9話 ロシェット、言い争う二人の王妃
慌てた様子で鳴り響く足音は、この部屋の前でピタリと止まり。
次の瞬間、扉が勢いよく開かれると。
「──ロシェ!」
「は……母上、っ⁉︎」
切羽詰まった声でロシェットの名を呼び、部屋へと入ってきたのは王妃ティアーネであった。
息を荒くしていたのと、廊下から聞こえた足音の様子から。偶然に部屋を訪れたのではなく、急いで駆け付けたのは即座に理解出来た。
一方で、部屋へと入ってきたティアーネは。
「こ、これは……どういうことなの、エスティマ⁉︎」
溺愛する息子が寝台にて、エスティマに押し倒されている状況。
見れば、エスティマの服装が自分と面会していた時と違い、さらに露出の高い礼装服となっていた事に驚いていた。
ティアーネがここまで慌てていたのも。最低限の護衛のみを連れ、王都に訪れたエスティマを招き。個人的な友人と会話の一時を楽しんでいた最中に。
部屋から退出していたエスティマが、一向に席に戻ってこないのを不審に思ったからだ。
「いつまでも戻らないから、もしや……と思ったけど、まさか……まさか本当にロシェを誘惑していただなんてっ……」
戻ってこないエスティマの居場所に、即座にティアーネが頭に浮かんだのは。ロシェットの部屋だった。
……というのも。
丁度、二人の話題に上っていたのがロシェットの婚約問題についてだったからだ。
ロシェットの魔法の素質、そして小国ホルハイムの今後を鑑みれば。ゴルダ第一王女との婚姻を承諾するのが最善の案だ、というのはティアーネも充分に理解していた。
しかし、ゴルダ側から出された条件。
『ロシェットをゴルダの魔術学院に編入する事』
つまり、学院の教育課程を修了するまで、最低でも数年はロシェットを手離さないといけないという事となる。
ロシェットを離れる事態を受け入れられず、政略結婚に首を縦に振れなかったティアーネに。
エスティマが「良い解決方法がある」と切り出し、その良案とやらを聞こうとした矢先。
彼女は突如、席を立ち、そのまま戻らなかったのだ。
「まったく……無粋な邪魔が入ったわね」
先程まで、舌舐めずりをしながら間近にまで迫ったエスティマは。
自分の女性としての魅力を最大限に使った一挙一動で、ロシェットをすっかり虜としていた。
気付けばいつの間にか、迫る彼女から視線を外せなくなっていたロシェットだったが。
ティアーネの乱入により、二人の間に漂わせた魅惑的な空気は完全に払拭され。
エスティマの作り上げた妖しい雰囲気に飲まれかけていたロシェットの意識は、すっかり元に戻っていた。
「ご、ご……ごめんなさいエスティマ様っ!」
我に返ったロシェットは、間近に迫ったエスティマの身体を押し退け。寝そべった体勢のまま、腕を動かして転がるように寝台から抜け出していくと。
一度はティアーネの立っている位置へ移動しようとするロシェットだったが。
「……あ」
何かを思い出したような表情を浮かべた途端、怯えたような表情を見せたロシェットは進路を変え。
二人の女性から距離を取り、部屋の隅へと移動していく。
「──あ、ろ……ロシェっ」
溺愛する息子が、自分を頼ってくれなかったことに少しだけ悲しい気持ちとなったティアーネだが。突然に、強引に肉体関係を迫られるような事態の直後ならば……と。
息子に避けられる、という原因となった諸悪の根源に対し、敵意を込めた視線を向ける。
「ねえエスティマ。これが……あなたの言う『良い解決方法』だっていうわけ?」
「何も悪い話ではないだろう? 我が国とこの国の関係が強まれば、周囲の大国の牽制にもなるし、の」
ティアーネの言葉に、先程までロシェットに見せていた女としての顔から一変。一国の王妃として、真剣な顔付きを見せたエスティマは。
ロシェットとの婚姻の利点を、一公人としての視点から反論していく。
魔法の開発や研究に熱を入れ、大陸でも名の知れた魔法大国であるゴルダとの関係強化は、小国ホルハイムからすれば絶好の機会だったが。
ゴルダとホルハイムの間には、東部七国連合やシルバニアが存在し。国家存亡の危機にゴルダ側の援軍を期待するのは、確かに難しいだろう。
先日発生した帝国の軍事侵攻が発端のホルハイム戦役でも、ゴルダ側からの援軍は到着しなかった。
「実際に我が国が力になれるのは、先の戦争でも結果を出した……とは思うのだけど」
「そ、それは……確かに。あなたの言う通りだわっ……」
その点では、砂漠の国は。帝国からの挟撃要請を撥ね退けただけでなく。
先の戦争では西の港から援軍を送り、王都を包囲していた帝国軍の有名な将軍を見事に討ち果たした……と聞いている。
というのも。包囲戦の最終局面を迎えた時に、王妃ティアーネは敵の毒刃に倒れ、生死の境を彷徨い、意識がなかったからだ。
ホルハイム戦役で援軍を派遣した砂漠の国に対し、未だ戦後の復興に追われていたホルハイムは、物資や金銭的な感謝の意を表してはいなかった。
だから、エスティマが砂漠の国王妃として、戦役の話を持ち出した場合。ティアーネは無碍に拒否する事が出来ない。
「それに、何より──」
反論の言葉を失ったティアーネに対し、エスティマはさらに言葉を畳み掛ける。
「妾がロシェット坊やを好いているし。坊やも満更ではないわよ……さっきの坊やの寝台での反応を見てれば、ね」
「……なんで、すって」
そう言ったエスティマは、寝台に寝たままの状態で、艶かしく身体を動かしながらティアーネへと挑発的な言葉を口にした。
だが、これは完全な悪手だった。
息子の寝台に寝転がるエスティマ、彼女が着ていた、ただでさえ肌の露出の大きな礼装服は。
大きく胸元が開き、かろうじて僅かな布地で胸が隠れている状態。
見れば、二人で話をしていた時に整えられていた黒髪も、まるで運動をしたかのように乱れている。
加えて、エスティマの発言とロシェットの怯えた態度。
ティアーネの頭の中には、考え得る最悪の予想が浮かんでいた。即ち、息子の貞操がエスティマによって散らされてしまった、という。
「言いなさい、エスティマ……ロシェに、何を、したのかを」
そう発言するティアーネの表情は、王都アウルムの民衆らが想像する「心優しい王妃」の顔ではなく。
笑顔を浮かべながらも、ティアーネの周囲には燃え上がるような怒りの感情が滲み出ている。
「は、はは……うえ?」
部屋の隅で二人の様子を見ていたロシェットも、何度か母親に叱られた事はあるが。
近寄るのを躊躇う程に恐ろしい顔を見せた記憶は、ロシェットには一度もなく。
「あらら……まさか、本気で怒らせちゃったみたいねえ」
ティアーネの古くからの友人と聞いていたエスティマも、心優しい妖精族の王妃のそのような怒りの表情を見たのは──ただ一度。
今でこそ、ティアーネとロシェットのみに愛情を向けているホルハイム国王イオニウスが。他の女に好意を向け、国王の責任を放り出そうとした時だけだった。




