Beginning time
芽吹きの春。
その象徴。黄色い蝶がヒラヒラと飛んでゆく――――
綺麗に整備された石畳の上。春風が悪戯をするように吹き抜け、砂埃が舞う。細い車輪が横切りながら、チリンチリンと鳴り響くベルの音と、蝶は輪舞曲を楽しげに踊る。
一段高くなった歩道を、様々な靴たちが足早に近づいては通り過ぎる往来。首都という雑路を作り出す。
人と自転車の流れ。その脇で、馬の蹄が乾いたリズムを刻み、重く大きな車輪が石畳を削るように横切ってゆく。
左右から交差する馬車という川の向こう岸には、赤 煉瓦の立派な塀。それは、巨大な山脈が長く連なるような強固な城壁と言っても過言ではない。
――独自の文化を遂げた、和と洋を織りなす人ごみ。西洋ドレスや貴族服もいれば、着物や袴姿まで。色とりどりな人通り。
そこから時折、数人が重厚感漂う正門へ吸い込まれては、別の服装が中から吐き出される。そうして、何事もなかったかのように、歩道の人の濁流へと紛れ込む。
門の柱には、黒を背景にした金の筋で、こう綴られていた。
治安省――
トゥーラシア大陸の東に位置する、人口五千万の小さな国、花冠国。そこの犯罪を取り締まる機関。
蝶は風に乗り、上空高くへと舞い上がってゆく――――
まだまだ発展途上で、国の役所街でも二階までしかない。中心街を少し離れれば、平屋が多く、上階は富裕層の特権だった。
さらに天へ向かってゆく蝶は、羽という自由で景色を独り占めする。パノラマ展望台のように雄大に広がった、海の青も山の緑も。
気まぐれでありながら、高貴な存在として、降臨するように、蝶は再び地面近くへと、フワフワと降りてきた。
正面玄関のロータリーの植え込みで、可憐な笑みを見せるパンジー。彼女たちとおしゃべりするように、そばへ寄っては離れて、花びらを揺らす。
そのすぐそばには、空へと聳え立つ銀の旗ポール。国旗と治安省の旗が春の陽差しの中で、弾劾の風格を放っていた。
優美にお別れの挨拶をして、蝶は建物と平行に並ぶ、色とりどりの花々が咲き乱れる別の花壇――パレードを見にきた人々に、慎ましくありながら威厳を持って、手を振るように飛んでゆく。右を見て、左を見ると……。
規則正しく並ぶ窓の向こうで、私服と警察官のような制服を着た人々が、デスクに座って仕事をしていた。紙を手に持ち、話し合っている人たちが活気という空気を織り成す。
柱を何本か後ろへ見送ながら、建物の一番端の部屋へたどり着こうとする。花という人々の賞賛を浴びながら、堂々たる振る舞いと美しさを持って、蝶はユラユラと飛んで――!!
雷が落ちたかのように、夢から一気に覚めた。見てはいけないものを見てしまったように、蝶はクルッと素早く向きを変え、平和などこかへ飛んで行ってしまった――――
――――春の女王を玉砕した部屋。さっきまでの穏やかさとは違い、全体的に黄ばんだ空間。人はいるのだが、生気が皆無。
窓から吹いてくる風は春の暖かで平和な匂い。だったが、部屋の中に入り込んだ途端、ドブ川のように濁った空気のお陰で、腐臭漂うおどろおどろしい別物に様変わりする。
乱雑に置かれたファイルや資料の山。その合間にいる職員たちは、どこかぼんやりとしていて、吐く息はやる気ゼロ。
ここは、治安省の末端組織、聖霊寮。目には見えないもの、心霊関係の事件を取り扱う部署。
通常では取り締まれない事件は、全て聖霊寮へ回ってくる。その量は膨大。手つかずになり、机の上に放置されたまま、引き継がれることも忘れ去られ、未解決の事件の数々。それでも、世の中は平和に動いている。
早い話、ここは治安省の墓場である。出世街道から外された人たちが集まるところ。
ここに回されたら最後。二度と表舞台には立てない。きちんと整列された机に、死んだような目をして、時間をダラダラとやり過ごしている職員たち。
その一角で、異才を放っている男がいた。厚みのあるひび割れた唇には、短く細いタイプの葉巻、ミニシガリロが赤茶の姿を見せる。
青白い煙を吸い込むと、苦味と辛味が舌にカウンターパンチを鋭く与える。そういう強烈な代物だ。それをくわえ煙草のようにして、柔らかな灰がぽろっと床へ落ちた。
トレードマークのホンブルグハット。その下にある意志が強く鋭いブルーグレーの眼光。それは、目の前にある小さな缶を、さっきから穴があくほど見つめていた。
そうして、たどり着いた。今自分が立たされている状況、いや気持ちを表現できる言葉に。あきれが思いっきり入ったため息をついて、ケンカっ早そうな雑な声が葉巻の横からすれ出た。
「ドン引きだ……」
埃だらけの机の上に乗せられた小さな缶。それを、太いシルバリングがはめたれた人差し指と親指でつまむ。もう何度やったかわからない行動をまたした。鉄を熱して切断するような鋭い眼光を、缶に百八十度浴びせながら回す。
やがて出てくる。コーヒー豆のデザインとともに、書かれた文字が。それをあちこちから眺める。
例えばこんな風に。
上から目線。
流し目。
上目遣い。
目をこらす。
目を細める……。
とにかく、目の動きというものは全てやってみた。
だが、どうやって見ても、何回試みても、その文字は変わらない。そうして、この人物はこの結論にたどり着いた。
「オレの目がおかしくなってんのか?」
自身を疑い始めた男は、自分の前で展開されている大事件の真相に迫った。
「どっからどう見ても、無糖だ……」
前振りが長かったわりには、大した問題ではなかった。無糖の缶コーヒーが机の上に乗っているだけという、いたってよくある話。
しかし、国立 彰彦、三十八歳、百八十七センチの背丈で、ガッチリとした体格にとっては、死活問題なのだ。彼の藤色の少し長めで、洗いざらしの短髪の斜め上から、所在なさげな若い男の声が聞こえてきた。
「すまないっす、兄貴」
二十代前半で、国立によく似て、ケンカっ早そうな男。名前じゃなくて、兄貴。国立の性格は粗野。男気があり、面倒見がいいために野郎どもに慕われて、よくこの呼び方をされる。
そんな兄貴は、今ドン引き真っ最中。大きな体でギシギシと軋む古い回転椅子。その脇にいる若いののせいで。
国立は口の端で吐き捨てるように、ふっと笑って、こんなことを言う。
「てめぇ、回し蹴りバックだ!」
がっつり椅子に座っている姿勢なのに。実は兄貴の趣味なのだ、プロレスの技をかけるのが。いや笑いの前振りをするのが。
「おっす!」
若い野郎はボクサーのように両手を前に構えて、受けようとした。兄貴はただいま、ご着席中。食らわせられない技。若さ余って、待ち続けている二十代前半の男。男は背中で語れ的な黄昏気味の声で、兄貴はボソッとつぶやき、
「嘘だ」
国立はシルバーリングだらけの指で、若い男の額にデコピンした。
「座ってる状態でできっか! アホ」
「すまないっす」
笑いの前振りを取り損ねた男は構えをといて、ぺこりと頭を下げた。
葉巻は銀の薄っぺらい灰皿へ置かれた。片手で慣れた感じで缶を開ける。缶コーヒーが国立の口へ運ばれてゆく。――いや違う、ただの缶コーヒーではない。無糖という名のボッコボコにノックアウトさせられる飲み物。
唇に缶の硬さと冷たさが広がって、琥珀色が口の中に入り、のど元へ到達すると、
「はぁ~、苦ぇ……」
飲んでしまったばかりに、味覚という堪え難い五感に翻弄されるしかない宿命。思わず声がもれ出た。自分の体を侵食するような酸味と苦味。
それを追い払うため、葉巻をまたくわえると、若い男が横顔をのぞき込んだ。
「早く戻ってくれっす」
「あぁ?」
灰皿に葉巻をこすりつけ、火を消した。両腕を頭の後ろへ回し、足を男らしく膝を直角にして横へ組む。椅子にギギーッと押しかかると、国立の太い首から下げられていた、チェーンの長さが違うペンダントヘッド同士がぶつかり合い、チャラチャラという音をあたりにひずませた。
「戻れねぇだろ、もう」
「そんなことないっすよ!」
諦めきっている兄貴を前にして、二十代の男は両手を胸の前でギュッと握りしめ、若さ全開で意気込んだ。熱くなっている若いのとは対照的な、アラフォー前の国立。彼は帽子のつばを目元まで引っ張って、縦社会という組織で起こる、理不尽な出来事を口にした。
「やつの胸ぐら、つかんじまったんだからよ」
国立は先週まで、別の部署にいた。それは、罪科寮第一課。わかりやすく言えば、警察の捜査第一課と同じである。殺人事件などを取り扱う、治安省の花形。
数々の事件を闇から明るみへと引っ張り出し、次々と功績を挙げてきた敏腕刑事。それが、国立だった。
だが、ほんの些細なことで、有力な政治家に顔が利く上司に盾突き、ここへ左遷されたのだ。一言で言えば、パワハラである。
「兄貴は悪くないじゃないすっか?」
椅子を不意に後ろへ引き、ウェスタンブーツの両足は机の上へ乗せられた。かかと部分についているギザギザの金属部分――スパーをカチャカチャ言わせながら。
左遷刑事は黄昏た感じで、よどみ切っている空気を郷に入ったら郷に従えで吸い込む。納得できないながらも、前向きに取ってみた。
「運命なんじゃねぇのか?」
熱く渋い声で出てきた言葉のチョイスに、若い男は惚れ直して、聖霊寮の死んだような人々に喝を入れるように、大きなかけ声をかけた。
「かっこいいっす! 兄貴!」
国立は若い男と反対側へ、体をさっとよじる。それはなぜか。兄貴にもその言葉はカンフル剤となったからだ。こんな風に。
(言ってから気づいたけどよ。オレ、何言っちまってんだ。恥ずかしいから、こっち見やがんなよ)
ごまかすために、国立のシルバーリングだらけの手から、若い男に無造作に投げられた。兄貴の愛用の葉巻。ダビドフ プラチナムの高級な白い箱は。
「……てめぇ、それ受け取りやがれ」
ポンと机の端に置かれたそれが、何を意味しているのかわかった男は、ゲラゲラ笑い出した。
「マジボケっすか! そこで」
「うるせぇ!」
ウェスタンブーツのスパーは不浄な空気を引き裂くように、素早く床に下された。机の上に乗っていた資料の山をつかみ、若い男へ向かって軽く投げつける。
「受けろ、ランニング エルボー!!」
兄貴は今もがっつり着席中。
「おっす!」
若い男は両腕を前にして、構えを取った。パサパサと資料が床へ落ちる音に、国立の雑な声が混じる。
「ジョークだ。座ってる状態でできっか! アホ」
兄貴から今のプロレスの技についての説明が、いや前振りが施される、若造に。
「走ってから、てめぇの頭に、オレの肘が入んだろ!」
再現不可能な技を、またもや口走った兄貴だが、全然笑ってもらえないという、外してばかりの空しい限りの前振り。……のように思えるが、兄貴自身はウケている、密かでマニアックな笑い。
心の奥底で、一通り楽しんだ国立。机の上から一枚の写真をつかんで、空中でピラピラと見せびらかした。
「墓場は墓場で、違う角度から色々見れんぜ」
「兄貴らしいっすね、その言葉」
若い男は目をキラキラと輝かせた。素直に褒められて、居心地の悪くなった国立は、恥ずかしさを隠すため、スチールデスクにガツンと蹴りを入れる。
「ごちゃごちゃ言ってねぇで、てぇめ、仕事に戻りやがれ」
「また来るっす!」
粋よく言って、若い男は部屋からさっと出て行こうとした。その後ろ姿に、さっきの凝視事件に一言忠告。
「オレは甘党だ。無糖のコーヒー買ってきやがって。今度やったら、ドロップキックだ」
「おっす!」
若い男は軽快に答えて、聖霊寮から出て行った。甘党の人に無糖。確かに死活問題である。おごった上で、パシリをさせたのに、無糖が差し出される。それならば、自分の目を疑ってもおかしくはない。
国立は手に持っていた写真を、帽子の下からのぞき込む。そこには、男がひとり写っていた。鋭いブルーグレーの眼光は、机の上に広げてある資料に落とされた。
――崇剛 ラハイアット……。
三十二歳。出生不明――
足を軸にして、回転椅子をくるくると左右へ回す。この寮でなくては、知り得ない職業をしている人のデータを目で追う。
――庭崎市……ベルダージュ荘在住。
……聖霊師、神父、ヒーラー。
霊、天使が霊視可能。
除霊。
短剣使用の浄化。
千里眼のメシア――
スピリチュアル満載な履歴。それに比べ、国立は霊感をまったく持っていない。その手の話も半信半疑。目に見えないものを扱う、聖霊寮。それは幽霊が引き起こす事件に、捜査のメスを入れるということだ。
煙草の火が落ちて焼け焦げ、茶色く変色した紙をもう一枚つかんだ。そこで、兄貴の鋭い眼光に、前代未聞な怪奇現象が映った。
「がよ、これも、オレの目がおかしくなってんのか?」
最初の言葉は言い間違いではなく、国立の癖のひとつ。変な風に言葉を短縮するのは。今度は、崇剛のデータが印字された紙を、穴があくほど見つめた。
「……毒盛り――って、字に見えんだよな。お化けさんにゃ、毒は効かねぇだろ、どうなってやがんだ?」
姿形を物理的に掴めない幽霊。いや違う。――もうすでに死んでいるのだ。それを殺そうとする……。どうもおかしい。となると、生きている人にするということになる。毒――これが本当ならば、この男のそばに行くのは愚策、いや無謀というものだろう。
「触らぬ神に祟りなしってか……」
兄貴さすが懸命な判断である。崇剛とおさらばするため、紙を持つ手を一度、下へダラッと垂らした。青白い煙をしばらくユラユラと立ち上らせる。
だが、再び目の前にデータ資料を持ってきた。
「がよ、何だ?」
黄ばんだ壁。よどんだ空気。ゾンビみたいな同僚。不浄の代名詞と言ってもいいこの空間。その水面に一石投じたように、すうっと聖なる波紋で浄化する。国立の、いや崇剛の写真がその石のような感じがした。
「この変な感覚は……」
兄貴の癖、いや笑いが出た。横文字をわざと入れるというそれが。
一瞬まわりの色形が歪んだ。今までの人生で感じたこともない。別の感覚が引き出されたような気がした。
それは自分を包み込む世界、いや宇宙そのものが別次元へチャンネルが無理やり回されてしまったかのよう。一言で例えるなら、
――シックスセンス。
としか言いようがなかった。
さっきまで平気だった、聖霊寮の空間。だかしかし、それは重く息苦しいものに、たった今激変した。
国立はしばらく考えたり、あちこちに視線を乱れ飛ばしてみた。だが、黄ばんだ部屋と不浄な空気、死んだような目をしている同僚たちは相変わらずで、特に変わった様子もない。けれども、何かがさっきと違う。しかし、説明がつかない。
やがて、たった一口でギブアップした無糖の缶コーヒを、国立は灰皿へザバッとかけた。
「気のせいか……」
罪科寮で敏腕であろうと、聖霊寮では新米。それなのに、国立は態度デカデカで椅子に浅く座り、ウェスタンブーツの両足を机の上に放り投げた。昼寝をする要領で、帽子を顔の上にストンと落として、両手を腹の上で軽く組む。
目を閉じて、真っ暗になった視界でなぞった、ここ一週間のことを。
(飼い殺し、墓場だ。他じゃ扱えねぇ代物ばっか、適当に回してきやがって)
炎天下の中で、さらに炙られるように熱風に吹かれる、うだるような暑さ。どうしようもなく気だるい。そんなため息をもらす。
(だいたい、ここにいる野郎ども。オレ含めて、誰も霊感なんて、珍奇なもんは持ってねぇだろ)
まぶたの裏で、適当に見ていた事件の記録が迫ってきては、あっという間に遠ざかってゆく。
(普通に考えりゃ、事故だろ、全部ここにあんのはよ)
霊感がない。いや見えないものを信じていなければ、国立のように思って当然だ。だが、世の中には、霊的なものが関係している事件は知られていないだけで、かなりある。
国立は足をドサッと乱暴に落とした。無造作に積まれた紙の山から、一枚引っ張り出す。そのせいで、放置と忘却という名がふさわしい紙の塔が、バランスを絶妙にズラした。しかし、それを気にすることなく、国立の鋭い眼光は紙へと向けられる。
――たび重なる衝突事故。
――多額の保険金。
ポイッと投げた事件資料は机の上に乗りそびれて、床へ向かってヒラヒラと落ちてゆく。
「れは、あっちじゃねぇのか? 保険金目当ての当たり屋だろ、ノーマルに考えりゃ」
乱雑、乱暴、不器用。そんな言葉が似合うようなごつい手が、ガタイのいい体の横にだらっと垂らされた。
「たび重なる、ってのが、お化けさんと関わんのか?」
よくある。あのトンネルで、あのカーブで、事故が多発する。確かに、見通しのよくないところだから起きる。そういう理由づけもあるだろう。だがしかし、そこに何らかのスピリチュアルな要因がないとは言い切れない。
人間同士の怨みや欲望。そんな中で起きる人殺し。罪科寮で事件を追い続けてきた毎日。
いきなり見方を変えろ、信じろと言われても無理がある。かと言って、国立は否定はしない。床から拾い机の上に紙を投げ置いて、長いため息をついた。
「オレはシャバだからよ。聖霊師の気持ちもわかんねぇし。生きてる世界が異質だろ」
聖霊師――
あまり一般化していない職業。簡単に言えば、各々《おのおの》の方法で、悪霊を浄化する人のことを指す。霊的なものが見えない国立にとっては、関わることも今までなく、どんな人たちなのかも知らない。未知の世界。
銀のシガーケースを慣れた感じでポケットから取り出した。右手のひらでロックを外し、ぱかっと開ける。だが、目の前に広がったのは、カラですというノボリが出ているようなシルバー一色だった。後悔先に立たずで、藤色の髪をガシガシとかき上げる。
「さっきのが最後ってか。あげちまったもんは、しょうがねぇしな。煙草でしのぐか」
ミニシガリロは高級品。どこでも売っているわけではない。デーパートなどに行かないと手に入らないのだ。
国立は椅子からだるそうに立ち上がって、ウェスタンブーツのスパーをカチャカチャさせながら、タバコの煙で霧がかっている聖霊寮の部屋から出ていった――――
――――休憩室のすぐ隣にある煙草の自販機。その前でジーパンのポケットから、皮の小銭入れを出した。無造作に金をつかみ、ジャラジャラと硬貨投入口に入れていくと、購入ボタンが赤く点灯。
野郎どもからいつも聞かされているタバコの略名をボソボソとつぶやきながら、「赤マル。セッタ……」適当にボタンを押す。
「……どれでも一緒だろ。葉巻には敵わねぇぜ」
カタンと出てきた煙草の箱を、取り出し口から引き上げた。不思議と、いや不気味に人が通らない、治安省の広い廊下の壁。
ウェスタンスタイルの百八十七センチという背の高い男が、斜めに気だるくもたれかかると、まるで映画のワンシーンのように、男のロマンを語った。
シガー用のジェットライター。それは横から握るようにすると、すぐに着火する仕組み。国立は葉巻と同じ要領で、煙草を手に持ったまま、火をつけようとしたが、はたと気づいた。
「……葉巻とディファレントで、口で吸いながら火ぃつけんだよな」
葉巻は煙草のように、自動的に燃えてくれるものではない。三百六十度まんべんなく炎色に染めないと、偏ったまま燃えていってしまう。そのため、手元で火をつけるのだ。
煙草を口にくわえて、ライターの炎をその先端へ合わせるようとする。だが、慣れない神経を使い。イラッとしながらも、何とか火がつき、口の中だけで煙を薫せる。肺には入れず、そのまま口から吐き出して、国立は激しい後悔に襲われた。
「いつ吸ってもまずぃな。プラスチックみてぇな味しやがる。葉っぱのうまさ、半減だっつうの」
あまりにもひどい代替え品を前にして、全然リラックスできないでいた。人工的な匂いと味に犯されてしまった口内を洗浄しようと、
「甘いもん、欲しいな……」
今度は飲み物の自販機の前へ。不自然なくらい静まり切った、誰もいない休憩所。
絞め殺される人が悶え苦しんで、爪で引き裂いたような破れが、あちこちに目出つソファー。それが国立の背中という死角に陣取った。
ポケットからコインケースを再び出して、ブルーグレーの鋭い眼光が中へ向けられる。
「小銭、さっきのでオール使ちまったぜ」
怒りというリミットはとうとうオーバーした。理不尽な理由。しかも、いきなり自分の能力がまったく生かせない部署に回された。毎日、霊感のない自身ではどうにもできない案件。そればかりが舞い込んでくる。
誰も事件だと思うこともなく、事故だと思い、解決責任など同じ寮の人間は持っていない。
「墓標、建てられちまったぜ。何で、こんな機関があんだ? 宗教国家ってか、この国は。洒落くせぇ」
何もかもがストレスで、トゲトゲしている神経に心。国立は口の端でニヤリとし、ヘドが出るように言うと、
「ここもかよ!」
慣れた仕草でジーパンの長い足が回し蹴りバックをし、自販機の側面に見事に決まり、
ドガーン!
その衝撃でへこんだ自販機から、カラカラと缶がひとつ転がり出てきた。無償で手に入れたオレンジジュースを手に取って、うさんくさそうに眺める。
「天のお恵みってか? オレはそんなん信じねぇ――」
手のひらで、ポンポンと投げ遊んでいた缶をふと握りしめた。視線を感じて。衣擦れや話し声は聞こえない。それでも、こっちを見ている。それはわかる。日頃の生活の中で感じる視線と一緒だ。
「誰かいんのか?」
くわえ煙草のまま、後ろへ一歩あとずさり、廊下を眺めた。
人ではない何かに、空間が切り取られてしまったような、薄気味悪い静寂が漂うだけ。遠近法を感じるほど長い廊下。
それなのに、誰ひとりもいない。いつもだったら、他にも人がいるのに、今日はなぜかいない。
「気のせぇか……ん?」
今度は反対側から、人の気配というか、やはり視線を感じた。国立はそっちへ顔をパッと向けるが、そこにも誰もいない。鋭いブルーグレーの瞳というレンズには何も映っていない。
だが、人ごみの中で、自分に視線が集中しているような感覚。
煙草を灰皿の上にぽいっと投げ捨てた。
「また、オレの目がおかしくなってんのか? 誰もいねぇのに、何か感じんるっつうのは……霊感? なかったもんが急に出てくるってあんのか?」
神経を研ぎ澄ましてみるが、何の音も聞こえないどころか、
キーン……。
耳鳴りみたいな尖った音が広がってきた。
キーン、キーキー……。
ひとつが鳴り終わらないうちに次。
キーキーキー……キ、キ、キ、キ……。
その次、そのまた次……その音で、自分という輪郭がかき消されてしまうような不協和音。
もし今ここで、何かが起きて、自分が死に陥れらたとしても、誰も気づかないだろう。自身が存在していたことさえも、人々の記憶から抹消されてしまう。
本当の闇に葬り去られるような人気のない廊下――
それでも、野郎どもに慕われる兄貴はひるむことなく、鋭い眼光をあちこちに向け続ける。
「一体何人いやがんだ? はっきり見えねぇから、数えられねぇけど……。囲まれてんのはわかんぜ」
霊感をまったく持っていなかった国立。それなのに、感じ取ることができるようになってしまった。
だが、感じるだけでは何の対処もできない。試合場となるリングに上がれないまま、無防備な自分にパンチやキックが、一方的に連打されるようなものだ。
はっきりと原因を突き止めることができない。国立のウェスタンブーツはクルッと、聖霊寮の部屋の方へ向き直り、霊界という死の扉を背にした。
「戻るか……」
スパーの、
カチャカチャ。
という音が水の中で濁るようにくぐもって、
ゴニャゴニャ。
と、まとわりつくように聞こえるてくる。水が耳の中に入ってきたような不快感から、自分を解放しようとしても、物理的な問題ではなく、なす術がない。休憩室から、藤色の長めの短髪が離れてゆくと、
――自分についてくる気配。
――立ち止まっている気配。
ふたつにわかれた。
その違いの理由さえもわからない。だが、兄貴は別に怖がることもなく、臆することもなく歩いてゆく。
足取りが異様に重い。自分のまわりだけがやけに薄暗い。今にも自身を押しつぶしそうな圧迫感。息苦しさ。
「疲れるって言葉、案外、憑かれるから来てんのかもな。お化けさんに、ナイストゥミーチューって……か」
多数の見えない気配とともに、薄暗い廊下をポケットに手を突っ込んだまま、国立のウェスタンブーツは、スパーをカチャカチャ鳴らしながら歩いてゆく。
「崇剛 ラハイアット……。千里眼のメシア。ロマンチストの伝説じゃねぇのか、れって」
千里眼――
それは、遠いところの出来事や人の心などを、直覚的に感知する能力。
メシア――
それは、神が選びし者に与えた特殊能力。
広い世の中でも、信じていない人が多い。持っている人に、一生に一度出逢えるかどうかの希少なもの。目に見えないもの。
当然、国立はそんな話を聞いても、信じてこなかった。だが、今の自分の感覚は事実、現実だ。受け入れる他なかった。
「人の能力引き出すほど、強力ってことか。そそられんな、やっこさんにはよ」
何気なく取り上げた一枚の写真。偶然のはずだった。だが、偶然という異名の必然。国立は運命を強く感じた。
ふたつのペンダントヘッドをぶつかり合わせながら、自分を吸い込みそうな、トンネルみたいな薄暗い廊下を、国立は進んでいった――――
――――不浄で黄ばみだらけの聖霊寮に戻り、自分の席をつこうとした。だが、机の上にぶちまけられていた事件現場に出くわし、兄貴は鼻でふっと笑った。
「これは、呪縛だな……」
うず高く積み上げてあった資料の途中から、さっき一枚紙を抜き出した。そのため、バランスを崩していた紙の山が収集がつかないほど、雪崩をあちこちで起こしていた。
ひとつ倒れたら次、次……。いわゆる、成功したドミノのように見事に総倒れだった。
放置されている案件があまりにも多すぎる。そのため、手つかずで、どんどん上へ上へ乗せられていく。もうこれ以上は乗らないと、紙の山は言っているのに。
それが聞こえたとしても、国立にはどうすることもできない。そうして、毎日一度は雪崩タイムが発生。呪縛と言わずして、これを何と言うのだろうか。その言葉をぼやきたい、兄貴の気持ちもよくわかる。
帽子のつばを少し引っ張って、かがもうとした時、崇剛の写真と、さっきの多額の保険金の案件が一番上に乗っかっていた。
「神様のお導きって、やつか。人生何があんのかわかねぇな、まったく。だから、生きてんのは面白なんだよ」
回転椅子にどさっと腰掛けて、床にまでこぼれ落ちて散らばった資料の上に、平然と足を乗せた。
左右に大きく股を開いて、さっきタダで受け取った缶ジュースを一口飲む。だが、今度は甘々の柑橘系が、兄貴の味覚に襲いかかった。
「オレはガキか……。果汁 三十パーのオレンジジュースって……。葉っぱとのシンクロ率、低すぎだろ」
持っていた案件を、ブルーグレーの鋭い眼光で射殺す。すると、さっきと違う見解が生まれた。
「ストレンジなフィーリングすんな、これ……。ただの保険金、目当てじゃねぇ」
死んだような目をして、椅子にただ座っている同僚を見渡す。黄ばみが目立つ壁やファイルなどを瞳に映した。
(ここは、墓場っつうことで、オレは墓守。らよ、それらしく、仕事してやるぜ)
幽霊の事件。未踏の世界――
「どうやったら、これ、立件できんだ?」
こうして、霊能力初心者の国立は、聖霊師と深く関わる事件へと、聖霊寮の他の職員とは違って、やる気を持って挑み始めた。
霊感を磨くということがあるとは知らず、国立――心霊刑事は持ち前の勘の鋭さで、事件をどんどん明るみへと引っ張り出していった。
だがそれでも、彼の霊感は、感じる程度で見ることも話すこともできないまま、流れた歳月は一年以上。
この世では敏腕刑事でも、あの世では新米。解決できない事件は多々あった。そのたびに各地にいる聖霊師の助けを借りて、仕事をこなしてゆく日々。
そんな過程の中で、メシア保有者の崇剛がどれほど優れているか、嫌でも気づかされた。
そうして、自分が予感した通り、国立 彰彦にとって、崇剛 ラハイアットは一目置く人物となったのである――――