10話 ロシェット、その一言が予期せぬ事態に
当時を回想していたエスティマは。
「あの時は、怒りが収まるまで国王様が引き受けてくれたんだけどねえ……」
既にお腹にはロシェットを孕んでいたため、激昂したティアーネは。帝国軍を退けるために行使した、強力な攻撃魔法の数々を躊躇いもなくイオニウスに放ったからだ。
並の人間ならば、確実に生き残る事が不可能な程の攻撃魔法を。
しかし、この場にはその身代わりはいない。
「……まさか妾が、その役割をやらなければいけなくなるとは、ね」
怒れるティアーネの気が鎮まるまで、この場から逃げ出す事も一瞬は考えたが。
下手に逃走を図り、ティアーネが放った魔法の余波がロシェットを巻き込む可能性や。騒動を聞きつけ、連れて来た護衛騎士まで巻き添えを喰らう事態ともなれば。ティアーネとエスティマ、二人だけの問題ではなくなってしまう。
そう考えたエスティマは、覚悟を決める。
しかし、本格的な衝突となる前にやっておかなければならない事があった。
「あのねえ……何か勘違いしてるかもしれないけど、ティアーネ。あなたが邪魔してくれたおかげて、坊やには何も出来てないわ」
「そ、そんな恰好までして、何を言い逃れをっ!」
エスティマが誤解を受けたのには、彼女の奔放な恋愛感覚にある。
褐色で肉感的、麗しい美貌に加え。魔術師としての知識と、一国の王妃としての政治的視野に優れている彼女は。他国との国交の場においても、王族や貴族の話題に上がる事も多々あり。
砂漠の国の国王「太陽王」ソルダと婚姻関係ながら。重要な情報や交渉を勝ち得るため、自分の武器を使う事に躊躇いのない人物だった。
さらには、別邸にお気に入りの男娼を侍らせている、とも噂されている。
噂の真相は、身分に関係なく国に有益な人材を男女問わず集め、住居や生活、教育に掛かる費用をエスティマが世話しているからなのだが。
ティアーネは、友人の噂を聞き流しながらも。男娼を侍らせる噂の真相までは知らなかった。
だからこそ。エスティマの着衣の乱れ方や、ロシェットが即座に離れた反応から。「もしかしたら……」という疑惑を頭から振り払う事が、ティアーネにはどうしても出来なかったわけで。
「あなたの氏族と妾の部族の名に誓って、嘘は言っていないわ。だったら、愛しの坊やに聞いてみたらいいじゃない?」
「ロシェに?」
衝突も止むなし、と覚悟を決めてはいたが。衝突の前に、ロシェットの貞操を奪ったという誤解だけは解いておきたかったエスティマは。
妖精族が誕生する際、氏族の姓を大事にする知識から。以前に二、三度、ティアーネから話に聞いていた彼女の故郷の森の名を出し。
さらにエスティマの出身であった月の部族の名を並べ、誓いの言葉とする。
今の冷静さを欠いたティアーネも、さすがに自分の氏族の名を出され、話を聞く気になったようで。
一度、怒りの感情を胸中へと納め、部屋の隅へと避難していたロシェットへと向き直る。
「ほ、本当なのロシェ? 何も……何もなかったの?」
「は、はい。お、驚いて思わず慌てちゃいましたが、そ、その……やましい事は、何もされてはいません」
言葉の通りエスティマは、ロシェットに何一つ手を出してはいない。エスティマの礼装服の露出が高いのも、雰囲気を高めようと自ら脱いでみせたに過ぎず。
よく見れば、ロシェットの着衣は乱れていなかったりと。
二人の証言から、最初に想像していたような「最悪の事態」とはなっていない、と結論に至ったティアーネは。
「……そうね。お母さん、ロシェが嫌々されたと思って、ちょっと我を忘れちゃったわ」
「よ、よかった……母上が元通りに」
先程まで寝台上のエスティマに放っていた、怒りの感情と薄ら寒い雰囲気が一気に和らいでいく。
ティアーネの怒りが収まった、と一瞬だけ安堵しかけた、その時だった。
「その……エスティマ様には、口唇を重ねたくらいで」
ロシェットの一言で、部屋の空気が固まる。
「──は?」
誤解が解け、一度はエスティマへの敵意が収まったティアーネだったが。
ロシェットの言葉を聞いて、再び同じように敵意を放つ……いや、下手をすれば先程よりも強い圧力で。
一度は覚悟を決めた筈だったのに、肌で感じる再度向けられた敵意に。思わず、エスティマの頬から冷たい汗が流れ伝う感触。
「あ、あらぁ……これは、もしかしたら……ねえ」
ロシェットを溺愛していたティアーネも、これまで何度も口唇を重ねてはいた……が。
あくまでロシェットが抱く感情は、母親に対する
「親愛」であり。ティアーネが望むも、母親と息子という関係では許されない「恋慕」の感情では決してなかった。
──それを。
「ねえ……エスティマ。あなた……私の気持ちを知ってたわよね。だって、何度も相談してたのに……なのに」
たった数度しか接した事のないエスティマが、ロシェットの口唇を奪っただけでなく。ティアーネが欲しても手に入れることの叶わない、恋慕の情を含んだ接吻を交わした事。
それこそがティアーネの憤りの正体だった。
「許さないわよ、よくも……よくも、ロシェの口唇をぉっっ!」
まるで怒りの感情が形を持ったかのように、心からの声を口にしたのと同時に。
ティアーネの前方に、何らかの攻撃魔法が詠唱も予備動作もなく、瞬時に展開する。
「く、っ……これだから、優秀な魔術師との争いは嫌なのよっ!」
同じく魔法の準備を始めるエスティマは、思わず毒を吐く。
詠唱がない、という事は詠唱文から魔法の種別を全く判断出来ないため。ロシェットに使ってみせた「対抗魔法」で発動前に魔法を無効にすることが出来ない。
発動前の魔力に干渉し、発動を妨害する「対抗魔法」には。最低でも相手側の魔法を特定するのが必須条件だからだ。
しかし、それでも。
魔法の発動があまりにも早すぎる。
発動速度の迅速さから、おそらくは中級魔法……いや、初級魔法を、行使したとエスティマは想定した。
だとすると、ティアーネが使うのは。得意とする属性、即ち大樹属性の「枝の矢」か風属性の「風の弾」辺りだと思われたが。
「──雷の矢!」
まさか、ティアーネが選択したのは。得意属性ではない雷属性の初級魔法だった。しかも先程、ロシェットが唱えようとしたのと同様の魔法を。
ならば、とエスティマは。
「──月壁っ」
初級魔法、もしくは中級魔法の威力と、さらに発動速度で対抗するには。
状況を踏まえ、発動させた「月壁」が最適解だと判断し。
ティアーネと同じく優秀な魔術師であるエスティマには、対抗手段は幾つかあったが。事情があっても非公認な客人が、国の王妃を傷付ければ大事となる。
従って、攻撃魔法で押し切るなどの手段は取れず。
壁や盾、結界作成などの防御魔法を用いて、ティアーネの魔法の威力を相殺する方法を選択したエスティマ。
「月壁」
月属性の魔力を広く前方に展開し、魔力による障壁を生成する防御魔法。
原理は大地属性の「石の壁」や風属性の「風の壁」と同様だが、属性に対応する物質がないため。物理的な障害とはなり得ず、魔法を防御する以外に効果を発揮しない。
ただし、月属性は一二属性中、一、二を競う魔力への干渉力を持つため。魔法を阻害する威力は他属性の壁魔法の中で最大である。
本編でエスティマがこの魔法を防御に選択したのも、「月壁」の特性と、魔法がくる事を確信していたからである。
「枝の矢」
大樹属性を宿した一本の小枝を掌より生み出し、魔力を纏わせ鋭く尖らせた枝を対象へと放つ、初級魔法の攻撃魔法。
投射速度は矢より遅く、形ある物質に魔力を宿らせている仕様上、盾や障害物により防御が可能だが。この魔法の軌道は、術者の魔力操作により自在に変化させる事も出来る。




