淫魔は揺蕩う
ほぼ、会話文メインでの話になります。
「胎の中にいる間に始末しましょう」
ふと、目覚めた瞬間に聞こえたのは、ぞっとするほど冷えた声。
それはたぶん、自分の存在について。
「この子は我の子じゃ。なぜ、そなたに生殺与奪の権利があると?」
「ですがっ……」
「胎教に悪いことを言うような奴は嫌いじゃ。しばらく顔も見とうない。去ね」
しばし無言の時が経ち、不穏な気配が遠くに去っていった。
「ほんに、あやつは我のことになると狭量になる。まぁ、そこが愛いとこでもあるが……」
ポツリとため息交じりにこぼされた言葉。
そして、ゆっくりと世界がやさしく揺すられる。
「其方の父は守れなかったが、そこは許しておくれ。さすがに我を謀ったのは、やりすぎじゃ。じゃが、其方は其方の父とは別の存在じゃ。其方の父の分まで愛すると約束しよう。あやつには決して手は出させん。詠唱者との子は何人も生んだが、淫魔との子はどんな顔をしておるんじゃろうのう。楽しみじゃ」
ゆらゆら、ゆらゆら。
温かい母胎の中で聞く声が、愛し気に囁く。
自分は生きてても、産まれてもいいとその声は語り掛けてくれる。
だんだんと目の前が暗くなって、とろとろとした微睡につく。
次に目覚めたのは、肺から水を吐き出して、大きく呼吸した時。
苦しい。まぶしい。寒い。
温かで穏やかな閉じられた世界から追い出され、不安から大きな声を上げて泣いた。
「よしよし、よくぞ元気に産まれおったな」
聞きなれた声が、懐かしい匂いが、温かな腕の中へと抱きしめられた。
「私は認めていません」
「我は其方に、父親として振舞えとは一言も言っておらんぞ。じゃが、この子は正真正銘、我の子じゃ。我の子を疎むような真似だけはしてくれるな。我を失望させないでおくれ」
「魔王様」
「言い訳は聞きとうない。淫魔はすぐに大きくなるでの。こうやって愛でられる時間はあっという間じゃ。貴重な時間を邪魔するでない。それとも何か、我が詠唱者よ。我と共にこの子を愛でるというなら、側にいてもよいぞ?」
ちらりと瞼を開ければ、苦り切った美しい顔が歪むのが見えた。少し視線をずらして、この身体を大事そうに抱いている手、腕、肩、首を辿り、そして、愛しげにこちらを見つめる紅い瞳にぶつかった。
「おお、銅色の瞳じゃ。髪と同じ色じゃな。そうそう、名は何としようかのぅ」
紅い瞳がしばし外れた。
それがさみしくて、小さな手を精いっぱい伸ばした。
「レニ」
その艶やかな唇が、言葉を発した。そして、伸ばした指先に、人差し指が絡んだ。
「其方の名はレニ。レニじゃ。我の……ええと、何番目じゃったかな」
「十三番目です」
「そうか、もう十二も産んでおったか。十三番目の子じゃ。義兄姉はたくさんおるぞ。といっても、ここにはもうおらんが……おそらく其方が一番早く大きくなるんじゃろうなぁ」
そういって、紅い瞳のその人は、額に唇を落としてくれた。ぽわんと体の内側に温かい何かが注ぎ込まれた。
「魔王様、お疲れでしょうから、しばしのお休みを」
「其方がレニを大事に扱うというなら、その言葉に従おう」
「私の負けですよ、魔王様。貴方の魔力を授けたものを、どうして私が無碍にできるとお思いですか」
「知っておったよ。其方が我に甘いことも、必ず、折れるということも」
紅い瞳の人は、くつくつと笑いをこぼすと、レニを差し出した。
「仲良うするんじゃぞ。レニ、何かあったら我を呼べ。我はどんな時も、其方のことはちゃんと見ておるから安心するがいい」
その腕の中から出るのは嫌だったが、別の腕がレニを受け取った。
「さぁ、魔王様はお休みだ。今まで何人も我が子の面倒は見てきている。心配するな」
最も、血のつながりのない子供は初めてだけど、となにやらブツブツ零していた。
この腕の中で恐怖がなかった、と言えば嘘になる。
でも、先ほどもらった温かい何か、のおかげもあり、心地よい満腹感と急激な眠気に抗えず、レニは銅色の瞳を閉じた。
「そうしていると、まるで本当の親子みたいじゃのぅ」
「やめてください、魔王様」
「魔王様」
「おお、レニ。大きゅうなったのぅ」
「もう魔王様の魔力をもらわなくても、大丈夫。レニ、もう大人だよ!」
「なんと、もう一人立ちしたというのか?さすが淫魔の成長は早いのぅ……どれ、顔をよう見せておくれ」
魔王様の鼻先にくっつくほど顔を近づける。懐かしい魔王様の匂い。大好き。
「これ、そんなに近づいたら、反対に見えぬではないか。おお、なかなかの男前に成長したのぅ」
「魔王様、好きぃ」
額と額を突き合わせ、くすくすと笑っていると、うなじにかかった手に強引に後ろへと引っ張られた。
「もう大人になったのなら、魔王様に近づくな」
「これ、我が背、我の愛しい子になんとする」
「魔王様、我が子とはいえ、淫魔を懐深くに入れるのはお止め下さい」
「我が背はいまだに淫魔に対して苦手意識があるようじゃ。ならばレニ、淫魔ならよかろう」
魔王様の許可の元、インキュバスからサキュバスへと変貌する。筋肉質だった体が柔らかな曲線を描く。ふるんと柔らかそうな双丘が揺れる。
「魔王様、そういう問題ではありません!」
「うるさいのぅ。レニや、もうちょい年齢を下げられんか?我が背は我の体形は見慣れておるだろうが、そのような豊満な体には不慣れじゃ。目のやり場に困りおろう。まぁ、我としては、その胸に埋もれてみたくはあるがな」
「じゃあ、今度二人っきりの時にね?」
「それはまた楽しみなことじゃのぅ」
「魔王様!!」
魔王様のご希望通り、少年にも少女にも見えるくらいの見た目になった。
「どれ、これだと他から見たら仲の良い親子に見えはせぬか?」
「親子?」
「そうじゃ、レニ。我が母、ほれ、母上、と呼んでみぃ」
「ははうえー」
「ふふふ、初めてじゃ。我が子に母と呼ばれたのは。よいのぅ……詠唱者との間の子らは、すぐに引き取られていったから、その機会がなかった故」
「魔王様、レニがははうえ、って呼ぶの、うれしい?」
「ああ、うれしいぞ!我が背、そのような仏頂面するでない。この場限りじゃ、気持ちよう、我を過ごさせておくれ」
そういいながらも、そのお遊びは魔王様が封印につくまで続いた。
魔王様はそれはそれは楽しそうだったが、詠唱者はずっと眉間に皺を寄せたままだった。レニとしては魔王様がうれしそうだったので、詠唱者の気持ちはまるっと無視して、魔王様のことをたまに『ははうえ』と呼んでいた。
「さぁ、我が背、我が詠唱者よ、聖なる呪文を唱える時間じゃ」
いつかその日が来るのは知っていた。
でも、それは今日ではない、今、この時ではない、とずっと先延ばしにしていた。
だけど、そんなレニや詠唱者の願いを、魔王様自らが叩き折ってくれた。
「この世界にこれ以上の魔力は必要ない。これ以上の澱みを増やすのも限界じゃ。そろそろ我を眠りにつかせてくれんかのぅ?」
「嫌です、魔王様。できません」
「できる、できないではない。するのじゃ」
「貴方を失うくらいなら、この世界など!」
「我を失望させるでない、詠唱者」
底冷えするほどの暗い、容赦のない断罪の声音。
「のう、レニの方がよっぽどわかっておるわ。ぐずっておるのは其方のみぞ。レニ、すまない、後のことは任せたぞ」
レニが唇を引き結んでコクリとうなづくと、魔王様は柔らかく微笑んだ。
「さぁ、詠唱者、残りは其方の覚悟のみじゃ」
とうとう封印の呪文が詠唱者の口から流れ出した。
本当はわかってる。
これ以上の魔王様の目覚めの時間を引き延ばすのは、害悪でしかない。
詠唱者はこの世界のためにその言葉を紡いだ。
「ありがとう。愛しているよ、我が背、我が子たち」
封印は成った。
魔王様は永い眠りにつかれた。
そこに魔王様の心はない。
それでも、魔王様はここにいる。
だから、レニはずっとそばにいるよ。
レニなら永遠に魔王様のそばにいられるから。
魔王様に頼まれたから、ちゃんと詠唱者のことも見ててあげる。
本当は怖いけど、嫌いだけど、唯一、魔王様の思い出を共有できる絆なんだもの。
「あんた、いい加減にしろよ」
魔王様を封印した詠唱者はでくの坊と化した。
ただ生きて、呼吸をしているだけ。日がな一日眠る魔王様のそばに侍るのみ。
魔族と違って、人間は食事や睡眠、その他毎日めんどくさい工程が必要なのは知っていた。なので、レニが強制的にさせていた。
口に食べ物を詰め込み、吐き出さないように飲み込むまで監視。睡眠は体力の限界で倒れたところで寝台へ放り込む。ついでに、ここぞとばかりに詠唱者の体液を求めて集う淫魔の排除なんかもその役目のうちに入ってた。
次代の詠唱者候補が来ても、その状態は変わらず。
とうとう、レニの堪忍袋の緒が切れた。
「なに、をする…」
「この状態になって、やっと理解したか。おめでたい」
寝台の上でレニに組み敷かれた詠唱者の瞳に、久しぶりに正気を示す光が灯った。
目の下にはくっきりとした隈があり、顔色は病的なほど青いというのに、不思議なことにその容色に衰えは見えない。むしろ、凄惨な美しさを増していた。
「たぶん、あんたが思ってることが正解だよ。なに、をするんだよ」
「や、めろ!私に、さわ、るな!!」
「ふん、こんなものだったんだな。昔、あんたが怖かったよ。いつ、レニの存在を消されるのかって思ってビクビクしてた。だけど、今のあんたはこんなに弱って、頼りなげだ。こんな姿を魔王様が見たら、なんて思うかな?」
「ま、おうさ、ま」
詠唱者の瞳の焦点が合い、レニの視線とぶつかった。ふいに、その眦からボロボロと雫が溢れた。レニに見られたくないのか、腕で顔を覆った詠唱者は乾いてひび割れた唇を戦慄かせた。
「魔王様はいない。もういない。どうして。会えない。会いたい……会いたい、だけなのに」
レニは大きく手を振りかぶると、思い切りそれを打ち下ろした。乾いた音と共に、詠唱者の首が大きくしなった。
「それをしたのは、あんただ」
「だから―――これは、その罰だ、と?」
「そう思いたいなら、そう思えばいい」
嫌な役を頼むな、レニ。
あやつは罰されたいと、罰されるべきだと思うだろう。
それでも見捨てないでやってくれ。
もしも、あやつがいつまでも目を覚まさないようなら、後のことは其方に全て託そうぞ。
魔王様への後ろめたさを打ち消すように、レニは詠唱者の首筋に噛みついた。
ごめんね、魔王様。
魔王様の大事な人をこれ以上壊さないために、レニはこんなことしか思いつかなかった。
人間ってめんどくさいね。
いろいろ考えて考えすぎて、そのせいで自分を追い詰めてしまう。
死んだら終わりだ。
それは魔王様が望んだ終わりじゃない。
だから、強制的に目を覚まさせてやる。
魔王様しか知らない体を暴かれる屈辱で、レニを憎めばいい。
激しい感情は生きる糧になる。
詠唱者、レニへの憎しみを抱えて、魔王様のために生きればいい。
「本当は、わかっていたよ」
痩せさらばえた手が、指が、レニの皺ひとつない手の甲を優しくなでる。
「あの時、死んだ方が、死のうと思っていた私を奮起させるために、お前がしたことだって」
「そんなことあったっけ?」
「いくら魔王様からの頼みだったとはいえ、嫌な役をさせた」
「かわいそうだったのは、あんたにそれまで存在を丸っと無視されてた次代詠唱者じゃない?まぁ、結局は立派に後継を育て上げたけど」
「そのおかげでいつかまた、魔王様のお役に立つことができる。今から数十年、数百年後だったとしても」
「それを、レニはちゃんと見届ける」
「そうだな、お前は不老不死。次の魔王様のお目覚めにも立ち会うことができる」
ほぅ、と、か細い吐息が一つ洩れた。
「あまり無茶するな。もう休め」
「いいや、もうすぐゆっくり眠れるんだ。今、伝えなければいつ告げるというんだ」
「レニへの恨み言?死に損ないの願いなら聞かないわけにはいかないな」
「恨み言、か……魔王様もこんな気持ちでお眠りになられたのかな」
もうほとんど見えていない白濁した瞳の上に、ゆっくりと瞼が覆いかぶさった。
「私は、お前のおかげで生き永らえたよ」
「レニのおかげ、じゃなくて、レニのせいで、だろ?」
「いいや、おかげ、であってるよ。ずっとお前に謝らねばと思っていた。お前の父親を消したことも、お前を消そうとしたことも」
「別にレニは魔王様が守ってくれて、今生きているわけだから、今更父親?の方はどうでもいいや」
「それでも私はお前に謝罪せねばならない。すまなかった」
「ふーん、やっぱり人間ってのはめんどくさいな」
「めんどくさい……めんどくさいんだろうな。ついでといってはなんだが、これもめんどうなことだと聞き流してくれ。私はな、死ぬのは怖くない。むしろ、魔王様のそばへ行けるかも、という期待の方が大きい。だがそれよりも、心を一緒に持っていくのが怖い。それこそが、お前のせいだ」
「レニ、なにかした?」
「いや、むしろ、私の心の在り方のせいだ、な。人間とは薄情だな。時と共にあんなに愛した魔王様の記憶は薄まり、側にいる者に心を寄せてしまうとは……むしろ私を嘲ってくれ。私はいつしか、魔王様以上に、お前に心を持ってかれてしまったようなのだ」
沈黙が部屋に落ちた。
あまりにも長い静寂に、詠唱者が寝てしまったのか、と恐る恐るその顔を覗き込んだ。
「もう死んだと思ったか?」
「なっ…あっ、えっと」
「まぁ、いい。もし叶うことなら、次の生もお前に会いたいと思う程、私はお前を愛しているよ。話はこれで終わりだし、お前の返事もいらない。そろそろお前の居場所へとお帰り。次にお前と会う時は……」
私の死を報せる時だろうな。
そういって、心残りすべてを吐き出したらしい詠唱者は、微かな寝息を立て始めた。
レニは穏やかに上下する詠唱者の胸の動きをしばらく見た後、その部屋を後にした。
詠唱者は後継にその座を譲った後、魔の森の端に小さな庵を建ててそこを居にした。人にしては長い生を続けていたが、そろそろ限界らしい。
「ほんと、人間ってめんどくさい」
詠唱者、あんたの心残りはなくなっただろうが、残されるレニの心は?
ずっと、嫌いだ、苦手だ、と思い込もうとした。
だけど体を繋げた瞬間に思い知った、わかってしまった。
本当はずっと、ずっと、焦がれていたと。
冷たい瞳の奥にくすぶる、魔王様への愛を、熱情を、それをうらやましいと思っていたのだ。
決してそれが手に入らないと分かっていてなお―――
三日後、詠唱者が死んだ。
そばにいたわけではない。詠唱者の最後の魔力がそう、告げに来てくれたのだ。
やせ細って、針金のような今の体ではなく、一番幸せだったあのころの面影がレニの前に表れた。
「……ははっ、見栄っ張りだな。魔王様によろしく」
半透明に透き通ったその体が、レニの生身の肉体をすり抜けていった。
魂は冷たいのだろうと勝手に思っていたが、懐かしい思い出が詰まっている、温かい塊だった。耳元に、一言だけ詠唱者の最後の声を落としていった。
『 』
互いに決して瞳を合わせなかった。
どんなときも名前を呼び合わなかった。
それが、二人だけの暗黙の了解だったから。
「最後の言葉がそれって……卑怯者。やっぱり、大っ嫌い、だ」