176話 イスルギ、最後の一矢
イスルギが胸に受けた二つの傷も致命的な深傷ではあったが。
たった今、頭の一部を吹き飛ばした鉄球の一撃による損傷は。ヘイゼルでなくとも、最早誰の目からも「もう助からない」と判断出来るものだった。
「ふぅ……っ。お、終わった、あぁぁぁ……っ」
これで、イスルギとの勝敗が決したのを確信したヘイゼルは大きく息を吐くと。
構えていた二本の単発銃を下ろし。両膝の力が抜けたかのように、ぺたりと地面に尻を突いてしまう。
射撃武器での戦闘というものは、酷く頭と眼を消耗する。しかも二人のように、互いの攻撃を空中で撃ち落とすことの出来る腕前ならば尚の事だ。
何故なら、常に手の中にあり続ける近接用の武器と違い。一度、射手から放たれた矢や鉄球は、最早自在には操れないからだ。
前もって相手の攻撃の軌道を読み、同時に自分が有利な立ち位置を確保する。そして、一瞬の隙を決して見逃がさない……そんな獲物を狙う獰猛な鳥のような眼を。
戦闘中ずっと維持していなくてはならない、極度の緊張状態。
イスルギと対峙していた間、ずっと張り詰めていた精神から今まさに解放されたのか。ヘイゼルの全身が一気に脱力したのだ。
「まさか……最後の悪足掻きまで外れちまうとは。とことん、運に見放されたってやつかい」
地面に座り込みながら、頭から血を流して動かなくなったイスルギを呆然と見ていたヘイゼル。
最後、ヘイゼルの攻撃に合わせて引き絞った鉄弓から、一直線に矢が放たれていたとしたら。無事では済まなかったろう。
その時の攻防を思い返して、ヘイゼルが自分の胸を撫で下ろしながら。
視線を下へと落とした──その時。
「な……なん、だよ……これ?」
ヘイゼルの胸に突き刺さっていた一本の鉄矢。
装着していた胸甲鎧を貫通し、深々と刺さるその箇所とは……心の臓がある位置。
見れば、刺さった矢は。先程までイスルギが扱っていた鉄製の矢ではあるものの。矢全体が光沢のない黒で塗られていた。
そしてようやくヘイゼルは身体の異変に気付く。
つい先程、彼女が単発銃を下ろし、膝の力が抜けて地面に座り込んだのは。イスルギを倒した、という緊張からの解放感ではなく。
黒い矢に胸を穿たれた傷による脱力感が原因だったのだと。
「で、でも……な、何で矢が」
だが、最後の矢は確実に避けたつもりだったヘイゼルは。何故、自分の胸に回避した筈の矢が刺さっていたのか。
胸を貫かれた脱力と、疑問が同時にヘイゼルの朦朧とする意識に襲い掛かっていた。
「……は、は……あ、予め、な」
その時。
ヘイゼルの疑問に答えるのを待っていたかのように、絶命したと思っていたイスルギが。鉄球の直撃で側頭部を削り取られた頭のみを起こし、辿々しく口を開く。
「矢は二本、同時に弾いた……防御、ではなく、お前を仕留めるために、な……ごふ!」
最後のヘイゼルとの攻防の際、自分が胸に受けた二発の鉄球が致命傷だと悟ったイスルギは。鉄球を迎撃し、しぶとく生き残るよりも。残る仲間らのために一人でも敵の戦力を削る道を選択し。
防御を諦め、ヘイゼルに最後の一矢を浴びせたのだ。
「はぁ……はぁ、っ、ま、まず、一本は、囮。矢の影に隠した……その黒い、矢こそ……ほ、本命っ……」
あの時、イスルギが同時に射った二本の内。一本はヘイゼルの身体を掠める軌道で飛んでいったのは周知の事実だが。
実は、一本目の矢によって絶妙に隠れた二本目の矢がヘイゼルの急所を狙っていた、というのだ。
一の門で出現した影が、投擲した囮の短剣の影に、本命の黒塗りの短剣を潜ませ。対象に命中させる戦技・「月影」。
イスルギはその「月影」と同じ原理で、短剣よりも武器本体が細く、影に潜ませるのが困難極まる矢でやってのけたのだろう、おそらくは。
呆然とした表情のヘイゼルに、最後の力を振り絞り。大量の血を吐きながらも、ヘイゼルの胸を貫く矢の正体を明かしていく。
「俺は、負けた……だ、だが……一人では、し、死……なぬ、っっ──」
最早、死は避けられないイスルギだったが。その顔、その口元には何故か笑みが浮かんでいた。
そんなイスルギの言葉が不意に途切れ、ようやく力尽きたのか白眼を剥き、もたげていた頭からカクンと力が抜け、地面に倒れ伏していき。
今度こそ本当に、イスルギの生命の灯は──消える。
一方、ヘイゼルはというと。
「じょ……冗談じゃない、あたいは、まだ」
敵であったイスルギを倒し、周囲でいまだ決着が付いていない仲間の加勢に向かうため。
胸に刺さっていた矢を抜き。まずは立ち上がろうと、手足に力を入れようとするが。
身体が言う事を聞かず、手や足に力が込もる気配はない。それどころか、地面に尻や脚を置いている感覚すら徐々に失ってきていた。
その胸から喉へと込み上げてくる、熱い塊。
吐き出したのは、真っ赤な血だった。
「か……は、っ……こりゃ、血、かよ……っ」
つまりヘイゼルも、胸に深々と突き刺さった矢によって、身体の内側……つまり内臓のどこかを損傷したこととなる。
矢が突き刺さっていた箇所は、まさに人体の急所である心の臓がある辺り。幸い、胸には全く痛みを感じなかった代わりに、手足の感触が徐々に喪失していく時点で。
ヘイゼルは、自分の身体が深刻な事態が陥っているのを自覚せざるを得なかった。
「は、早く……霊癒薬をっ」
慌ててヘイゼルは、イスルギの矢傷を瞬時に塞いで癒してみせた魔法の回復薬「霊癒薬」に手を伸ばそうとしていた。
一撃で心の臓を射抜かれていたら、回復の余裕すら与えられずに一瞬で絶命していた。ということは、まだ回復の余地があるとヘイゼルは踏んだからだ。
懸命に腕に、指に力を込めて、霊癒薬を手に取ろうとしたヘイゼル。
「く、そっ……指から、力が抜けてく……っ?」
しかし、手に一切力が入らず。霊癒薬が入った懐まで、何とか動かそうと震える手が届くことはなかった。
その内に、ヘイゼルの視界は徐々に狭まってくる。
意識の朦朧が強まっていたからだ。
「わ、悪ぃ……ユーノ、アズリア……あたいはっ……」
最後に口から漏れたのは、いまだ三の門を護衛していた連中との戦闘を繰り広げていた仲間らの名前だった。
そしてついに、頭の内側を暗闇に覆い尽くされるような感覚に、抗えなくなったヘイゼルは。霊癒薬を探していた手が力を失い、地面へと触れると。
地面に座り込んだ体勢で首を項垂、完全に意識を失ってしまう。
「どうやら、ここまでみたいだ……よ……」




