第43話:志を見つけた者
とんっと顔の真横を刃物が通り過ぎて、ゼシオ・ローゼンは深々溜め息を吐いた。3、40年前ならいざしらず、この平穏な時代に執務室に座っているだけで剣が飛んで来るなんて、おそらく誰も信じないだろう。
「……おまえはいつから、クレナイに入ったんだ?」
「え、勘弁してくださいよ。俺は殺すの仕事じゃあありませんって」
ぼうっと暗闇の中から浮かび上がった人影は、豪奢な部屋に入ることはせず、窓の淵でくすくすと笑いながら、曇ることのない声で云い放つ。月光の中に登場した男との対面は久しぶりだったものの、年月を思わせるものはなかった。二人の間には長い時の流れも会話を邪魔するはずの窓ガラスも、どちらも意味がない。
「だったらこういう書簡の渡し方は止めたらどうだ」
「あははー、すみません。東だか南の国の方の文化にこういうのあるじゃないですか。そんな感じで恰好良く真似てみたんですけど、どうでした?」
「あのなぁ、そんなもん文化ではないし、それは中へ入るまでもない時にやることであって、今堂々と入り込もうとしているおまえがやるべきことではないだろう」
怒鳴りたい気持ちを押さえ込んで云いながら、壁に刺さった短剣を見る。少しでもずれたら、目に思い切り刺さっていただろうと思うものの、恐怖心はまるでない。そこらへんの腕は信じている。苛立ちまぎれに壁に止められた書類を引っ張り、突き刺さる短剣は投げ返した。
短剣が飛んで来てようやく危ないなぁと、窓ガラスを通り抜けて彼は室内へと入る。迷いを感じさせないプロの動きだったが、ゼシオの脳内でカチっと音がする。法術塔管理部だとすぐにわかった。誰かが彼の照紋を認知したのだろう。シュタインは彼が侵入したと聞いたら、おそらく苦い顔をしながらも放って置いてくれる。それを知っているからこそ、彼は照紋を隠すことなく入って来たのだ。
ゼシオがそれを確認してほっと息を吐くと、侵入者はにこりと笑った。いつもの意地の悪い笑みではなく、それは彼が時たまふっと漏らす柔らかい笑み。
「相変わらずお優しいですね、父上は」
「戻って来たのか」
「あ、ええ。法術巡検使クドーバ・ローゼン、ただいま戻りました。イーリアム城に居りましたので、宰法にご報告をと思いましてね」
「随分と早い帰りだな、宣下が出たのは二日前だっただろう?」
「<俊足のクドーバ>様ですよ、甘く見ないでください」
ゼシオの長男でありながらもたまにそれを忘れたくなるような不肖息子クドーバはにやりと唇の端を上げて笑う。その時既に、さっき見せた笑みの面影はない。
「帰って来る度に下手くそで適当な異名をつけるな」
「あはは、やはり父上は手厳しい」
「それで、上司に報告に戻った忠実なる部下が、父親と無駄話している場合でもないだろう」
「えー、酷いですねぇ。勤務熱心な息子が仕事の合間を縫って、捕われている父と談笑するなんて、泣ける話ではないですか」
「気持ち悪い方向に脚色するな、用件を云え用件を」
ぴしゃりと撥ね除けると、片方の瞳がすっと細められた。どうやら本題は面倒なことらしいと判断する。この男が持って来た時点で、面倒なものだとはわかっていたが、さらに覚悟をしなければならないだろう。
「お願いがあるんですが、イーリアム城を探れませんか?」
「探る?」
「俺じゃあちょっと、過ぎる山っぽいんですよ。これはどうにもいけないと思って引き返し、父上になすり付け、ああ、いえいえ、お願いしようかと思った所存で」
「さて。ジンが溜まっているからな……」
「そう、ですか」
情けなく呟いたゼシオに、クドーバはしかし微笑んだ。例の稀に見せる優しい笑み。その顔に弱いことに気が付いた時、既にもう戻れないところまで来ていた。そしてゼシオは、自分がそれに弱いことがわかっていた。
「まあ、やれるだけのことはやってみよう」
「ありがとうございます」
「だがおまえはもう少し語彙を増やせ、意味がわからん、説明をしろ説明を! おまえには私とライアーンの血が流れているんだぞ! どうしてそう莫迦なんだ!」
「あー、はいはい、すみませんねぇ」
がじがじと頭を掻いて、胸中ではまた始まったよとぼやいていることだろう。だがゼシオは普段温厚なふりをしているわけではなく、むしろそれがどちらかと云うと素で、ただ単にこのどうしようもない息子の前でだけこうして口煩い説教をすることが例外なのだ。息子と云えど既に40の山を迎えているのだから情けなくなる。ちなみにこの40超えの子どもにもかわいい盛りの子どもが居るのだが、とても礼儀正しく将来有望な良い子だ。おそらく母親に似たのだろう。
「普段大人しい面をして息子には牙を剥くんですから」
「息子がおまえだったら、無理のないことだろうよ」
自分の息子ながら、なんだか情けない。長女だけでもまともに育ってくれて良かったと、心の底から感謝する。
「それで?」
と、話を本題に戻す。請け負うと決まったからには、詳しい話を聞かなければならない。幾らわかり難くても、一応は巡検法術師なのだ。偵察の目はしっかりしている。
「宣下を見に行ったんですよ、そのついでに向こう覗いてこようかなーって」
「殿下にはアティアーズ子卿が居るはずでは?」
「さあ、あいつは今のところ異国に出てますからね」
「そう云えば、そうだったな。……殿下は、お元気でいらっしゃるか」
「遠くからしか見れませんでしたが、良い感じでした。──目が昔と違った」
「そうか」
「って云っても、もの凄く遠い場所から見たので、なんの感想にもなっていませんけど」
「おまえが最初にそう云ったなら、そうだろう」
「そうだと、良いですねぇ」
彼はまるで信じていない様子で口に出した。
しかし隠している胸の内を語ることはない。彼の本音と云うものは、20年前に封じ込められてしまった。失った藍色の瞳と共に、何所かへ。
「で、遠くからしか見られなかった理由が、法術師と云うことか」
話が散漫なのは、いつもことである。毎回自分が内容を把握して軌道修正しなければならないので、彼と重要な話をする時はだいぶ労力が必要で、要するに我が息子ながら疲れるのだ。
「ご名答です」
「ケーリーンが近いこともあって、あそこに法術師で特別秀でた奴を置いては居ないはずだがな」
「でしょう? それにその少し前からイーリアム城の近くうろちょろしていたんですけど、照紋も特に感じなかったですし、それがあの太子宣下の日だけ、城に近寄ることもできなかった」
ゼシオはしばし、考え込む。太子宣下までの数日の間に、誰かが来たとしか考えられない。しかも必要な時照紋を隠すことができ、尚かつあの巨大な城を守れるだけの力を持つ法術師が。
まさかとは思うものの、じっとこちらを見る息子の目はしっかりとそれを疑っている。
「やってもらえませんか、父上」
「──やって良いのか」
「その可能性があるのなら、我が上司には朗報なので、俺は止められませんよ」
そう云いながらも、何所かしらクドーバは落ち着かない様子である。
宰法とは政治の実権を握る者であって、それと法術の強さは無関係だ。シュタインは力がある方に部類されるものの、守人にはまったく敵わない。法術の強さは守人こそ最高と云われる。つまり守人を凌ぐ力を持っている者は居ない。万が一のことを考え、守人というもの自体が役職として与えられており、それ以上の地位を持つことはない。力あるものが実権まで握ればそれはただの恐怖政治だ。異常な精霊召喚師が選出されたとき、召喚師のような愚かな真似はしないと一部の法術師は揶揄することもある。宰法と守人はそれぞれのバランスを保って権力を有しているのだ。
だからもし、ここでゼシオが探ってそれを跳ね返された場合、それは同等の力を持つものからの返答と云うことになる。管理者のゼシオよりも力の強いものは二人しか居ない。収集者チャディ・ゲデンレディオン、そして調整者──。
「おまえは、どう思う?」
「んー、五分五分ですかねぇ」
そう云って彼は無意識なのか、眼帯の上からこりこりと右目を掻く。その下にももちろん、眼球はない。義眼もつけていない。空洞だ。彼は対価だと云って、シュタインの目の前で、自分でそれを抉った。
──綺麗ね。
かつてそう云われたことが嬉しかったと云っていた、その美しい右目を。残ったのは至って平凡な茶色の瞳、ゼシオと同じ色。
空洞から手を離した彼は、残った片目でじっと窓の外を見つめた。そこにあるのはただの闇で誰かが居るわけではないが、 彼の中には一人の人物が浮かんでいるようだった。ただ一人、彼が心から忠誠を誓った人物。
「でももし、あいつだったら良いかなって……まぁなんとなく……」
「探ってやるから、もしそうだったら行って来い」
珍しく口の滑りの悪い息子の言葉を遮って云えば、彼は弾かれたようにゼシオを見る。
「今のおまえを見ていると、私は腹が立つんだ。今は私の前から消えてくれ」
「はは、父上はやはり手厳しい」
「おまえは殿下の敵で、私は殿下を支持している。対立する立場にある」
「ええ……、その通りですね」
きまり悪そうにクドーバはそっぽを向いた。若干淋しさのこもった声だったが、返事そのものは肯定だ。ゼシオは何度もこの言葉を、期待を込めて口にしている。返答が欲しくて云うが、その度に求める回答は得られない。それだけの対価が彼には見つけられないのだろう。
だがもし、今回ゼシオがイーリアム城を探って弾かれたら。
「イーリアム城を探る、良いんだな」
「ええ、頼みますよ。──あくまで、シュタイン宰法のために」
にやりと笑うクドーバと、利害が一致した。そこでふっと、気が緩む。
「おまえは殿下が好きか?」
「さあ、ずっとお会いしていませんのでねぇ」
何度も会っているくせにどうしてそんな嘘を平気で吐くのか、最初はわからなかった。だが今はわかる。きっと彼なりに、ふたを閉じているその時は、会っていないことになっているのだ。
法術巡検使クドーバ・ローゼンとして会った時のことを、差し引いている。
おそらく、殿下にも見てもらいたくない姿なのだろう。こうと決めたら進んでしまうこの男は、忠誠を誓った相手以外に膝を折らない。だから殿下をどんなに慕おうとも、彼は主が出て来ない限り殿下に力添えができない。誰が認めたわけでもない、ただクドーバの決まり事を頑なに守って居る。たとえウォルエイリレンが負けようとも、クドーバはシュタインに力を貸すままなのだ。それがクドーバにとって望まないことでも、彼はそれを受け入れる。
止められるのは、ただ一人。その主はクドーバが未だ彼を慕う理由を知らない。そもそもクドーバの存在自体、あまりよくわかっていないだろう。
「重たい、ですか。御柱」
ぽつりと漏れた言葉はしかし、こちらを心配している声。
「まぁ、な。このままでは近いうちに……」
「暗い話はやめときましょう。とりあえず今は、束ねる調整者が居らず、またジンを使い過ぎて危機的状況にある。その根源が俺の上司だと云うことにも、何も云わずに置くのが平和です」
「……おまえはやっぱり、成長しないな」
大事なことも何もかも、そうやってまるで他人事のように語る。今彼はここに居るようで居ない。本物のクドーバは、何所か遠い所に存在している。
目を抉った時だってそうだった。
──何事にも対価が必要だから。
それが彼の口癖であり、信念だ。
「ははー、父上に云われたことありませんね。大きくなったなとか、褒められた記憶がありませんよ。手厳しい」
「背が伸びたわけでもない、出来損ないの息子だからな、仕方ない」
「出来損ないってことは、まだできる見込みがあるってことですかね」
あははと笑いながら彼は云う。憎らしいぐらいに調子の良い奴ではあるが、それでも自分の息子でありその性格からもなんとなく放ってはおけない。ウォルエイリレインはきっと、この男を許しているだろう。
父親としては複雑な気持ちになりながらも、彼の気持ちを動かすことができないのはわかっている。毎度のことながら、自分がどうにかできないものかと考えてしまう辺り往生際が悪い。 諦めて溜め息を吐いてから、ふと重要なことを思い出す。
「グレンからの連絡は来ているのか?」
「まだ帰って来ておりませんよ」
「大丈夫なのか?」
「そのうちでっかくなって帰って来ますよ。父親に似て、強いから」
少年のように目を細めて笑顔を見せる。その時ばかりは残された片方の平凡な瞳にも、それこそ少年のようなきらきらとした輝きが戻って来た。すべてに光を失ったと云うのに、息子のことになると嬉しそうに語る父親。そんな父親が自分の息子。ゼシオはいい加減な答えに怒鳴り散らす勢いも削がれてしまい、ただただ光を失った息子を、それを救えない父親の無力さを嗤うしかなかった。
・・・・・
カツンカツンと靴音を響かせてやって来たかと思うと、ナナリータ・レンタ・シュベルトゥラスは屋敷当主の許しもなくどっかりと長椅子に座り込んだ。
「あー、もう。本当、最悪よ、最悪。あの子憎たらしい男は」
忌々しげに云いながら、手入れされた爪をいじり出す。苛立っている時の彼女の癖である。色濃く着色された爪が少しでも欠けていると、また苛立ちが増える。気候変動で染料は最近高価になりつつあると云うのに、贅沢だとは思うものの、もちろん言葉には出さない。
どんなに貧民の生活が荒れ狂おうと、トゥラスの生活だけは崩れることはない。むしろ崩れてはならない。既に神国と恐れられるほどの権威を持っているアリカラーナは、他国に嘗められないよう、そこまで周到に華美する必要はないのかもしれないが、アリカラーナの血を引く者が質素過ぎる生活を送ったら、他国の前に国民に訝しまれてしまう。
ナナリータと云う人はもちろん、そこまで頭を回しているわけではない。自分の生活と国民の生活が関係することなどまったく考えておらず、ただ自分がやりたいように生きているだけだ。
居並ぶ王族と同様に顔立ちはむろん悪くないが、美人と騒ぎ立てるほどでもない。鼻梁は高く印象的だが、ほとんど金に近しい茶髪はトゥラスにあるまじき色である。皮肉にも茶色い瞳と、ほとんど外に出ないがために白い肌、決められた食事によって形成された、ほどよくふっくらした身体。貴族らしい貴族、高位らしい高位、高貴らしい高貴。それを演出している人の如く。
もちろん、御年54と云う年齢にしては、美しいと形容できるだろう。
ナナリータは自分が美姫でなければならないと思っている節があり、年齢を重ねる毎に一番美しいと噂の第3王女であり義妹のリナリーティーシアへの嫉妬は募っているが、8歳年下の異母妹の美貌には勝てることはなく、それにまた苛立ち爪をいじくる。
どう見ても、興醒めしてしまうトゥラスでしかない。そう思っても彼は、そんなどうしようもない姉を捨てることなどできなかった。唯一、同じ母から生まれた姉だからというわけではない。哀れんでいるわけでもない。たぶん彼女のそれまでの人生を知っているからだ。
「姉さん、そんな癇癪ばかり起こさないでくださいよ」
唯一父母両方を同じくする弟、リズバドール・ジーク・ランディトゥラスは苦笑する。自分勝手で高飛車なお姫様はおそらく、あまり好かれていないに違いない。だがリズバドールはリズバドールで彼女の曲がってしまった性格の由来を知っているし、気持ちがわからないでもない。そして彼女のことを、何よりも嫌いになれなかった。リズバドールは姉として優しく頼れる強い彼女を知っている。
──嫌いだと云えないのは、惚れた弱みだな。
ナナリータの夫がそう云って笑ったのは、いつのことだったか。
「だってどう説得しても動かないんだもの、あー、憎たらしいわね、本当」
かりかりかり。しかしお姫様は爪をいじりながら、苛立ちを隠さない。
「誰とお会いして来たのです?」
「わがまま王子よ、王宮に居るの」
「みなさんそれなりにわがままですけどねぇ」
「あいつのわがままには誰も敵わないでしょう、お兄様だってそうだったもの」
ガーニシシャルにすら迷惑きわまりない態度を取っていたわがままとすれば、それは第9位クロードバルト・カイ・パルツァントゥラスに他ならないだろう。彼はわがままと云うより、自分の気持ちに素直過ぎるのだ。それはカーム領主アクラ・ロスタリューのように、いっそ清々しいほどの自分主義。
ナナリータが云い出した「わがまま」はどちらかと云えば彼女自身にも適用されることを、リズバドールは口にしない。云ったところで逆上するのは目に見えている。
「クロードバルト、機嫌悪いのではないですか。ほんの少し付き添いのつもりで入ったのに、そこから出られないとなれば、そりゃあ癇癪も起こしたくなりますよ」
「そう云う問題じゃあないのよ。だいたいあいつ、余裕綽々だわ。4年も軟禁されているのは良いことに、薬草をしっかり育てて」
「薬草、ですか?」
「ちゃっかりしているわよね、王宮専属薬師になることは断ったくせに、イシュタルの庭園に植え始めてるのよ。しかも無許可」
主が居ない今、誰に許可を求めろと云うのだろう。軟禁と認めた時点で、軟禁している主にでも許可を請うのか。するとなると、クロードバルトは絶対しないだろう。リズバドールは思ったものの口にはせず、素直過ぎる弟が王宮に4年も居るという違和感をぼんやり考えた。
「ねえ、リズバドール」
「はい、姉さん」
そんなふんわりとした考えも、姉に呼ばれたらすぐ消えてしまう。
「あんたはいつになったら私に同調してくれるの?」
「姉さん、それについては再三お話しましたよね」
よっぽど機嫌が悪いだけかと思っていたが、どうやら見込み違いだったようだ。思わず笑みを浮かべてしまいそうになるのを堪えて、リズバドールは少しだけ困ったような表情を浮かべる。
「僕は姉さんでは、ありませんから。求めるものが違うだけです」
「あんたは、悔しくないの? あたしは、ずっと悔しいわ」
「僕はこうして平和に生きているだけで、もう充分幸せです。何も悔しいことはありません」
王族たれとしていても彼女が実のところ、その貴族社会を嫌っていることを知っている。妾の子、金の子と蔑まれて生きて来た。後宮に居た母は平民であり美貌に恵まれていたわけでもないが、なぜか安寧王の寵愛を受け二人も子を残したからか、やっかみの度合いは酷かった。精神的に参ってしまった彼女を安寧王が抱え込んで療養させたものの、あっけなく死んでしまった。安寧王は二人に同情して優しくしてくれたものの、それをナナリータは侮辱だと取った。リズバドールにしてみれば安寧王はたかが後宮の女のために、よくやってくれたと思う。どうにも貴族の心持ちがないリズバドールには、偉い人々はみんな、下々の面倒なことなど切り捨ててしまうものだと思っていた。そんな思い込みとは裏腹に、安寧王は安寧王なりの誠意を見せてくれ、また長兄ガーニシシャルは事細かに世話までしてくれた上、リズバドールの本質を見抜いてくれた。彼が誰よりも早かった。リズバドールと云う人を真っ向から見て、理解してくれた。
「姉さん」
「お説教は聞かないわよ」
「ではお願いだけ、聞いてください。聞くだけで構いません、実現して欲しいことですけれど、無理は申しませんし、僕は僕のやり方で、姉さんの力にはなりたいから」
「リズバドール……」
珍しくその茶の瞳が、しっかりとリズバドールを捉える。この人はいつだって、相手を真っ正面から見ようとしない。貴族と云うレッテルに縛られているのはむしろ、それを嫌っていた彼女の方である。そうなってしまった原因は多々あるものの、それは他の誰にも理解されない。
「お願いですから、ダズータ兄上と夫婦としてきちんとお話をしてください」
ナナリータの怒っていた肩が止まる。
「姉さんがどれだけ兄上を慕っていらっしゃるか知っております。それにリレインのこともどれだけ大事にしているか。──だから姉さん、どうか」
「あんたにはわからないわ、わかるわけがないもの」
「姉さん……」
ナナリータはリレインにこれでもかと云うぐらい、王族らしさを求めた。所詮は妾の子の子と後ろ指を差されないよう、夫であるダズータに迷惑をかけないよう。だがその愛情はうまく伝わらず、リレインは母を嫌ってはいないものの、複雑な気持ちを持て余している。
「あんたはどうして、ケンゼットを放置できるの」
ケンゼットと呼ばれて少々不満があったものの、今は流しておくしかない。自分とはあまり似ない、世間をうまく渡り歩く、飄々とした息子を思う。似ていないとリズバドールが否定する度に、似ていますよと云い返すあの堂々とした態度。
「だって、僕のものではありませんから」
ナナリータの質問にしっかり答えるべきだと考え、リズバドールはきっぱりと云い切る。
「僕と妻の間に生まれた、一人の子どもです。僕に似ていようがヨシノに似ていようが、彼は新たな一つの命です。たとえどうなろうと、それは彼の意思ですから」
「──今日は帰るわ」
突如立ち上がって、彼女は引き連れて来た侍女と共に去ろうとする。その小さな背中が震えているように見えて、リズバドールは思わず呼び止める。
「姉さん」
しかし言葉は続かず、おろおろしている侍女が申し訳なさそうに頭を下げたのを見るだけだ。姉さん。唯一気軽に呼べるその相手の、淋しそうな背中に、リズバドールは何を云えるのか。言葉に詰まった自分を愚かしく思いながらも、ナナリータはそれを嘲笑することはなかった。
「仕事はやっておいてちょうだいね」
静かに云い置いて、今度こそその場を後にした。誰も居なくなった部屋で、リズバドールは静かに息を吐いて、言葉も一緒に吐き出した。
「はい、姉さん」
姉さん、きっと貴女は今、とても淋しいのでしょう。
・・・・・
その男はガルダ・バカダンダと名乗った。彫りの深い顔立ちの、いかにも農家に居そうながっちりとした男である。しかしその頭はもう地の黒よりも白がほとんどを占めており、腰も少しばかり曲がっていた。
「出身は?」
「生まれはエトル、育ちもエトルでございます」
「軍ではずっと剣を?」
「然様です」
じっと動かない真剣な目を、桔梗の瞳がしかと捉える。
「なんでも良い、一つだけ、私に何か訊きたいことはあるか?」
50代、下手をすれば60を越えている男は、声を出さなかったがしばらくウォレンを見続けた。ウォレンはウォレンで、その彼の視線を静かに受け止め、じっと待ち構える。
「ご無礼をお許し戴けるならば」
「なんでも良いと云った」
「それならばこの5年間……」
アリスが隣ではっと息を呑むのがわかった。当然と云えば当然だ。この言葉を、今日だけで何回聞いただろう。しかしウォレンはじっと男を見続ける。ずっと対面してきたからこそ、ウォレンにもわかることがある。
「どれだけの民がこのエトルで死んだか、ご存知ですか」
「ああ、災害で5名、病死が4名、馬車事故が1名、命を全うされた者が2名。述べ12名と聞いている」
よどみなく答えた後、ウォレンはその場から立ち上がり、目の前で頭を下げる老人に近寄った。
「しかし済まないが名前までは知らぬ故、後で教えて欲しい」
「……」
「疫病についても広まらなかったことに感謝している。知っている限り、教えてくれると助かる」
「……そのお言葉だけで、結構でございます」
老人は頭を床にこすりつけるぐらい、さらに深々と叩頭した。
「イーリィ、彼に助けてもらいたい。この国の重要な戦力になるはずだ」
「かしこまりました。──さあ、こちらへ」
イーリィに促されてようやく立ち上がった老人は、またウォレンに頭を下げ、 部屋を出て行こうとした。そこをまた、ウォレンは呼び止める。
「落ち着いたら、ちゃんと教えてくれ。知っている限りで良い、全員をだ」
その言葉を聞いて、老人はまた頭を深々下げ、ようやく出て行った。
「以上です」
老人を見送った後のガーランダに、ウォレンは深々溜め息を吐く。早朝からの謁見は絞りに絞りこんでもやはり夕方までかかってしまった。決して無為な時間ではないが、人に会うだけとは云え思わぬ負担がかかる。そこに立ち合わせている全員を心配してしまう。
「予想外の多さに驚いた。流石はエトル、城主と領主がしっかりとしているからかな」
「痛み入ります」
イーリィとガーランダ両者合わせて頭を下げた。相変わらず生真面目な二人に、ウォレンは一生をかけてもこの感謝を返せないと思えるほどだ。ひとまずは彼らの望むものを、ウォレンが王として立つためにできることをするしかない。
ふぅと深く溜め息を吐いたのは、王宮に慣れているルークさえもだ。
「凄い人数だったね、しかし。これでどれだけの人を集めたのですか?」
「ざっと5000ぐらいは」
「では、半分以上落としてしまったのですか」
「半分以上は抗議だ」
ウォレンはそこで、苦笑する。苦笑するしかない。
2日前の演説の効果か、翌日は朝からイーリアム城に民が詰めかけた。その中には一般の市民や、役所の人間なども居た。ウォレンはその一人ひとりときちんと話をし、こうして国の戦力になりそうな人材をそれとなく集めた。もちろん純粋に力になりたくて来たのは5000人で、その他大勢は抗議ばかりであった。その中で一番多い質問は「この5年間、いったい何をしていたのだ」というものである。それはウォレンにしても、この王太子軍にしても一番避けたい質問であった。もちろん語らないわけではない、だが今はまだ、語ることができないだけだ。そんな勝手な理由を鵜呑みにしてくれるほど、民と云うのは生易しいだけの人間ではない。だから思わず先ほどもみんなが萎縮してしまったが、あの老人は他の者とは違うようである。
そういった信頼できる人物を何人か集めて、ウォレンは正当なる王としてシュタインと立ち向かう。抗議に来た者たちには、また一から根気強く説明すると云う仕事が残っている。しかしいつまでも、ここでとぐろを巻いているわけにはいかない。あとは信頼している領主と、信頼できる5000人余りの国民に任せるしかない。
さてとウォレンは上段に設けられた上座から降りて、大テーブルの上座へと座り直す。それに合わせるように幹部がぞろぞろと着席し、会議の様をなした。ルークの位置も不安定なままだが、その中に入る人物として自然に席を連ねている。ウォレンが個人的に頼んだことだが、そこにルークが居ることに、異論を挟む者は居ない。
「シュタインからの返信は簡単だ、今さら王座を譲るつもりはない、と」
幾度となく誰を王にするか責められていたエトル、イーリアム城はこの5年間ひたすらに、王はウォルエイリレンを置いて他にないと主張し続けて来た。折れぬ彼らに時が経つに連れ、シュタインの要求は留まる事を知らず、送られて来る書類の数、使者の数、半端ではなかったようだ。
約一年でガーニシシャル王の直系であるウォルエイリレン王太子が書類上死亡する。そうなるとこの国は王として先立つものが居なくなるので、残された王族から王を選び出す準備にかかる。貴公らにも会議に参加して戴き、国の在り方を共に考えたい。
彼らが主張したのも、無理はない。この国はアリカラーナなしで生きることなど有り得ない。王が王位を次代に受け継がず崩御されたのも、ガーニシシャルが初めてのことだ。ウォレンが戸籍上であろうと死んでしまえば、エトル、イーリアムどころか、アリカラーナに未来はない。
だがこうして、その彼が戻って来た。シュタインとしては、苦虫を噛み潰すしかなかったろう。ウォレンが信頼面だけではなく、こうして実際に戦力にもなる人材を整えたのは、シュタインとの戦になることを想定して念のためである。彼らが説得に応じて簡単に王宮を明け渡してくれるとは思わない。国土広げての大戦争をするつもりはないが、最悪の場合を考えて町を守る人を用意しておく必要はあった。
正当なる後継者が帰って来たのだから、彼に任せるべきだ。もし阻止するつもりならば、謀反となる。もちろん、無用な争いは避けたい。イーリィらがシュタインに伝えたのは、それだけである。この国で王の血を引く人物に、弓を引くなど考えらないことだからだ。この場合はだから、シュタインがウォレンに逆らえば、それは反逆とみなされてもおかしくはない。だが向こうには、エリンケが居る。いくらガーニシシャルが認めなかったと云えど、彼もガーニシシャルの血を引く者に変わりはない。
シュタインがウォレンに謀反を起こした。それを信じることがまず難しい状況で、5年も姿をくらませていたとなれば、現状は圧倒的にウォレンに不利なのである。
だが不利でもなんでも、ウォレンはやらなければならない。なすべきことのために、ウォレンは命を賭けて、王座に戻る。すべてを知っているシュタインでも、知らないことが一つだけある。まだアリカラーナは、失われていないのだと。今が命の賭け時だと、ウォレンは実感していた。
──信念とは、命と同じでしょう。信念を捨てた生き方は、死も同じです。
どんなに引き止めたところで、笑ってかぶりを振っていた臣下を思い出す。今はもう居ない、ウォレンの言葉では止められなかった、彼の信念。云いわけはしない、ウォレンはひたすらに逃げた。その間に信念を守るために失われた命を、彼らの信念を守らなければならない。彼らが命を賭けて守ったものを、守り通さなければならない。
それが今のウォレンにできること、ウォルエイリレン・エース・イシュタルとしての魂の、最後の使い時だ。
「エトル民への対応ばかりでは流石に遅れてしまうから、王宮への出発を考える。問題は人霊だ。彼らを呼び起こすためには、海岸沿いを一周しなければならない」
「最低でも8箇月ほどで済まして戴かなければ、殿下の帰還が間に合いません」
実行するかどうかはともかく、とイーリィは口を挟む。彼が反対するのは当然だ。ウォレンの失踪は5年前、正確に云えば、4年と4箇月。既に生存が認められているのだからもう期間に縛られる必要もないのだが、ウォレンを消したがっているシュタインらが戸籍を握っている。正式な国の在り方として、ウォルエイリレン・エース・イシュタルという者自体の戸籍は消されるだろう。
そしてウォレンとしても、自分が失踪した神無月──10月の自分の誕生日までに、決着はつけたかった。
「私がウォレンと別行動を取れば良い話だろう」
「アリス、自分の立場をもう少し考えてくれ」
軽々しく云うアリスに、ウォレンは苦笑せざるを得ない。もちろんウォレンの事情を鑑みて云っているのはわかるが、あまりにも自分を軽く見過ぎている。狙われ続ける旅をあれだけして来たと云うのに、まだ自覚が足りないのは自分に関心がないからなのか。しかしアリスは、折れる様子もなく淡々と続ける。
「だがどうしたって8箇月で回ることなんて難しい」
「問題ない、回れるさ。精霊で移動すればなんてことないだろう」
「軍はどうするつもりだ」
「置いて行く」
「殿下!」
アリスとウォレンのやりとりだからと傍観していたようだが、流石に耐えきれなくなったのか、イーリィが声を張り上げる。彼が黙っていないことはわかっていたが、まだ面と話していないのに反対されるとは、予想外に早過ぎる反論に苦笑せざるを得ない。アリスからイーリィに向き直ったウォレンは、相変わらず苦笑いのまま続ける。
「それが一番良いと思うんだ、まあイーリィ黙って聞いてくれ」
イーリィを丸めこむのは難しい。と云うか、不可能に近い。考えた時点でわかっていたことだ。
「俺はここに正規の軍を置いて行く、当然指揮はイーリィになる」
「お待ちください、私は殿下に……」
「無論全員置いて行くわけではないが、ここに絶対数の本隊が必要だ。俺とアリスは少数を連れて共に人霊を目指して回る、無論エルアーム、クラファームに顔を出す。ラドリームは少々難しいかもしれないから、書簡だけは送るつもりだ」
何も考えていないわけではないことを示すために、一応はそれらしい話をしておかなければならない。
「様子を見ている人々には、発破をかけてみる。歩きながら、自分の軍を増やす。俺たちが神楽を起こしたら、一応シュタインに王宮へ入れてくれないか訊いてみる。もし駄目なら、その時が攻め入るタイミングだ。これで東西南北から首都を目指すことができる。──王宮でまた合流しよう」
東のイーリアム、西のエルアーム、南のクラファーム、ラドリーム。以上の4つが未だウォレンに愛想を尽かさず、ここに居てくれる城主の持つ城塞だ。ラドリームは依然連絡が取れず怪しいが、その代わりクラファームが居てくれる。
ウォレンが北に行き、同時に王宮に入り込めば、四方から挟み込むことができる。もちろんそのためにはここから素直に北上すれば良いのだが、それだと人霊が集まらない。アリスとウォレンを分隊して守るほど、こちらには人員が揃っているわけでもない。
イーリィはそれをわかっていながらも、ようやく帰って来てくれた主を手放すことができないようだ。
「しかし殿下、歩き回るなどあまりにも危険です。軍の中に居てくださらないと……」
「どちらにしろ、要となるアリスは人霊を起こさなければならない。分裂するにしても、守るものは一所に居た方が良いだろう」
「それは攻撃する方にも都合が良いと云うことですが」
「大丈夫だ。法術師の味方があまり居ない現状で、人霊が居るというのはかなりの好条件だ」
「殿下、お言葉ですがこのイーリィ・マケル、何があろうと殿下のお傍を離れるつもりは……」
「どうしてもと云うのなら、イーリィ、共に来ても良いぞ」
「いえ、私は何があろうと殿下の側を……は?」
思いもしない許可に、イーリィは素直に驚いている。ウォレンが素直に云うことを聞くなど、あまりないことだからだろう。だがウォレンは数居る城主の中でも、イーリィ・マケルは特に信頼している。これもまた云いわけがましいかもしれないが、アリスへ語ったことに嘘はない。語らなかったことがあるだけで、嘘は一つも吐くつもりはなかった。イーリィとの出会いも彼女に話した通りだ。嘘を吐きたくとも彼女の目を見ていると、嘘などすぐ看破されてしまいそうで、そんなことすらできなかった。ウォレンとイーリィは場所が離れていても、お互いを知っている。
視線が合い、イーリィがウォレンの思考を読み取ろうとしている。
「しかしその場合、一国の城主が自分の城を空けるのだから、きちんとした体制を怠るな」
ウォレンに裏はない。イーリィが付いて来たいと云うのであれば、素直に従おうと思っている。それが妥協点だ。
「まだ編成ができあがっていない。今日集まった有志のことを考慮して、また考えよう」
「エース、私は……」
「アリス、俺がおまえに付いて行くことは、決定事項なんだ」
「──おまえが祠を回ることに、意義があるのか」
ウォレンと真っ向に目を合わせて、彼女はそう云う。意義とウォレンは小さく呟いた。それはこの4年間、ウォレンがずっと問いかけてきた問題でもある。自分の存在意義をひたすら問い続けて、結局回答が得られずここに居る。
「そうしてまた時間使うよりも、王宮に真っ直ぐ行くべきではないのか」
「意義は、正直わからない──」
ただ、とウォレンは口を開く。
「そうする意味はある」
「意味?」
「俺が納得できる意味があるから、ただそれだけだ」
ウォレンはアリカラーナに恐怖し、すべてを捨てた。
シュタインの裏切りが問題なのではない。ウォレンはすぐに、帰ることをしなかった。シュタイン含め法術師が近々動くことは予想して対策はそれなりにしていたというのに、ウォレンは実際のところ、本気でどうにかしようとしていなかった。それは単純に怖かったからだ。アリカラーナと云う存在が、自分が消えてしまうことが。
──それが、アリカラーナと云うものだ。
定成王と話した言葉が浮かび上がる。ウォレンに真実を語った彼は、確かにそう呟いた。
静まり返った大広間に、突如慌ただしく一人の兵が駆け込んで来る。
「お忙しいところ申し訳ありません、至急殿下にお伝えしたいことがございます」
今日は先ほどまで国民の出入りを許しており、何かあればすぐ伝えるよう指示が行っている。それがまだ適用されているのか、駆け込んで来た兵は真っ直ぐにウォレンの顔を見つめて云う。
「滑り込みで一名、ぜひ謁見したいとのことなのですが」
「そうか、では通してくれ」
ウォレンは即答したものの、伝達の兵は少し困ったように眉根を寄せる。
「それがその、まだ召喚師になりたての者で、大丈夫なのかどうか……」
「──通してくれ」
「殿下」
主であるイーリィも、不安に思ったのだろう。幾ら信頼していると云えど、国主の意向に沿わない者を会わせたとなれば、イーリィの面目も潰れる。イーリィがウォレンに向ける信頼が崩れてしまうのだ。だがウォレンは今回国民に会う時、自身に制限をつけていなかった。来る者拒まず、中に暗殺者が居ようとも全員と会うつもりでいた。
「話してから決める」
それが最低限、見捨てた民への礼節だと、ウォレンは思っている。考え込んでいるアリスが気にかかったものの、現在ウォレンがやるべきことは見えていた。
「ぜひ、ここに通してくれ」
・・・・・
現れたのは確かに少女としか云えないぐらいの背丈であったが、小顔の綺麗なその顔は既に女性であった。見た目には戦力になるとは思えない、王が居ないがために悲惨な人生を歩んで来たと云うわけでもなさそうだった。衛兵がウォレンへの謁見を悩むのも無理はなかったが、アリスが驚いたのはそこではない。
「エリーラ!?」
思わず声を上げると、その少女、いや、女性エリーラ・マグレーンは、優美に微笑んでちらとこちらに手を振った。一目見ただけでは、何所の令嬢かとも思えるしぐさだ。
「アリス、良かったわ、元気そうね」
「ど、どうしてここに?」
アリスの動揺に、流石のウォレンもイーリィも驚いているのか顔を見合わせている。慌てて駆け寄ってその顔が本当にあのエリーラであることを確かめても、アリスは呆然としてしまう。
「そうね、アリス。確かに話はしたいけれど、今はあたし、召喚師として来ているの」
その小さな体躯に似合わず、毅然とした表情できっぱりと云う彼女は、既に少女ではなくやはりいっぱしの大人の女性である。変わらないエリーラ・マグレーンだ。
「召喚師って、エリーラ、試験受けてないでしょう?」
「受けたわよ、レール教官にもお墨付きをもらったわ。免許状、見る?」
そこまで云われてしまうと、アリスとしても返す言葉がなくなってしまう。しっかりしているとアリスは云われるが、それ以上にエリーラはしっかり者だった。周囲に華美な印象ばかり与えていたエリーラだが、芯は人一倍強く、アリスも彼女のそんなところが好きだった。
まるで子どもに云い聞かせるかのように、エリーラは最後に優しく云った。
「少し待っていてね、アリス。私は召喚師としてやることがあるの」
置いてきぼりにされた子どものアリスは、ただ黙って頷き引くしかなく、級友が現在の仲間となった彼らと話すのを、第三者として見守るしかなかった。
「お初お目もじかかります、契約召喚師エリーラ・マグレーンと申します」
毅然とした態度でウォレンに口頭する姿は、やはり貴族令嬢と見間違えてもおかしくないほど堂々としていた。まるで彼女こそ、ここに立つにふさわしい血を持っているかのようだ。
「話の前に確認しよう。ルヴァガ宰喚、彼女は貴下の知り合いか」
既に王太子に戻ったウォレンは、アリスに真っ直ぐな瞳で質問を投げかける。ウォレンから王太子へと変化すると、流石のアリスも少々緊張してしまう。当然同じ人物なのだが、王太子のウォレンは強い意思がにじみ出ていて、覇気に押し負けそうになるのだ。
「……はい」
「ではルヴァガ宰喚、これより口出しすることを禁じる」
「──はい」
アリスはただただ、そう返答するより他なかった。今のアリスはエリーラの友人と云えど、彼女がここに来た理由を知っているわけではない。そしてそれは、これから本人が語ること。アリスにできるのはただ、新たな精霊召喚師として、目を曇らせることなく相手を見据え主を守るだけだ。
そうと決めたアリスは静かに下がって、ウォレンへ口頭する故郷の友人を見つめる。権力と地位には一番興味のあるエリーラが、実際その場に出くわしたのを見るのは初めてだった。3年に一度の召喚師認定試験の際も都会からそれなりの地位である召喚師がやって来てはいたが、彼女は彼らに媚びることはなかった。「だって召喚師なんだもの」、と彼女はばっさり捨てている。
──私は優秀じゃあないから、お偉い召喚師の奥様は努まらないもの。
彼女の目標は、役に立って気に入られ、そして懐に忍び込むこと。同等の力を欲してはいない。
「失礼ながら王太子殿下、先にお断りしておくことがあるのですけれど」
だからこそ、彼女がそう口に出したのは、その前置きなのだと信じてしまっていた。
「私は先日までただの召喚師見習いで、国政を気にしたこともありません。殿下のことも、あまり存じてはいません。ですから、純粋に殿下の手伝いに来た、というわけではありません」
「そうか」
「ただ、私の親友がここに居るとの話から、彼女が望むのなら、微力ながら力になりたいと思い駆けつけたのです」
エリーラの口からそんな理由が出たことに、アリスは少なからず驚いていた。まず最初に言葉を理解し飲み込み、理解するまで時間がかかってしまう。その間に、話はとんとん進んでいる。
「では訊くが、宰喚に必ず、付いていてくれるか」
「──え?」
「宰喚の元を離れず、彼女を正しき道に導くと誓えるか」
「ええ、誓います。命も惜しみません」
「エリーラ!」
理解するなりアリスは声を上げずには居られなかった。あのエリーラ・マグレーンが、そんな発言をすることさえ信じられなかった。一言で済ませてしまうのなら、「似合わない」とも云える。
「口を開くことを許した覚えはないぞ、ルヴァガ宰喚」
言葉を失って、アリスは姿かたちはいつも通りのウォレンであることさえ確認してしまう。彼を見て感じたのは、ただなる畏怖だ。アスルに居た頃を思い出せば、エリーラが生死に関わるような存在になることに、まるで現実味がない。いつだって彼女の興味はお金と地位で、おしゃれをして買い物することが楽しみだった。
そんな彼女が、アリスのために命を捨ててでも戦うと宣言した。
それはアリスを動揺させるに、充分な言葉だった。
「殿下のことは正直存じません。ただ、彼女を大切に思う気持ちだけは真実です。その彼女が殿下を支持するのであれば、私の心もおそらくは、殿下に忠誠を誓うでしょう」
「なら宰喚……、いや、アリスに訊こう」
ウォレンはふと、表情を緩めてアリスを見遣る。
「アリス、おまえはエリーラ・マグレーンが、ここに居ることを許すか?」
アリスはウォレンを見返すことしかできず、ただそこで沈黙してしまった。アリスに答えられるわけがない。今までは自分一人の命の問題だと思えたからこそなんでもできた。ウォレンのためになら、アリス一人の命ぐらい、安い物だと思って挑むことができる。だがエリーラの命を賭けてもらうほど、アリスに価値があるとは思えなかった。
「──許すわよね、アリス」
そこへ響いたのは、凛とした声。
「莫迦ね、アリス。あたしはあたしよ。アリスのことは大事だし、自分のことも大事よ。あたしはあんたのために人生か変えたつもりないわ。知っているでしょう?」
あたしがどんな人間か、どんなに欲望に忠実か。
エリーラは知っていたのだ、とアリスはそこで気付いた。あまり真剣に勉学に励まないエリーラを、少し軽蔑していたことも、少し羨んでいたことも、友人として認識していなかったことも。
別に嫌っていたわけではない、むしろ好きだ。
ただこんなにも普通の子が、アリスと友だちで居てくれるなど、酔狂でしかないと思っていた。エリーラのことは信じられるが、彼女のアリスへ対する想いだけは、見ないふりをしていた。それはラナ、ダーク以外のアスルの人々に対しても、同じことだ。自分への評価は、誰も信じてこなかった。
「アリスはあたしの親友だもの」
エリーラはきっぱりと断言した。今まで云われたことのないその言葉を、今ここではっきりと証明した。命を投げ出してでも助けてあげると、何よりも重たい言葉で親友であることを証明してくれた。
そしてアリスは、この命捨ててでも、ウォレンを助けると誓った。ならばその命を守るために、アリスが出す答えは一つしかなかった。そこまで思ってくれていたエリーラに同じ思いで答えるには。
「……エース、良いのか?」
「アリスが少しでも楽になるのなら、俺は構わない」
そこでふわりと笑ったウォレンは、既に王太子の顔ではない。いつもアリスと笑いかけてくれる、王子らしくない、あのレイシュで会ったころと同じ表情をしていた。
「よろしくお願いする、エリーラ・マグレーン」