9話 若き英雄王、魔神を討伐した男の危機
ティアーネが唱えたのは、水属性の治癒魔法である「生命の水」。
魔神との戦闘中にも、魔神の鉤爪で負ったイオニウスの背中の傷を塞いだ魔法だった。
だが、発動の直後。
ティアーネが信じられない、という表情を浮かべる。
「え……ど、どういう事? イオの傷が、塞がらない……っ」
本来ならば、ティアーネが発動と同時に手に湧いた水が傷口に触れると。瞬時に肉体が再生を始め、傷が塞がるのだが。
魔法が掻き消されたように、イオニウスの腹を穿った傷には、まるで変化が見えなかったからだ。
驚いたのは術者のティアーネだけではなく。側で様子を見守るグラハムとエスティマもまた、驚きを隠せなかった。
「い、いやっ? だ、だって今ティアーネは確かに治癒魔法を使ったよな?」
「うん、間違いないわ。なのに、イオニウスの傷はちっとも回復してない……なんで」
戦士であるグラハムはともかく、魔術師のエスティマには、一体何が起きているのか理解が出来なかった。
──もし仮に。
イオニウスの腹の傷が想定以上に深く、今ティアーネが用いた治癒魔法では回復力が不足していたとしても、だ。それでも治癒魔法の効果で、多少は傷口も塞がる筈なのだ。
しかし、エスティマが観察した限りでは。イオニウスの腹の傷には何の変化も見られない。つまりは、ティアーネが発動した治癒魔法が傷口に影響を与えていないという事になる。
「何かが……治癒魔法を邪魔してる……?」
エスティマがそう呟くと。
一息遅れてから反応を見せ、声を張り上げたのはティアーネ。
治癒魔法を使うため、イオニウスの隣に座り込んでいた彼女は。勢いのままエスティマの両肩を掴み、顔を間近に寄せる。
「そ、それよエスティマっ!」
「な……ななっ、何よティアーネ突然っ?」
エスティマが今し方口にした言葉で。何故にイオニウスの傷口を癒せなかったのかという謎を、ティアーネは解決する事が出来たからだ。
「瘴気が……イオの傷口を焼いた瘴気が、私の治癒魔法を妨害してたのよっ!」
そう言ってティアーネは、イオニウスが鎧の下に着ていた布着を捲り上げ。腹の傷口をよく見えるようにすると。
足首の傷だけでなく、背中まで貫通した腹の傷もまた瘴気の影響を受け。腹の傷口の周囲も火傷のように焼け爛れていた。
「瘴気か、なるほどね……それなら治癒魔法が効かなかったのにも納得だわ」
ティアーネが導き出した解答に、エスティマもまたうんうんと何度も頷きながら納得をしていくが。
魔術師ではないグラハムは、二人が何故に納得しているのかが理解出来なかったようで。
「な……なあ、エスティマ?」
「なあに、グラハム」
側にいたエスティマの隣に屈み込み、耳元に顔を寄せて小声で質問をすると。
「どうして瘴気が傷口にあると、治癒魔法が効かなくなるんだ?」
「ああ、そういう事か。はぁ……じゃあグラハムにもわかるよう、丁寧に説明してあげるわね」
少しだけ小馬鹿にしたような顔を浮かべたエスティマが、一つ溜め息を吐いた後に。グラハムの疑問である瘴気について、語り始める。
濃縮した魔力でもある瘴気が、人間の身体に触れると。強烈な火に炙られたかのように肉を焼け爛れさせていく。イオニウスの腹や足首のように。
と同時に、瘴気は濃縮した魔力でもあるため。傷を負った箇所は既に強い魔力を帯びた状態となる。従って、外から新たに魔法で変化を与えようとしても瘴気が遮ってしまう。
まさに、ティアーネの治癒魔法をイオニウスが受け付けなかった目の前の光景のように。
「グラハムだって先にパンや肉でお腹が満たされてたら、もうご馳走も麦酒も入らなくなるでしょ?」
「つまり……その説明だと。パンと肉が瘴気で、ご馳走と麦酒が治癒魔法という事で……合ってるよな?」
言葉通り、エスティマの丁寧な説明によって、グラハムも現状を理解出来たわけだが。
「だとしたら。どうやってイオニウスの傷を塞げるんだ?」
「そ……それは、っ」
状況を理解したグラハムは、問題の本質に迫る質問を今一度エスティマに投げ掛ける。
要は「何故、治癒魔法が効かないのか」が問題ではなく「イオニウスの傷を回復出来るか」こそが重要なのだ。
しかし、グラハムの問いにエスティマの顔が曇り、言葉を詰まらせる。
「瘴気を傷口から取り除くには、浄化の効果の魔法を使うしかないんだけど……」
「浄化って……そ、それって、魔法の知識に疎い俺でもわかるぞ、ここには聖職者なんて」
エスティマが答えを言い淀み、グラハムも狼狽するその理由。
それは、瘴気を除去するために必要な浄化の魔法は。神聖魔法を得意とする聖職者が基本、扱う魔法であり。
この場に集う四人の中に、神聖魔法を扱える人物が存在しなかったからだ。ティアーネもエスティマも優れた魔術師ではあるが、彼女らが扱うのは一二の精霊の魔力を行使する魔法であり。
治癒こそ可能でも、浄化までは出来なかった。
「そうね……残念だけど、私の知ってる月属性の魔法じゃ浄化は出来ない……」
焦りの色を顔に滲ませたグラハムは、神殿の入り口へと視線を向ける。
イオニウスの傷口を回復するためには、今すぐに一番近い教会へと負傷したイオニウスを運び。聖職者に浄化魔法を使ってもらうしかないからだが。
「なら今すぐ教会……にっ……」
そう口にしたグラハムの声が徐々に細くなっていく。
グラハム本人も、自分の提案が如何に無茶であるかを、口にするより前に頭で認識してしまったからだ。
まず一つ。教会で役職を持つ司祭等の聖職者の全員が神聖魔法を巧みに扱えるわけではない。
一番確実なのは、ホルハイム王都アウルムに向かう事だが。魔神を祀る神殿から王都までは、馬を使い潰す覚悟で移動しても丸五日は経過してしまう。
さすがに腹に穴が空き、治癒魔法も受け付けない状態では。強靭な肉体を持つイオニウスでも助かりはしないだろう。
もう一つは、イオニウスを運搬する移動手段であった。
イオニウスとティアーネは徒歩で神殿まで。そして二人を追って急行したグラハムとエスティマは、一頭の馬に騎乗してきた。
つまり、移動に使えるのは神殿の外に留めている馬一頭のみという状況なのだ。
二つの理由からグラハムは、イオニウスを神殿から運び出す案を諦めるも。
仲間の生命まで諦めたわけではなかった。
「ま、待ってろ親友っ! 奇跡ってのは信じれば必ず起きる……が、待っていても駄目だ、だから──」
グラハムは、隣にいたエスティマへ目配せをすると。
これまでにも四人で数々の強敵に挑み、勝利してきた関係だけあり。グラハムが何をしようとしていたのか、言葉を交わさずとも理解したエスティマは。
グラハムへと視線を向け、一度コクンと頷いてみせた。
「俺とエスティマで瘴気を浄化出来る人間を探してくる! それまで絶対に死ぬんじゃないぞっ!」
「──死ぬんじゃないわよ!」
グラハムとエスティマの二人はそう言い残し、神殿の外へと駆け出していく。
僅かな奇跡──即ち、この近辺を浄化魔法が使える高位の聖職者、もしくは魔術師が偶然にも通り掛かる事を願って。




