307話 一ノ首、反撃の狼煙を上げる
だが、魔竜の身体から伸びた漆黒の炎がモリサカへと到達するよりも先に。もう一人。
魔術師のファニーがちょうど詠唱を終えた。
「……天と地を繋げ、風の回廊」
ファニーが魔法の杖の先端へと集めた風属性の魔力を解放し、術者から放たれた魔力が対象となった魔竜の周囲に展開し始めると。
と同時に、空高く身体を伸ばした魔竜の頭上を、突如として厚い曇が覆い隠し。魔竜のいる位置を中心として、魔力を含んだ強風が地面から巻き起こり。
形成された突風の壁が、モリサカへと迫る漆黒の炎が彼へと到達するのを遮っていく。
『な、っ……何だ、この強い風は⁉︎』
目を潰した憎きモリサカに、自分の炎が届かなったのを見て。魔竜は怒りの視線を、今度は攻撃を邪魔した風の障壁の発生源を探すために周囲へと向け。
『この風は貴様がっ!』
風を起こした当人に目線を合わせた瞬間。
同時に、ファニーが魔法を解き放つ。
「遅い──真嵐の序曲っ!」
ファニーが魔法の名を高らかに叫ぶと、上空を覆った黒い曇から真下の魔竜へと強烈な風が降り注ぎ。
地面から巻き起こった風もまた、風の中心にある魔竜を巻き込むように渦巻き。空から落ちてくる猛烈な突風と混じり合い、二種類の異なる風の気流が衝突し合い。
『う! うおおぉぉぉ、こ、これは、っ⁉︎』
二つの風に挟まれた魔竜の身体の表面、堅い鱗が軋み、傷口から流れ出た血と漆黒の炎が強烈な風に舞い上げられる。
ここまで強烈な風が吹き荒れれば、同じ戦場にいるカムロギやベルローゼ、空を飛んでいたモリサカも無事では済まないところだが。魔竜の足元から巻き起こった風が、ベルローゼらのいる外側へ風の影響が外側へと漏れ出すのを完全に遮断していた。
ファニーが習得している魔法の中で、最大の威力を誇り。
海の王国の近海に出現し、王都ノイエシュタットを襲撃しようとした巨大な魔物・五頭首の多頭蛇を倒した時に発動させたのと同じ風属性の魔法。それが……この「真嵐の序曲」であった。
「これで、少しは、っ──」
これまでの戦闘から、今ファニーの目の前にいる魔竜が。あの時に倒した五頭首の多頭蛇よりも強敵なのは、彼女も充分に理解していた。
最強の威力の魔法を発動してすら、魔竜を倒せる見込みはほぼないだろう……という事もまた。
だが、それでも。
魔法が直撃さえすれば、たとえ魔竜と言えど、無傷は済む筈がない。傷を負わせ、続くベルローゼにカムロギの援護は出来るであろうとも確信していた。
実際に、魔法の効果と共に発生した烈風の障壁の内側では、魔竜はその行動を完全に阻害され。
魔竜の血から召喚された漆黒の炎も、風の壁に阻まれていた事に。ファニーは自分の魔法に手応えを感じていた。
だが、安堵した次の瞬間。
『ふざけるな……いいだろう』
ピシ。
発動した「真嵐の序曲」の維持をしていたファニーの頭に、直接響いてきたのは。細かな亀裂が奔るような、不気味な音。
「な……何? 今の、感覚はっ……」
何かが破砕する音を、感覚として受け止めたファニー。そこから、亀裂が走る不気味な音は、連続して、徐々に大きくなりファニーの頭に鳴り響く。
その頃には、亀裂と破砕音がただの不安からの錯覚などではなく。
「ま、まさかっ⁉︎」
自分が掲げていた魔法の杖の先端にある、魔力制御用の宝石と。
魔竜の周囲に展開していた烈風の障壁、その二つに亀裂が入っているのをファニーは知ってしまう。
『……あまりやり過ぎると消耗してしまうので、力を加減していたのだがな』
ビキ……ビキ、ッ。
見る見るうちに、魔法の効果の内と外を分ける風の障壁に奔った亀裂はさらに大きくなり。障壁の表面に出来た小さな割れ目からは、魔竜の眼と漆黒の炎が覗く。
「お、おい、ありゃあ?」
魔法を発動中の術者を庇おうと、魔竜の視線を代わりに浴びるように。両斧槍を両手で構えながら前に出るエルザだったが。
魔竜の眼に宿った憎しみと怒りの色に、いつもは強気なエルザの口から、思わず弱気の声が漏れる。
「ど、どうするんだよっ、ファニー!」
「……く、っ」
ファニーは選択に迷っていた。
魔法の杖を守るために、この時点で魔法の効果を解除するか。
魔法の杖を犠牲にしてでも、今効果を発揮している「真嵐の序曲」を維持するのか、の二択で。
当然、このまま「真嵐の序曲」を維持し続ければ、間違いなく魔法だけではなく魔法の杖も破壊されてしまうだろう。
だが、「真嵐の序曲」の魔法が多少なりとも、魔竜へと効果を及ぼしているのも間違いなく事実なのだ。
杖が破壊されても全部の魔法が使えなくなる、というわけではないが。高位の魔法を発動は出来なくなるし、従来の魔法の発動も詠唱を省略出来なくなる。少なくとも……魔竜との戦闘で役割を果たすのは無理だろう。
「──どうする。どうする、私っ?」
今後の役割を放棄し、今この場で魔竜に出来る限りの傷を与え、傷口を広げるのか。それとも今後も魔法の援護のため、ここは敢えて魔法の杖を維持するか。
ファニーは魔法を維持しながら、自問自答を繰り返すも。どちらを選択するにも決定打がないまま、ただ時間は経過していき。
魔竜がその眼を覗かせる障壁の亀裂と裂け目は、さらに大きく、さらに巨大になっていき。
『こうなれば、出し惜しみは……無しだ』
パキイイィィィィィィィイインン!
魔竜がそう啖呵を口にした途端、周囲に展開していた風の障壁が完全に砕け散り。
同時に、魔竜の動きを縛っていたかに見えた障壁の内側で猛烈に吹き荒れていた風が突如としてパタリと止み。
さらには、魔竜の頭上高くを厚く覆い隠していた黒い曇が霧散し、空の色を覗かせたのだ。
魔法の維持を、ファニーが意図的に止めたから魔法の効果が解除されたのではない。
「あ、ああ……杖が、っ……」
何故なら、ファニーが両手で握っていた魔法の杖、その先端を飾っていた宝石もまた、砕け散ってしまっていたからだ。
ファニーが呆然としていたのは、魔法の杖が使い物にならなくなったからではなく。
迫る時間の期限に間に合わず、どちらの選択も判断出来なかったが故に。魔法を解除した後の対処も出来ず、魔法の杖まで失うという最悪の結果を招いた自分の愚かさに、であった。
そして、上空と地上からの、二種の猛烈な風が止んだのと入れ替わるかのように。
先程のファニーの魔法で、一度は吹き飛ばされたかのように見えた漆黒の炎が再び……いや。
風で吹き飛ぶ前以上の勢いの炎が、今まさに魔竜の全身から噴き上がったのだ。




