私だけの、魔王様
物心ついた時には側にいた。
一緒に育ったわけでも、言葉を交わしたわけでもない。
その寝顔を見ていただけ。
でもいつからだろう、寝顔だけじゃ物足りなくなった。
その瞳を開いて、こちらを見てほしい。
その唇から、声を聞かせてほしい。
それは、この気持ちは、何と呼ぶのだろうか?
「これからはお前が詠唱者として、いつか目覚める魔王様をここで封じる役目を継ぐのだ」
「はい、わかっています」
魔王を封じるという聖なる呪文を唱えるには、詠唱者としての血筋以上に、正しい発声、発音、抑揚、速度などが大事だ。
純血の詠唱者はすでに高齢だった。
一族の中で一番魔力が強く、後継に相応しいということで、私は幼いころからここ、魔王城で前任の詠唱者に育てられた。
この世界の始まりから、圧倒的な魔力の塊である魔王という存在があった。神、と言いおいてもいいのかもしれない。
世界に魔力は必要だ。だが、過ぎたる魔力は淀みを発生する。淀みは魔王の眷属、果ては低俗な魔獣を生み出し、世界の均衡を崩す。世界が魔力過多で崩壊する前に、源である魔王を封印し眠らせるのが詠唱者の役目だ。
詠唱者とは、そういう存在である、と理解するのが詠唱者となる第一歩だった。
魔王が眠りについている間、詠唱者の純血を受け継ぐ者がその側に控え続ける。世界の魔力不足が起きる頃、自然と魔王は目覚める。
その時、一番表層に現れた欲望によって、当代の魔王の性格や人となりは異なる。
過去最悪の魔王の目覚めは、征服欲や殺戮欲によってのものだった。当時の魔王封印までの道程は血まみれの歴史として詠唱者の間に伝わっている。
また、魔王の目覚めと共にあふれる魔力により、眷属である魔族や魔獣の凶暴化や活性化、魔の森による魔王城の守りの強化、等の弊害が出る。外からの魔王城への侵入が難しくなり、魔王の魔力に当てられたものはほぼ、その見目を、姿を記憶からなくす。
魔王、という圧倒的な存在を伝えられても、その姿形がどういうものであったか、世界に記録として残されていない理由である。
生粋の詠唱者の血筋は、そんな魔王の魔力の影響を受けにくい。
なぜなら、原初の詠唱者とは、異界渡りの異世界人だった。その異世界人と魔王との間の子が、後の詠唱者の一族の始祖となった。その血は世界に散らばり、今も枝葉を伸ばしている。聖なる呪文を伝える者も少なからずいるという。しかし純血を保った一族の更に選ばれし者だけが魔王城に留まり、その血を絶やすことなくそばに侍り続けていた。
いつか来る魔王の目覚めとその後の封印に備えて。
「魔王様の目覚め……それはもうすぐそこかもしれん」
「私の代で、ということでしょうか?」
「うむ。今まで彫像のように活動停止していた魔王様が、ここしばらく微かに動くのを、お主も見たであろう?」
つい昨日、魔王の瞼が震えたのを二人で確認したところだ。指先がピクリと動いたのも、見間違えではない。
「惜しい、実に惜しかった。儂があと二十……いや、三十ほど若ければ!その役をお主に等、譲らなかったのに」
「何言ってんだ、老害。さっさと去ね」
「ひっど!それが育ての親にかける言葉か?育て方間違えたわぁ……」
前任の詠唱者がガクリと肩を落とした。
「しかしこれもまた運命。仕方ない、詠唱者の一族として、ここは潔く去ろう。いや、歴史にもし、はないというが、儂があと四十は若かったなら……」
「はいはい、ここではないどこかで幸せな老後をお過ごしください。まぁ、残りがどのくらいあるのか知りませんけど」
「ちっくしょー、今後の余生に絶望した!お主を見返すくらい、幸せになってやるからなぁ!!」
見た目だけではわからなかったが、実際幾つなんだ、この老害。
しかし、年齢を感じさせない走りで魔王城の出口へと疾走してた前任者が、城を出る直前に振り返った。
「よいか、今後はお主が魔王様の右腕として、しかと仕えるのだぞ。魔王様の目覚めと共に顕現する、此度の魂の欲望を叶えるのじゃ。欲望に満足するのが早ければ早いほど、魔王様の封印の時期を早められる。そして、もう一つの使命も忘れるな。世界を余計な混乱に陥れる前に、魔王様を陥落させ、必ず次代の子を成すのだ!お主にその魅力があればなぁ!!これで生意気なお主との縁が切れて、せいせいするわ。さらばだ!!!」
いい年して、この育ての親は……
さすがに常に無表情を誇っている私の表情筋にひびが入りかけた。
慌てて口元を引き結び。
大切な役目のために、別れを前に泣くまい、と思っていた。
閉じられた魔王城という箱庭の中、詠唱者としていつ目覚めるともわからぬ魔王のそばに侍る日々。
感情など不必要。笑顔も、怒りも、悲しみも。ただ、魔王のためにだけあればいいだけの存在、それが詠唱者の役割。
前任者とは、ただ、それを繋ぐだけの絆があるはずだった。
言いたいことだけ叫んだ後、前任者は振り切るように前を向いて走り去った。別れを告げる声が震えていたと感じたのは、私がそう思いたかったからか。
「……ありがとうございました。本当は、人として尊敬していましたよ、貴方を」
姿形が見えなくなった前任者に、届くことのない言葉を呟いた。
それからひと月も経たず、魔王様は目覚めた。
その日、いつものように魔王様の髪を梳いていた時だった。魔王様の体は彫像のように硬く固まっているが、なめらかな黒い髪は絹糸のよう。詠唱者は手慰みにいつしかその髪の手入れをするようになっていた。さらさらと手の中に零れる髪を見るとはなしに眺めていると、その唇から、ほぅ、と吐息が漏れた。息を詰めた私が見つめる中、瞼が震えながらゆっくりと持ち上がっていった。その紅い瞳が私を捉えた瞬間、体中が歓喜に沸いた。
ああ、私はこの方に会うために生まれてきたのだ、と。
心のすべてが魔王様に向かう。
これが、この気持ちを表す言葉を、私は知らない。知らないけれど、わかっている。
私のすべてが、魔王様の物。
魔王様のすべても、私の物だ。
「…………て」
あえかな声が聞こえた。
私は慌てて、その唇に耳を寄せた。
「……このまま、寝かせて」
魔王様の言葉に、私は瞠目した。
せっかく目覚めたばかりだというのに、もしや今回の魔王様の欲望とは―――
「泥のように眠りたい」
睡眠欲。
そう言って、魔王様はその宝石のような紅い瞳を閉じてしまわれた。
確かに、征服欲や嗜虐欲、暴虐欲などの迷惑極まりない欲望によって目覚めてほしくはなかったが、これはいただけない。世界は魔力不足に陥っている。その願いだけはいますぐ叶えていいものではなかった。少なくとももうしばらく、数年単位は目覚めたままでいてもらわなくては、世界が困る。下手すると、この世界が崩壊してしまう。
私は己を奮い立たせた。
私は魔王様の有能な右腕。
私はできる。私になら、できる。
「眠りたいのに―――なんで眠れない」
「六百九十四年ぶりのお目覚め、お待ちしておりました、魔王様。私めが今代の魔王様の右腕です。何なりとお申し付けください」
「ろっぴゃくきゅうじゅうよねん」
まだ意識が混濁しているのか、魔王様が舌ったらずに数字を繰り返した。
「え、そんなに寝てた?いやいや今、そんなには必要ない。ぐっすり眠れるなら、ほんの一日でいいから、夢も見ずに眠りたいだけなんだ」
「魔王様、お言葉ですが、今の貴方に睡眠は不必要でございます」
「必要不可欠だよ?!」
そこでガバリと身を起こした魔王様の紅い宝石が、再び私を捉えた。
「誰?!何この美形、怖い!!」
「再度の名乗りのお許しを。魔王様の右腕でございます」
「は?右腕……私の右腕はある、けど。ああ、そういう意味じゃなくて―――え、魔王、って?!」
魔王様の混乱はしばらく続いたが、詠唱者の口伝にその対処法も伝わっていたので、一から丁寧にご説明申し上げた。
そもそも魔王という存在があやふやなのである。
存在はしているが、目覚めている時以外に自我はない。その目覚めている時すら、毎回『中身』が違うようである。長年の検証の結果、欲望を叶えられずに死んでしまった異世界人の魂が、何らかの形で魔王という形代に入るのではないか?
魔王様の性格やひととなりが毎回の目覚めにより変わるのは、中の人格そのものが交代するためではないか、との推測である。
まぁ、そんな謎は謎のままでも構わない。
今の魔王様こそが私のすべて、それだけが真実だ。
今代の魔王様は欲望のための努力を惜しまなかった。
快適な眠りのため、と膨大な魔力を使いまくった。攻撃魔法を得意とする魔王様は被害を出さないためにと空に向かって極大魔法を撃ちまくってくれた。宙の天体の見た目が少し変わったように感じたが、さして問題ないだろう。
おかげで魔王様としては十分ではなかったようだが、しばしの安息を得られたようだ。
だが、さすがにその結果に対して労力の大きさに嫌気がさしたらしい。別の方法はないのかと尋ねてこられた。それこそ私のもう一つの目的のためにも必要なことであった。私は嬉々として魔族の宴席―――魔王様が言うところの乱交パーティーなるものを開催した。
結果は惨敗。
魔族の常識は今代の魔王様にとって非常識だった、らしい。
喜んでその場を楽しんだ、という以前の魔王様もおられたようだったが、今代の魔王様にはお気に召さなかったらしい。その上、そういうことに対して激しい拒否反応を示すようになってしまった。
このままでは魔王様との間に子を成す、という大義すら危うくなってきた。
この点に関しては慎重に改善していかなくては、と密かに心に誓った。
そして提示した最終案が、聖なる呪文による封印。
これを聞いた魔王様の動きは早かった。世界中に魔王の目覚めの報を魔法で飛ばし、己の存在を誇示し、魔王城までの道の整備に着手し始めた。魔力消費のために極大魔法を無駄撃ちするよりも楽しかったのか、始終笑顔で作業をする魔王様を止める術は私にはなかった。
魔王城の外からやってくる詠唱者と名乗る者たちは、余興にもならなかった。
思った通り、魔王様を封印するどころかお気持ちを苛立たせるだけだった。
その御心に添えないのは心苦しいが、今、その願いを叶えることはできない。
真なる詠唱者は魔王様の隣に密かに侍っていた。
「もうなんなの……寝たいだけなのに……」
当たり前だが、今回の詠唱者も魔王様のお気に召さなかったらしい。
「皆の者!宴席の「やめろおおおぉぉぉ!」
しょんぼりとうなだれる魔王様の姿に、少しでもお気持ちを変えていただこうと宴席の準備しようとするも、すげなく却下される。
「よし、より環境を整備しよう」
魔王様は、意外と立ち直りも早い。
しかし、やることなすこと、トンチンカンだ。
魔王様は魔王様らしくない。
まぁ、そこがいいのだが……
「魔王様、また何やら思いつかれたのですか?」
「え、うん。わかる?今までの詠唱者が軒並み音痴だからさ、聖なる呪文の詠唱をまず練習してもらうための施設を作ろうかと」
「あの……魔王様?ご自分が封印されるってこと、お分かりですよね?」
「そのための努力は惜しまない!」
なにやら魔王様のやる気がみなぎっているが、勝手に封印されて困るのは私、いや世界の方なのだ。魔王様にそこらへんを理解して欲しいというのは過ぎたる願いだとはわかっている。わかってはいるが、ため息をこぼすくらいは許してほしい。
一仕事終えて、魔王様はかなりフラフラでご帰城された。
魔力を目一杯使ったようで、魔王様にしては珍しくあくびが出るくらい、眠そうであった。
「魔王様、寝所のご用意はできております」
寝れなくても、魔王様はベッドに転がるのがお好きだ。魔王様の留守中、寝所周りは完璧に整えておいた。好みはすでに把握済みだ。パリッとしたシーツは皺がないよう整え、上掛けはふかふかにしておいた。心が休まるというハーブの香を焚き、枕にも匂いを移してある。
ベッドの頭側に腰かけ、枕をポンポンと整え、魔王様をお誘いする。
なにやら半眼でこちらを一瞬にらんだ気がするが、気にしない。
魔王様も何も言わず、そのまま大人しくベッドの中に入って来た。
「おやすみなさい」
「……すみぃ…」
一瞬、無防備な魔王様に襲い掛かりたい衝動が沸き上がったが、今それをするのは愚策だ。
グッと劣情を理性で押さえつけ、魔王様が気持ちよく入眠できるよう、上掛けの上から優しくリズムを刻む。
「良い夢を、私の魔王様」
スゥスゥと穏やかな寝息を確認し、私は魔王様のシミ一つない滑らかなほおに軽く唇を落とした。
魔王様の意識がないときにしか許されない接触。
目覚める前からこっそりしていた行為だが、その時は悲しい冷たさしか感じなかった。だけど今は泣きたくなるほど穏やかな温もりが感じられる。
ふと、魔王様の眉間が寄せられた。
魔王様はお眠りの間、たまにこんな苦しそうな表情をされる。
ほんの少しの時間しか欲望を満たすことができない魔王様。この瞬間だけは幸せな夢を見てほしいと思うのは、私のわがままだろうか。
そっと魔王様の耳元に唇を寄せ、聖なる呪文の一部を唱える。
封印できるほどの力は込めず、優しく、ひたすら優しく囁く。
魔王様の憂いは晴れたのか、ひそめられた眉がほぐれ、幸せそうな寝顔が戻る。
世界に魔力が満ちるまで、魔王様を封印することはない。
この時間に有限があるのは理解している。
もしもその時が来た時、果たして私はこの温もりを手放すことができるのだろうか……