはいつも寝床にしていた木の樹洞や洞穴ではなく、養成所の寝台の上である事を思い出す。
「い、いやッ、アタシこそ……悪いッ」
アタシは起こそうとしたランディを、不埒な襲撃者と勘違いした事をまず謝り。殴り付けようと握り締めた拳を緩め、腕を下ろす。
だが、まだ外は暗い。起床して動き出すには早い時間だ。なのに、ランディはこんな時間にアタシを起こそうとしてきたのか。
「それより、まだ夜が明けてないのにどうした?」
「いや、そろそろ──」
こちらの質問に、何故かランディがアタシではなく部屋の扉へ視線を移した途端。
『起床お! 起床おおっ!』
廊下から、金属同士を打ち鳴らす喧しい音と一緒に、見知らぬ人物が目を覚ますよう大声が聞こえてきたのだ。
部屋の扉越しに響き渡るあまりの騒音に、アタシは堪らずに両耳を塞ぎ。
おそらく、直前の反応から騒音の原因を知っているランディに、何が起きているのか質問を変える。
「な、何なんだよ、アレは?」
「あれは早朝の訓練の合図だ。まだ身体は痛むだろうが、着替えて外へ向かうぞ」
「訓練ッて……だ、だってまだ」
まだ太陽が昇る気配の全く見えない、夜の闇が覆う空が見える窓を指差したが。
並行して、アタシの頭に思い出されたのは。
故郷を守る衛兵も、ごく稀にではあったが。街の周囲を走っていたり、剣や槍を振るっていたりと夜明け前に訓練していた事だった。
「……いや。そういやヒューもたまにこんな朝早くに訓練してたなあ」
ヒューとは、故郷の衛兵の一人であり。
黒い肌と右眼の異形を持つアタシを蔑視し、暴言を浴びせ忌避した故郷の住人の中で。アタシと変わらず接してくれた数少ない人物でもある。
あくまで街の治安を守る役割の衛兵ですら、朝早く起床し、訓練を行うのだから。
絶えず周辺国に侵略戦争を繰り返し、戦場の最前線に駆り出される兵士を育てるこの施設で。より一層厳しい訓練が課されるのは、考えれば当然の事だろう。
「なら、サバランとイーディスも起こさなきゃね」
部屋を見ると、先程廊下を騒がせた起床の知らせでイーディスは目を覚ましていたが。
サバランはまだ、身体が冷えるのを防ぐために上に掛けていた布を抱きながら、寝息を立てていたのだ。
「ああ。一人でも集合に遅れると、部屋全員が罰を受けるからな。しっかり起こしてくれよ、アズリア」
「はは、そりゃ責任重大だね」
罰の内容こそ詳しくは聞かなかったが、サバランさえ起こせば罰を受ける事態は回避出来る。
アタシは早速、気持ち良さそうな顔で寝ているサバランに近寄ると。彼の頬を無造作に摘んで伸ばす。
「ほれ、起きなよサバラン。アタシが優しく起こしてる間にさ」




