432話 アズリア、王都へ踏み出す一歩
この話の主な登場人物
アズリア 世界から消えた魔術文字を唯一使える流れの女傭兵
ベルローゼ 北の大国ドライゼルの白薔薇公爵
師匠の後を追って、すぐに精霊樹の幹に開いた空洞を潜り。あの国に戻っても良かったのだが。
アタシは今一度、自分が立っていた場所の周囲を見返していく。
「そっ……か。じゃあ、樹が立ってる区画を出て、あの道を真っ直ぐ行けば、大通りに出る……か」
そう、今この場には師匠もフブキもいない。
一人になったからなのか、師匠にあらためて転移した先が王都であると指摘されたからか。この都市に滞在していた時の土地勘を、徐々に思い出していた。
何しろ精霊樹には、師匠の厳しい鍛錬を受けるために滞在中、数え切れないくらい歩いた道だ。
アタシの中に一番印象に残っていたのもあり。最初に頭に浮かべたのも、精霊樹から一番大きな通りまでの経路だった。
「王都の街並み、一年経っても変わってないねぇ」
アタシがこの街に滞在したのは、ちょうど一年ほど前になる。
手持ちの食糧配分を間違え、路銀も尽き。街に到着する手前で行き倒れてしまったアタシは。王都で商会を経営する男・ランドルに助けられ。
一宿一飯の恩義を返すため、彼が所有する鉄鉱山に巣喰った魔獣を掃討し。気に入られたアタシは、客人として屋敷に留まるのを勧められたため。
この都市に長く滞在することになった、という経緯があったからか。
自分の記憶の中にあった、精霊樹が立っている区画から都市の中央に敷かれた大通りまでの経路を。今、はっきりと思い出すアタシ。
その記憶が呼び水となったのか、一年ほど離れていた王都の街並み。建物や道の配置を次々に思い出していく。
「で、あっちには冒険者組合が。反対側をしばらく歩けば……ランドルの屋敷があるってワケかい」
アタシが立っている場所からは、僅かに屋根や建物の一部が見える程度だが。
ここからでも、滞在中に快く宿を提供してくれたランドルの屋敷や。王国中の冒険者が集まるからか、大きな建物である冒険者組合もまた眺める事が出来た。
一介の旅人で路銀のないアタシは、無償で宿と食事を提供して貰えたからか。この街には一月──三〇日という長期に渡り滞在する事が出来た。
だからだろうか、建物を目にした途端に。ただ懐かしい、というだけではなく、「帰ってきた」という感覚がアタシの胸に湧き上がる。
「いや、何だか懐かしく思えるよ。これがよく聞く、故郷に帰ってきた感覚なのかねぇ……」
生まれた場所を捨てて、世界を当てもなく旅して回るアタシには。故郷に帰る──所謂「郷愁」という感覚は無縁とばかり思い込んでいたが。
どうやらアタシは、この街に懐かしさを覚える程度に長く滞在していたらしい。
懐かしい、という感情が胸一杯に広がっていたかか。
アタシは無意識に精霊樹へ背を向け、視界に入った組合やランドルの屋敷の方向へと一歩、足を踏み出していくも。
「おっと、と……いけないねぇ、アタシにゃまだやるコトが残ってるんだった」
しかし、今のアタシは。精霊樹の向こう側にある国に待っている仲間と、やり残した事がある事を思い返し。
一度は背中を向けた精霊樹へと振り返り、胸に湧き上がった郷愁を振り切って。フブキやユーノ、そして師匠の待つヤマタイへと帰還する。
やはり、精霊樹を潜った際に無意識に目蓋を閉じてしまうのは、最早アタシの身体に染み付いた癖なのだろう。
ユーノの言っていた違い、木や土の匂いが鼻に濃く感じられたことで、ヤマタイへと到着したと確信し目を開けようとした──その時。
「遅いですわ! 何をこそこそと樹の中に隠れていたのですかアズリアっ!」
目を開ける前にアタシの耳に響き渡った、突然の怒声。勿論、声の主は聞いた途端に理解する。
目を開けたアタシの視界に入ったのは、当然ながら怒声の主。お嬢、こと「白薔薇公爵」ベルローゼの顔だった。
「う、おッ? な、何だいお嬢ッ……そ、それに顔が近いっての!」
しかし、距離が近い。
吐いた言葉の通り、感情を昂らせているお嬢は眉を吊り上げ、明らかに不機嫌な表情だが。
問題はお嬢の鼻先がアタシの顔に触れそうなくらい、お嬢がこちらに迫って来ていた事だ。
「そんな些細な事はどうでもよいのです! まずは私の眼を盗んで、一体何処に姿を消したか。とっとと白状なさいな! さあ……さあっ!」
まるで掴み掛かってくる勢いで迫るお嬢を横目に、アタシは一足早く帰還していたフブキへと視線を向ける。
てっきり、先に帰還したフブキは。精霊樹が大陸と直結している事を既にマツリや他の連中に説明を終えている、とばかり思った故の目線だったのだが。
アタシの目線を察知したフブキは、残念そうな顔を浮かべながら首を左右に振る。
「私が説明する、って何度も言ったんだけどね……」
「私はっ! アズリアの口から聞きたいのですわっ!」
「……と、まあ。この調子で話を聞いてくれないわけよ」
諦め、という意味の溜め息が混じったフブキの説明で。アタシはこの状況全てを理解した。
「ちなみに、姉様や他の皆んなにはもう説明してあるわ」
さらに、アタシが目線を送った意図を読み取ってくれたのか。フブキは精霊樹を潜った先に何があったのか、その説明をマツリには既に終えている事まで報告してくれた。
ならば問題は、フブキの話を聞かず興奮している、自分勝手なお嬢を止めればよいだけだ。
それには、まず。
「わかったわかった、お嬢にもわかるようちゃんと説明してやるから……まずは離れろッての」
アタシはぐい、と顔が迫るお嬢の身体を軽く押し、距離を取ろうとしたのだったが。
肩に触れようとした瞬間、感情を露わにしていたお嬢の顔が、一瞬だけ哀しそうに曇る。
「──アズリア?」
これまでのアタシが知る傲慢の権化たるお嬢が、一度も見せた事がない弱々しい表情に。
思わずアタシは、肩に触れただけ。腕に力を込めてお嬢の身体を押し退けるのを躊躇ってしまった。
「ふ……ふざけんなッ、何て顔しやがるんだよ」
「そ、それはアズリアっ、お前が私を押し退けようとしたからですわっ」
突然、妙な態度を見せたお嬢に明らかに戸惑ってしまったアタシは。その困惑をそのまま口にするが。
お嬢も一歩も引こうとせず、肩に置いたアタシの手首を強く掴みながら。さらにこちらへと顔を迫り、距離を取ろうとしたアタシの行動を批難してきたのだ。
「そ、そりゃ……こんな顔近かったら、碌に話も出来ねえだろうがッ?」
これだけ顔が近付くと、さすがは貴族だけありお嬢の肌の綺麗さが嫌でも目に入ってくる。
この国での生活が長かったためか、少しばかり肌が荒れてはいたものの。
しかも綺麗なのは肌だけではなく、お嬢は師匠と同程度の美しい容姿の持ち主なのだ。
領内で「白薔薇姫」と称賛されていたのは、何も公爵令嬢に媚びているだけでなく、単純にお嬢の容姿が周囲より優れていた証明でもあった。
だからアタシは少し気恥ずかしくなり、一向に距離を空けようとしないお嬢から目線を外し、顔を逸らす──だが。




