13話 アズリア、ユーノにも生魚を勧める
一噛み、二噛みした途端に口の中に広がる美味に、思わずアタシは唸る。
「──んんッッ⁉︎」
海で泳ぐ小型の剣尖魚は、アタシも何度か船に刺さっているのを捕らえ。ユーノと一緒に焼いて食べた事があったが、あまり美味と感じた記憶はなかった。
だがこれ程に大型の、しかも火を通さずに生で食すのとでは、味の印象がまるで違う。
柔らかな歯応えと同時にねっとりとした身肉が口で解け、心地良い食感は喩えるなら、木から捥いだばかりの果実に歯を入れた時の瑞々しさ。
そして、口に広がる身肉の甘さといったら。
アタシが知る焼き魚とも、身肉の色合いが似ている獣肉とも全然違う旨味が滲み出してくる。
──これは、美味い。
「コレが……生で食べる剣尖魚の味なのかい。しかも、この黒い液体の塩味がまた何とも、ッ」
そう。確かに剣尖魚の生の身肉の味そのものは、アタシが驚くべきモノだったが。
食する前にフブキが「味が付いてない」と一旦止めたように。二切れ、三切れと続けて口に運ぶには正直、味が淡白で薄いように思える。
だからこそ、黒い液体に浸す必要があったのだ。
黒い液体の強烈な塩味が、そのままでは多少物足りないと感じていた剣尖魚の、ふるふるとした身肉の味を存分に引き出していたのだから。
だからと言って、強い塩味が身肉の甘さを消すのではなく、寧ろ逆に塩味が魚の肉の味を上手く際立たせ。生の肉の旨味と塩味、粘り気のある身の感触が混じり合い。
確かにフブキがそのまま食べるのを制止し、黒い液体に浸すのを勧めた事に納得するしかなかった位──美味い。
口の中で噛んでいる内に、まるで身肉が溶けて液体になってしまったと勘違いする程、柔らかく解けて喉に落ちていった。
「ふぅ、ッ……美味かったあ……」
一瞬ではあったが、アタシにとって未知なる料理を体験するのは至福の時間でもある。
何しろ、生まれ故郷を飛び出してから八年。その間、世界中を大した目的もなく、ただ旅して回っていたアタシにとって。見た事のない、或いは聞いた事もない料理を見て、実際に口にするのは密かな楽しみとなっていたからだ。
少なくともアタシが知る限り、大陸では魚や獣の肉に火を通さず、生で食する慣習は殆無い。
アタシの記憶でも、黄金の国の王都で一度だけ。国王と同席した食事の場で生の獣肉の料理を提供された事があるのみだっただけに。
美味なる料理と同時に、貴重な経験まで味わったアタシは。興奮を抑える事なく口にする。
「いや、生で魚を食べたのは初めてだったけどさ。こんなに美味かったなんて……アタシも驚きだよ」
「うふふっ」
「ん? 何、笑ってるんだよ」
ふと、アタシの横から聞こえてきたのは。先に手本を見せるように食べてみせたフブキの笑い声だった。
当然ながら、アタシが未知の経験と驚いているのは。この国の出身であるフブキにとっては日常の食事情である。一々驚く反応を見せるアタシが滑稽に見えるのも無理はない。
しかし理解こそ出来ても、納得するかは話が別だ。
美味しい料理を堪能し、上機嫌だった気分に水を差されたと思ったアタシは。横に立っていたフブキに視線を向けると。
「いやアズリアを笑ったわけじゃなくてね」
こちらの抗議の目に気付いたフブキは、突然笑い出した理由についての弁明を始める。
少しばかり物憂げな表情で、何もない箇所を見上げながら。
「昔ね、父様に聞いた事があったの。大陸から来た人は。生で魚を食べるの見て、みんなアズリアみたいな反応したんだって」
「フブキの父様ってコトは、先代のカガリ家当主だよな?」
以前、フブキの口から直接聞いた事がある。二人姉妹の父親であり、先代のカガリ家当主・イサリビの話を。
父親が存命だった頃はまだフブキも、持って生まれた加護や白い髪から「忌み子」と敬遠されず。姉マツリと同等に両親に愛されていた。
しかし父親の死後、カガリ家が継承するべき加護を持たないフブキは当主マツリと差別され。つい最近まで、城での軟禁生活を過ごす事となるのだが。
「アズリアが食べる姿をじっと見てたら、そんな父様の言葉を思い出しちゃって、つい」
言わば、フブキにとって幸せだった過去の記憶を。よりにもよって、アタシが生の魚を「美味い」と感激していた顔で回想していたとは。
そんなアタシとフブキとの会話の横で。
「ね、ねえおねえちゃんっ……ほ、ほんとにそれっ、おいしいの?」
生の魚、という事で皿から一歩後退っていたユーノが。
いつもの快活な態度は何処へ行ったのか、怖いモノを見る視線で皿に盛られた剣尖魚の頭と並べられた身肉、そしてアタシの顔を交互に見てくる。
何を美味い、と思うかどうかは完全に個人の感覚でしかない。アタシが「美味い」と感じたからといって、果たして万人が同じく美味い、と思うわけでは決してない。
さらに言えばユーノは既に一度、生の魚を食べて腹を壊すという経験をしているだけに。再度、生の魚に手を出すのに躊躇する心情は痛い程理解出来る。
それでもアタシは、どうしても一度はユーノに挑戦して欲しいがために言葉を選んだ。
「なあユーノ。アタシがさ、料理の味に関して嘘を吐いたコトがあったかい?」
「な……ない」
ユーノが出身の魔王領は、御世辞にも食事情が良いとは言えない土地だった。
だからなのだろう。アタシと一緒に島を出発し、海の王国に到着して口にした料理のほぼ全てがユーノには未知なる味覚となっていたわけで。
基本、味や食材の好き嫌いがないユーノは、アタシが勧めた料理を一つ残らず喜んで食べてくれていた事を思い出し。
ユーノへの説得材料として使うのだったが。
さて──ユーノは食べてくれるだろうか。
「で、でもっ。フブキだけじゃなく……おねえちゃんもそんなおいしそうにたべたなら、きっと……」
すると、先程まで皿から一歩引いていたユーノがどうにか皿に近寄ると。
恐る恐ると手を震わせながら、皿に並べられた赤い身肉を一片、摘み上げていき。その後ゆっくりと口に運ぼうとしては、口に入れる直前で思い止まるといった動作を繰り返していたが。
「ええいっ!」
三度目の挑戦でついに覚悟を決したのか、開いた口の中に摘んだ身肉を放り込むことに成功する。
そして目を閉じながら口を動かし、おそらくは身肉に歯を入れていたのだろう。
「むぐむぐ……ん? んん?」
最初は、苦い薬でも口に入れたかのような険しい表情だったユーノも。身肉を口に入れ、しばらくすると表情が緩み。
目を開けたかと思えば、左の頬を膨らませ、次に右頬が膨らむ。今度は噛み砕いた肉を味わっている、と言ったところか。
そしてようやく口内の身肉を飲み込んだのだろう、ユーノの喉が鳴ると。
「ごくん……うん、ふしぎなはごたえ、それと、まえにたべたさかなとはぜんぜんちがって、おいしいよ」
確かに身肉に手を伸ばす前と比較すれば、ユーノの表情は解れ、笑顔を浮かべてはいたが。
アタシはすぐに理解する。今、ユーノが見せている笑顔には、アタシやフブキへの遠慮が含まれていた事を。
つまりはユーノにとって、生の剣尖魚の身肉はあまり美味しい食材ではなかったのだろうか。
ユーノは続けて、料理への不満を口にしたのだった。
「でもさ──あじ、うすくない?」
その言葉を聞いたアタシは一瞬、横にいたフブキへと視線を向ける。
フブキも同じ気持ちだったようで、まさに丁度視線が交わると。アタシとフブキは同時に視線を落としたのだ。
「ねえアズリア? もしかして……」
「ああ、間違いないよ」




