370話 アズリア、女皇の正体を推察する
それは……故郷に残した、実の母親の事だ。
北の国ではまず生まれない褐色の肌と、常軌を逸した膂力を持ったアタシを。
腹を痛めて産んだ母親は、即座に拒絶した。
たとえ外で、アタシを「忌み子」と呼んで石を投げられ、頭から血を流して家に帰ってこようと。傷の心配をするどころか、いつしか玄関から閉め出されるようになり。
最後は、実の母親に短剣で殺されかけた。
今、アタシの記憶にあるのは。実の娘に対し手にした刃を振りかざす、悪魔のような母親の顔だけだった。
嫌悪感を覚えた母親の記憶のみを、自分の頭から追い出すように。額に手を置き、頭を何度か左右に振るアタシ。
「……ち、ぃッ。こんな時に、なんてモノを思い出すんだってぇの」
まさか、この国まで来てまで。自分を捨てた母親の記憶を掘り返されるとは。
故郷を飛び出してから、自分を殺そうとした母親の顔を思い出す事など皆無だったのに。何故、今さらに頭に浮かんできたのか不思議だったが。
あくまで推測だが、自身を「保護者」とフブキに名乗った師匠の言葉が原因だったのだろう。
初めて出会ってから今の時点まで、アタシを見守り、鍛えてくれた師匠に。理想の母親像を見てしまったのかもしれない。
だが、それは同時に。実の母親の忌まわしい記憶を呼び覚ます鍵にもなってしまった……という理由だ。
「は、はッ、どうやら……まだアタシにも、自分を捨てた母親を想う気持ちが残ってたんだねぇ」
ちなみに父親は、アタシが生まれた時には既になく。数少ない母親との会話でただ「死んだ」としか聞いていない。
だからアタシは父親の顔や名前、どんな人物だったのか、その一切を知らない。
一瞬だけ、過去の記憶を思い返していたアタシだったが。
今、会話をしているのはアタシではなく。初めて出会うフブキと師匠なのだ。
アタシは二人の会話の邪魔にならないよう、口を押さえて視線を二人へと戻す。
すると。
「……ふぅん」
精霊、と聞いて緊張のあまり完全に萎縮していたフブキの周囲を歩き回っていた大樹の精霊は。
まるで街の入り口を守る衛兵が、新たに入ってきた旅人を調べるように。頭の天辺から足の先まで、舐めるような視線を向けていた。
そう言えば、黄金の国にて大樹の精霊と再会した時も。
あの時、行動を一緒にしていた訳ありの大地母神の修道女・エルにも。大樹の精霊は同じような絡み方をしていた……確か。
「あ、あのぉ……」
「ふむふむ……ああ、そういう事ね」
困惑しながらも、声をなかなか上げられないフブキをよそに。一人で勝手に納得したように、首を何度も小さく頷いていたが。
不意に、その大樹の精霊の手がフブキの尻に触れる。
「ひゃうぅ⁉︎」
まさか少女の姿をした精霊から尻を撫でられるとは、予想もしていなかっただろう。フブキは跳ねるような悲鳴を口から漏らしてしまう。
「お、おい師匠ッ──」
側から二人の様子を見ていたアタシは、精霊界での特訓で全裸にされ、興味本位に全身隈なく調べられたのをふと思い出し。
フブキの尻に触れたのも、同様の目的だったらと。師匠の暴挙を止めるために、思わず一歩踏み出すも。
「す、凄いっ? ま、魔力がっ……お尻から流れ込んでくる……っ」
甲高い悲鳴を漏らしたフブキの口から、魔力を注がれていると聞いて。
魔力を視認出来る「魔視」の能力を使うと確かに、師匠の手元から大量の魔力がフブキに流れ込んでいたのが見えた。
「ここに来るまでに随分と魔力を消費していたわね。それじゃ……この場に現れた本来の目的を果たせないでしょ」
「本来の、目的?」
アタシには、師匠の言葉が何を指していたのか皆目見当も付かなかった。
姉妹が持つ加護の力で、自爆に巻き込まれ援護に来られなかったユーノらの代役として、アタシの元に駆け付けてくれたのではないのか。
だがどうやら、師匠の言葉の意図を読むと。援護に駆け付けただけ……のようには思えない口振りだったのが、気にはなったが。
アタシの疑問、その解答はすぐに現れることとなる。
『──ふう、まさか再び姿を見せられるとは、な』
何と、フブキの横に突然。これまで見た事もない人物が立っていたのだから。
銀色の長髪に、透き通るような白い肌。
異国感溢れた装飾品と衣装を身に纏った、麗しい顔立ちだが、冷たい印象が強い女性。
通常ならば、突然現れた謎の人物に驚いてしまう場面だったが。
生憎と今のアタシは、魔力の流れを視ることが出来る「魔視」を左の眼で発動している最中だ。
「い、いや、こいつはッ……魔力による幻影?」
だからアタシは。突然現れた謎の人物、その輪郭が実体を伴ったものではなく。魔力によって構成されている幻影、という事実をしっかりと見抜いていく。
しかし、師匠と会話をしていたフブキも、後ろに控えていた姉・マツリも。魔法を発動させ、幻影を見せた素振りは一切なかった。
だとすれば、今目の前に現れた幻影は?
驚きの感情こそ何とか抑制出来たものの、アタシは警戒心を強め。幻影に対し、下ろしていた大剣を咄嗟に構えていく。
『……ほう。初見で、妾の姿を見ても眉一つ動かさんとは、のう』
フブキの横に立つ魔力の幻影の女性像は、身構えたアタシに不敵な笑みを浮かべながら。
無造作に歩み寄り、警戒し大剣を掲げたアタシとの距離を何の躊躇いもなく縮めてきたのだ。
『さすがは主が見込み、魔竜と単身で挑む人物だけはある』
「あ、アンタは、一体……」
一歩、また一歩と近付いてくる謎の人物の正体を、アタシは模索していく。
人物の正体を仄めかす要素は、幾つもあった。
まずは女性の口から出た「主」という単語は、ほぼ間違いなくフブキを指した言葉だろう。となれば、自然とフブキに関連した人物という発想となる。
次に、幻影の女性が身に纏っていた衣装だが。ハクタク村やフルベの街で見かけた住人より高貴な装飾が成されているものの。衣服の形状や装飾品の種類が、村や街の高齢の女性と同じなのが気にはなった。
最後に、女性の幻影がアタシに一歩接近する度に、周囲の空気が冷えていく異変だった。
幻影が、師匠がフブキの身体に魔力を直接注ぎ込んだ直後に発生した事も含めると。アタシの頭に閃いた答えは一つしかない。
「いや、アンタが。フブキに氷の加護を与えていた張本人……ッて、ワケかい」
『ほう、賢しいのお。さすがは、古の呪法をその眼に宿しているだけはあるわ』
「──な、ッ⁉︎」
アタシの回答を聞いても、顔色一つ変えることなく。逆に自分の右の眼を指差しながら、アタシの右眼の魔術文字について知っている素振りを見せる女性に。
「し、知ってるのかいアンタッ! 魔術文字のコトをッッ?」
アタシは驚き、大声を出して右眼を指差す女性の言葉に被せるように。アタシの右眼……つまり魔術文字についてを訊ねていく。
これまで大陸を旅して回ること八年間、魔術文字の事を知っていたのは、古くからの文献や資料と、師匠ら精霊だけ。
……勿論、故郷である帝国に籠もっていたよりは大きな進歩なのは間違いないが、それでも。
幻影の正体が定かでないにしても、外見だけならば人間に思えた女性が「魔術文字を知っていた」だけでも。アタシにとっては声を張り上げるに値する事態なのだから。




