374話 アズリア、三ノ首との最終局面
アタシが構えるのと同時だった。
魔竜を縛り付け、動きを封じていた「大樹の束縛」の樹木が力任せに破壊された音。
ようやく魔法の拘束が解かれた魔竜は、直接の敵であるアタシと、「大樹の束縛」を放った師匠とを。交互に睨みながら、怒りに吠える。
『お・の・れ──らあああああああ‼︎』
周囲を空気を震わせる程の咆哮の後、魔竜は大きく息を吸い込む動作を見せた。おそらくは、得意とする毒霧をひと塊りとし、アタシらにぶつける算段だろう。
アタシはチラッと背後に視線を向ける。
「マズイねぇ、この位置じゃ……アタシや師匠はともかく、二人を巻き込んじまうッ」
そう、アタシの背後には戦場に駆け付けてくれた二人の姉妹がいた。二人が何らかの防御手段があるかどうかは、今のアタシには知りようがないが。
つい先程、師匠は「後ろは任せろ」と言ってくれてはいたし。現に師匠の魔法の壁で一度は毒霧を阻んでいる。だが魔竜とて、同じ轍を二度踏む相手とは思えない。
ならば、今アタシが取るべき行動の選択は。
「──魔竜いぃッ! アタシはこっちだよッ」
少しでも、吐き出す毒霧の吐息の的を絞らせないため。
アタシは両脚に力を込めると、師匠らから離れ、魔竜の側面に回り込む軌道を描くように走り出す。
足を踏み出す直前に、魔竜への挑発も忘れずに。
これで魔竜がアタシを狙ってくれるならば占めたもの。
もし師匠や二人へ吐息を放とうものなら、口を開け、隙を作った瞬間に魔剣を叩き込んでやるつもりだったが。
『狙いは初めから貴様だ女あああああ‼︎』
戦場を駆けるアタシに合わせ、視線ごと頭部を動かした魔竜は。息を吸い込む動作から、大きく開いた口から予想通り毒霧を吐くのではなく。
鋭い牙を向け、側面に回り込もうとしていたアタシに襲い掛かってきた。
「う、おッ?」
予想外の行動に驚きながらもアタシは。さらに地面を蹴り、速度を上げて迫る魔竜の顎を振り切ろうと試みるも。
思うように速度が上がらず、魔竜との距離は開くどころかみるみると縮んでしまっていく。
「お、おいッ……嘘だろ、この期に及んで、速度を上げてきやがった?」
最初は、アタシの速度を凌駕する魔竜の動きに困惑し、動揺してしまうが。すぐにその原因に気付いてしまう。
魔竜の速度が上昇したのではなく、自分の速度が鈍っていた事に。
「そ、そうかッ……魔術文字だ」
そう。
今のアタシは、カイから力を返還された「凍結する刻」の魔術文字を発動しようと。魔竜と戦っていた際に使っていた「九天の雷神」の魔術文字を、つい先程解除したばかりだった。
雷霆の如き速度を授けてくれていた魔術文字の恩恵がないのだ。アタシの速度が上がらなくて当然である。
せめて、右眼の魔術文字くらいは発動しておけば良かった、と後悔するも。
気付いた時には、既に時遅かった。
魔竜の牙が動きの遅いアタシに狙いを定め、上顎と下顎を噛み合わせる。鋭い牙で動きの鈍ったアタシを噛み砕こうと。
アタシ一人程度ならば簡単に丸呑み出来る大きさの口だ、牙に身体を挟まれようものなら一撃で真っ二つにされてしまうのは間違いない。
「……ち、いッ!」
今から右眼の魔術文字を発動したのでは、上下から襲い来る牙の対処には到底間に合わない。
アタシは咄嗟に地面を強く蹴って真横に跳び、急に方向転換をすることによって牙から逃がれようとする。
重心の移動が思った以上に円滑だったからか、まさにアタシの目前で上下の牙が噛み合わさった。ガキィン!という間近で鳴らされた衝撃音が耳に響く。
「あ、危ねえ……ッ!」
あと二、三歩。判断が遅かったら、アタシの頭や身体は牙に噛み砕かれていた。
手に握っていたのが軽量な大樹の魔剣だったのも幸いした。
……もし今、魔術文字の恩恵のない状態で、握っていたのが重量のある愛用の大剣だったならば。回避の反応が遅れ、致命傷を受けていただろう。
だが魔竜は一度で攻撃を止めはせず、閉じた顎を開いて、回避に成功したアタシに再び襲い掛かってくる。
すぐにでも飛び退き、襲い来る魔竜の牙から逃がれたいところだが。
「まだだ……もっと、引きつけなきゃ」
回避行動があまりにも早いと、行動の先を読まれ、首を伸ばして牙の餌食となってしまう。
だが今のアタシは、何一つ魔術文字を使っていないため、動きが鈍っている。少しでも判断を間違えばこれまた牙の餌食だ。
回避に移る機会を見間違えないよう、アタシは迫る魔竜に神経を集中させていき。
「──ここだよッ!」
魔竜の上顎がアタシの頭目掛けて振り下ろされる瞬間。
再びアタシは地面を強く蹴り上げ、今度は後方へと大きく飛び退き。襲い掛かってくる牙の攻撃範囲からすり抜けていった。
完全に回避に成功したか、と思った直後だった。
アタシの額から大量の汗が垂れ、頬を流れる感触に。汗が目に流れ込み、視界を遮ってしまうのを避けるため。剣を握っていない側の腕で汗を拭う。
すると……毒霧で籠手が剥がれ、肌が露出していた腕には。吹き出した汗とは思えない、ねっとりとした感触が。
「コイツは、汗じゃねぇ……血?」
感触だけではない。この日は長らく戦場に身を置いていたからか、嗅ぎ慣れてしまっていた鉄錆に似た血の匂い。
どうやら、完全に避けたと思っていた牙が頭を僅かに掠めていたらしい。戦闘の最中で精神が高揚しているからか、痛みはまるでない。
『これも躱すか。だが──』
頭から流れ出る血を腕で拭うアタシを見て、魔竜はさらなる牙の追撃を止め。再び大きく息を吸い込む動作を取る。
不意を突いた牙による接近戦でも埒が明かない、と踏んだ魔竜は。今度こそ毒霧を吐き付けるつもりなのか──だが。
「最後の最後でアタシにその時間をくれたのは、下策だったねぇッ、魔竜い!」
アタシは、額を拭った腕にべっとりと付着した自分の血を指に取り。
先程、魔術文字が浮かび上がった手の甲へと、現れた痕跡を擦るように血で文字を描く。描いているのは当然、「凍結する刻」の魔術文字だ。
実は先程、「九天の雷神」の魔術文字を解除した直後に、何も準備が出来なかったのは。一つは忘れていたのが大きいが、もう一つ理由があった。
魔術文字を描くために必要なのが、自らの血。だが、あの時は以前に負った傷口の血も乾き、固まってしまっていたために。魔術文字を記すための血がなかったのだ。
しかし、魔竜の牙で頭を割られ。逆に、魔術文字を描くための血を得ることが出来た。
……それを幸運と呼ぶには、アタシの被害があまりに重すぎるが。




