67話 アズリア、ユーノに起きた異変
切羽詰まった感じのユーノの絶叫を聞いて、アタシら三人の間に一気に緊張感が走る。
「な、何が遭ったのかしら? だって……」
フブキが不思議がるのも無理はない。
そもそもユーノが一人で先行したのは、馬の名付けに自分の出した名前候補が選ばなかったために不貞腐れたからだ。
だが、そんな心境だった彼女が。自分の立場を忘れて大声でアタシらを呼んでいた……ということは。
「お、お姉ちゃあああんっ! みんなもはやくきてえええっ!」
出発を躊躇している間にも、ユーノがアタシらを呼ぶ声は止まらない。
という事はおそらく、ユーノが直面している何かは彼女一人では解決出来ないからだろう。
「おい、フブ──」
既にシュテンに跨がっていたアタシは、早速ユーノの元へ駆け付けるため。背中のフブキに、あらためて出発時の加速に備えるよう声を掛けようとしたが。
警告するよりも先に。フブキはアタシの腰に両腕を回し、背中に身体を押し付けるように密着して。既に二度ほど体験した、シュテンの急な走り出しの衝撃に備えていた。
フブキの準備の良さに感心したアタシは、後ろを向いたまま一度コクンと頷くと。ユーノが待つ山道の奥へと向き直り。
「ヘイゼル。しっかり後ろからついて来なよッ」
「お……おうっ」
アタシは、横で同じく走り出す準備をしていたであろうヘイゼルを見ずに。
今までは馬の走り出しには、手綱を引いたり、馬の腹を踵で軽く触れるといった手法を取っていたが。
人語を聞き取る能力があるだろうシュテンには、そんな手法は必要がないと思い。
「シュテン。アンタの名前を決めて、初めての共同作業だよ」
艶のある真っ黒な鬣を、少し強めに撫でながら。先程「シュテン」という名前を付けたばかりの駿馬に語り掛ける。
「アタシの大事な仲間を追いかけてくれないかい?」
そう言ってアタシは馬の視界に入るよう、シュテンの顔の横から山道の奥を指差していくと。
ブルルッ……と軽く鳴き声を漏らしながら、アタシが指差した先をジッと凝視した後、二度ほど首を縦に振り。
二度ほど急に駆け出し、フブキを驚かせた時とは違い、即座に走り出そうとはせず。ゆっくりと三、四歩、わざと後脚の蹄を鳴らして歩き始める。
「え? あ……あれ、アズリア?」
「……しッ!」
蹄の音が一歩一歩違うのを妙だ、と感じたが。すぐにアタシは、馬が歩速をこちらの息遣いに合わせているのに気付き。
背中で何かを言っていたフブキの言葉を制するために、一本立てた指を自分の唇へと置いて。
シュテンが歩く度に鳴らされる蹄の音、つまり歩く速度と。
アタシの息を吸い、息を吐く一連の動作。二つの動きの誤差を少しずつ、少しずつ合わせていく。
「あ……っ」
背中のフブキも、少し遅れてアタシが何をしているのかを理解したみたいで。アタシの聞き取りを邪魔しないように、黙って背中へと張り付いていた。
そしてシュテンの歩速と、アタシの息遣いが一致したその瞬間。
シュテンの脚や胴体、いや全身に力が張り詰めていくのが身体に触れていた箇所や手綱から伝わってきたのと同時に。
馬の背に跨がるアタシの身体が、急激に背後から強烈な力で引っ張られるような衝撃が襲う。
シュテンが、山道を駆け出したのだ。
アタシの視界の先にあった木々が動き出し、眼前に迫る。実際には樹木は動いておらず、こちらが接近しただけなのだが。
そんな勘違いをするほどの速度で山道を駆け抜けるシュテン。
「う……うおおッ、は、速ぇぇッ?」
左右に流れていく周囲の視界、頬を切る風の感触。そして身体を襲う衝撃といった、速度を感じる全てのことが。
先日に二度、走り出した時に感じたものとは比較にはならず。手綱を握りながら、思わず感嘆の声を漏らしてしまっていたアタシだったが。
「く……ううっっ……!」
アタシと一緒に騎乗していたフブキはというと。同じく身体を襲う衝撃に、腰に回した両腕に力を込めて必死に耐えている様子だった。
あれだけ事前に備え、シュテンも急な走り出しをしないという状況で、フブキのこの状態なのだ。もし、不意にこの速度で走り出していたらフブキはどうなっていたか……と思うと。アタシの背中に寒気が走る。
フブキの状況も気にはなったが、腰に回した両腕が離れてしまう様子は今のところ見られなかった。
「フブキ、絶対に……手ぇ離すんじゃないよッ!」
「は、離せって言われてもっっ……こ、こんな状況で手を離すわけないじゃないっっ!」
アタシの励ましの言葉に、怒鳴りつけるような口調で返答するフブキの態度に。
どうやらこれ以上の心配は無用だと判断した。
「ははッ……それだけ憎まれ口叩けるなら、どうやら平気そうだねぇ」
それよりも、今は。
これだけの速度で駆けてもまだ、姿が見えないユーノの身に何が起きたのかが心配だった。
「まあ、敵と遭遇したんじゃない事くらいは判別してるんだけどねぇ」
「な……何で、そんなこと言える、の、よっ?」
振り落とされないように懸命にアタシの腰に掴まっている、という余裕の無い状況にもかかわらず。アタシの呟きに、無理しながらも反応を示すフブキ。
確かに今、アタシらがいるのは人が滅多に踏み入らない山中だ。大型の獣や魔獣と不意に遭遇する可能性は充分にあるし。
何より、黒幕のジャトラが何らかの情報源から、本来ならカガリ家の人間しか知り得ない秘密の道の存在を入手し。配下の武侠や影をアタシらに仕向ける事だって、ないとは断言出来ないのだ。
寧ろ、今のアタシらの状況から緊急事態といえば敵襲以外を思い浮かべるのが難しい程だ。
「そんなの簡単さね」
だがアタシは、そんなフブキの言葉を明確な理由で否定していく。
「あれでもユーノは誇り高い獣人族なんだ。もし敵と交戦してたとしても、敵に警戒しろと声を掛けるならともかく、いきなり助けを呼ぶなんて行動……あり得ないんだよねぇ」
「あ」
「だろ?」
外見こそ十歳、いやそれより幼い少女のユーノだが。
自分の種族である獅子人族の若き女族長であり、魔王リュカオーン配下の最強の四名・四天将が一人でもある彼女は。
戦闘の実力も相当のものであり、同時にかなりの負けず嫌いでもある。その彼女が、まだ大声が出せる余裕があるのに、アタシに救援を求める可能性はない……と断言してもよい。
「それに……静かすぎるんだよ、戦闘になってたとしたらさ」
それにアタシは、魔王領に滞在していた頃からユーノと共闘する機会が多かったが。
ユーノの一番の武器は打撃音がそれ程あがらない両の拳……とはいえ。戦闘中の口数や叫び声の多いユーノが少しも声を出さずに交戦する、という光景をどうしてもアタシは想像出来なかった。
だとすれば。何故ユーノはアタシを呼び寄せるような真似をしたのだろうか。
しかも、アタシやフブキ、ヘイゼルを呼ぶ声には必死さ、そして若干の焦りみたいな感情が含まれていたように思う。ということは、この先に待っているのはどう転んでも好ましい事態ではない。それだけは確かだ。
落石や崖崩れで道が塞がっている。或いは……フルベに向けて進軍するジャトラの戦力が目撃された。などと、今のアタシらにとって良からぬ出来事を頭に巡らせていると。
「あれは……ユーノ?」
アタシの視界の先に、ようやく不貞腐れ先行してしまっていたユーノの姿を小さく捉えることが出来た。




