378話 アズリア、憑依した精霊の疑問
姿が徐々に暈け、背後が透けて見える程に朧げになった師匠が。手を握っていた至近距離からさらに、アタシへと歩み寄ってくる。
まるで体当たりをするかのような躊躇なく迫る師匠の勢いに。思わずアタシは一歩、後退ってしまったが。
「ちょっと、アズリア。あなたが下がったら、いつまで経っても精霊憑依が出来ないでしょ?」
「あ……ああ、そ、そうだよねぇ」
引き下がった事を諌められ、アタシは後退させた脚を元の位置へと戻し。微笑みながら迫る師匠を、息を飲んで待ち受ける。
「……まったく。これが初めての精霊憑依ってわけでもないのに」
確かに師匠が呆れながら言う通り、アタシは既に三度「精霊憑依」を成功させている。
焔将軍ロゼリアとの対決では氷の精霊に。
吸血鬼により壊滅したホルサ村では師匠に。
海の王国の海上で水の精霊に、と。
「──あ。自分で言って何だけど。少し……イラっとしたわ」
一瞬だけ師匠が浮かべていた笑顔を崩して、舌打ちをしたような気がしたが。
アタシが見返した時には、その顔には笑みが戻っていた。
しかし、話を戻すと。
これまでに精霊に力を借り受けた状況はどれも、切羽詰まった上に、アタシ一人では打破出来ない絶望的な場面だったためか。精霊との憑依に時間を掛けた記憶がまるでなかったが。
過去の三度の状況と比較すれば。今、魔竜との戦況は、窮地に陥っているとはまるで逆。アタシが魔竜を追い込んでいる状況だ。
だからこそ、心理的な余裕が生まれているのだが。
「い、いや……さ。あらためて、師匠と向き合う時間が長いからさ、何か緊張して……さぁ」
そう。精霊憑依のために一歩、また一歩と師匠が迫る度に。アタシは緊張してしまっていたのだ。
師匠の外見が男だったなら、緊張する要素など一つもなかった。
故郷である帝国で二年、八年間の旅の最中でも男に迫られたり、肉体関係に発展した事は何度もあった。だから今更、緊張や恥じらいを感じる行為とは認識していない。
しかし、そんなアタシも。女同士、というのはほとんど経験のない事だったからか。どういう反応をしてよいか、全く慣れていなかったのだ。
師匠の外見だけを見れば、長い緑の髪に、透き通った清楚で無垢な顔立ち。大陸広しと言えども稀にしか出会う事のない可憐な容姿だったのだから、緊張するのは尚更である。
「うふふ、今さらじゃないの。もうアズリアとは裸も見たし、唇も重ねた仲じゃないの」
「だ……だからだよッ」
師匠が口にするより前に、アタシは過去に遭った体験の記憶を思い出していた。
精霊界での特訓で、鎧だけでなく衣服まで脱がされ一糸纏わぬ姿となった事や。
王都を退去する際に、見送りに来た師匠に不意に唇を奪われた事を。
後にも先にも、女同士で唇を重ねたのは師匠が初めての経験だった。精霊という存在を女として数えてよいのかは、果たして疑問ではあったが。
同時に、何故に師匠の顔が近付いてくると緊張してしまうのか──その理由をアタシは知る事が出来た。
裸を見せた事に唇を重ねた、二つの記憶を思い出してしまったからに他ならない。
「ふぅん? だったら……もう一度、憑依する時にアズリアの唇を奪ってしまおうかしら」
「な……なあ、ッ?」
王都での別れ際、唇を重ねた記憶をアタシが思い返しているのを見抜いたのか。
師匠の口元が、微笑みからニヤリ……と意地の悪そうな笑みへと変わり。
次の瞬間、口を窄めて突き出し、アタシが掴んでいない方の手で自分の唇を指差してみせた。
だが、アタシに迫るよりも早く。
師匠の輪郭が、さらに暈けて薄れている速度が早まり。
「あら、時間切れね。残念、残念」
口とは裏腹に、意地悪な笑みを浮かべながら。最後に声のみを残して、アタシの眼前から師匠の姿は完全に霧散し。
「それじゃ受け取りなさいなアズリア。大樹の精霊の魔力、その全部をね」
大樹の精霊の輪郭を形作っていた魔力は、その全部がアタシの身体に流れ込んでいるのを感じ取っていた。
思わず目線を下げ、つい先程まで師匠の手を握っていた自分の手からは。淡く緑の光を放っている。
「この緑の光が……師匠がくれた魔力、ってコトだよねぇ」
アタシは淡い魔力の光を放っていた手で、汗と土埃に塗れた自分の髪を掻き上げる。
視界が届かないため、確認する事が出来ないが。大樹の精霊の魔力を取り込んだアタシの髪の色は、赤から緑へと変わっている筈だ。
以前に一度、師匠と「精霊憑依」した時のように。
一度目の時は、同行していた大地母神の修道女・エルが髪が緑に変わるのを教えてくれたが。
「あ、アズリア……その髪の色っ、いつもの赤じゃなくて、緑にっ?」
「すごい……綺麗な緑色……」
今回、髪の色が緑に変わったと指摘したのは、遠巻きに魔竜との戦いを見ていたフブキとマツリの二人だった。
戦況に余裕があったからか、アタシは髪の色が変化した事を教えてくれた二人の姉妹に応えるよう。魔剣を握っていない側の手を振っていくと。
アタシに憑依を終えた師匠の声が、耳に届く。
「──さてと、アズリア」
まるで、耳元すぐ側に師匠が立っているような声の感覚は。「九天の雷神」の魔術文字に宿る意識との会話とはまた違っており。
「あ……ああ、何だい師匠」
「ん、どうしたの? 何だか動揺してるように思えるのだけど」
感覚の違いを頭の中で修正するのに、ほんの少しだけ時間を要したのが。師匠には「戸惑っている」と取られてしまったようだ。
「もしかして……私と唇重ねたかったのに、叶わなかったから残念がってる、って事かしら」
「ち、違うッてえの!……こ、これ以上アタシを揶揄うなら精霊憑依解除するよッ!」
「うふふ、冗談よ、冗談」
憑依を果たした後も、まだ過去の出来事を引き合いにしてアタシを揶揄う師匠だったが。
「可愛いアズリアを虐めるのはこのくらいにして、そろそろ本題に入ろうかしら」
「本題……ッて。目の前の魔竜を倒す方法、の間違いじゃないのかい?」
正直に言えば。大樹の魔剣に「凍結する刻」の魔術文字の効果さえあれば魔竜を討ち倒すには充分過ぎる程であり。
何もわざわざ師匠との「精霊憑依」までは必要がないのではないか、とアタシは考えていた。
……だからこそ。憑依の後もアタシを揶揄う師匠に、憑依の解除を口にする事が出来たわけだが。
「確かにね。目の前の魔竜とやらを倒すには、アズリアの思ってる通り。魔剣に魔術文字があれば事足りると私も思うわ」
「だ、だったら──」
「でも、アズリアはそれで満足なの?」
突然すぎる師匠の問いに、アタシは思わず言葉を失ってしまった。




