第一章 二話
隆次が向かった先に待ち構えていた相手とは?
Pixiv投稿版とかなり違っています。
その女子は、俺が期待した里中優衣さん。
ではなく、同じクラスの桜庭夢乃さんだった。
「桜庭さん… 君がこれを?」
彼女とは二年に上がってから同じクラスになり席もかなり近かったが、この二カ月弱まともに口をきいたことはない。
177cmの俺と比べて20cm以上小さい小柄で大人しい印象のある桜庭さんは、誰と親しいとか何が好きといったイメージが湧かない俺にとっては印象の薄い存在だった。
桜庭さんは俺の問いに頷いたのか視線を逸らしたのかわからない動作でそっぽを向き、黙ってしまった。
多分、肯定なんだろうと思う。
俺より頭一つ分は小さく小柄で華奢な体躯の彼女は肩より少し長い黒髪を風になびかせながらゆっくりと視線を俺に戻した。
身長差があるので桜庭さんからは俺を見上げるようになり、少し不安そうな表情で右手を自分の胸に当て、上目づかいでおずおずとこちらを見る動作に俺は思わずドキリとした。
「雑誌、見たよ、あの優勝おめでとう…」
「あ、ありがとう」
平静を装って対応したつもりが声がひきつってしまう、桜庭さんより俺の方が緊張しているんだろうか。
「岡崎君の強さを見たいと思って」
さっきよりも顔を上げてこちらを見たものの、遠慮がちな口調は変わらずか細い声で話し続ける。
「強さ、かぁ…」
女の子から興味を持たれてこそばゆい気持ちになるも、俺は漠然とした要求に戸惑い宙を睨む。
「試し割り、見せてくれないかな?」
「道場に行けば瓦や板があるんだけど、ここじゃ学校の備品をぶっ壊すわけにもいかないし」
「これで」
「え?」
桜庭さんの言葉の意味が理解できなかった「これで」と聞こえたけれど、彼女が試し割りに使える何かを持っているようには見えない。
「これで」
もう一度はっきりと言った。
気がつけば桜庭さんはオドオドした態度ではなくなり顔を上げて真っ直ぐな視線で俺を見ている。
「ええと」
俺は戸惑いながら見ているうちに桜庭さんが自分を指し示すように右手を胸に当てていることに気が付く、更に彼女は胸元を手の平で軽く叩いて、
「これ」
と言った。
まさか俺の空手を自分に試せと言っているのか?
無垢な子供のような眼差しでこっちを見上げる桜庭さんに空恐ろしいものを感じた俺は一歩後ずさると、それを追うように彼女は俺の懐に飛び込んできた。
強い衝撃が腹から背に突き抜けた。
「う、うぅ」
何が起きたのかわからなかった。
体内に熱く浸透する痛みに思考が支配される。
俺の懐に入ってきた桜庭さんが再び距離を取りながら、突き出した右拳を引き戻す動作を見てようやく彼女の中段突きが決まったのだと理解する。
桜庭の姿勢は顎を引き拳を胸の高さに構えて両膝を充分に曲げた完全な戦闘態勢になっていた。
「な、何を…」
桜庭はブレない視線をこちらに向けるだけで何も答えない。
その瞳には俺がこれまで対峙してきたライバルの空手家達の誰とも違う、単純に殺気とも言い切れない意志が宿っているように見えた。
滑らかな足捌きで俺の間合いに飛び込んで来る桜庭に俺は呼気と共に迎撃の左正拳突きを繰り出す。
「シッ」
桜庭は右手で俺の左拳を内から外にそらしながら体軸をずらして拳をかわす、そのまま受けに使った右手を伸ばして俺の顔面の下半分を鷲掴みにした。
「ぐっ」
口を塞がれる形で顔面の急所を圧迫された俺が前のめりになったところへ、掴んだ手を離した桜庭の右肘が真下から顎を打ち抜く。
俺は後ろへよろめき桜庭は間合いを詰めてくる、俺は咄嗟に相手の胴を薙ぎ払うつもりの右廻し蹴りを放つ。
桜庭は廻し蹴りを左手の甲で掬いあげるように受けながら蹴りの間合いを掻い潜って接近する、相手の受けによって軸足の重心が踵にかかり不安定になった俺の顔面へ桜庭の右熊手突きが決まり、俺はなす術なく仰向けに倒れた。
視界に体育館の屋根の端と空が見えるが、それも一瞬のことで接近する桜庭によって遮られる。
顔を庇おうと無意識のうちに前方にかざした右手に桜庭は自身の右手を重ねてきた、相手の掌が自分の手の甲に隙間なく密着する、掴まれるのとは別の感触に俺は本能的に危険を感じた。
マズイと思った時には既に遅く、桜庭の肘から俺の肩までが一直線に極められ肩を地面から浮かせる事が出来ない。
下から蹴る暇もなく桜庭が固定した手を俺の肩を軸に小指側に旋回させると俺は抗いようもなくうつ伏せにされてしまう。
顎と喉に触れるひんやりとした土の感触、背中でよどみなく動く桜庭の気配、何をどうされたかわからないうちに俺は両腕を固められ完全に身動きがとれなくなってしまった。
身体に伝わる感触からおそらく背中に跨り俺の両肘を自身の両膝で左右から押さえつけることで後ろ手に縛る形の拘束をしていることがわかる。
桜庭の鮮やかな手並みに俺は何も言葉を発することができなかった。
不意に桜庭が俺の髪を掴んで顎を上げさせる、頭上から不吉な気配を感じて寒気が俺の脳天から足先までを走り抜けた。
次の瞬間、冷たく鋭い感触が俺の首を撫でた。
「え?」
不思議と痛みはなく、ただ熱いと感じた。
背中の桜庭の体重が消え、俺は身体を起こして体育館の壁を背にして座った。
首筋を両手で押さえると止めどなく流れる血があっという間に肘まで滴って来る。
おいおい…、どうなってる?
首、切られた、頸動脈?
止血、病院、間に合うのか?
え、嘘だろ、嘘。
死ぬのか、死。
大量の出血と共に俺の意識は薄れ…。
「んっ、はぁ」
気が付くと俺はさっきと同じ姿勢で座り込んでいた、慌てて首を触ってみると流血はなく手や服を確認しても出血した形跡はなかった。
「錯覚だったのか?」
もう一度首筋を触りながら最後の桜庭の攻撃を思い出してみても、ナイフで切られたような感触を確かに身体が記憶していた。
あのリアルな感触が錯覚?
実際に血が流れていないのだから錯覚だったのは間違いない、それでも本当に首を切られて死に至るイメージを想起させる殺気は本物だ。
「おーい」
顔を上げると目の前にしゃがみこんで手を振る桜庭と目が合った。
お互い数秒の間沈黙する。
「うわぁっ!」
桜庭の存在に全く気が付いていなかった俺は慌てて脱兎の如く駆け出す。
校庭を抜けて学校の敷地外に出たところで我に返ると、下校中の生徒が訝しげにこっちを見ていた。
そういえば鞄も教室に置いたままだ。
俺は乱れた呼吸を落ち着かせてから力のない足取りで教室へ向かう。
桜庭夢乃、何者だあいつ。