13話 ロシェット、夜空に矢を放つ
泣いていた母親を連れ、エスティマが退出した後の部屋では。
「……はぁ、何だったんだろ」
ロシェットが一人、ずぶ濡れになった床を見ながら溜め息を吐いて。何が部屋で起こったのかを、あらためて思い返していた。
自分以外誰もいるはずのない室内に、人の気配を感じたかと思えば。その正体は何と、母親の古くからの友人で、砂漠の国の王妃でもあるエスティマその人だった。
ロシェットとも面識があった彼女は、自分もまたロシェットの婚約候補者になり得る、と衝撃的な発言を口にし。
ロシェットに迫ってきたのだ。
母親の友人として接してきたロシェットから見ると、エスティマは年齢が離れた姉という認識だったためか。
挨拶の際に、頬に接吻をされたりと揶揄われた事は、これまで何度かあったが。
まさか、口唇を重ねてくるなんて。
「エスティマ様……何で、あんな事」
そう呟いたロシェットは。あの時間近にまで迫ったエスティマの顔と、口唇の感触を思い返し。
自身の口を指で擦っていた。
「あれじゃまるで……僕の事を誘ってるみたいじゃないか」
今回、エスティマが仕掛けてきた行動は、これまでの悪戯と違い。明らかに一線を画した、最早「誘惑」と呼べる行為だったからだ。
何しろ、母親以外の女性と口唇を重ねるのは、ロシェットも初めての事だったから。
ロシェットも既に一二歳、いつまでも子供のままではない。身体だけではなく、考え方も。
当然ながら、異性に対する興味や恋愛観も年齢相応に持ち合わせている。現にロシェットの胸中にあるのは、自分を厚い氷の中から救い出した赤髪の女戦士だったりする。
「……もしかして」
そして、エスティマの誘惑はロシェットにある事を気付かせてしまう。
「母上がしてきた接吻も、僕を子供として可愛がってくれてたからじゃ……ない」
そう。エスティマの誘惑とも言える行為は。
母親という立場から接してくれていたティアーネが、いつからだろう……ロシェットを異性と意識し過剰に接するようになっていた事を知る呼び水となっていた。
当然ながら。親が子に、もしくはその逆が恋慕の情を抱くなど、世間的に許さない感情だったりする。
おそらくロシェットは今、はっきりと言葉にするより前に。母親が自分に向ける感情が、一般的な親子の親愛と違う事を認識していたのだろう。
だからこそ。
つい先程、部屋へと入ってきた母親を、無意識の内に避けてしまったのだ。
「ど、どうしよう? 明日から、僕……どんな気持ちで母上の顔を見たらいいんだよっ!」
自分がやった事を思い返し、ロシェットは頭を抱えた。
それもその筈だ。ティアーネとは、明日も魔法の勉強で否が応でも顔を合わせてしまう。その時、一体どんな態度で母親と接したらよいというのか。
「そ、そうだっ、明日の魔法の授業を休めば──」
或いは。今夜の騒動を理由にティアーネからの魔法指南の時間を休む、と言えば。
普段の母親であれば、快く承諾してくれるだろうし。とは思うロシェットだったが。
すぐに短絡的な発想だったと気付き、首を左右に振った。
「い……いや、馬鹿だ僕は。それじゃ何の解決にもならないじゃないか」
ロシェットがティアーネと一緒に過ごす時間は、何も魔法の勉強の時間だけではない。母親である彼女とは、朝夕の食事の席を一緒としているし。
何より息子を溺愛し、魔法の資質を見出しているティアーネの事だ。授業を休んだ事を心配して、部屋に様子を見に来るかもしれない。
──ならば、まだ魔法の勉強という逃げ道が残されているほうが助かる、というものだ。
「それにしても……凄かったな、さっきは」
母親への懸念は一旦置き、先程の騒動を思い返していたロシェットが感嘆の言葉を漏らしたのは。
ティアーネとエスティマ、二人の魔術師が目の前で繰り広げた魔法戦の内容だった。
時間にすればほんの僅かだったが。
極限まで発動時間を短縮した詠唱破棄。相手の行動を予想しての防御魔法に──発動前の魔法を打ち消す、対抗魔法。
そして、防御に防御を重ねたエスティマが一瞬の隙を突き。ティアーネに浴びせた「水球」での決着。
中でもロシェットが、驚嘆したのは。僅かの時間に五種類の魔法が飛び交う魔法戦だったのに。部屋にある備品には損害はほぼ無く、最後の「水球」で濡れた床だというのと。
「初級魔法でも、使い手が凄ければあれだけの事が出来るなんて……」
二人が使った五種類の魔法全てが、初級魔法だったという点だ。
しかも。
ティアーネが三連続で発動させたのは、彼女自身の得意属性ではなく。まだ未熟なロシェットも扱う事が出来る初級魔法の「雷の矢」だった。
しかも詠唱破棄をした、恐ろしく発動の早い魔法を。
そしてエスティマは何故か、防御に徹していた最中にもロシェットへと一、二度、視線を向けていたりもした。
あの時は、突然目の前で繰り広げられた魔法戦に口を挟む余地などない状況だったが。
今、思い返すと。色々と不可解な点が二人の魔法合戦には幾つも散見していた。
少し考え込んだ後。
ロシェットは疑問に対し、一つの結論を出した。
「もしかしなくても……あれって、僕に見せるために二人がわざと争ってみせた、とか」
一見すれば、感情的になり取り乱したティアーネが攻撃魔法を放ち。それをエスティマが防御した事で始まった一連の流れを。
ロシェットは、魔法を扱う事に長けた二人が自分に魔法を実演してみせるために作為的に起こした嘘の騒動だと。
「あの時の母上は、確か……こう──」
ロシェットは、試しに先程見た母親がやってみせた腕の動きや指の構え等……一挙一動を思い返しながら。
敢えて詠唱をせずに「雷の矢」を発動してみせようとする。
リュゼとの剣の鍛錬の時間に、基礎魔法である「筋力上昇」の詠唱破棄を試してみたが。上手くはいかず、完全な効果を発揮する事は出来なかった。
基礎魔法ですら詠唱を破棄出来ないのだから。より習得難易度の高い初級魔法の「雷の矢」で上手くいくとは、ロシェットも思っていなかった。
だから「試しに」というわけだ。
仮に発動に成功したとしても、部屋には大きな窓があり。まだ威力の弱い「雷の矢」なら、空に向けて放っても大した問題にはならないだろう。
「え?」
すると──詠唱していないのに、これまで詠唱していた時と比較しても、格段に魔力の集束が早まり。
指の先に雷属性を帯びた魔力が、何の問題もなく矢の形を形成する。
「す──雷の矢っ」
後は投射を待つのみ、という状態になると。ロシェットは魔力が集まった指を開いた窓へと向け、魔法を発動していく。
窓の外、夜空へと飛んでいく「雷の矢」を眺めながら。ロシェットはぺたりと床に座り込んでいた。
「ぼ、僕にも出来た……無詠唱魔法……っ」
 




