328話 アズリア、毒霧のもう一つの罠
だが、意思を持たない危険な毒霧は。
アタシが魔竜を睨む合間にも、情け容赦なくこちらの周囲に纏わり付き。鎧の表面に錆を浮かせ、肌を焼いており。
左の肩当てに続き、赤錆に塗れた腰垂れが。止めていた打鋲が外れ、地面に落下していく。
それだけではない。
「──あ、熱いッ……息をするたび、喉が焼けちまう……ッッ!」
周囲の空間を満たしていた霧は、アタシが息をする度に、口や喉、そして胸の内側から僅かに焼いていたのだ。
何故「僅か」なのか。
大樹の精霊、と呼ばれる師匠から譲渡された「生命と豊穣」の魔術文字は。発動させずとも、魔力を使いアタシの小さな傷を勝手に癒してくれるのだが。
その能力が今も働いていなければきっと、口や喉、胸はもっと酷い状態になっていたかもしれない。
「く……そ、ッ! このままじゃ、ただ立ってるだけで、劣勢に追い込まれちまうッ……」
今の魔竜には、攻撃で受けた傷を瞬時に再生してしまう能力が備わっている。再生能力への打開策が思い付かないうちに、攻撃側に回るのは愚策でしかなかったが。
もう躊躇し、魔竜の次の手を待っている余裕などアタシにはない。
「なら……なら、やるしかないじゃないか、ッ!」
アタシは全身が焼け付く痛みを、歯を噛み締め耐えながら。握っていた大剣を構え直し、両脚に力を込め。霧の中、前方に薄っすらと見えた魔竜への突撃の準備を始める。
再生を止める策を、何も考えないままに。
どうやら魔竜は、再生能力を有した事と、アタシが毒霧の中にいる事ですっかり油断し。先程から全く動く様子がない。
ならば。
「アタシが霧で苦しんでると思って油断したねッ!」
アタシは、力を込めた両脚で地面を強く蹴り抜き。魔竜が待つ前方へと、真っ直ぐに大きく跳んだ。
この跳躍は「九天の雷神」の魔術文字の賜物だからか、アタシの突撃速度は周囲の霧を切り裂くほどに凄まじく。一瞬で眼前に見えた魔竜との距離を詰めていく。
「うおおおおォォォッッ!」
大剣を振り抜く瞬間、気合いを込めた獣にも似た咆哮を発し。
同じく「九天の雷神」の魔力を体現したような、強烈な雷撃にも似た鋭い剣閃を魔竜へと放つ。
策などなくとも、鱗や肉を斬り裂き、急所である内臓にまで刃が届けば。或いは、再生能力を上回る深傷を負わせられる、そう信じて。
しかし、次の瞬間。
アタシは目を大きく見開き、声を上げる。
「──な、あ、ッ⁉︎」
何故なら、アタシの視界に映っていた魔竜の輪郭が、大剣を振り下ろした途端に暈け。
まるで周囲を覆い尽くす毒霧の中に、魔竜までが溶けてしまったかのように姿を消し。大剣の一撃が空を切ってしまったからだ。
「ど……どういうこった? 一体、何が起きたってばよッ……」
攻撃を空振り、地面へと突き刺さった振り下ろした大剣の刃をそのままに。霧の漂う周囲を何度も見渡し、姿を消した魔竜の姿を探し始めるアタシ。
大剣を構え直せない程に、今のアタシは攻撃を回避された事に愕然とし、同時に困惑していたからだ。
「なら……ついさっきまでアタシが見てた魔竜の姿は何だってんだ?」
何故なら、先程までは確かにアタシが大剣を振り下ろした場所に。魔竜の輪郭が、霧に暈けながらも見えていたのだ。だからアタシは突撃を仕掛けたわけだが。
しかし、距離を詰めて霧で隠れた地面を見てみると。地中に潜んでいた魔竜が空けた地面の大穴が、今アタシがいる地点にはなかった。
つまりアタシは、全く見当違いな場所に突進していった事となる。
『く……ふふふふ』
動揺するアタシの耳に届いたのは、せせら笑う魔竜の嗄れ声だった。
「……アタシが空振ったのが、そんなに愉快なコトなのかい?」
『くふふ、いや……貴様は勝手に足りないもう半分の答えを知った気になっていたのが、あまりに滑稽で、な。つい笑いが隠せなかったのだ』
今の魔竜の言葉に、アタシは引っかかるものを覚えた。
この毒霧は、アタシの装着している鎧や武器の金属を溶かして駄目にするため。そしてもう一つ、毒でアタシの身体を焼き、直接攻撃を仕掛ける意図があったと読んだのだが。
その読みが間違っている、と魔竜は言ってみせたのだ。
『まさに今、貴様が我の姿を捉えきれなかった……それこそが貴様が気付けなかった、この霧のもう一つの役割よ』
霧の中に姿を隠していた魔竜の居場所を察知するため。こちらを小馬鹿にする言葉に耳を傾け、声のする方向を探ろうとするも。
「ちぃッ……霧で音が響いて、どっから聞こえてくるのか、サッパリだってえの……」
音が妙に響いてしまって、一度目と次の声がした方向が違って聞こえてくる。これでは声の方向を特定するのは困難だ。
理屈は知らないが、霧の中では音というのは通常の状態とは全く違う聞こえ方をするようだ。
そう言えば、アタシが大陸を旅していた八年の間にも。山に慣れた狩人や木こりらが、濃い霧が発生した山の中で迷い仲間とはぐれる、という話をよく耳にしたが。
深い霧で視界が遮られるというだけでなく、聞こえてくる音まで惑わされたら。いくら土地勘があっても迷うのは仕方のない事だ。
何故なら、その迷い人らの心情や状況を。
今、まさにアタシが直面していたのだから。
『これぞ、我が吐息が生み出す必殺の領域・怨嗟の吐息ぞ』
確かに魔竜が必殺、つまり「必ず殺す」と豪語するだけの事はある。
戦士であれば、金属を溶かす毒霧で武器や鎧が腐食させられ。攻撃に転じようとしても、姿を捉えることすら困難ときた。
仮にアタシが魔術師だったとしても。魔法の杖のような発動のための媒体も、同じく毒霧の効果を受け腐食してしまうし。いざ魔法を発動させるにしても。吸い込んだ毒霧で口や喉を焼かれ、碌に集中も出来ない状態では発動は難しいのではないだろうか。
『さて、いつ迄……貴様が保つか、霧に紛れながら眺めさせてもらうぞ、くふふふ──』
「……ぐ、ぅッ」
その言葉を最後に、せせら笑う声も途切れ、今度こそ完全に毒霧の中に姿を隠す魔竜。
いや、正解には魔竜の姿はアタシの目に映ってはいる。
ただし、左右どちらにも同じように魔竜の輪郭が二つも見えていたからだ。
「右?……い、いや……それとも、さっき聞こえてきた声は左から、じゃあ本体は、左かい?」
一つは間違いなく偽物、先程のような幻影だろうが。果たしてもう一つが魔竜本体であるとも限らないのだ。
下手に攻撃に動けば、身体を激しく動かすために。その分、息を何度も大きく吸い込む事となり、霧状の毒に口や喉を焼かれてしまう。いくら「生命と豊穣」の魔術文字の効果で、多少の緩和をしてはいるが。口や喉がどれだけ耐えられるのかは定かではない。
そして……毒霧に喉を完全に焼かれてしまえば、そこでアタシの命運は尽きてしまう。
こうなると、アタシはまさに魔竜の「怨嗟の吐息」の術中にまんまと嵌ってしまう。
両脚が、まるで見えない糸か縄に絡められたように。左右どちらの魔竜にも突撃を仕掛けられなかったのだから。
「怨嗟の吐息」
肉や金属に対し強い腐食性を発揮する吐息を、広範囲に散布するため霧状にし、周囲一帯を毒の霧で覆い尽くす。
範囲内にいる対象は装備や足場ごと吐息の効果で溶解し始め、範囲内に吐息を重ねれば、当然ながら溶解の威力も徐々に上昇していく。同時に霧の影響で周囲の光が屈折し、幻影を生み出す効果まで付加される。対集団ならば、互いの幻影で現在位置すら困惑する事態と化す。
当然ながら霧の範囲外に出れば、溶解と幻覚、双方の効果から逃れる事は出来るが。発生源が健在であるなら毒霧の範囲が広がるだけで終わる。
三ノ首が対決に備え用意していた「逆転時間」の魔法を封じた宝珠と対を成す攻撃方法だが。
使っている「腐食の吐息」はアズリアがハクタク村で倒した二ノ首の能力を継承している。




