387話 アズリア、賢き駿馬の帰還
最初はフブキが何故、腰を抜かすほど驚いていたのかを不思議に思っていたが。
思わず、自分の腕や胸を見返してみて納得するアタシ。
「あ……なるほど、ねぇ。悪い悪いッ」
つい直前まで、魔竜の胴体を魔剣で両断していたアタシの全身は。斬り裂いた断面から噴き出したドス黒い魔竜の血に濡れていた。
いや、正確には。憑依していた大樹の精霊の魔力をごく薄く表面に纏っていたおかげで、血を直接浴びてはいなかったのだが。
「そら、よッ……と!」
アタシは振り払う黒い血がフブキに飛ばないように、一度横へと逸れ。素早く身体を回転させて、全身に付着した穢れを落としていくと。
身体から散った血飛沫は、地面に触れた途端に黒い靄となって消えていく。
すっかり元通りになり、血を洗い落としたアタシは。地面に座り込んだままのフブキへと手を伸ばし。
「ほら、いつまでも尻突いてるんじゃないよ」
「い、いや……驚かせたのはそっちじゃないっ……」
差し出された手を握ったフブキは取りながら、血塗れな姿に驚かされた事に悪態を吐いていたが。
立ち上がり、尻に付いた泥を叩いて払うと。
「でも……うん、そうねっ。急がないと、ユーノたちの生命が危ないんだものね」
「そういや、状況を詳しく聞いてなかったけど……あっちはどうなってるんだい?」
アタシはこれから治療に戻る、ユーノらと三体目の魔竜の戦場の今の状況をフブキに確認していく。
フブキが現れた時点では、アタシもまた四体目の魔竜と交戦中であり。
何とか把握していたのは「魔竜には勝利したが自爆した」事と、「唯一、治癒魔法が使えるお嬢が倒れてしまっている」事くらいで。
誰が、どの程度、被害が出ているのか。アタシには全く想像が出来ていなかったのだ。
「え、えっと……あのっ」
「倒れてる者、半数。無事なのもほぼ同数……といったところか、のう」
すると、フブキの手を掴んでいた横から。彼女の魔力を消費し、姿を顕現させていた「氷の加護」の化身であるカイが。突然の質問に困惑し、答えを言い淀むフブキの代わりにアタシの質問に答える。
「半数もの人間が無事だった頃のは、そこのフブキが賢明に妾の力を使い熟したからこそ、じゃ」
「そ、そうかい、と……とにかくッ。半分が無事なんだね」
そこで終われば良かったのだが。カイは続けて、こちらが聞いてもいないフブキの功績を誇らしげに語り始めた。
アタシが記憶している限りでは、加勢にナルザネの息子・イズミが引き連れてきた武侠の数はおよそ三〇騎ほど。その数に、ユーノらを加えた上で「半数」ということは。
負傷し倒れているのは二〇人、といったところか。
「それを聞いて、ほんの少しだけホッとしたよ」
治療する人数が四〇から二〇になったというだけで、アタシは安堵する。
それだけ多数の負傷者を治療するとなると、魔力の消耗は著しい筈だ。
さすがに「精霊憑依」を果たし、大樹の精霊からの膨大な魔力供給を受けている今、とはいえ。
負傷者の数が大きく減少した事は、これから治療をしなければならないアタシにとって。実にありがたい報告だった。
聞く事も聞いたアタシは。早速、倒れているユーノやヘイゼル、お嬢らが待つ戦場に向かおうとする。
しかし、懸念が一つ。
「──それじゃ」
それは、アタシの元へと合流した二人の姉妹だった。
きっと移動するにしても馬を用い、自分の足であまり歩いた事がないのだろう。少し見ただけでもマツリの歩調は、一般の女性よりも遅い。
さすがにフブキは姉ほど遅くはないものの。
言い難いが、二人の歩調に合わせて戦場に向かっていたら、救える生命も手遅れになってしまうかもしれない。
幸い、軽い姉妹程度なら両腕で肩に担いで。もしくは比較的丈夫なフブキを背負い、マツリを両腕で抱え上げて移動することも可能だ。
二人を別途に走らせるよりも、アタシが二人を抱えて移動した方が戦場に早く到着出来る。
そう思って、先程から呆然とアタシと妹とのやり取りを眺めていたマツリの元に近寄ろうとした──その時だった。
「え?」
「こ、この嗎きは、ッ⁉︎」
アタシと姉妹の耳に届いたのは、魔物の遠吠えにも似た馬の鳴き声。
加えて、アタシには。鳴き声に混じった懸命に駆け回ったからだろう疲労感が滲む吐息と、必死な感情までもがその嗎きから伝わってきた。
それもその筈。
耳に届いた嗎きの主に、アタシは酷く心当たりがあったからだ。
「シュテン! アタシはこっちだよッ!」
アタシは、ここまで自分を背中に乗せてくれた駿馬の名を大声で叫んだ。
あくまでフルベの街で借り受けてからシラヌヒまでの道中、五日ほどの関係ではあったが。
思い上がりや妄想が過ぎるもしれない、だが……駿馬が必死に駆け回り、嗎いていたのは。アタシを探していたのではないかと思ったのだ。
故にアタシは駿馬の名をもう一度、大声で呼んだ。
「ほ、ほんとに、シュテンだなんて、っ?」
すると。
土埃を上げ、蹄を鳴らしながら姿を見せた馬の姿。加勢にやって来た武侠らの騎乗する馬より、一回り以上大きな姿の馬を見たフブキは。
自分をここまで乗せてくれた馬だとようやく気付き。途端、アタシと現れた駿馬を交互に見返してくる。
「で、でもっアズリア……鳴き声だけでよく馬の見分けがついたわね」
「他の馬だったら判別出来てないかもしれないけど、シュテンは他の馬と全然違うからねぇ」
アタシも別に馬の鳴き声の聞き分けが出来る、なんて特技があるわけでもなく。残念ながら、アタシが使う魔術文字にそんな効果はない。
現にこれまで傭兵時代や八年もの旅の最中に、馬に乗る機会は数え切れないが。嗎きを聞いただけで馬を判別出来たかどうか、を試した事など一度もなかった。
だが不思議と、今。嗎きを聞いた途端に鳴き声の主がシュテンだ、と即座に理解出来たのだった。
「……ふーん」
しかし、アタシとて何故シュテンの嗎きだけを判別出来たのか。あくまで感覚でしかないその理由を、上手くフブキに説明するのは至難の業だ。
現に、アタシの言葉を聞いたフブキは、話を聞く前よりもさらに疑問を深めたような表情を浮かべていた。
フブキが納得するかしないか、はともかく。
「それにしても……さすがはシュテン、賢い馬だねぇ。ちょうどいいところに帰ってきやがってっ」
シュテンが登場したのは、まさに「ここしかない」という程の絶妙な間。
そもそもアタシが三体目の魔竜と交戦を開始した時点で、巻き添えを喰らわないように自分の意思で退避していたのに。
危険を察知し、一度は退避した戦場に。再び戻ってきてくれるとは。
シュテンが本領を発揮し、地を駆ける時の速度は。右眼の魔術文字を発動させた時のアタシや、獣人族のユーノの脚を凌駕する速さだ。
しかも、ただ速いだけでなく、賢い。
城内ではなく、別の場所に幽閉されていたマツリを始末しようとしていたジャトラの凶行を止められたのは。シュテンの咄嗟の機転が功を奏したからこそだ。
アタシの元へと駆け寄ってくるシュテンの額に手を置き、再会を祝うように優しく撫でながら。
「なあシュテン。二人を背中に乗せてやってくれるかい」
先程の嗎きにも、荒い息遣いが混じり疲労の色が濃く出ていたシュテン。下手をすれば、戦場を離れてからこれまでずっと、シラヌヒ内を駆け回っていたかもしれない。
本当ならば一度、この場で休ませてやりたかったが。負傷し倒れたユーノらの生命が救えるかどうかが迫っている。
アタシは、疲労困憊のシュテンにもうひと働きして欲しい、と頭を下げて頼み込む。




