430話 大樹の精霊、次なる目的地の示唆
すると、アタシを引き留めていた師匠の手からスッ……と力が抜ける。
「もう、馬鹿ねアズリアは」
突然の師匠の脱力を奇妙に思い、アタシが背後を振り返ると。呆れたような笑顔を浮かべていたが。
同時に笑顔のまま、師匠がアタシへと真っ直ぐ飛び込んでくる。
自分の直感に従い、手首を掴んだ師匠を逆に引っ張り返していたアタシが原因なのだが。
「ほら、しっかり私を受け止めなさい」
なんと、こちら側に引っ張られる体勢となった師匠は。両手を広げてアタシへと、わざと勢いをつけて抱き着こうとしてきたのだ。
「う……お、ッ? し、師匠ッ!」
振り向いてから咄嗟の事に、身を翻して師匠を避けようと考える間もなかったため。
アタシは飛び込んできた師匠の小さな身体を、しっかりと胸で受け止めながら。
「な、何考えてんだよッ! 向こうに帰るのを引き留めたかと思ったら抱き着いてきたり──」
戦闘の最中であれば直感は鋭く働く、と自負するアタシではあった──が。
今回ばかりは師匠の意図がまるで読み取れなかったため。腰に両腕を回してしっかりと抱き着く師匠に、直接疑問をぶつけていくのだったが。
「……む、ぐぅ?」
アタシの顔に、腰に回していた師匠の腕が伸びると二本の指を立て。言葉を続けようとしていた口唇に触れ、発言を遮られてしまい。
アタシの口を塞いだ師匠は、飛び込んできた時の笑顔とは違い。口角を僅かに吊り上げた意地の悪い笑みを浮かべながら。
「あなたを仲間の元に帰す前に、言っておかなきゃいけない事があるから引き留めたのよ」
どうやら、帰還しようとしたアタシを引き留めた目的とは。
ユーノらと一緒にいる時ではなく、聞くのはアタシ一人で。しかも向こう側に戻ってからではなく、王都側でなくてはいけない理由らしい。
言葉を発したくても、師匠の指で口唇を塞がれているため。僅かに開いた口の間から漏れるのは、言葉にならないくぐもった声のみ。
「ん。んむむ……む、ぐぅ……?」
それでも、今さら師匠はアタシに何を話そうというのか。
ヤマタイの統治機構から離脱する表面をしたマツリの前に立ちはだかった、二つの大きな問題。
徐々に衰退する大地と、大陸との交流の方法だったが。
師匠が大樹の精霊として、カガリ領を精霊が守護する領域とし。精霊樹を新たに植えたことによって。二つの問題は無事に解決することが出来た。
しかもマツリらカガリ領の住民に、努力し成長する余地を残しての解決策を。
さらに師匠は、それ以前の強敵・魔竜との戦闘と戦闘終結後においても。魔剣を貸与してくれたり、犠牲者の生命を救ってくれたりと。
挙げればキリがない程、人間であるアタシらに手を貸してくれたわけで。
「さて、アズリア──」
どうせアタシは口を塞がれ、異議を唱えることすら今は出来ない状態だ。ならば、師匠が何を言い出すのか。
アタシは固唾を飲んで、師匠の次の言葉を待つと。
「あなた、これまで続けてきた旅路が懐かしくはないのかしら」
「──へ?」
唐突に問われたのは、魔竜との戦闘の始末やカガリ領の事ではなく。アタシ個人について、であった。
確かに師匠の言う通り。今、アタシが踏み締めている王国の王都の地──つまりは大陸に戻ってきたのは。
もう半年程前。
修道女エルと、あの時も師匠と同行し。吸血鬼へと変貌した帝国軍の残党を掃討していた矢先。
魔王の転移魔法によって、魔王領へとアタシは転送されてしまって以来であったが。
「そ、そりゃ……アタシだって、戻れるモノならもう一度戻りたいさ……」
既に師匠の指は、アタシの口唇からは離れていたため。今は指で言葉を遮られる事なく。
師匠の問いに対して、思わず本心を吐露していく。
「確かにさ……確かにだよ。最初は、これまで旅した国や都市とは全然違う風習や食事に、驚きもしたし、興奮もしたさ」
魔王領である島に転移させられたアタシは、人間と魔族との戦争に巻き込まれた後。魔王様の妹であるユーノと一緒に島を船で出発。
その後アタシは、海の王国を経てヤマタイへと辿り着き。
これまで自分の足で巡り歩いてきた八年間の旅の経験にない、魔王領や海の王国、そしてヤマタイの独自の慣習や異なる文化を肌で触れ。
これこそ旅の醍醐味だ、と。異なる慣習に触れる事を楽しみに思えていたのも事実ではあったが。
「でもさ……アタシはこうも思ったんだ。もしかして、このまま大陸には戻れないんじゃないか、ッてさ」
しかし一方で。アタシが魔王領を出発した時も、海の王国を逃げるように脱出した時も。
あくまで目指す目的地は、大陸だったのだが。結果的には大陸には到達出来ず。南に遠く離れたヤマタイの地に辿り着いてしまったわけで。
不意に胸中から湧き出し、度々眠りに就く前のアタシを嘖んだのは。
アタシは二度と大陸に戻れはしないのではないか、という不安だったが。
「それも……一度じゃなく、何度も何度も……ねぇ、ッ」
気持ちを吐き出したからか、突如として不安が湧き出し始め。
アタシは思わず目を閉じて下を向き、モヤモヤとした気持ちに顔を歪めてしまったが。
俯いたアタシの顔、頬に何かが触れた。
先程と同じく、指で触れたにしては柔らかな感触に。
「う、うわああッ、ち、近けえッ! 近いッてえの⁉︎」
目を開けると、眼前にまで師匠の可愛らしい顔が迫っていた。先程感じた柔らかさは、てっきり背伸びしてまで頬同士を合わせてきたのかとアタシは思ったが。
「もう、そんな顔しないの。アズリア……思わず、意地悪したくなってしまうじゃない、うふふ」
驚くアタシから一、二歩ほど後退した師匠は、相変わらず意地の悪そうな笑顔を浮かべながら。
しかし、先程はアタシの言葉を遮るために口唇を塞いだ指を。今度は自身の艶やかな口唇を指差してみせる。
今見せた仕草で、先程アタシが味わった謎の感触の正体が何かを理解してしまう。
アタシが不安を感じ、頭を下げて体勢を低くした一瞬の隙を突き。足りない高さを背伸びで補い、顔をアタシの頬へと近付けて口唇を押し付けたのだ。
「な、ッ? な、な、なななッッ……」
不覚にも、師匠の接吻でアタシは狼狽えてしまう。
アタシも既に二五歳という年齢だ。加えて大陸では、同性だけでなく男女同士が肌を出し、水浴びを一緒にするのが日常的でもあり。普段なら、接吻程度で動揺する筈もない……が。
師匠の姿は、女であるアタシでも思わず息を飲む程の美少女であり。
さらにもう一つの理由。
精霊界での鍛錬の際に、散々師匠に身体のあちこちを弄られた、忌まわしき記憶が不意に蘇ってしまい。
湧き上がった気恥ずかしさが、不安を一気に塗り潰したからだ。
「大体、その不安はもうないハズよ」
そんな狼狽するアタシをよそに。師匠は忘れていた事実を突き付けてくる。
今度は自分の口唇から、足元の地面を指差しながら。
「だって、今アズリアが立っているのは一体何処なのか。言ってみなさいな」




