261話 アズリア、魔竜の気配を感じる
モリサカとナルザネの二人とは真逆の、一度は諦めた相手と戦える事への歓喜に。思わず拳を握る力が入り、笑いが声に出そうになる。
が。
二人が揃えて、魔竜が出現する事への不安と懸念を口にしているのに。ここで笑ってしまうのが、いかに不謹慎だというのはアタシでも理解していた。
「く……口が、緩んじまう……ッ」
だから今、アタシに出来たのは。咄嗟ににやけ、笑いが漏れそうになる口元を抑え。モリサカとナルザネの二人から顔を背ける。
「ど、どうしたアズリアっ?」
「い、いや……な、何でも、ないよッ」
突然、顔を逸らしたアタシを見て。何事かと声を掛けてきた二人だったが。さすがに一度は湧いた感情が落ち着くまでは、顔を見せることは出来ない。
だが、気持ちが昂るのも仕方がない。
魔術文字が彫られている石版を完成させるため、魔竜との戦闘を切望していたアタシは。
ジャトラを追い詰めるために。立ち塞がる障害を次々に撃破していったのだから。一つ一つ、自分を守護するモノを潰していけば、魔竜を刺し向ける以外の手段がなくなるだろう、と見越して。
一連の騒動の元凶であったジャトラが、魔竜と何らかの関係にあった事は疑いの余地はなかった。しかしフルベの街の住人に、配下だったナルザネですらジャトラと魔竜の関係は知らなかった。
この国を蹂躙した存在、という過去を差し置いても。領主が魔竜は人を喰らう恐るべき魔獣と協力している、などと公言出来る筈もない。
だからアタシは、ジャトラが躊躇せずに魔竜を呼べる状況まで、彼を追い詰める必要があった。
……にもかかわらず。護衛を一人を置かず、生命を取られる状況にまで陥っても。ジャトラは頑なに魔竜を呼びはせず、とうとう背を向け逃走を図ったのだ。
この時点で一度、アタシは魔竜との戦闘を諦めたのだったが。
「どうやら、戦えるみたいだねぇ……魔竜」
アタシは、一旦目を閉じて。指を握って拳を作ったり、深く息を繰り返しながら、自分の身体にどれ程の魔力が残っているのかを確認していく。
とは言っても、腹の減り具合と同様に大体の程度でしかないのだが。
「……うん。まだ魔力は充分に残ってるね」
これまでにも、魔力を使い果たし枯渇する事態を、アタシは幾度となく経験していたが。
お陰で、魔力が底を尽く予兆的な身体の異変。指先の痺れや目眩に頭痛、口の渇きなどを知る事が出来た。そして今、アタシには魔力枯渇の予兆は微塵も現れていない。
思い返せば、最初に「漆黒の魔剣」や「二重発動」を発動してみせた際には、加減が分からず。連続しての使用など考えられもしない程に、魔力を消耗してしまっていた筈だったが。
「そう考えりゃ。アタシの魔力の器も、だいぶ広がったモンだねぇ……」
ここまでにアタシは。「漆黒の魔剣」にせよ「二重発動」にせよ、その両方とも何度も使用していたし。
強敵・カムロギとの戦闘中には、「軍神の加護」の魔術文字の新たな活用法まで発動出来たほどだ。
それでもアタシは、まだ魔力を温存出来る程度にまでに成長していたのだ。
「師匠、感謝してるよ」
目を閉じたままアタシは。魔力の器……つまり魔力容量を拡張するための発端を作ってくれた、「師匠」と呼ぶべき人物の名前を小さな声で呟く。
アタシを精霊界にまで招き入れ、魔術文字の知識や魔力容量の手解きなど、様々な事を厳しく叩き込んでくれた、大樹の精霊の名前を。
その時だった。
「──ッッ!」
目を閉じ、体内の魔力を感じるための感覚のみを鋭敏にしていたからか。今、アタシらがいる地面の底から、何やら邪悪で強大な気配が迫ってきていたのを察知出来た。
「間違いないよ、コイツは……ッ!」
最早、確認するまでもない。
ただの人間が、地面の下を移動してくるような手段は取らないだろうし。
地の底を徘徊するような魔物は、僅かながら存在こそしてはいるが。そのような魔物が城の地下に棲み着いていれば、城の住人だったマツリやフブキが知らぬ筈がない。
イズミが率いた騎馬兵を含め、総勢五〇人となるこちらの位置を察知しているかのように。地面の下の邪悪な魔力の気配は、一直線に迫ってきていた。
アタシが警戒の声を発しようとした、まさにその瞬間。
接近と同時に、再び地面が激しく揺れ動いたのだ。
『ま、また地面が揺れ始めたぞっ?』
『ぐ、っ、この……まただ、また馬が言う事を聞かない、っ!』
二度目の揺れが、騎乗する武侠らに再び混乱を引き起こしていた。
一度は落ち着きを取り戻した馬も、揺れが再開するとまた恐慌に陥って、嗎きとともに暴れ始めたのだ。
馬は揺れに慣れるどころか、最初に揺れた時よりも動揺している様子で。乗り手である武侠がいくら鎮めようとしても、一向に落ち着く素振りはない。
魔竜がいつ出現するか不安に駆られていたナルザネも、配下の武侠らの対応に追われることとなる。
「慌てるな! 落馬を恐れ手綱を離せば逆に大怪我をするぞ!」
『──ひ、ぃぃぃぃっ?』
ナルザネが飛ばした指示に。馬に乗る武侠らはいずれも悲鳴を漏らしながら、必死に手綱を握り締めていた。
馬が制御を失った場合、騎手が怖れるのは。暴れる馬の背から振り落とされ落馬し、転倒したところを蹄で踏まれる事だ。落馬しただけでも、地面の状態次第では無事では済まないし。馬に胴体を踏まれれば、まず致命傷は避けられない。
暴れる馬が一頭だけなら、振り落とされ落馬する前に自ら降りるのも一つの選択なのだが。今は、状況が悪過ぎた。何しろ、同じように暴れる馬が複数していたのだ。
下手に馬から降りれば、今度は暴れる馬に蹴られる可能性まで出てきたのだから。ナルザネの指示通り、馬の背に何とかしがみ付く以外に手段はなかった。
勿論、馬に蹴られる危険は。ナルザネらだけの問題ではなく。
今はナルザネが率いていた騎馬兵と合流していたアタシらも、だった。
『く、くそおおっ? ど、退いてくれっ、馬が、馬がっ、止まってくれないんだあっ!』
武侠らは、暴れる馬を必死に宥めていたが。
そのうち何頭かの馬が乗り手の制止を聞かず、嗎きを鳴らしながらアタシらへと突撃してきたのだ。
暴走した馬を避けようにも、地面はまだ揺れている最中だった事もあり。二人の姉妹を含め、アタシらのうち数名はまともに足が動く状態ではなかった。
しかも、よりによって馬が目標に選んだのは。
揺れで動けなくなっていた人間なのだ。
「……ちッ、魔竜と戦う前の厄介事かよッ!」
一瞬、アタシは背中に戻していた大剣に手を伸ばした。
こちらへと突っ込んでくる暴れ馬の首、もしくは脚を叩き斬り、強引な手段で止めるつもりで。
揺れの影響を一切感じることなく地面を蹴り、突撃してくる数頭の馬の前へと飛び出していき。
後は、大剣を構えて斬撃を放つだけだった──が。
『と、止まれっ……止まってくれえぇぇぇっ……』
暴走する馬の首にしがみつきながら、馬を宥める言葉を今もなお続けていた武侠。その必死な表情が、視界に飛び込んできたからなのか。
不意に、握っていた大剣から指を離してしまうアタシ。




