424話 アズリア、精霊樹に繋がる先
しかし、師匠の反応はそれだけだった。
精霊樹を切り倒し、船の建材とするなんて知れたら。てっきり不機嫌さを露わにするだろうと予想していたが。
アタシの手首を掴み、腕を引っ張る師匠の力や勢いが強まったようには感じない。いや、機嫌を悪くしたどころか逆に上機嫌にすら見える。
「え……し、師匠ッさ、あの……怒ってないのかい?」
「ああ、やっぱり私の予想は間違ってなかったのね」
最早、誤魔化そうとしても無駄だと悟ったアタシは。
恐る恐る師匠へと、アタシの想定を知ってなお機嫌を損ねていない理由を聞いていくと。
「確かに、私の樹ならさぞ丈夫な船になるでしょうね。でもねアズリア──」
振り向いた師匠は、怒るどころか精霊樹を建材扱いしたアタシに同意しながら笑顔を浮かべてみせる。
そして、アタシの腕を掴んでいない方の手の指をパチン、と鳴らすと。
「え? えっ? 樹の幹がっ……」
空高く聳え立つ精霊樹の太い幹が、樹皮が剥がれ落ちる音を響かせながら。人が一人通れるほどの空洞を作り出したのだ。
ぽっかりと開いた空洞の奥を、側にいたフブキやマツリが覗き込むのだが。通常ならば樹の内部が剥き出しになっているのだが、不思議な事に先を見通せない。
しかし、突然現れたこの空洞と同じ現象を。既に一度目視した事があったアタシは。
「コレって……精霊界への入り口、だよな」
シルバニア王都で出逢った師匠に招かれることとなった精霊界だが。人間の世界と精霊界とを繋ぐ門もまた同じく、王都に立っていた精霊樹の太い幹にあったからだ。
「ふふ、よく覚えてたじゃない」
「そりゃあ、ねぇ……忘れようとおもったって、忘れられないよ。あの中で起きた出来事は、さ」
確かにアタシは、師匠に精霊界に連れて行かれた後。
アタシらが普通に暮らす世界よりも時間の流れの早い精霊界で、一〇日分の鍛錬を一日足らずで教え込まれていた。
魔術文字で増強された身体能力の有効な身体の動かし方や、そもそも魔術文字を使い熟すアタシの魔力容量や魔術文字への知識など。
武勇も魔法も、基礎から刷り込み直し、覚え直す羽目となった。本来ならば基礎を学ぶのは一〇代前半だが、その時のアタシは二四歳。
当然だが、これまで積み重ねてきた経験を否定され、一から刷り込まれるのだ。一日、一日を積み重ね師匠の教えを実践する事で強くなった実感が持てなかったら、今頃は心が砕けていたか。
もしくは途中で逃げ出し、魔力や武勇が向上しないまま旅を続けていたら。砂漠の国で魔族の大侵攻やホルハイム戦役に巻き込まれた際、力及ばすに朽ち果てていたのが精々だったろう。
それでも。
精霊界には、良い記憶だけがあるわけではない。
「多分……これから死ぬまで忘れられないッてえの」
「んふふっ」
アタシが至極うんざりとした感情を乗せた言葉に、さらに機嫌を良くした師匠が満面の笑みを見せる。
アタシが困っているのを愉しむような、実に厭らしい笑顔を。
師匠がアタシに課した試練の数々は。確かに「逃げたい」という気持ちを一瞬でも抱かなかったか、と問われれば。嘘、と即答出来るほど、困難なものだった。
身体的にも、そして精神的にも。
困難に立ち向かうアタシが悲鳴を挙げ、師匠の姿を視線で探したその先には。必ずと言っていい程、今のような満面の笑顔を浮かべていたのだ。
「それだよ、その笑顔だ」
今、その笑顔を師匠が見せたのも。アタシに課した試練の数々を思い出したからか。
それとも、困難な試練を思い出したアタシが一瞬顔を歪めたのを見逃がさなかったからかは分からないが。
今回、わざわざこの国まで所持した魔剣まで授けてくれたり、大勢の人間に救いの手を差し伸べてみせたように。普段は優しい性格な師匠なのだが。
何かが発端となると、アタシが苦しむ様で愉悦に浸る加虐的な性格に変わる……という悪癖があるのだ。
話が逸れた。
今の問題は、なぜ今。師匠が精霊界へアタシを連れて行こうとしているかだ。
「……で、話を元に戻すけどさ。今さら精霊界の入り口を開いたからって、一体何するつもりなんだい?」
そもそも、マツリとこの国が抱えていた問題は。師匠がこの場に生やした立派な精霊樹と、カガリ領一帯を統治するマツリと師匠が契約を結んだ時点で。ほぼ解決する算段は付いていた。
だから、精霊界に連れて行かれる理由にまるで心当たりがないアタシだったが。
ふと、先程師匠が見せた笑顔から連想した精霊界での記憶が、再び浮かび上がる。
「も、もしかしてッ? もう一度アタシに試練を出すつもりじゃ……」
「うーん、それも捨てた案じゃないけど。マツリの問題は大陸とどう行き行きをするか、じゃないの?」
師匠が先程見せた愉悦に浸った時の厭らしい笑顔。あれは、再び精霊界でアタシに困難な試練を課すためではないのか、という邪推をしてみせるが。
的中して欲しくはないアタシの推測を、師匠は失笑を漏らしながら否定してみせる。安心した。
しかし、師匠の言葉はそこで終わる。
アタシを連れて行こうとする理由を碌に説明もしないまま、強引に腕を引っ張り。精霊樹の幹に開いた精霊界への門へとアタシを引き摺り込もうとする。
「とりあえず、アズリアは黙って付いてくればいいの。ほら、行くわよっ」
「ちょ、ちょっと待てッて……まだ心の準備がッ──」
アタシも微々たる抵抗をして見せるも、こちらの手首を掴んで引っ張る師匠の力が少女の姿に見合わぬ力強さだったのと。
オニメ、カムロギ、そして二体の魔竜と、強敵との連戦に次ぐ連戦が終わり。魔術文字を酷使した代償からか、身体に力が上手く入らなかったのもあり。
先に精霊樹の空洞に入っていった師匠に続き、アタシもまた身体も精霊界への門を潜らされていくと。
思わず、門を潜った瞬間に眼を閉じてしまう。
「……ッたく、強引なんだからよ……」
何故、アタシが眼を閉じたのか。
それは単に、暗がりから明るい場所に出たりその逆……明暗が大きく違う場所に出入りする際に。一度目蓋を閉じていると明暗への適応が体感的に早いからだ。
精霊界と人間の世界との境界は光の見え方などの違いがある。だからシルバニア王都の時も出入りの度に眼を閉じていたのだ。
だから深い意味はなく、眼を開ければ。師匠に散々鍛えられた風景が現れるだろう……そう思っていたのだが。
「──え?」
アタシが目蓋を開き、視界に広がった風景は。想像していた精霊界の光景ではなかった。
「こ、此処……は、も、もしかして……もしかしてッ?」
足元には石畳が敷き詰められ。
木材と石材で建てられた建物が遠くには並び。
直近の周囲にこそ人の気配はないが、少し離れた場所からは人の声が聞こえてくる。
不思議に思い、辺り一帯を見渡したアタシが見たもの全部に見覚えがあった。
当然だ。アタシの記憶に間違いがなければ、今立っていたのは。
「う、嘘だろ、ここって……シルファレリアじゃないか」
「そうよ。私とアズリアが初めて出逢った、人間の街に間違いないわ」
そう。アタシが精霊樹を潜って出た場所とは。
初めて師匠と遭遇し、精霊界へと招かれた場所。シルバニア王都の南西区域に生えていた精霊樹だったのだ。




