259話 ジャトラ、最後の決断
この話の主な登場人物
ジャトラ カガリ家を簒奪しようと企む 現在逃亡中
もし仮に、シラヌヒを脱出に成功できたとしても。
ジャトラの配下として控えていた影からの報告から。周辺に位置する四つの都市、リュウアン・コウガシャ・アカメ・テンジンの領主全員が。叛意を示し、フブキに加担しているのは承知していた。
つまり、ジャトラの逃走経路は既に塞がれていた。
「……まさか、散々利用していたフブキ様と同じ状況に陥る、とはな……これも、行いは己に返ってくるというわけか……」
ジャトラは思わず、人質として城内に軟禁していたフブキが外へと脱出した時と。今の自分が置かれた状況を重ねてみるも。
今、ジャトラを取り巻く状況は間違いなく、フブキよりも格段に悪い。
まず、ジャトラが配下の武侠らに捕縛する命令を出したのは。フブキが姿を消してから相当の時間が経過してからだったのと。
まさか、城の外に脱出されると想定していなかったために。他の都市にフブキを確保する命令の伝達が間に合わなかった──という状況だったが。
今は違う。
ジャトラはまだ城内から抜け出せず、周囲は敵に囲まれ。しかも退路まで奪われていたのだから。
悲しいかな、ジャトラは理解していた。
自分には、敵の包囲から身を潜めるだけの良き案も、強引に突破する武勇も持ち合わせていない現実を。
「……となれば。この瓶の中身を飲み干し、その力で強引に突破を図るか?」
だが、フルベの街を流れるモリュウ運河を越えるか、カガリ領を出て他の八葉を頼る事が出来れば。まだジャトラにも助かる可能性が見出せる。
手に握られた小瓶……中身の魔竜の血を飲み干し。魔竜の眷属に姿を変え、今の窮地を打破しようと。
小瓶の封を解き、瓶の口に唇を付けて。躊躇いからか手を震わせながら、中身の液体を口内へと流し込もうとするジャトラだったが。
魔竜の血が口に入る前に、瓶から口を離してしまう。
「……む、無理だっ、魔物に変わるなど……そ、それにっ……」
この期に及んで、ジャトラが瓶の中身を呷るのを止めたのは。何も魔物に変わる事に怯え、臆病風に吹かれたからだけではなかった。
「向こうには……魔竜を、四本槍を、最強だったはずの傭兵団を……倒した余所者がいるんだぞっ、む、無理だっ……」
フブキの陣営は、魔竜の血を預けていた四本槍を退け、城門を突破して自分の前に現れたという事実。
ジャトラより武勇に優れた四人が、魔竜の力を手にしても、フブキらを排除する事は叶わなかったのだ。
ならば、自分が血を飲み干したところで。魔竜から得た力の、さらに上をいく力で。魔物と化した自分が押し潰される姿が、容易に想像が出来てしまった以上。
もう、小瓶を再び口に近付ける事は出来なかった。
「タツトラ……それにサラサ……俺は、俺は……一体どうしたら良かったのだ」
敵に追い詰められ。最後の手段でもある魔竜の血を飲む事すら拒絶した男は。
自分が魔竜の贄として差し出した妻と子供の名を、嘆き声とともに口から溢すと。
握りが緩んだのか、手の中の小瓶が地面へと溢れ落ち──いとも簡単に陶製の小瓶は、小気味良い音を立て、割れて砕けた。
当然、瓶に入っていた黒い液体が地面に撒かれ、染みを作り。染みの表面からは黒い靄のようなモノが昇る。
魔力に似てはいるが、全く異質の力の源。それこそが黒い靄の、そして魔竜の正体に肉薄する秘密なのだが。
それよりもジャトラにとって深刻だったのは。
『──いたぞ! ジャトラだ!』
見つかってしまった。
一目散に逃げた事で疲弊した体力を回復し、息を整えるため。城の敷地内に建てられた小屋の陰に隠れていたジャトラだったが。
どうやら小瓶が割れた音を察知した武侠が一人、隠れていた場所を調べるため。乗っていた馬を降り、槍を構えて接近してきた──そして。
発見したのが味方ではなく、敵だったのは。かつては当主だった人間を敬称ではなく、「ジャトラ」と名を呼び捨てにした時点で理解した。
「は……こうなっては。逃げも隠れも出来まいな」
立ち止まり、休憩を取ってから時間は経っていたものの。まだ完全に疲労が回復してはいないジャトラだったが。
身を隠していた建物の裏側、ジャトラのいる場所より後方は行き止まりとなっており。逃げるには、前方から接近する武侠を退ける必要があった。
発見された事はジャトラにとっての不運。
先程の発見の報を誰かが聞き付け、周囲の武侠が集まってしまえば。逃げ場のないジャトラに勝機はない。
が、ジャトラを発見した敵は一人。しかも騎乗していた馬を置いて、単身向かってきていたのは幸運としか言いようがなかった。
敵が集まらない内に発見した武侠を倒し、置いてある馬を奪い。強引に一の門より城下街まで逃がれれば、と。
「何としても、この場……押し通る‼」
魔竜に捧げる筈のマツリを奪われた際には、醜態を晒したジャトラだが。先代当主、つまりはマツリの父親であったイサリビの元では。共に戦場で活躍を見せた、武勇に優れた武侠でもあった。
ジャトラは覚悟を決めて、腰に挿していた剣の柄に手を伸ばし。この国製の片刃の曲刀を鞘から抜き。
槍を構えながら慎重に近付いてくる武侠に、先手を切って攻撃を仕掛けていった。
『う……お、おおぉっっ⁉︎』
今まで息を潜めて逃げ回っていた相手が、一転。剣を握り、自分から距離を詰めてきた事に。
すっかり勝敗の大勢は決し、緊張感を緩めていた敵武侠は完全に不意を突かれ。驚きの声を上げながら、構えた槍の内側へとジャトラの侵入を易々と許してしまい。
槍刃を避け、片刃剣の攻撃範囲へと踏み込んだジャトラは。武侠が装着していた金属鎧の装甲の薄い箇所、首へと。両手で握っていた剣の切先を向け、一気に刺し貫く。
『が、っ……ふぅぅっ、ぐ、は?』
喉を剣で貫かれたことで、苦悶の表情を浮かべた武侠の口からは。言葉にならない絶叫と一緒に、真っ赤な血がごふ、と溢れ出す。
「……勝ち誇っているのも、今のうちだ」
ジャトラは武侠の首元に深々と突き刺さった剣を抜かず、そのまま放置し。代わりに武侠が持っていた槍を奪い、自分の武器とした。
騎乗した状態で扱うのであれば、剣よりも攻撃の間合いが長い槍のほうが取り回しが利き、扱い易いからだ。
「やはり、まだ神は自分を見放してはいなかったのだ」
出来れば、倒れて息も絶え絶えな武侠から鎧を一式、剥がしていきたかった。自分が戦う事など想定していなかったジャトラは、腰の剣以外に、鎧も何も装備してはいなかったからだ。
だが、鎧を脱がすには時間が掛かる。さすがにジャトラも鎧は諦め、槍と馬だけを倒した武侠から頂戴する事にした。
「俺はこの窮地を絶対に脱してみせ──う、うおっ……な、何だ⁉︎」
ジャトラが馬に駆け寄り、跨がろうとしたその瞬間。
突如として、地面が大きく振動した。
「な、何だ、この強い揺れは……っ?」
あまりの揺れの強さに、周囲の建物や城壁が軋む音だけでなく、細かな亀裂が走り。
あまりの揺れに膝の踏ん張りが効かず、足を掬われてしまうジャトラ。
不意に、足元にあった筈の地面が崩れ始める。
その時、ジャトラの頭に響いたのは。
城の地下に控えていた魔竜の声だった。
『悲しいかな、矮小な人間よ。だが、貴様の無念だけは晴らしてやろうぞ。貴様の生命を代償にしてな』
「じゃ、じゃあ……この揺れは、この穴は?」
『貴様を喰らうための、口よ』
「う、うおおおおお! 嘘だっ……嘘だあああああ⁉︎」
逃げ出す間もなく、地面に突如として空いた大きな穴に、大量の土砂ごと飲み込まれていくジャトラ。
今までにも自分の願望を叶えるために、大量の人間を魔竜に喰わせ。愛する家族までも生贄に捧げたジャトラは。
だからこそ。
最後まで自分の野望を完遂する必要があったのだが。
その願いは虚しく。
最後に自分の生命すら、魔竜に捧げる事となった。
「こ、こんな終わり方っ、俺は、俺はあと少しで八葉の座に就けたはずなのにいいぃぃぃぃっっ──」
ジャトラの最後の絶叫は、地面が崩れる音にかき消され、誰の耳にも届かずに。
抱いた野望ごと、従えていた魔竜の腹の中へと落ちていく。




