453話 アズリア、大樹の精霊との別れ
これは杞憂ではない。魔剣を所持していれば、起こると断言出来る未来の災厄を頭に浮かべ。
アタシは俯き、視線を下へと落とす。
すると。
「あ、痛ぇッ⁉︎」
額に突如、痛みを感じて。下を向いたばかりだというのに顔を上げると、顔の前には師匠の手があった。
今の痛みはどうやら、指でアタシの額を弾かれたからだと理解した。
「もう……馬鹿ねえ、アズリア」
そして、アタシに伸ばした手の先には。優しく微笑みを浮かべた師匠の顔があった。
次の瞬間、額を弾いたばかりの師匠の手が再び動く。
アタシは「またか」と思い、思わず額を手で覆ってみせるが。師匠の次なる行動は、アタシの想像とはまるで違い。
「わッ……ぷ?」
「──まさか」
伸ばした手だけでなく、もう一本の腕をもアタシの身体に回して。先程、魔力を分け与えるためと同じくアタシを抱き締めてきた。
ただ、先程と違う点が一つ。魔力を分け与えた時はアタシに身体を預けてきた師匠だったが。
今度は少女の姿をした師匠の胸へと抱き寄せられた、まさに抱擁の体勢だった。
「人間のあなたに、精霊の私がそこまで心配して貰えるなんて……嬉しくなっちゃったじゃない」
師匠の胸に顔を埋め、まるでユーノにしているようにアタシは頭を撫でられていると。
「な、何だろ……コレ……アタシが知らない、あったかい感覚だ……」
今まで感じた事のない奇妙な暖かさと心地良さに包まれる。頭を一撫でされる度に抵抗する気が失せ。その感触に身を委ねてしまいたくなるような。
アタシは最初、魔力枯渇の悪影響である強烈な眠気なのかと思ったが。睡魔が頭を覆う時のような目蓋の重さがない。
「もしかして……コレが、母親の腕の中の感覚ってヤツなのかも、しれないねぇ……」
幼少期の時点で、既に母親はアタシの世話を放棄していたからか。アタシの記憶には「母親に可愛がって貰えた」という思い出がない。
しかし。
八年に渡る旅の最中に、アタシは幾度となく自分の子供を愛おしく抱き締める母親の姿を見る度に。自分が知らない母親の慈愛を、勝手に想像していたのだが。
「かあ……さん……」
今、師匠に抱かれている感覚こそ、まさにアタシの想像通りだったから。
思いもよらず、アタシの口から言葉が溢れると。
当然ながら、目と鼻の先にいるアタシの言葉を。師匠が聞き漏らすわけもなく。
「ふふ、いいわよ。それでアズリアが満たされるのなら、母親にでも何にでもなってあげるわ」
「……え?」
まさか自分の口から気持ちが漏れ出していた事に、全く気が付いていなかったアタシは。今の師匠の言葉で、ようやく自分の胸の内が見透かされているのを察知し。
同時に、頬が羞恥のためか急速に熱くなる。
「あ……あ、ち、違、ッ?」
「いいえ、何も違わないでしょ? だからアズリア、これからは私のことを『師匠』呼びから『母親』と呼びなさい」
恥ずかしさのあまり、胸に埋めていた顔を上げ。師匠へと抗議の声を掛けようとすると。
アタシを抱き寄せる前には、あれほど慈愛に満ちた笑顔を浮かべていた筈なのに。今の師匠の表情はというと。
「いい? これは師匠としての命令だから」
優しさとはまるで程遠い。精霊界での鍛錬で、アタシに無理難題を押し付ける時に必ず見せていた意地悪な笑顔。
しかも、こんな時にだけ。アタシを鍛えてくれた恩義を前面に押し出してくるなんて。
……いや、それだけではない。
師匠には、魔竜の討伐の決定打だったり。イチコらを蘇生させてくれた恩義まである。
その大樹の精霊に「命令」と言われてしまえば、アタシも反論は出来ない。
その上、さらに師匠は畳み掛けてくる。
さすがに周囲には聞こえないように、アタシの耳元に口を近付け、小声で囁いてきたのだ。
「忘れちゃいないわよね──『ぱぱ』?」
ぱぱ、つまり一般的には父親を指すその呼ばれ方を聞いて、アタシは一瞬考え込む。
というのも、二五歳という年齢にしては珍しいが。アタシはまだ誰かの子をこの身に宿した事はない。
それにアタシは女だ。父親扱いされるのはどう考えてもおかしい話だった。
アタシの中にある、とある一つの記憶を除いては。
「あ、あの妖血花のコトかよッ……」
実は、偶然にもアタシが戦争が終結した後のホルハイムにて遭遇した、本来ならば魔物の一種。
輪郭だけ人を模した妖人草と違い。外見も全て、人間を模した魔物・妖血花なのだが。
問題は、妖血花が模したその外見が。アタシの幼少期の姿だったのだ。その上、アタシを「ぱぱ」と呼び。同行していた修道女の少女・エルを母親呼びした。
そんな魔物を、どうしてもその場で始末する真似も、ただ野放しにしておく事も出来ず。アタシとエルは連れ帰ってしまったのだ。
後の師匠との話で、何故この妖血花がアタシの姿を模していたのか……その謎も明らかとなったのだが。
「あ、あの娘の母親ってのと、アタシの母親なのは意味がまるで違うだろッ!」
「あら。私は精霊だから、そんな細かい事は気にしないわよ? それともアズリアは、私がそれ程に狭量な器だと思ってるのかしら?」
「……ぐ」
「それを理解したら、ほら。私を母親呼びしなさいな、ほら」
都合の良い時だけ精霊なのを主張され、反論が出来ずに言葉を詰まらせてしまうアタシ。
何とか母親呼びを避けられれば、とは思っていたが。大きな恩のある大樹の精霊を侮辱する気など微塵もなかったからだ。
「ほら。どうしたのアズリア?」
「わ、わかったよッ! い……言やあイイんだろッ!」
迫る師匠の顔が、アタシの顔に触れる程に距離を縮めてきていた。
もう逃がれる事は出来ない、と諦めたアタシは覚悟を決める。
「か、か……ど、ドリアード、かあ、さんッ」
「──よろしい」
慈愛に満ちた顔でも、意地悪で好奇心に満ちた顔でもなく。アタシを陥落させ、勝ち誇ったような笑顔を浮かべ。
受け取りを拒否した大樹の魔剣を抱え、アタシから離れていく師匠。
「さて、アズリアと再会も出来たし。そろそろ精霊界に帰るとしますか」
帰還する、と宣言をした途端に。師匠の身体の周囲から緑の淡い光が漏れ出し始め、徐々に光量が増していっていた。
しかし、疑問に思ったアタシは帰還の準備を始めていた師匠を思わず呼び止める。
「え? ちょ、ちょっと待った師匠ッ……マツリと契約したのに、どこに行っちまうんだい?」
「馬鹿ね。アズリアに人間としての営みがあるように、精霊には精霊の営みというものがあるのよ」
かつて、シルバニア国と契約していた時には。王都に立っていた精霊樹の中にいたではないか。ならば、マツリと契約した以上、師匠はこの国に住み続けるのではないのか……と。
アタシは想定していたのだが、どうもそう単純な話ではないようだ。
──まあ。
マツリが必要としているのは精霊の鍛錬ではなく、契約による豊穣と精霊樹が繋ぐ道だ。それに関しては師匠が不在であっても、効果を発揮するのだから問題はない。
単純に、アタシが師匠との離別に未練を残しているだけなんだ、と。
「アズリア。私がくれてやった魔剣を押し返したおなたの我儘、その呼び方に免じて認めてあげるわ。でも──」
だが、アタシが呼び止めるよりも先に。
師匠の周囲に展開している緑の光はもう、まともに直視出来ないほどに光量を強めていた。
「忘れないで頂戴ね。この大樹の魔剣は、もうあなたの所有物な事には変わりはないわ。いつでも……必要な時になったら魔剣を、私を呼びなさい」
「し、師匠ッ……」
目蓋を薄く開けて、何とか師匠の姿を視ようとすると。緑髪の美少女の輪郭が徐々に崩れていっていた。
やはりあの姿は精霊が、人間の世界に顕現する時に魔力で創り出した仮の姿なのだ。
「あ、当然。母親呼びで、ね」
最後にその一言を発した途端。
アタシらがいる一帯を強烈な光が包み込む。
「う……おッ⁉︎」
「な、何事ですのっっ?」
あまりの眩しさに驚いたのは、どうやらアタシだけでなく。この場に居合わせた全員が反射的に腕で両眼を覆い、目蓋を閉じてしまう。
 




