262話 アズリア、暴走する馬を止めたのは
大剣の刃で馬の首を断てば、武侠の身体まで斬ってしまうだろう。かと言って前脚を叩き折れば、転倒する馬に巻き込まれるのは想像に難くない。
いずれにせよ、アタシが暴れ馬に大剣を振るえば。騎乗している武侠も無事では済むまいと思うと、攻撃を放つことを躊躇してしまったのだ。
顔も知らず、加勢に駆け付けただけの武侠に対し。
「はッ……我ながら、甘い発想だねぇ」
だがそれは同時に、興奮し突撃してくる重量級の馬に。アタシは素手で立ち向かう状況だということだ。
我が身を危険に晒してまでも、大した面識のない武侠の身を案じた自分の選択に。少しばかり呆れてしまいながらも。
「……けど。やるしかない、よねぇ」
アタシの背中の後ろには、突然の暴れ馬に唖然とし。さらには地面の揺れで足が動かず、身動きが取れずにいたマツリとフブキがいた。
元々、二人を庇うために馬との間に割り込んで入ったのだ。
「──いくよ、ッ」
アタシは覚悟を決めて、右眼に宿した魔術文字に魔力を注ぎ始める。
発動のための触媒に「術者の血」を必要とする魔術文字で、唯一何の代償も必要としない右眼に宿した「巨人の恩恵」の魔術文字を。
発動した魔術文字から駆け巡る魔力が、手足の先にまで到達し。全身の筋肉が一回り大きく膨れ上がり、まるで熱を帯びたような感覚。
筋力を増強させた両腕を横に大きく広げ、突撃してくる暴れ馬の真正面に立ち塞がる。
幸運にも二人の姉妹に突っ込んできたのは、暴走した数頭の馬の内の一頭だけ。
ならば、アタシは何としてでも。こちらへと突っ込んできた一頭を止める、という決意を込めて。
「さあ、暴れ馬でも何でも向かってきなってえの!」
アタシは大声を吐き出すと同時に。
頭を下げ突撃してきた馬と正面から衝突する。
「──あ、アズリアああっっっ⁉︎」
その時、背後のフブキが悲痛な声でアタシの名前を叫ぶ。
普通に考えれば、全速で駆ける馬と激突し、無事で済む筈がない。ましてやこの国の馬は、大陸の馬と比較し大型で強靭な体格だ。
いくら体格の優れたアタシでも、突進してくる馬と対抗するのは無謀だと思ったのだろう。
だが。
「「え? ええぇっ嘘おっっ⁉︎」」
体勢を低くしていた馬の頭を、アタシの両腕はしっかりと押さえ込んでいた。
さすがにアタシと馬との体重差と、突撃の勢いを瞬時に無にする事は出来ず。足元には数歩分ほど、後方に後退りさせられた足の跡がハッキリと残っていたが。
暴走し突進してきた馬の勢いは、足を止められた時点で完全に殺され。今はアタシの両腕が馬が暴れるのを制止している状態だ。
「は、ははッ……やるじゃ、ないか……でも、ねぇ……ッ!」
馬もまさか、突進を止められるとは予想もしていなかったのだろう。興奮が収まる様子はなく、鼻息を荒げながら。蹄で何度も地面を叩き、前が駄目ならば左右に逃げようとするも。
魔術文字で膂力をいや増したアタシの両腕は、暴れ馬の自由を許さず。馬の頭をさらに強く押さえ付けていたが。
「ぐ、ッ……ま、まだ頑張るかい、ッ……」
それでも馬は前進を止めようとはせす、両腕から力を抜けば即座に突進を再開するだろう。
後は、馬が根負けし諦めるか、もしくは興奮が収まるまでの我慢比べか……と思っていたアタシだったが。
不意に横から声を掛けてきたのは、お嬢。
「……まったく。子供の頃から身体は大きくなっても。頭のほうは全然成長していませんわね」
手を貸してくれるのか、と期待をしたアタシだったが。開口一番、お嬢から聞かされたのはこちらへの嫌味だった。
三の門の前でお嬢ら一行と遭遇した時には、負傷したフブキとユーノを治療してもらった事もあってか。
幼少期の酷い扱いや、砂漠の国での出来事から。お嬢へと抱いていた敵愾心を、一旦は忘れようと考えていた矢先に。
「こ、こんな時にまでッ……」
「この者に心の平穏あれ──鎮静」
湧き上がる苛立ちを口にするアタシだったが、言葉を終えるよりも先に。
お嬢の手が、アタシが押さえ付けていたまだ興奮冷めやらぬ暴れ馬の額に触れ、神聖魔法を発動したのだ。
すると。
鼻息荒く、前進する勢いを緩めなかった暴れ馬から。途端に力が抜け、興奮がみるみる冷めていくのが見て分かる。
今、お嬢が発動してみせたのは「鎮静」。興奮する犯罪者や、不幸に遭遇した人間など、激しく乱した感情を落ち着かせるために使われる神聖魔法だ。
「まあ、私に掛かれば。暴れ馬を鎮めるなど簡単なことですわ」
お嬢が得意げな笑顔を浮かべながら、追い払おうと文句を言い掛けていたアタシをジッと見てくる。
格好のつかないアタシが、お嬢から視線を逸らすついでに周囲を見渡すと。
数頭いた暴れ馬は、一頭も残らず既に落ち着いた後であった。見れば、黒髪の女中も落ち着いた馬の頭を撫でていたではないか。
「た……確かに、こりゃ。何の言い訳も出来ないよな」
「そうでしょう、そうでしょう。ですからアズリア、お前はもう少し私への態度をですねえ──」
暴走する馬を叩き斬って止めようとした挙句に、結局はただ一頭を力づくで止めるのみのアタシと比べ。一滴の血も流さず、神聖魔法一つで馬の暴走を止めてしまったお嬢に。
今はただ純粋に、お嬢の能力への敬意と感謝の気持ちが胸中に湧き上がる。
「ありがとな、助かったよお嬢」
カムロギとの対決の直前には、過去の因縁がどうしても心の楔となり。素直に感謝の言葉を口に出来なかったアタシだが。
今度は躊躇いも戸惑いもなく、滑らかに言葉が口から出てきた。お嬢への感謝の礼を。
言葉だけでなく。アタシは、お嬢の肩をポン、と軽く叩いてみせた。ユーノやヘイゼルと何度も行っている、軽い身体同士の接触だったが。
「あ……う……」
しかし、どうもお嬢の様子がおかしい。
アタシの知るお嬢は。三の門の時のように人を小馬鹿にした、他人を見下すような口調を返してくる……と想定していたが。
予想とは違い、辛辣で傲慢な言い回しを一切返してこなかったばかりか。
まるでお嬢の周囲だけ時間が止まったかのように、身動き一つ取らずに固まっていたからだ。
「もしや……?」
もしや、神聖魔法を使い過ぎたことで、魔力枯渇を起こしかけているのかもしれない。
思い返せば、ユーノとフブキの傷の治療に先程の「鎮静」。それに、ここまでの道中で襲撃してきた黒装束の撃退にも、確か……魔法を使用していた筈だ。
「お、おい……どうしたんだよお嬢ッ?」
「ああ、煩いっ!……な、何でもありませんし、さっきからお前の声は聞こえてますわっっ!」
アタシは心配になって、固まったままのお嬢に声を掛けた途端。
先程まで、何の反応も示さなかったお嬢が。想定した通りの言葉を、まるで堰を切ったように口にしていく。
「ちょっと、聞いてますのアズリアっ! 大体お前は昔からっ──」




