366話 フブキ、氷の加護の覚醒
気付けばフブキの足は、まだ動きが止まっていた人壁の前へと駆け出していた。
頭で女皇の言葉に納得をするよりも、前に。
「そう……そうよね、女皇様っ──」
顔を上げ、真っ直ぐに先を見据えていたフブキの表情からは。弱音を吐いていた先程までの、迷いや困惑といった感情はすっかり消え。
代わりに浮かべていたのは、笑み。
「どのみち、暴走する炎を止めなきゃ皆んなが助からないなら、ダメでも無理でも、やるしかないじゃないっ!」
フブキはこの時、難しい事を考えるのを疾うに捨てていた。浮かべた笑顔は、目の前の難題を振り切った事による感情から。
思考を放棄したとはいえ、思い切ったフブキの行動を後押しするかのように。全身に魔力が巡り、力が充足していくのが目に見えて分かる。
そのフブキの口から発せられたのは、この国独特の詠唱だった。
「我祈り願う、二度祈り願う──」
それは、これまでにフブキが口にしてきた中でも、一番長い詠唱文。
加えて、両手から溢れ出しそうになる魔力を抑えながら詠唱だけでなく、両の指を巧みに動かして印を結んでいく。
「……我が血脈たる権現、今新たなる契約を以って、全てを凍結させる嵐を顕現せん──」
当然ながら、こんな詠唱の言葉と指の印の形など、つい先程までフブキの知識にはなかったのだが。女皇を模した魔力がフブキに戻った途端、水が地面から湧き出るかのようにフブキの記憶に流れ込んできたのだ。
全ては、魔竜の凄まじい威力の魔力の暴走をここで阻止し、戦場にいる全員の生命を救うため。
フブキの責任は重大である。何しろ、自分を守るの人壁の前に出た上、マツリを連れて後退する選択を捨てたのだ。
暴走する爆炎を制止出来なければ、武侠と共にフブキ本人も、そしてマツリも炎に飲まれるのは間違いない。
それでも、フブキの目には一点の迷いもない。
何故なら、力を貸す事を承諾してくれた凍の女皇、その秘めたる力を全面的に信頼していたからだ。
「……我が命に、応えよ毘沙那」
こうして詠唱を終えたフブキは、一旦目蓋を閉じて、大きく息を吸って整えた。
身体の内側から扱った事のない膨大な魔力を、ただ一点に集中させていき。全ては魔竜の凄まじい爆発を止めるために。
全ての責任を背負って今、フブキは溜めた魔力を一気に解き放つ。
「はああああああああああああぁっ‼︎」
咄嗟の発動だったためか、同じく凍の女皇の加護である「零凍波」や「極零波」のように名称はなかったものの。
前二つを遥かに上回る氷属性の魔力が、人壁を構築する武侠に迫る魔竜の炎を包み込んでいく。
──だが、時を同じく。
女皇が顕現した際に及ぼした影響が解け、周囲の全てが一斉に時を取り戻し。
爆炎と衝撃もまた再び蘇り、フブキに襲い掛かってくる。
そして。
迫る炎とフブキの氷の加護、二つの相反する魔力が空中で衝突し──直後、激しい激突音が戦場一帯に響いた。
冷気と爆炎、拮抗した二つの魔力は互いを蒸発させ、或いは凍結させながら。衝突した箇所に留まり続けている。
「ふ、フブキ様っ? な、何故逃げなかったのですっ!」
「い、いやそれよりも? 何時、我らの前に!」
人壁を組んでいた数多くの武侠らが、目の前で起きている光景に大声を張り上げた。
フブキとマツリ、先代当主イサリビの血を継承する二人の姉妹を庇うため。生命を捨てる決意で暴走した魔竜の炎の前にその身を晒したのに。如何なる手段を使ったのかは不思議だったが、庇う対象が人壁の前にいるならば、それは当然の話である。
しかも、である。
守るべき対象だったフブキによって、魔竜の放った最後の悪足掻き、戦場全てを吹き飛ばす大爆発から。逆に守られていたのだから。
「ぐ、う、うう、うぅっっっっ──⁉︎」
だが、爆炎の威力を抑え込んだのは、ユーノやカムロギと同様に一瞬だけ。
微塵の容赦もない炎と衝撃は、人壁の前に割り込んできたフブキを、数歩ほど後退させていた。
「や、やっぱり……私一人じゃ」
もし……もしも、凍の女皇との邂逅をフブキがもっと早くに済ませていれば。
或いはユーノやカムロギと共闘し、爆発を起こさせずに済んだのでは、という仮定が。一瞬だけフブキの頭を過ぎる。
だが、次の瞬間。
実際に後方を覗く余裕など、今のフブキにはなかったが。後方に控えている武侠らの顔と名前を。
そして……引いていた手を離し、人壁の向こう側に置いてきた姉・マツリの顔を思い浮かべたフブキ。
「い、今まで……守られてばかりだったけどっ! 最後の最後くらい、私が皆んなを守らなきゃ……何のためにここまで来た、ってのよおおおおお‼︎」
腹の底から出た、魂の叫び。
その大声に呼応するかのように、フブキから放たれる魔力量が一気に増大し。これまで猛威を振るい、フブキを劣勢へと追い込んでいた炎の表面が──凍りついた。
一瞬、垣間見えた勝機。
だが、さすがは魔竜の最後の足掻きだけあり。凍結した炎はさらに膨れ上がろうと暴走する魔力が荒れ狂い、氷の表面には無数の亀裂が走り始める。
しかし、フブキが勝機を掴もうとさらに威力を上昇させようにも。放出する魔力量も、凍の女皇の力を借りた氷の加護の能力も、最早限界以上に達しており。
これ以上、フブキにどうしようもなかった。
「こ、ここまで……なの?」
弱音が口から漏れた、その時だった。
強大な冷気を放出していたフブキの両手に、何者かの手が重ねられたのだ。
突然の出来事に、驚き慌てて魔法の発動が解除されなかったのは僥倖と言うしかない。
「フブキ……私も手伝うわ」
フブキに手を重ねた人物、それは姉のマツリだった。
「ね、姉様っ?」『──姉、様』
人壁の後ろにいた筈のマツリが、気配を感じさせすに何故か横に立っていた事にも驚いたフブキだったが。
さらにフブキが驚いたのは、頭の中からもマツリを「姉」と呼ぶ声が聞こえてきた事だ。
外からではなく、頭の内側に響いたことから。その声の正体は「凍の女皇」カイなのは間違いない。
その女皇が「姉」と呼ぶとすれば。
八頭魔竜を討ち倒し、地の底に封じた経緯を記した伝承の中において。カイには確か、血を分けた姉がいた。
カイが氷の加護を持つように、炎の加護を有していたカガリ家開祖にして「焔の女皇」──エレ。
見れば、隣に並んでいたマツリの表情も。フブキの記憶の中にある穏やかな、しかしどこか自信のない姉の顔ではなく。これまで見た事のない、凛々しい表情を浮かべ。
……気のせいか。マツリの姿に重なるように、別の人物の輪郭が朧げに映っていた。
「私も手を貸そう。一緒にこの者らを救うぞ……カイの血を継ぐ者よ」
気のせいではなかった。マツリの口から飛び出たのは、フブキの記憶にある姉の声色ではなく。全く別の人物の声だったからだ。
しかも姉の口を借りた人物は、明確にフブキの中に「カイ」の影響がある事を見抜いたのだ。本人ですらつい先程、邂逅を果たしたばかりの女皇の存在を。
「う、嘘っ⁉︎ な、何なのよ、こ、この……魔力は、っ?」
『これは……姉上の、炎の魔力』
姿こそ姉であっても、中身は姉ではない、そんな人物の手が触れた箇所から。再び膨大な量の魔力が、フブキの中へと流れ込んでくる。
それは、凍の女皇が「力を貸す」と宣言した際の、魔力の膨れ上がり方と比較しても遜色のない、いやそれ以上の凄まじい魔力量。




