258話 ジャトラ、最後の選択
アタシとモリサカとの会話を聞いたからなのか、何処からともなく笑い声が漏れる。
「──ぷ、っ……く、く」
見れば、笑い声を吹き出していたのはヘイゼルだった。
そう言えば、彼女も街を出発する際に。モリサカとカナンの交際が決まった場に、居合わせていた。
だから笑いが堪え切れなかったのだろう。
すると、次の瞬間。
「「わっはっははははははは‼︎」」
ヘイゼルの行動が火種となったのか、周囲から一気に笑い声が上がる。
ユーノやカサンドラら三人組、フブキも大声で笑い出し。お嬢や女中、マツリも口を押さえてはいたが、笑い声までは抑えてはおらず。モリサカ以外の騎乗していた武侠も、豪快な笑い声を上げている始末。
この場で笑っていないのは、指摘されたモリサカと、雰囲気に乗り遅れたアタシの二人だけだった。
「ちょ、ちょっと、何だいアンタらッ……」
底意地の悪いヘイゼルが笑い出したのはともかく、他の連中がモリサカを笑っているのは。悪意などではなく、ただ男女の関係を揶揄っているだけなのだろう。
それを理解しているのか、モリサカは笑い声を上げる連中に何も言い返すことなく。ただ真っ赤にした顔を伏せ、両手で覆っていたのだから。
「……やれやれ。仕方ないねぇ、でも」
一瞬だけ、戦場の真っ只中だというのに緊張感のないやり取りに。少しばかり辟易し、溜め息を吐いたアタシだったが。
すぐにその考え方が誤りだった事に気付く。
「そっ、か。緊張感なくなるのも当然だよねぇ」
一の門では武侠の二〇〇を超える大軍を蹴散らし。二の門を守っていた四本槍に続き、三の門で待ち構えていたカムロギら傭兵団も撃退した。
今や、進路の先に立ち塞がる敵の勢力は何者もおらず。しかも当主だったマツリも救出に成功し、確保しており。
黒幕だった人物・ジャトラは一人の護衛も付けず、単身この場から逃走を図った状況。
どう少なく見積もったとしても、だ。
本拠地に侵攻し、城を陥落させ。敵の総指揮者を敗走させたのだから。アタシらを含め、ジャトラに叛旗を翻した側の大勝利と言っても、間違いではなかった。
「……アタシらは、勝ったんだからさ」
だが。大笑いしていた他の連中のようにアタシがモリサカを笑えず、どこか冷めた態度でいた理由。それは、勝利の実感が湧かなかったからだ。
勝利した、という実感がアタシに足りていなかったのは。単に「魔竜との戦闘が回避された」のが原因なのは、自分でも理解している。
魔竜との戦闘が最後に控えている、と覚悟していたからこそ。アタシはここまでに魔力を温存し、強力な魔術文字の使用を制限していた。
カムロギもオニメも強敵ではあったが、「九天の雷神」の魔術文字を発動出来ていれば、もう少し楽な展開になったであろうと思う。
結局は、魔力を温存する配慮は無駄になってしまったわけだが。
「まあ……フルベの時みたいに心配掛けないでよかった、と喜ぶべきなんだろうけどね」
それに、追い詰められたジャトラが逃走する前に、マツリに吐き捨てた言葉が真実ならば。
魔術文字が彫られた石版、を所持している八頭魔竜を利用している連中はジャトラだけではないのだ。
魔王領を最後に、魔術文字の手掛かりを失っていたアタシにとって。魔竜と石版、という手掛かりがまだ切れていないのは僥倖だが。
……それでも。
魔術文字の手掛かりとなる、石版の欠片を絶対に手に入れる……と意気込んでいただけに。
「魔術文字の手掛かりが遠のいちまったのが、こんなに残念なんだねぇ……アタシは」
釈然としない気持ちを抱えたまま、アタシは眼前にそびえ立っていたシラヌヒ城を見上げていた。
◇
同じ頃、シラヌヒ城の一角では。
マツリから逃げ出したジャトラは、出来るだけ追手を振り切ろうと全速で走り続けたためか。激しく息を切らし、今にも膝から崩れ落ちそうな程に疲弊していた。
本来であれば、先代の当主の娘であるマツリを蹴落とし。太閤や他の八葉の協力を経て、カガリ家の実権を握る手筈だったのに。
「はぁ、っ……はぁ、っ……くそ、っ、な、何でこんな事に、っ……」
追撃を仕掛ける相手などいなかったが、生命の危機を感じるジャトラに後ろを振り返り確認する、心の余裕など微塵もなく。
ふらつく脚を何とか動かし続け、彼が目指していたのは。魔竜の棲み処と化した、城の地下だった。
八頭魔竜。
かつてはこの国を滅びの寸前にまで追い込んだ邪悪な竜だったが。今は、我らに手を貸し。徐々に痩せて衰えていく大地に、魔力を送り蘇らせると約束した。
だからジャトラは魔竜の言葉を信じ、領民を次々に贄に……時には、農村を丸々一つを差し出したりもした。
最初の内こそ罪悪感を抱いたりもしたが、犠牲の全てはこの国のためと割り切った。
それなのに。
それなのに。
人の気配が一切しない城の敷地内で、ジャトラは一人でも自分の盾となり、肉壁となる人間を呼び寄せようと。切迫詰まった声で救援を叫ぶが。
「誰か! 誰かおらぬか! 城の主である俺を守れっ!」
無情にも助けを求める声は、虚しく周囲に響くだけ。武侠はおろか、誰一人もジャトラの前に姿を見せず。
逃げていた間、常にジャトラの護衛に控えていた「影」からの援護も報告も、気配すらなかった。
無理もない……ジャトラに従い、隠密活動を果たしていた「影」は。カムロギが敗れた後の主人の命令に殉し、残る六名で無謀な襲撃を仕掛けたのだから。
しかも、四本槍にカムロギらを城門の護衛に当たらせていた事に慢心し。城の護衛は残らず、一の門に駆り出してしまったからだ。
だが、何故に城に誰一人もいないのか。
当然ながら、屋敷や城内には権力者やその側近、兵士だけではなく。権力者の世話役や建物の管理をする、様々な役割の人間が必要になる。
八葉、という立場と。シラヌヒ城という建造物の規模なら、数十人ほどの人間が雇われ。常時、城内に控えているのが普通だ……が。
ジャトラは必死になる余り、頭から抜け落ちていた。
「はぁ、っ……も、もう、足が重いっ……息が、続かない……く、くそぉっ!」
いよいよ脚に枷を付けられたように重く、言う事を聞かなくなり。脚だけでなく、全身が「これ以上は走れない」と悲鳴を上げる。このまま走り続ければ心の臓が破裂してしまうかもしれない、それ程に胸が激しく痛む。
まだ一介の武侠として戦場を駆けていた頃と違い、既に身体は老い、戦場から離れて久しいジャトラは。全身の苦痛に耐え切れず、目的地への到達を断念する。
「そ……そう、いえば」
ジャトラは何かを思い出したように。懐から禍々しい気配を纏わせた、カムロギに手渡そうとしたのと同じ小瓶を取り出してみせる。
勿論、瓶の中身も同じ。
二の門を守護するカガリ家四本槍に「奥の手」と称して手渡しておいた、飲めば人間の身体を捨てる代わりに、強大な力を得られる効果を持つ「魔竜の血」が入っていた。
……だが。
たかが血であれ、無償で分け与えるほど魔竜は情け深い魔物ではない。血を、強大な力を授ける代償に魔竜が要求したものは、人間の贄だった。
そう。今、城内に誰もいないのは。複数回分の血を入手する代わりに、ジャトラの命令によって魔竜に喰わせてしまったからなのだ。
無数の犠牲で生み出された、魔性の小瓶。
魔竜の血が入った手の中に握られた小瓶を、足を止めてジッと見つめるジャトラ。
「これを……飲めば」
一瞬ではあるがジャトラには、小瓶の中身を飲み干し、強大な魔物になる誘惑が頭を過ぎる。




