355話 大樹の精霊、沈没船に眠る過去
想定した通り、海へと深く深く潜っていく二体の精霊の視線の先には。巨大な帆船、その姿を保ったままの残骸が海底に横たわっていた。
「……あそこに、魔剣はあるのね」
死期が近い事を悟った英雄王が突然、魔剣と一緒に姿を消した後、まさか大樹の精霊の魔力察知の及ばぬ海底に沈んでいたとは。
沈没し、材木が朽ちかけた帆船に近づきながら。
大樹の精霊は、まるで数日前の事を思い出すかのように。
一〇〇年ほど前、まだ大陸を統一する前の。若々しい理想と覇気に満ち満ちていた頃の若者クレウサとの邂逅を思い返していた。
あの時のクレウサは、人間を凌駕した力を有した大樹の精霊に対し。確かに憧れに近い感情を抱いた目をしていたが。
同時に彼の周囲にいた、「仲間」と呼ぶ人間がいたからこそ。憧憬以上の感情にならなかったのだが。
「クレウサ。貴方の想いは理解していたわ。その上で──」
大陸を統一するまでの、決して短くはない時間が経過し。英雄王と呼ばれた彼の周囲からは、かつての仲間らの姿は離れていった。
ある者は、思想の違いから道を違え。
またある者は、統一のための戦いの中で生命を落とし。
こうして、英雄王の周囲から「仲間」と呼んでいた人間が全員いなくなってしまった時。
英雄王は、自分に魔剣を授けてくれた精霊に。憧憬のさらに先の感情、つまり慕情を強く抱き、囚われた想いに執着してしまったのだ。
しかし、英雄王の感情を知りながらも。大樹の精霊の心が揺れ動く事は決してなかった。
「そろそろ気が澄んだでしょう? 私が直接、こんな海底まで……返しに貰いに。わざわざこの私が来てあげたわよ」
ただ、海底にて眠るだけならば、死して眠りを妨げるつもりはない。かつては魔剣を授けるまで信頼した人間だ、静かに放置してやりたい。
だが、発見してしまった以上は。
海底に静かに眠っている英雄王の亡骸から、本来の管理者である大樹の精霊の手に戻るべきなのだ。
「……あらぁ?」
後は、目的の魔剣と一緒に眠る英雄王の亡骸を。帆船の中から見つけだすだけなのだが。
帆船に刻まれた異変に、まずは沈没船の周囲を見ていた水の精霊が気付いた。
「ねえ、ドリアードちゃん? 何か、おかしくなぁい、この船の壊れ方ぁ」
船の建材である大半が、長く海に浸かり侵蝕され、海藻をはじめ海の生物が付着していたのに。ある一帯だけが、まるで何かが暴れたように乱雑に破壊の痕跡が残っていたからだ。
壊れた建材の断面や周囲の様子から。破壊されたのはそう古くはない、ここ最近だったのが窺えた。
しかも、海底に生息する巨大な魔獣の仕業……というわけでもなさそうだ。大海蛇や火砲亀は、海のごく浅い一帯を好み、海底深くにはまず訪れないし。
海底に好んで生息する魔獣、四つ首以上の多頭蛇や大海蛸の暴れっぷりでもない。
いくつかの痕跡は、明らかに魔法が要因なのが。周囲の魔力の残滓から水の精霊には断定出来たからだ。
そして、英雄王と一緒にある魔剣を回収に、船内へと入っていった大樹の精霊からも、異変を告げる言葉が。
「そうね、目的は果たせたけど……妙なのよ」
表情を曇らせてはいたものの、彼女の腕には既に。一〇〇年もの間、本来の管理者の手から離れていた大樹の魔剣ミストルティンが抱かれていた。
大陸から遠く離れたニンブルグ海南までわざわざやってきた目的を果たした今、一体何を懸念する事があるというのか。
「ん? どうしたのドリアードちゃん、妙に浮かない顔ねぇ。だって、大樹の魔剣は回収出来たんでしょ?」
「それは、そうなんだけど……ね」
水の精霊が不思議そうに言葉を待っていると。
「魔剣があった場所に、クレウサの亡骸がなかったの」
大樹の精霊が予想していた通り、魔剣は厳重な石棺の中に納められていた。いつまでも魔剣と一緒にこの海の底で眠るつもりだったのか、ご丁寧に石棺には「保存の聖印」の魔法が維持してあった。
にもかかわらず、だ。
石棺は既に開けられており、中に眠りに就いていたであろう英雄王の亡骸は、棺の中になかったのだ。
「え、え? あの……ドリアードちゃん? でも、魔剣は持ってるじゃない」
「そうなのよね……そこが妙なのよ。大樹の魔剣狙いなら、棺の中に魔剣が残されているはずもないし……」
大樹の精霊から聞いた英雄王の不在、そして。船のあちこちに刻まれていた魔法による破壊の痕跡。
水の精霊には、一つの可能性が浮かんでいた。
「ねえ……もしかして。亡者になってそこら辺を彷徨ってる、とか」
「な、何を馬鹿な事言って──」
眠っていた亡骸に仮初の生命が宿り、動き出したのではないかという推測を。馬鹿、の一言で片付けようとした大樹の精霊。
石棺には亡骸が朽ち果てないよう、わざわざ「保存の聖印」の魔法まで準備してあったのだ。当然、亡者にならないよう聖職者が弔いの儀式を済ませてあるだろうから、だったが。
亡者になる要因には、外からの瘴気による影響ともう一つ。
死してなお抱き続ける強烈な執着。それが亡者に変貌する要因となり得る事を、大樹の精霊は思い出し。否定の言葉を止めてしまう。
「まさか」
「ええ、ドリアードちゃん」
大樹の精霊を慕うあまり、魔剣を返却せずに海底で一緒に眠ろうと考え、本当に実践してしまう程だ。
寧ろ、亡者に変貌した可能性に気付いてからは。最早、その結末しか考えられなかった二体の精霊は。
「……探すわよ」
眠っていた沈没船を破壊しようと暴れ回った痕跡があったくらいだ。破壊衝動のみで動いている可能性が高い、と。そんな危険な亡者を放置はしておけない。
普段ならば、大樹の精霊も水の精霊も。人間の住まう世界に過剰な干渉はしない主義だが。今回ばかりは、過去の因縁がある人間が対象とあってか。
沈没船の周囲に、精霊が持つ膨大な魔力による警戒と察知の網を張り巡らせ。英雄王が一体何処にいるのかを丸一日、懸命に捜索するも。
結局、英雄王を見つける事は出来なかった。
「ねえ、ドリアードちゃん。そろそろ諦めて戻りましょうか? 目的の魔剣は回収出来たんだし、アズリアちゃんに逢いに行くんでしょ?」
確かに水の精霊の指摘の通りだ。英雄王の捜索に日数を懸ければ懸けるだけ、アズリアの元へと駆け付けるのが遅れる算段となる。
元々、アズリアに手渡すために大樹の魔剣をこの手に取り戻すのが目的であり。当初の目的は果たしていたのだから。
「ええ、確かに……そうね」
もし、本当に「英雄王」とまで呼ばれた人物が、死して後、亡者に姿を変えていたとひたら。変貌の要因は間違いなく、大樹の精霊への強い固執なのだ。
後ろ髪を引かれる想いでは、確かにあったが。
海の底から立ち去る決意をする大樹の精霊。
「さようなら、クレウサ。貴方を見守っていた時は楽しかったけど、今はもっと見ていて楽しい人間を見つけてしまったの」
これもまた水の精霊の指摘の通り、大樹の精霊にとって英雄王はあくまで過去に関係があっただけの人物。
今、一番大切なのはアズリアなのだ。
「保存の聖印」
詠唱ではなく、神聖な魔力を宿した印を物体に記す、という手順で発動する特殊な神聖魔法。
対象となった物体は、自然に劣化する速度を大幅に鈍化させ、物体の現状を維持し続けることが可能となり。通常であれば一、二日で腐敗が始まる食糧や遺体も一〇日程度は劣化を止める事ができる。
発動には決まった形の聖印を覚えていればよく、発動時の魔力量は少ないため一見便利そうに思えるが。この魔法を維持している間、魔力を一時的に聖印の維持のため喪失するため、魔力容量の少ない一般人はせいぜい一個が限界である。




