327話 アズリア、侵蝕する毒霧に包囲され
装着した鎧が勝手に外れる、などという事はあり得ない。戦場において鎧は、自分の身を守る最後の手段だ。
だからアタシは朝、鎧の装着の時には緩い箇所かないかを何度も確認し。これまでも戦闘中に鎧の一部が脱げ落ちる、なんて事はなかったのに。
「な……? ど、どういうコトだよッ」
見れば、肩当てを身体に固定していた革製の帯が切れていた。しかも胸と背中、二箇所も同時に。
使い込みが過ぎて劣化し、激しいアタシの動きに付いていけずに帯が勝手に千切れたにしても。二箇所同時に、というのはあまりに違和感でしかない。
しかも、妙な点がもう一つ。
肩当ての表面の装甲が数箇所、革帯と同様に酷く痛んでいたのだ。
アタシが装着している、左右非対称という事もあり特注品の全身鎧は。
帝国を飛び出した当初から着ていた物ではあり、重要な箇所にのみクロイツ鋼を用い、鎧の重量を抑えてある構造だったが。
旅を続けて八年、さすがに帝国にしかないクロイツ鋼の修繕は無理なため。修理と交換を繰り返して今では、胸甲鎧と左の籠手以外は普通の鉄製を使っていたりするのが現状だ。
最近では、海の王国に広く店舗を構えるグラナード商会長・レーヴェンに用意してもらった、高品質な鉄製の部品に交換させてもらったばかりだったが。
その肩当ての表面には、見るも無残に所々に赤錆が浮き。鎧を形成するため、数枚の装甲板を繋ぎ合わせている打鋲が抜け落ちていた。
「じょ、冗談じゃないよッ……朝にゃ、あんな錆や傷なんて一つも──」
しかも今日という一日は、邪魔をするジャトラ陣営の武侠らとの交戦は避けられず。しかも最後には魔竜との決戦が予想されていた。そんな日に、革帯や肩当ての錆や損傷をアタシが見逃す筈がない。
「もしかして……この霧がッ?」
そこで自分の周囲に湧き立つ霧に違和感を初めて覚え。
慌ててアタシは、装着していた他の鎧の状態を確認した。
──すると。
霧に触れていた鎧の表面が白い煙を上げながら。
腰垂れや脛当の表面にも赤錆が浮き上がっていた。
打鋲が数箇所外れ、装甲板が剥がれ落ちそうになっていた箇所までもある。
まるで革帯が千切れ、地面に転がっていた肩当てと同じような損傷の度合い。
「や、やっぱりだ……この霧、革や鉄を駄目にする力でも持ってるッてのかい! く、そッ!」
魔竜の口から吐き出された霧状の何かが、どのような悪影響を与えるのか。それをアタシが知った時には、既に遅かった。
霧の中から、朧げな輪郭を浮かべていた魔竜の嗄れた笑い声が響く。
『く、くふふふふ……ようやく気付いたか。だが、その程度の解答であれば、半分しか正解ではないと言っておこう』
「半分、だって?」
勝ち誇るような口調の魔竜の「まだ半分」と勿体ぶる内容が、やたら癇に障る。
当然ながら、あと半分の解答が一体何なのか。アタシは気になるところではあったが。
今、優先すべきは好奇心を満たす事ではなく。如何様にして、霧の悪影響から鎧を守る事が出来るのか、だ。
鎧が剥がされ、脱げ落ちたならば。重量ある金属鎧から解放され、機動力こそ確かに向上はするが。
それよりも魔竜という強敵を前には、急所を含む身体を守る最後の砦を失うほうが不利益は大きいからだ。
「だ、だけど、胸の装甲と大剣は無事、みたいだねぇ──それに」
幸運にも、故郷を飛び出た八年前から唯一変わらず使い込んでいたクロイツ鋼製の胸甲鎧と。握っていた同じくクロイツ鋼製の大剣、そして背中に羽織った外套は霧の影響を受けてはいない様子だ。
帝国で開発された、特殊な金属であるクロイツ鋼はともかく。背中の外套が霧を弾いていたのは意外だった。
「凄ぇな……さすがはカナン、いや、鵺と言うべきなのかねぇ」
この国を訪れた際に使っていた外套は。最初に遭遇した魔竜の吐いた、人間を溶かす程に強烈な毒霧を浴び。すっかり駄目になってしまった。
野営の時に暖を取ったり、鎧を着たまま歩けない街中での防具代わりだったり。長旅を続けるのに必要な外套を。アタシは稀少な魔獣・鵺の革を使い、フルベの街に店を持つ革職人カナンに新調してもらったのだ。
鵺という魔獣の革が強靭なのか。
カナンの細工の腕が優れていたからか。
ともかく、頭こそ違えど同じ魔竜の吐いた毒霧の影響を、外套は受けていなかったのだ。
これ以上──霧が鎧に触れないように、霧が漂う範囲の外へと抜け出すという手もあるにはあるが。
魔竜の口から吐き出された霧である以上、霧の中心にいる魔竜に大剣の刃を浴びせるためには。どうしても霧の範囲内に留まる必要がある。
それに、例え霧の範囲外に逃れたとしても。続けて魔竜がアタシのいる位置に霧を吐けば、範囲が広がり再びアタシは霧の中だ。
──で、あるならば。
「アタシの周りから離れなッ!」
大剣を大きく振り抜き、羽織っていた外套をなびかせ。巻き起こす風の勢いで、周囲の霧を自分の周囲から吹き払おうとする。
霧そのものは払えなくても、大剣や外套の風圧で。鎧に損傷を与える霧の効果が少しでも弱まってくれればよい、と僅かに期待したのだったが。
見渡す限りアタシの周囲一帯を覆っていた実体のない霧を、大剣や外套を振り回す程度で払える筈もなく。
「く、くそッ! この霧、外套の中に潜り込んできやがるッッ?」
霧はまるで生き物のように大剣の勢いをヌルリと擦り抜け。アタシの周囲に纏わり付き、鎧に損傷を与え続けていく。
それどころか、鎧に損傷を与えていた毒霧がついにアタシの素の肌にも触れ。肌の表面を焼き始めたのだ。
「ぐ、うッッ! よ、鎧だけじゃねえッ……こ、この霧、アタシの肌まで溶かすつもりかよッ!」
アタシの肌が黒いため一目では分かりにくいが。霧に触れている肌、つまりは鎧で守られていない箇所が熱を持ち始め。表面が薄っすらと火傷を負ったように赤く腫れていく。
全身に針で刺されたような不快な痛みが継続して襲い来る中、アタシは魔竜の言葉を思い返していた。
鎧に損傷を与えるだけでは半分、と魔竜が言った霧の本当の効果とは。
「ち、ぃッ……もう半分、ッてのは……こういう意味だったの、かいッ……」
この霧は、目眩しという防御的な意図ではなく。アタシを毒霧で包み込む、という歴とした敵対行動だったのだ。
「そういや、この毒の吐息は……初見じゃなかったんだっけ、ねぇ」
ハクタク村で最初に遭遇した魔竜、その肉を溶かす吐息に良く似てはいるものの。触れれば骨を露出させる程の強烈な威力と比較しても、この霧の毒は弱い。
おそらくは、毒を塊ではなく広範囲を覆い尽くす霧状に吐いた事で。毒の威力も弱まっていたのだろうが。
「いくらあの時から時間が経ってるとはいえ、見抜けなかったアタシに腹が立つ、よ……ッ!」
霧に覆われていたため、こちらの視線は通らないと理解はしていても。アタシは朧げな輪郭を覗かせる魔竜を、強く睨まずにはいられなかった。
勿論、周囲に漂う霧を吐いた魔竜に向けた敵意でもあるが。
もう一つ、魔竜の意図を見抜けなかった浅慮な自分に対しての苛立ちでもあった。




