326話 アズリア、憧憬が招いた危機
アタシの右眼に宿った「巨人の恩恵」の魔術文字をもう一つ、別途に身体に刻み。筋力を増強する効果を二つ同時に発揮させる「二重発動」の技法を用いた一撃は。
今、違う場所でヘイゼルやカムロギらに任せた一ノ首の鱗に弾かれ、既に通用しなかったが。
それでも、アタシが使う「二重発動」の全てを魔竜に見せたわけでも。通用しなかったわけでもない。
三の門で襲い掛かってきた竜人族の女戦士・オニメを討ち倒した「漆黒の魔剣」に。
カムロギを退けた時に初めて使ってみせた、「軍神の加護」の魔術文字を二つ同時に発動し。単純に大剣の重量をアタシが片腕で扱えない程に増加したことで、振り抜く大剣の威力を飛躍的に上昇させる方法。
……咄嗟ではあったので、まだ名称はないが。
思考に掛けた時間こそ僅かだが、それでも過去の記憶から。二通りの方法が今のアタシの頭に浮かぶ。
しかし、その二通りとも。魔術文字を二つ同時に発動する「二重発動」をあらためて使う必要がある──つまり。
「そうなると……今、発動中の九天の雷神を一度、解除しなきゃ駄目だ」
勿論、思い浮かべた二つの方法が魔竜に必殺の打撃を与えられるのなら。
迷う事なく「九天の雷神」の魔術文字を解除し、新たな魔術文字を使用するべきなのだが。
アタシは躊躇っていた。
魔術文字を解除することを。
「い、いや……だけど、ッ」
解除に踏み出せなかった理由は幾つかある。
他の魔術文字とは違い、魔術文字自体に意識が宿っている「九天の雷神」と。頭の中で、ではあるが直前に会話をして情を感じたのかもしれないし。
発動に費やす魔力も、他の魔術文字とは比較にならないため。一度解除したら、再び発動し直すのは難しいというのもあるが。
一番の理由は、アタシの個人的な感情。
それは。
「アタシさ……今のこの状態を、えらく気に入ってるんだよ、ねぇ……ッ」
今、口から思わず漏れた言葉に尽きる。「九天の雷神」の魔術文字がアタシに授けてくれた数々の恩恵。
空を裂く雷光のように動ける足捌きに。
雷光を周囲に発生させ、自在に操る能力。
中でも、穴底に潜んでいた魔竜を打ち据えた雷撃を放った時の感覚は。魔術文字を宿して生まれたが故に、通常の魔法の一切を使うことの出来ないアタシの長年の憧れでもあった。
勇ましい言葉を発し、穴底の魔竜へ雷撃を浴びせたアタシ。
まるで、魔術師が扱う攻撃魔法のように。
雷撃を解き放った瞬間、喜びの感情が胸の内側から込み上げてきたからか。実は少しだけ口元が緩み、笑みを浮かべてしまっていた。
即座に深傷すら癒してしまう、恐るべき能力を手に入れた魔竜を。一撃で倒せるための方法を探すため、これまでの戦闘の記憶をアタシは辿っていくうちに。
雷撃を浴びせた時の記憶と感覚までも、頭に蘇ってしまった。それが「九天の雷神」の魔術文字の解除を躊躇した、最大の理由。
結局、この躊躇いと困惑が致命的な遅れを招き。傷の再生を終えた魔竜が先に動き出すのをみすみす許してしまった。
『どうした? 威勢が良いのは言葉だけか。ならば──』
魔竜が発した嗄れ声が耳に届いたことで、ようやくアタシは思考の沼から我に返ったが。
意識を向け直した時には既に、魔竜が大きな口を開けて、喉の奥から何かを吐き出そうとしていた。
「し、しまったッ! ち、ぃッ……戦闘の最中に、馬鹿かアタシはッ⁉︎」
先に戦った一ノ首が、猛烈な炎の吐息を浴びせてきたのを思い出し。アタシは一度、炎に巻き込まれるのを避けようと。後方へと跳躍し、距離を空けていく。
折角、大剣が届く有利な立ち位置を、選択を迷い、躊躇した事で。自分から手放さなくてはならなくなる、という失敗を悔やみながら。
だが、アタシが当初予想したように。魔竜が大きく開いた口から紅蓮の炎を吐き出した……わけではなかった。
魔竜が放ったのは、霧。
魔竜の口から勢いよく吐き出されたのは、すぐ目の前にいる魔竜の輪郭すら暈ける程の濃い霧が漂い。
大量に吐き出されたからか、アタシの周囲一帯は一瞬のうちに霧に包まれてしまう。
「は?……炎じゃ、ないッてのかい?」
炎が襲い掛かってくるのを警戒したからこそ、大剣の届く距離を自ら捨ててまで後退したというのに。
まさかこの状況で、霧による視界の撹乱が目当てだとは。
確かに濃い霧で視界が妨害されるのは、カムロギとの戦闘でも同じ状況に陥っただけに。いか厄介なのかを身を以って味わっていた。
だが、カムロギが使った魔法の霧とは違い。完全に視界を覆い隠す程に霧が濃いわけではなく。巨大な魔竜の姿は、霧の中でも影となり浮かび上がっている。
目眩し、と呼ぶには全く不十分な効果だった。
「……待てよ?」
考えてみれば。穴底から地上へと頭を出した時こそ、アタシに突撃を仕掛けてきたものの。それから一度も、目の前の魔竜は敵であるアタシに攻撃と呼べる行動の一切を取ってはいない。
唯一、身体の傷を回復した「逆転時間」なる未知の魔法を使ってみせただけだ。
だからといって、魔竜が敵対する相手である立場には何ら変わりはない。
だが、回復の次に取った行動が視界を遮る霧とは。
先の三本目、一ノ首なる魔竜の頭が攻撃に次ぐ攻撃で畳み掛けてくる戦術だっただけに。全く真逆の防御に偏ったかに見える行動に、アタシは違和感を覚えずにはいられなかった。
「この霧……ただ視界を隠すだけじゃない。何か……何かある、ッ」
違和感のせいで、動けなかったアタシ。
霧のせいで輪郭こそ暈けてはいたが、霧を吐いてから魔竜が動く気配が全く見えず。アタシが何かしらの行動に出るのを待っているようにも思える。
だが、何時迄も霧の中、魔竜と睨み合い続けているわけにもいかない。
アタシが発動中の「九天の雷神」の魔術文字は、ただ立っているだけでも魔力を消費し続けるからだ。
「まあ……でもさ、待つのはアタシの性分じゃあ、ないよねぇ」
そう口にしたのは、一度は躊躇したアタシが最初の一歩を踏み出すために、自分に言い聞かせるため。
大剣を握り締め、濃い霧を斬り裂いて魔竜に再び斬撃を浴びせようとそう思い。足裏で地面を蹴ろうとした、その時だった。
「──ん?」
何か、重量ある物が地面に落ちた時の鈍い音と。
ガシャン、という金属が何かにぶつかる鈍い音。
不意にアタシの左肩が軽くなった気がしたので、視線を肩へと向けると。装着していた筈の肩当てが、いつの間にか外れていたのだ。
もしや、と思い。
アタシは一度、魔竜を睨む視線を外し、二つの鈍い音が響いた場所へと向けると。地面に転がっていたのは、アタシが先程まで左肩に装着していた鎧の一部だった。




