12話 砂漠の国の王妃、親友への懸念
水浸しとなったティアーネに、慌てて駆け寄るエスティマ。
ただでさえ自国の王妃の泣く声を、城の使用人や護衛らに聞かれでもすれば大事だ。たちまち騒ぎになりかねない。
しかも、今三人がいるのは王子ロシェットの部屋であり。本来ならば国賓扱いとなる他国の王妃が来訪する予定など、聞いてはいないのだから。
「もう……水を浴びせたのは悪かったわ。だからせめて声を出して泣くのはやめなさいな」
「ええ……ごめんなさい、ごめんなさいね……エスティマ……」
懐から取り出した手巾で、ティアーネの目に浮かべた涙を拭い。
まずは、どうにか泣き止ませようとする。
「は、母上っ……」
同じく、泣いている母親を慰めようと駆け寄ろうとしたロシェットだったが。
自分の母親が感情に任せて、声を上げて泣き出すなど初めて見た光景であり。
もう一つ、日常的に母親が自分へと向けた愛情が。母が子に向ける愛と違う……と知ってしまったが故に。
次の一歩を、ティアーネに向かって踏み出す事に躊躇してしまった。
母親の心配をしながらも、母親に近寄るのを躊躇う、そんなロシェットの複雑な心情を汲み取ったエスティマは。
「まあ、ここは妾に任せておきたまえ、ロシェット坊や」
部屋の隅から一歩も動けなかったロシェットに対し、開いた手を突き出して接近は不要だと告げた。
──実のところ。
エスティマがロシェットの部屋へと忍び込み、誘惑じみた行為を実行したのも。
部屋に到着したティアーネの眼前で、ロシェットとの関係を疑われる発言をワザと口にしたのか。
それは、ティアーネが胸に秘めていた「息子への愛情」を危惧していたからだ。
◇
事の発端は、ホルハイム戦役よりも以前、二年ほど前にまで遡る。
ティアーネと個人的な交友関係のあったエスティマは。外交の場で後継者だ、とお披露目をする以前より、ロシェットと面識があった。
どちらかと言えば、筋骨隆々な体格のイオニウス王よりも、華奢なティアーネの血を色濃く継いだ可愛らしい容姿の、一〇歳になりたての子供を見て。
エスティマは冗談を口にした事があった。
『ねえティアーネ? ロシェット坊やはまだ婚約者が決まってないのよね。なら……妾なんてどうかしら?』
勿論、この時には既にエスティマも砂漠の国の正式な王妃であり。唯一の後継者であるロシェットと婚姻関係を結べる筈もなかった。
だからこその冗談、とエスティマは軽い気持ちだったのだけど。
途端にティアーネは、近くにいたロシェットを抱き寄せたかと思うと。
『──駄目よエスティマっ! そんなの……そんな事は私が許さないわっ……この子は、ロシェは……っ』
そう言いながら、まるで親の仇と言わんばかりに睨み付けてきたティアーネの鬼気迫る表情を。
エスティマは今でも忘れられなかったのだ。
それから何度か、エスティマは自分の親友が禁忌を犯すまいかと心配となり。
暇を見つけては黄金の国へ訪れ、王妃と語らう機会を作っていた。
妖精族故に国外に出ないティアーネと違い、奔放に様々な国を飛び回るエスティマの大陸諸国の話を聞いたり、ホルハイム王妃としての責務を果たしている内に。過剰だった息子への愛情は徐々に、母親としての親愛へと変わっていった。
少なくともエスティマはそう思えていたが。
転機が訪れたのは、ホルハイム戦役後。
エスティマが王妃である砂漠の国の半分にも満たない国土の、小国ホルハイムは。
帝国軍に侵攻を受け、ほぼ全ての都市や街、農村が損害を被った。
いくら良質な金鉱を有し、採掘した黄金がホルハイムの経済の要であっても。住民の生活基盤を再建しない事には、金の採掘どころの話ではなく。
小国ホルハイムは、財政難の危機に陥っていた……まさにその時だった。
大陸東部に大きな領地を持つ、魔導王国ゴルダが。ホルハイムを強烈に支援する──と発表した。
ホルハイム戦役でまさかの敗戦を喫し、帝国は南へ再度侵攻を仕掛けるのが難しい状況に追い込まれる。
帝国領の北は雪と氷に閉ざされた極地、西はニンブルク海、となれば。
当然、侵攻進路は東に向けるしかない。
帝国とゴルダの間には、七つの小国家が連座制を取る東部七国連合が存在するが。
最近になり帝国は、東部七国連合の一国・ラムザス王国に狙いを定めたと噂されている。
最早ゴルダにとっても、帝国の侵攻は対岸の火事ではない。目と鼻の先に迫った脅威なのだ。
ただし、国の復興支援の条件にゴルダは。
第一王女メルベイユと、ロシェットとの婚約を求めてきた。
表向きは帝国を退けたホルハイムとの関係強化が目的に見える、二人の婚姻だが。
各国に情報源のあるエスティマは知っていた。
第一王女メルベイユが、ロシェットに対し強い恋慕の情を抱いている事を。
エスティマは嫌な予感しかしなかった。
◇
ティアーネの感情を鎮めるには、彼女の視界に溺愛の対象であるロシェットを映さないほうが良い……と考え。
泣き声こそ止んだものの、まだ落ち着かずに涙を流し続けていたティアーネの手を引き。部屋を出て、勝手知ったる城内を歩いていたエスティマは。
「だけど……まさか。ここまで我を失うくらい拗らせた感情を溜め込んでたとは、ねえ」
帝国との戦争が終結してから、初めて再会した親友からは。適度な距離を保っていたロシェットの魔法指南を立候補した、と先程は聞いたのを思い出す。
『聞いてエスティマ? ロシェってば凄いのよ! まだ教えて一〇日も経ってないのに……もう詠唱破棄まで、さすがは私のロシェよね……ああ』
おそらくはゴルダ王女との婚姻の話が出たことで、これまで抑えていた感情をついに制御出来なくなったのだろう。
息子の成長の度合いを話す時に見せた、親友の蕩けた表情に。話し相手であるエスティマは危機感を覚えたからだ。
このまま放置すれば、親友は決して超えてはならない一線を近い将来、飛び越えていってしまうだろう──と。
だからこそ。
敢えて今夜、エスティマは他国の王位継承権を誘惑するなどという、一歩間違えれば国交断絶ともなり得る行動を実行したのだ。
最早、実の息子への愛情を溜め込みすぎて理性が崩壊しかけていた親友と。
暴走した母親に理不尽な愛情をぶつけられかねない、自分を慕ってくれる愛らしく賢い子供を救うために。
「あ、ありがとう……エスティマ」
親友の手を握り、城の廊下を歩いていると。ようやく気持ちが落ち着いたのか、ずっと手を引いていたティアーネが感謝の言葉を口にする。
「感謝しているなら、大事にしないでくれるとありがたいわね」
「も、勿論よ……さすがに、どちらも表沙汰には、出来ないでしょ?」
「そりゃあね。妾はともかく、まさか……母親が実の息子を男として愛している、なんて──」
「い、言わないでっ!」
もう手を引かなくても自分の足で廊下を歩ける程には、どうやらティアーネの情緒も回復したようで。
自分をここまで連れ出したエスティマと、冗談めいた対話を交わせるようになったが。
「ねえティアーネ」
つい今しがた交わした軽い口調から、突如真剣な声になったエスティマは。
「もし……ゴルダ王女との婚姻が本当に無理なら、ロシェット坊やを妾の国に預けてみない?」
「え? あ、砂漠の国にロシェを?」
「そうよ。妾と婚姻、という話は一旦置いておいて、ね」
そう口にしたエスティマは、個人的な親交を持つ奔放な女性の顔ではなく。
自らの発言に多大な責任が付いて回る、砂漠の国という一国の王妃としての顔を浮かべ。
突然の提案に驚いたティアーネの両の眼を覗き込む。
「勿論坊やにも、そして友人であるあなたにも悪いようにはしないわ」




