第41話:発芽の兆し
グレアル・シュタインにとっておもしろくない結果が出たのは、操作の調子が狂って冬だと云うのにものすごく暑い朝だった。
今まで王太子の滞在を発表しておきながら黙っていたイーリアム城が、ついに法術師に全面対立の意思を示して来たのである。これまで王太子の居なかった彼らは、抵抗はしていたものの、強気に攻め入る姿勢は見えなかった。継承問題に協力をしないだけで、王宮に立ち向かうことなどはして来なかったのだ。だが今回の書簡には、全面的に王宮を攻め落とすとの言葉が書いてあった。無論、殿下に王位を譲らなければ、とその文面には続く。無用な争いは望まない。喰えないことだ。
イーリアム城城主イーリィ・マケル、エトル領主ガーランダ・エトル、そしてウォルエイリレン王太子それぞれから来たどの書簡にもそれは綴られていた。
「今さら、何を」
4年。4年だ。この4年間、この城を、この国を守って来た。それを今さら返せと都合の良いことを云う。いくら王太子と云えども、それに対する批判は多く来るだろう。シュタインはもちろん、玉座を彼に渡すつもりはなかった。ガーニシシャルの宝たるウォルエイリレンだからこそ、渡すわけにはいかないのだ。
「必ず、私は──」
残り少ない人生で、やり遂げてみせる。この国に失望してしまったガーニシシャルに証明してみせる。
この国は「アリカラーナ」がなくなろうと、滅びはしないのだと。
「陛下……」
シュタインは一人、ただただ亡き主のことを思い返すばかりだった。
・・・・・
リレイン・シルク=ド・シュベルトゥラスがその報を聞いたのは偶然だった。
法術師側から勝手に次期王に指名されたこともあり、城内を出歩くことは許されている。ただ入ってはならない場所に行かないこと、そして規定時間までにイシュタル城の用意された部屋へ戻れば問題がない。イシュタル城の周りには12の城が立ち並び、それぞれに役割が決められている。聖職塔として使用されているルビー城は聖職者が出て行ってからというもの淋しい雰囲気が漂っているが、長月門を挟んだ向かいの法術塔がやけに活発なので、あまり近寄ることがない。彼の足が自然と赴くのはイシュタル城から出たところにある庭だけだ。困った時いつもここに来ると、彼は居た。用意された椅子に腰掛けることもなく、立ち尽くして空を見上げ、リレインが居ることに気が付くと、どうしたと笑って声をかけてくれる。
「ウォレン従兄さん……」
しばらくは呼ばないと決めた兄の呼び名が、ぽつりと出て来てしまった。
ウォルエイリレインとローウォルト。二人の輝かしい従兄は、リレインにとって兄も同然だった。幼い時からナナリータの暴走と自身の物静かな性格からか、トゥラスにしては随分軽く見られていたリレインを、二人はいつも守るように遊んでくれた。ウォルエイリレン、ローウォルト、メイリーシャ、リレイン。四人で小さい頃は仲良くつるんだ。たまにショウディトゥラスのハードリュークやメリーアン、アセット家のドクトリーヌ、デジタンド兄妹なども混ぜてのその幸せ過ぎる毎日は、自分には過ぎたぐらいの輝かしい楽しい時だと、リレインは今でも思っている。
──リー、おまえは頑固だな、本当に。
そう云ってよく、ウォレンには呆れられた。しかしあれがたぶん、初めてだった。他の者はみんなリレインを真面目だと評し、将来はルジェの理事だろうと太鼓判を押す。そんな優等生である前に、リレインはずぼらでいい加減なところも融通の利かない頑なところもあった。それをいち早く見抜いたウォレンは、仕方がないとでも云うように、当たり前のようにそう云って笑った。
ローウォルトが王位継承権を唱えた時から、二人の従兄弟を兄と呼ぶことを止めた。そしてこれは、ウォレンが帰って来るまで続くのだと覚悟を決めている。
「──宣言だと?」
感傷に浸っていたリレインに、聞き覚えのある声が響き渡った。シュタインのその言葉はおそらく、周囲に誰も居ないからこそ響いて来たのだろう。この広大な庭に人が居ることなど気づきもしない。
「ええ、王太子逃走の事実を発表するそうで」
シュタインにしては大きな声だったが、続くマンチェロの言葉はしかし冷静だった。おそらく、とさらに声を小さくして続ける。
「法術師の謀反と、カルヴァナ精霊召喚師の自害も、公表するつもりでしょう」
ウォルエイリレンが帰って来てから、一月ほど経つ。だれた状態が続いていたが、ようやく彼も動き出したのだろう。
しかしカルヴァナ卿の自害とは、いったいどういうことなのだろうか。
リレインは何も知らなかった。だからその場でぼうっと、話を聞いていた。以前感じた獄中から漂う不気味な恐ろしさを思い出して、薄ら寒い思いさえしながらも、表情が変わったとは感じなかったし、声のする方を振り返ったりもしなかった。ただ話を聞いて、呆然とするばかりであったから。
「アリス・ルヴァガが到着したからか」
「そのようです、殿下はそれを待っていたようですね」
「ルヴァガの精霊召喚師、か。──まったく、厄介なことだ」
シュタインはしかしそう云いながら、何所か楽しそうに云った。アリス・ルヴァガ。その名に首を傾げる。ルヴァガを名乗る者はもう、ここには居ないはずだ。それも精霊召喚師という地位を掲げたルヴァガなれど、何所に居るのだろう。
「ここにいらっしゃいましたか、リレイン様」
話を聞くともなしに聞いていたら、いきなり名を呼ばれた。そこでようやく自動人形のように声のした方を見ると、シューガン・リリアンレードンが居た。ずっと世話をしてもらっている侍従である。次期王候補であるリレインには不審に思われない程度の、いつも通りの生活をということなのか、そこらの融通はちゃんと聞いてくれる。
「ああ、ごめん。捜した?」
何事もなかったように返すと、通りから誰かがこちらを見る物音が聞こえた。たぶんマンチェロだろうと思ったが、彼は声をかけて来ることもしない。少しばかり距離があるために、聞こえているかどうかわからなかったのだろう。リレインもまるで気が付いていない風を装い、その視線を背中で受け止めながら答えた彼に、シューガンはにこりと笑う。
「本当にここがお好きでらっしゃいますね。たまには外に出られますか」
「ううん、外には出ない」
頑固一徹と云われた意味が、ここに来てようやく法術師を悩ませているようである。ウォルエイリレン帰還の時、外に出る。そう決めて、4年間ずっと閉じこもっている。たまに出るのもこの庭だけと決めた。そうしなければ、やっていられない。
「申し訳ありませんが、お部屋にお戻り願えますか。お客様がいらっしゃいます」
「客?」
イシュタル門を閉めて暦門を閉めて、それでも来られるのはナナリータだけである。いつもならナナリータ様がと名を出すが、今回は客と云う云い回しだ。首を傾げて意味を促すと、彼はくすりと笑った。
「とりあえず、お部屋にお戻りください。そこにずっと居られても、風邪を召されますよ」
云いながら自分の来ていたものを脱いで、失礼ですがとリレインの肩にかける。侍従が着るものを主に着せることなど普通はしない。だがシューガンのしたいことの意味がわかって、リレインは逆らうことなくそれをかけてもらう。その自然な流れのまま、耳元で囁かれた。
「メリーアン様がいらっしゃっております」
「メリーアン?」
思わず大きな声を上げそうになるのを堪えて、リレインは頷いた。歩き出すとシューガンは後から付いて歩き出し、マンチェロに気付いていないようにその場を後にする。
通路を抜けてイシュタル城へ入る。エントランスから東に抜けた先は管理塔で、今リレインが居るのは、この塔の一室だ。官吏でもなんでもなくトゥラスのリレインは当初王塔へ留まるよう云われたが、それを断った。王塔へ入ると云うことは王の側近であると云うことで、リレインはそうなる予定はないし、自らの君主が居ないと云うのにそこに居ても仕方がないと、またしても頑固を貫き通した結果、官吏塔に落ち着いたのだ。普段迎賓館として使っているのが暦城なので、仕方なしの処置だったのだろう。あれこれと注文煩くするリレインを、マンチェロ辺りは煙たく思っているに違いない。
「申し訳ありません、タイミングが悪かったようですね。また目を付けられてしまったかもしれません」
誰も居なくなったところで、シューガンがしんみりと頭を下げた。あの場でシューガンが現れなければリレインが話を聞いていたことを気付かれなかっただろうし、またあのリレインがと文句を云われることもなかっただろう。だがもう済んだことで、云っても仕方がない。
「良いんだよ、目を付けられるようなことをしている僕が悪い」
普段から対法術師の姿勢を見せているリレインも悪い。わざと敵対しているわけではないが、人質となっている以上素直になった方が懸命だ。それでも自分を貫いてしまうのはやはり、頑固な性格故なのか。
リレインならば口煩いナナリータを御することもでき、云いなりになるであろうと思っていただけに、ローウォルトが云うことを聞いてリレインが頑固になっている現状は、予定とはまるで違う構図で、さぞかし困惑しているだろうと思うと、それはそれで少しは気分が晴れる。
偶然聞いた話をリレインは思い出して、そのまま黙考する。シューガンに話すべきか悩んだが、部屋に着いてからの方が良いだろう。どうやってその話を伝えるべきかあれこれ考えながら与えられた部屋まで来てみれば、殺風景なその部屋には不似合いな一人の女性が佇んでいた。
「メリーアン」
「お久しぶりです、リレイン」
メリーアン・リュートゥース・ショウディトゥラスは恭しく頭を下げた。少々癖のある金色の髪がはらりと前へ垂れ、昼間の日差しを受け輝く。トゥラスにあるまじき金色の髪がこれだけ映えるのは、彼女だけなのではないかと思えるほどに美しい。露になった首筋の白さが浮き出て、またそれは顔を上げた瞬間に金色へとすり替えられる。明かされた顔は久しぶりであったし少しばかりやつれていたものの、毅然とした美しさは変わらず輝いていて、眩しいばかりだった。リレインは動揺を押し隠すように唾を飲み込むと、中へと入って彼女の元へ足を運ぶ。
「いったいどうしたの、許可が出たの?」
「リーに会うだけという約束をして。どちらにせよ、たかが文官。城から出るどころか、門を出ることすらできないのだからと」
要するに軽く見られた、そういうことだろう。
メリーアンは武術を習っていたわけではない。今回捕われた中で武道の心得があるのは、アルクのシャルンガー、ローウォルト親子、今対面しているメリーアンの兄姉弟妹である、ショウディのハードリューク、ダズクルー、マリクルーと意外に多いのだが、シャルンガーとローウォルトは真っ先に捕まってしまい、ハードリュークらがどうしているのかはわからない。しかし所詮は剣術であり、術師に叶うはずがないと思われているのが現状だろう。
メリーアンは大人しいほうだが、引き攣る笑みを見せた。祭司である彼女にここを脱出するだけの力はない、余程悔しいのかもしれない。
「駄目じゃないか、あまり危険なことをしては。──殿下が帰って来るまで、僕たちは大人しく待つ。帰って来た時に無事迎えられるよう、今は……」
「わかっていない」
「え?」
ぴしゃりと云われて、リレインは思わずその場に固まる。
「リーは何もわかってない」
「……外で何かあったの?」
「リュークとダズマリが城を抜けたみたい」
「え、どういうことだい?」
この城の包囲網をかいくぐって出るとは、ハードリュークの力量は認めているものの、門外漢のリレインには余程のことだとしか云えない。しかし城を抜け出たトゥラスがどうなるのか、想像するだけで背筋が震える思いだった。
「見つかっていないのかい、何所へ逃げたんだい?」
見つかっていないとしたらなかなかすごいとは思うが、見つかった時シュタインがいったいどのような手に出るのかが怖い。彼は自分の目的のためなら手段を選ばないところがある。もし邪魔だと思ったら、彼は。そこまで考えたところでメリーアンを見れば、彼女はまた、引き攣った笑いをした。
「そういうことでは、驚いてくれるのね」
「メリー、アン……?」
「元気そうで、良かった。お邪魔をしました、帰ります」
「メリーアン」
呼びかけるものの、彼女は歩き出してシューガンの近くまで来ている。そこで振り返ってようやく、彼女はリレインと視線を合わせた。
「リーこそ、巣窟に居るのだということを、忘れないようにしてくださいね」
「え、でも……」
「リーが」
メリーアンにしては大きな声を上げた。自分の声に弾かれたように向き直った彼女と視線が合うものの、それはすぐに逸らされる。メリーアンらしからぬ、弱々しい光に少しばかり動揺してしまう。
「貴方が無茶なことばかりするから……!」
いつでも毅然としてしっかり者のメリーアンらしくない焦れたような物云いに、リレインはようやく、彼女が危険を冒してまでここに来てくれた理由を思いついた。
「──心配、してくれていたの?」
「……別にそういうわけではないわ」
メリーアンはそっぽを向いてしまう。
彼女らしくない動作の一挙一動に動揺していたものの、そこでふっと肩の力が抜けた。うぬぼれても良いのなら、目の前の従妹は何かと反発するリレインの心配をして、わざわざここまでやって来てくれたのだ。兄姉弟妹の脱走を話すということも目的の一つにあったのだろうが、そう思うと、少し心が和らいだ。
「せっかく来たのだから、ちょっとぐらいゆっくりしていってよ。 どうせすることはないんだし、僕もちょっと、話したいことがあるんだ」
「私で、構いません?」
「え?」
「いいえ、なんでもありません」
メリーアンはそう云ったものの、明らかになんでもあるような顔をして椅子に座る。シューガンと目が合うと、彼は心得たように部屋を出て行った。リレインも取り合えずと彼女の対面に座るが、やはり彼女は顔を合わせようとしない。
「メリーアン、もしかして機嫌損ねさせたかな」
「当たり前です」
憮然として返されて、苦笑する。うぬぼれるのは撤回しておいた方が良いかもしれない。リレインは嫌われないものの、性格があまりにも柔いからか頼られることもない。メリーアンなどはそんなリレインに、一番いらいらさせられてしまうのだろう。
「──見に行こうか」
「え?」
考えたことを口に出してみれば、弾かれたようにメリーアンがリレインを見る。
「リュークたちが心配なんでしょう? なんとかイシュタル門を抜けられないか、どうにか会えないか聞いてみようか」
「さっき大人しくしているようにと云ったばかりでしょう」
冷たくあしらわれる。メリーアンはいつもこうだ。嫌われているのではないかと思うから、こうして来てくれたことに驚きを隠せず、なんとか力になりたいと思う。しかし相手は従姉と云えど、気安さよりも遠慮が先立って、リレインはどうにも弱くなる。
メリーアンは何もイシュタル城に居なかったわけではない。ずっと同じ城の中に居た。それでも会わなかったのは、あまりリレインを気にしていないからだと思っていたのだが、こうして最終的に来てくれたのがローウォルトではなくリレインの元だった。
先ほどから一貫性のないメリーアンの態度に、リレインは困惑する。
「それにあの子たちが簡単にくたばるとは思えない、心配などしていないわ」
「──そう」
「くたばる」の意味がよくわからなかったが、また機嫌を損ねられても困るので、なんとなく文章で理解し突っ込むのはやめておいた。それから、どうしようかと考える。メリーアンは素直でないところがある。口ではそう云いながらも、きっと弟妹たちのことが心配なのだろう。全員が腹違いと云えど、ずっと共に暮らしていた弟妹たちが心配でないわけがない。
城内で頼れるだろうハードリューク、それに続いて二男ダズクルー、二女マリクルーが出て行ってしまった今、筆頭に立てるのはメリーアンだけ。きっと心配と責任感から、そして少しだけ心配してリレインの元まで来てくれた。何か力になりたいと思うのは、至って普通の考えだろう。
リレインが考えあぐねていたところへ、シューガンが戻って来てお茶を振る舞う。こうして居ると、いつもの毎日が戻って来たよう錯覚してしまう。朝起きて学院へと通い、帰って来たら王宮でウォレン、ローウォルトとお茶の時間を楽しむ。 彼らが剣の稽古をし出す頃になると、ドクトリーヌが見学に来て、たまにはハードリュークに連れられたビルスケッタや、ダズクルー、マリクルー、ギャラクスも参戦し、気が付けばメリーアンがお茶を入れてあれこれ動き回っている。
そんな毎日が戻って来るよう、リレインだって努力をしたい。
「じゃあ、僕が心配だから確認する」
「え?」
「だって心配だから。イシュタル門を簡単に出られるとは思えないけど……」
リレインにできることはそれぐらいしか思いつかなかった。
「駄目」
メリーアンらしく、速攻で拒絶された。
「これ以上目をつけられたらどうするの、ただでさえ危ないのでしょう?」
しかしその後に続く言葉は、予想以上に優しくてリレインをまた喜ばせる。いつも冷ややかな態度を崩さないメリーアンだが、こんなリレインを心配もしてくれるのだ。やはり嫌われてはいないとうぬぼれて良いのか、少し考え直してみる。
「まあ、その時はその時で」
死んだら母は悲しんでくれるのだろうか、そんなことを思ってしまう。
目の前の従妹は花ぐらい手向けてくれるだろうか。
ウォルエイリレンが戻って来なくても、リレインがその場に居なくても、さっき思い描いたような毎日が戻って来るのなら、自分にできることをなんでもしたいと彼は願う。
そんな考えを見透かしたかのように、メリーアンは苛立ったように溜め息を吐く。
「どうしてリーはいつも……」
「え?」
「……なんでもない」
リレインはメリーアンが嫌いなわけではない。ただ、いつもどう接して良いのかわからなくなる。嫌われているようなのにリレインを避けるわけでもない、話してくれるもののあまり続かない。他の従兄姉弟妹とはうまく話しているから、リレインが悪いのだろうか。
だが今彼女が来てくれたのは、そういう運命だったのだとなんとなく思う。これは一人考えていても仕方のない問題だ、そう判断して、今居る仲間をじっと見る。
「メリーアン、じゃあ僕からお願い。ちょうど良いから君に聞いて欲しいことがあるんだ」
「え?」
不機嫌そうだったメリーアンは顔を上げ、少なくとも興味を持ってくれたようだ。
「シューガン、君も」
「はい、リレイン様」
「座って良いよ、長くなるから聞き難いだろうし」
メリーアンの横に膝を付いたシューガンに、笑いながら云ったつもりだった。だがその声は思ったより震えていて、付き合いの長い二人にはそれとわかってしまう。
「リー……?」
ただ心配そうな声がして、それにすがって泣きたいような気持ちになる。
「さっき、庭先で聞いた話なんだけど」
事実かどうか、まだわからなかった。わからないことだらけだが、一つだけ。
「カルヴァナ宰喚が、自害したようなんだ……」
ようやくその言葉を吐き出した。
聞いた時は何も感じなかったが、それはただ漠然とした情報として捉えていただけで、要するにその事実を認めたくない、と云う気持ちが働いていたのかもしれない。口に出したことで、それが事実になったような気がして、唇をぎゅっと噛み締めた。
・・・・・
あ、チィーニィーが咲いた。
クロードバルト・カイ・パルツァントゥラスはそのことに一喜し、後ろからかつかつと音が聞こえて来た途端一憂した。ここ最近ですっかり馴染みになってしまったこの音だけで、誰が来たか理解できた。
王宮に捕まってあげてかれこれ4年、 クロードバルトを監視しようとする者は居なくなった。おそらく法術で囲まれている限り、この男から目を離しても大丈夫だと思ったのだろう。それかこんな男に監視を置いているのがもったいなくなったのか、1年目にして監視はなくなり、王宮内暦門内だけとしても、クロードバルトは結構な自由を許されている。つまりそれだけ、問題外だと思われている。
──おまえはいつも通り非常識な時間に非常識に来れば良い。
兄ガーニシシャルに云われたことを突然思い出す。そんな印象を持たれているのかもしれない。だが研究者とはそういう人物が多い。庭に出させろと暴れてからは無駄な抵抗をやめたのだ。庭に出ていれば薬草があり、それを世話することぐらいしか楽しみが見つからなかった。甥姪は出ようと奮闘しているものの、クロードバルトはその気がない。時が来ればそのうち出られるであろうし、時間に対して執着はない。ただ助けが来るのを待つ間、出られないとなると閑になってしまうので、その閑潰しとして王宮内の薬草の世話を見ることを思いついた次第だ。これができなかったら、もしかしたら気が狂ってしまっているかもしれないが、シュタインはあまり小煩い男ではないので、理解があって敵ながら助かる。
本来なら味方に付いても良いのではないかと思える血縁が、どうやら小煩い女であるのがクロードバルトの最近の悩みである。カツン、とまた音がして、それは彼の後ろで止まる。それでもクロードバルトは振り返らない。
「ねえ、クロードバルト」
「なんでしょう、ナナリータ姉上」
干渉が嫌いなクロードバルトにしては、随分と譲歩して話してあげていると思う。それは自分が捕われているからとかそういう理由ではなく、ただ単に閑潰しになる程度の認識だった。クロードバルトに殊勝という言葉はない。
「あんたの旗色はかなり悪いから、協力してあげようかと思って」
「協力……ふぅん?」
クロードバルトは思案顔になって笑う。これもまた遊びだと云うのに、彼女は未だクロードバルトの遊び心を理解してくれていないのか、懲りずに何度も来る。そして高らかにまるで女王のように、自信たっぷりに彼女は命令するのだ。
「そうよ。──ただし、あんたがあたしに協力してくれたら、だけどね」
「そっか」
じゃあ、と彼は続ける。
「説明をお願いします」
「説明?」
明らかにナナリータは声に嫌悪感をにじませたが、クロードバルトは気にしない。そこでようやくナナリータを振り返り、その怪訝そうな顔の前に人差し指を一本、突き刺すようにして前に出した。
「一つ、それによってパルツァントゥラスにどんな利があるのか」
中指を立てると、ナナリータの顔が歪む。
「二つ、それによって僕自身にどんな利があるのか」
薬指を立てると、ナナリータが唇を噛む。
「三つ、それによってアリカラーナにどんな利があるのか」
「あんた、莫迦? 何をどう考えたって良いことだらけじゃない! ここから出られるし、あんたはまた奔放に生きて行ける」
「僕が奔放に生きるには、アリカラーナが落ち着いていないと意味がない」
ばっさりと切り捨ててあげると、ナナリータの顔が最上級に歪んだ。そこらで既にナナリータへの興味は薄れ、また背中を向ける。
「うまい説明文が思いついたら、また来てくださいね、姉上」
第一王女とは思えない舌打ちを漏らして、彼女はカツカツと去って行く。そして彼女はまた懲りもせず、クロードバルトを迎えに来るのだ。いつになったら理解するのかと思いながらも、クロードバルトも遊び心が抜けない。この瞬間がおもしろくてナナリータに付き合っていると云ったら、彼女はまたしても怒るだろうか。そう考えるとそれもおもしろいと思うのだから大概な性格である。
何せいつまで経ったところで、この日々は単調だ。あまりにも変わりのないこの平和過ぎる日々は、しかし王宮に居ると云うことでクロードバルトには少しばかりストレスが溜まる。
だからそれに変化を与えてくれる人々のことは、誰でも受け入れてあげようと思う。
「いつまで隠れているんだい、そこ」
クロードバルトは相変わらず姿勢を変えないまま、彼らに問いかける。最初は動く気配がなかったものの、それ以降クロードバルトが相手をしないで居ると、しびれを切らしたのかがさりと音がして、彼は自然クロードバルトの横に立つ。
「あれあれ、ばれるの早くないですか?」
「手を抜いていたくせに」
「あははは、流石、クロードバルト兄さんには敵わないなぁ」
「グランも早く出ておいでよ」
「ばれましたか」
云って出て来た男は、主の横に控えるようにして立つ。 こういうところで侍従の動きが完全に出ているが、正確に云えば彼は侍従ではない。終身雇用契約を交わした主従関係ではあるものの、侍従ではない。 だが彼としては侍従という位置に居るつもりなのだから、わかり難いコンビだ。
「なんの戦力もないこの僕に、わざと見つかるようにしたでしょう」
「はい」
あっさりと肯定する彼は、きっと笑顔なのだろうと思う。だからこそ見ない。
トゥラス第12位ダカンタ当主スティーク・ド=レスと、その相棒グラン=クレナイ。クロードバルトにしてみればもちろん弟になるが、困った末子3兄弟とはあまり関わりがない。クロードバルトの自由奔放さはスティークに似たところがあり、それが要因だと思われる。別に仲が悪いわけではなく、一緒に居たところで意味をなさないのであまり会わないだけだ。クロードバルトを一番扱い慣れているのは、やはりすぐ上の兄クルーフクスなのである。
「それで、何しに来たの? 早く帰らないと見つかるよ?」
「まだ見つからないから平気ですよ。見つかる手前までお邪魔させて戴きますけどね」
「私の照紋は取られていますから、見つかり易いでしょうね」
グランは云いながら絶対見つからないという自負があるのだから、意地が悪い。
法術師は照紋という、一人ひとり違う個人証明で探査を行なう。それが登録されていないと照合に時間がかかるが、既にその法術師団体の中にあれば何所の誰だかすぐ知られてしまう。スティークはイシュタル城兵の制服を着て、グランは仕事着なのか黒装束だ。どう見ても怪しい二人組にしか見えないが、クロードバルトが適当にあしらっている雰囲気は出ているだろう。所詮もう法術師には相手にされていないので、あまり気にする必要もない。照紋はグランの手により見つからず、監視はないのでこの怪しい二人組が捕まることはない。
そんな怪しい二人組の主の方は、カツカツとナナリータのような音を出しながら、まったく相手にしてくれないクロードバルトの横に座る。その足下にようやく注意が行って、
「そこの花、踏まないでよ」
「これはなんの?」
「チィーニィー、メイリーシャ用の薬草だよ。そう云えばわかるだろうけど、すごく貴重。5区画使って栽培したのに、そこにしか残らなかった。それを潰したら自分がメイの命を縮めたと思ってよ」
非常に栽培の難しい薬草で、詳しいことは今ルジェストーバで調べられている。草木に強さはあるがチィーニィーにそんな耐性はなく、スティークの足で踏みつけたらそれで終わり。そこだけにしか咲いていない貴重なもの。河も山も近くにあるルダウン=ハードク家ですら、当初クロードバルトが考えた小さな区画しか育たなかった。その区画ですらきちんと最後まで育ったのは、たった一部であったと云う。毎年クロードバルトを苦戦させるその薬草は、いつか何所か泊まり込んで研究しに行く必要があるだろうとすら思う。
相変わらずスティークを見ないまま云ったが、事の深刻さは理解したようだ。最初はまるで興味などなかったのだろう。ただあまりにもクロードバルトが相手にしないので、話のつなぎに訊いてみたと云うだけの。それにメイリーシャが絡むことによって、 スティークにとって「ただの」薬草が「大事な」薬草へと変化する。スティークと云う男は冷徹人間を装っているものの、実のところは情深さがあったりする。
それに気が付いているのは、クロードバルトだけではないだろうが、案外一番早くに気付いたかもしれない。たった3つ下だと云うのに、その間に弟妹が二人居るからかなんだかとても年下に見えた。その微妙な距離感が、スティークと云う男を冷静に見ることができた理由かもしれない。
<破綻のダカンタ>と云う異名を持つ今となっては誰も信じないだろうが、彼は随分平凡な男だった。確かに顔が異常に綺麗ではある。しかしそれ以外は特に目的を見つけられず、トゥラスのレールを歩いて行くことをつまらなく思っていただけの、少しだけやる気のない普通の子ども。真面目な生徒がほとんどのルジェストーバではあるが、その中は貴族と云うものに嫌気が差している生徒も居る。親の敷いたレールの上をただ歩いて行くことを拒んで、何か違うことをしようともがく生徒。トゥラスで云えばシャンランのギャラクス、少しずれるがイリシャンのビルスケッタなどが良い例である。その二人に比べれば、スティークは至って普通であったと思う。やる気は相変わらずなかったものの、普通に授業に出て普通に遊んで普通に付き合いがあった。そんな彼は、一つに没頭するとそれを一途に思い続ける、情熱的な面もある。
彼が王宮を離れてからしばらくして、少し気なって遊びに行ったことがある。普段だったら放って置くかもしれないが、時期が時期だっただけに流石に心配になった。物事を客観的に見るスティークの性格からして、自責の念にかられることはなかっただろうが、王宮から出て行きグランを侍従にしてと云う流れを聞いたら、幾らクロードバルトでも気になる。 しかし様子を見に行った先でスティークは、やはりやる気がなさそうに鍛錬をしていた。クロードバルトに構うことなく、護身術をグランに教えてもらっていた。話しかけるクロードバルトに笑って答えながらも、視線はそちらを向けない。ただじっと相手をしているグランから目を離さず、訓練にずっと集中していた。しばらく様子を見たが、それがずっと続いたのでクロードバルトはその場を離れたのだ。
スティーク・ド=レス・ダカンタトゥラスは、それから破綻者と呼ばれるようになった。
壊れるしかなかったのだ。彼を壊したのはやはり、ガーニシシャルだから。
自分を責めるような性格をしていないスティークが、どうして王宮を離れたのかわからない。なぜ大好きな王宮を離れて領地にこもったのか、なぜクレナイに入ったグランと契約を結んだのか、なぜガーニシシャルに会わなくなったのか、なぜシャエラリオンの近くに居てやらなかったのか。
そのすべての質問に、きっと罪悪感ではないのかとほとんどの人は答えるだろう。しかしクロードバルトは違うと思っている。彼の崩壊理由は、わかっているようでわからないままだ。ガーニシシャルが生きている間は召喚要請も定例会もさぼり、国葬にも出席しなかった。ただひたすらに、ガーニシシャルに会わないようにしていた。親友を国家的に殺し、妹を信じなかったガーニシシャルに、彼は会おうともしなかった。滅多に顔を見せず王宮には近寄らない彼は、それでもトゥラスには、身内には情深い。
相変わらず虫一匹殺さぬような綺麗な顔のまま、変わらぬのは顔だけのまま、彼は続ける。
「あれ、メイリーシャの薬って、ここでも栽培してるんですか?」
「まあ、そのうちどうせ領地入りするだろうからね。幾らルダウン=ハードクの領地に薬草がたくさんあるからって、いつまでも居られたら困るし」
アルクトゥラスを継いだからには、早いうちに領地に戻らなければならない。そのための準備として、クロードバルトはまだ近い王宮内でチィーニィーを育て始めた。病状はすこぶる良いようだが、果たしていつまで元気で居られるか。一度ならず二度までも無茶をする娘だから、どう転がるかわかったものではない。結婚して6年。後継となる子どもがうまれてもおかしくはないのに、その喜ばしい報告はない。いくら元気に見えても、あの病弱な身体が出産という大事に耐えられるかどうかはまったくわからない。そのためにできる限りのことはしておかなければならない。
メイリーシャの命と聞いて興味が湧いたのか、納得した様子で薬草を見ていたスティークは、そこで初めて眼前の草花を見遣る。
「はぁ、これ全部バルト兄さんが?」
「閑だったからね、なんとかここまでやってみたよ」
この4年で、やることはそれぐらいしかなかった。良い閑潰しになった。
「そこは空き地ですか?」
スティークは目ざとくそれを指摘した。薬草に埋もれて見えないような、小さな空き地を見つけてそれをわざわざクロードバルトに尋ねた。興味なんてないくせに、おかしなところで鋭さを見せるのだからやっていられない。
「夏の終わりに、咲く」
「なんて云う薬草なんです?」
クロードバルトはそこでようやく向き直って、その美しい顔立ちを真正面から見つめる。
「それで、何をしに来たの? まさか僕に弟子入りしたいわけでもないでしょ」
すると彼も顔を上げて、クロードバルトの顔をしっかりと見返す。ぶつかった視線にあらゆる感情が行き交いし、スティークはすべてを悟ったかのように口の端を若干上げた。苦手な顔だと思ったが、すぐにきらびやかなのに能天気な笑顔を広げる。
「クロードバルト兄さん、貴方本当に捕まってるんですか?」
「うん、一応は軟禁状態。じゃなきゃ僕がこんな場所に居るわけないでしょう」
こんな場所、というのはこの国の最高権威である王宮を差している。すぐそこにはイシュタル門が見えるほどに、ここは切迫していた。捕まっているというのは事実なので、否定はしない。
クロードバルトは何気なく、先ほどスティークが尋ねた空き地に向きを変える。そろそろ使用時期になっただろうか、そう何度も思いながらそのままにしている土地は、どうやら使う必要がなくなったようだ。なんとなく、胸を撫で下ろす。面倒なことは無論、これを使うのは最終手段だと思っていたからだ。その点では、いきなり現れた弟に感謝せねばならないだろう。
このままクロードバルトが王宮に居ることを強要されたら、これを使う予定だった。対照的に外見は王宮が似合う男は、ふぅんと興味深そうに笑う。
「まあ僕もイシュタル門は越えられない、今は放置してくれているからこうして自由。普段はエメラルド城に居る。入って来たならわかっているだろうけど、城壁に魔法陣、 探査は一日フル稼働一歴一箇一石たりとも休んだりはしないよ」
「ああ、ありがとうございます、わざわざ情報流してくれて」
「僕だって早い所こんなところ出たいんだから」
「お望みなら連れ出しますけど?」
「ああ、無理はやめてね。本当はもの凄く帰りたいけどまだ帰れないから」
「──はぁん」
にやりと、スティークは笑う。その笑いが既に、昔の彼ではないことを物語っている。もうあの頃のスティークではないと主張するかのように、破綻者と呼ばれるにふさわしい笑みを。それにクロードバルトも、もう慣れたつもりで居る。だがそれでも、破綻者と呼ばれるスティークにはあまり会っていないからか、少しばかり違和感があるものの。
それでも目的を果たした上でここから安全に出られるのならば、その違和感を忘れて彼に従おう。
「エメラルドに5人、他は全部イシュタル門の中。ロートやリーなんかはたまに見えるんだけど、他の人はまったく見ない」
「ナナリータ姉さんは特別なんですねぇ」
「ああ、あの人はそう、契約召喚師に連れて来てもらっているから。まあでも、最近は領地に帰らないでイシュタル城に定住してるみたいだけどね」
とそこでスティーク越しに、季節には眩しい太陽がギラギラと照らす長月の方向の城が目に入る。
「シャエラリオンも特別かな」
躊躇うよりも前に言葉が出て、またそれに動揺したらしいスティークが見えた。半笑いだった顔が、破綻者が消えて、スティークと云う一人の男が出て来る。
「──今もあそこに居るのですか、彼女」
「居るよ、そりゃあね。知っているでしょ」
そうですか、とだけスティークは呟いた。それからそっと、盗み見るようにサファイア城を見たものの、彼はすぐに視線を逸らす。クロードバルトはそれに気が付かないふりをして、薬草を観察する。おまえの事情には興味ないよ、と云うつもりで。話すなよ、と云うつもりで。クロードバルトはそこまで深入りする気がない。あまり面倒なことを知りたくはない。それは自分自身に入り込んで欲しくないから、相手にも入らないと云う礼儀の範囲である。だが簡単に素通りできない関係にあるのも事実ではある。
スティークとシャエラリオンが仲の良い兄妹であったのは、キッドとレグルスアンドでつるんでいたのは、バルバランの奸計が起こるまでのことだった。あの一件でスティークは親友と妹と、そして敬愛すべき兄を失ったのだ。世間的に、スティークは親友に裏切られ、最愛の妹を傷付けられ、兄は親友の妹を傷付け、彼は居る場所を失った。もう訳がわからないほどの絶望を彼は一遍に受けた、ということになっている。
だから彼は、壊れた。クロードバルトはそう結論づけている。もうそれで良いと思っているから、事実がどうであれ今さらそれ以上のことを知りたくない。
なんだかんだ云って弟妹たち全員が、ガーニシシャルを好きだったと云うことを認めたくない。
「当主」
存在をすっかり忘れていたが、後ろに控えている仕事着のグランが小さく呼ぶ。
「それで」
促される形で出た声が若干掠れていて、クロードバルトは思わずスティークを見る。少しばかり動揺が走っていたように思うものの、流石はダカンタトゥラス。次の瞬間には破綻者がすぐに復活して、じっとイシュタル城を見つめる。
「ナナリータ姉さんとは、誰が?」
「さあ、誰だったかなぁ」
契約召喚師の名前は聞いたはずだが、あまりにも興味がないので覚えていない。まさかこんな助けが来るなどとは思ってもいなかったので、そこまで重要だと思っていなかった。だが覚えられなかったということは、召喚師5家でなかったということだろう。
「それより外はどんな調子?」
「うーん、ややこしい感じですね」
「そう」
明らかに説明不足だったが、クロードバルトはそれ以上追求しなかった。ややこしい感じが好きでないクロードバルトは、そう聞いただけで話を聞く気がなくなる。
「それよりも、クロードバルト兄さん。殺されないようにしてくださいよ、キッドが余計なことをしたから、もしかしたら殺される可能性があるんですよ」
「ああそう」
スティークが云う限り、本気だと云うことはわかっていた。そして殺す気なのがシュタインであり、それがいつでも可能だと云うことが。しかしそこに危機感もへったくれもないのは、彼が現れたからと云うのが強い。スティークが本気を出せば、グランがそれに付いて行くのならば、クロードバルトは死ぬことはないだろう。それが破綻者たるスティーク・ド=レス・ダカンタトゥラスだ。
しかしその信用を楽しめないらしいスティークは、若干顔を顰める。
「相変わらず緊張感がないですねぇ、ここはもっとドラマティックに驚いてくださいよ」
「えー、殺されるんだぁ嫌だなぁ」
いかにもな棒読みで云ってやると呆れたと云うように溜め息を吐かれる。本当に溜め息を吐きたいのはクロードバルトであるとは思うのだが、口には出さない。
「クロードバルト兄さん」
スティークはしかし、溜め息顔を絶世の美男子顔に変えて、にこりと微笑んだ。
「スティーク・ド=レス・ダカンタトゥラスの名に賭けて、必ず助けますよ」
声を失うほどの美しさで妖艶に微笑まれ、おそらく女性であればそれだけで卒倒しそうだが、宣言の裏に含まれる意味がわかるクロードバルトに取っては、即座に頷けるものでもない。
「それは、誰の命令で?」
「──それは……」
言葉に詰まったスティークを、クロードバルトはじっと見つめる。彼は助けると云ったら必ず助けてくれる。元々嘘が嫌いで、そんなもの吐けない男だ。だからたとえどんな事態が起ころうとも、スティークはクロードバルトを助けるだろう。だが、それではクロードバルトは駄目なのだ。
「もし僕がここで命じられるのであれば命じるけれどね」
スティークは唇を噛む。彼の主であったアリカラーナはもう、居ないのだ。主を変更することに、彼は踏ん切りをつけない。そしてここで現在の主は貴方だと嘘を吐くこともできない。基本的に、潔癖なのは臣下と同じなのだ。
「そう、ですね。マレルのため、とでもしておきましょうか」
「そんなこと頼むわけないでしょ」
「ばれますか」
若干戸惑っていた彼は、にやにやと意地の悪い笑みにすぐ転換した。
そこで先ほどからにこにことやり取りを見つめていた、それこそスティークが動揺した瞬間すら笑っていられたグランが動く。
「当主、そろそろお時間です」
「あ……、タイムリミット?」
「後、18石ほどで探査がここまで来ます。少し場所をずれると早まるので、動かないでくださいね」
そこでスティークは取り憑いていた何かが離れたかのように、頭をがじがじと掻いた。
「意外に長居しちまったなぁ、バラスター兄さんに怒られる。早い所引き上げよう」
「石にならないと焦らない辺りが君たちらしいと云うか」
一箇だって大事だろうに、と思いながらクロードバルトは呆れる。この人たちの時間の単位は基本的に石だと知っているものの、感覚が掴めない。
「あはは、ぐだぐだなんですよ、俺たちはいつだって」
「そうですねぇ、当主は変わりませんねぇ」
「はいはい。それではクロードバルト兄さん、また来ますから、それまで殺されないでくださいね」
にっこりと微笑んで、彼らはそのまま消えた。それこそふっと、いきなり。
照紋は確実に読まれる。だから読まれる前に逃げる。ただその時間を稼ぐ術を、クロードバルトが知るわけもなく、それはクレナイたる力だ。
面倒なことになったなぁと思いつつ、その動きに少しばかり期待していることに気が付く。
王が居なくなって、4年。後少しで5年を迎えるアリカラーナ国。
しかしクロードバルトにとっては、トゥラスにとっては「王」と云うよりも、ガーニシシャル・イシュタル・アリカラーナと云う個人が居なくなったことによって不安定になったと思われる。
シャルンガー、レイシャンは主を失い、ナナリータ、シャエラリオンは恨む相手を失い、リズバドール、リナリーティーシアは敬愛すべき相手を失い、バラスター、スティーク、ヴァーレンキッドは気持ちを持て余してしまい、他のトゥラスは他兄姉弟妹とのつなぎであるべき柱を失った。
ガーニシシャルが居なくなった、この不安定な世界の中で、取り残された兄姉弟妹がまた、一つにまとまること。それが可能か可能でないか、それが今、試される時である。
クロードバルトはちらと、イシュタル城を見上げる。なるべく入るなとは云われているものの、入城を拒否されたことはない。入ろうと思えばいつでも入れる。せっかく捕まってこんなにも自由なのだ。本来なら入って行くべきなのだろうが、クロードバルトは事実に背き薬草を育てている。
もし本当にエリンケ・バルバランが王になる。そんな結末になった場合を考える。
──エリンケには継がせぬよう必ず遺言しよう。
ガーニシシャル兄さん、残念なことに、その遺言絶対ではなかったみたいです。亡くなってから思い出される彼の顔は、いつだって温和に微笑んでいる。残されたクロードバルトはイシュタル城から小さな空き地に視線を逸らし、そっと溜め息を吐いた。
・・・・・
私新聞の一面に「王太子、法術師を全面否定。新たなる精霊召喚師現れる」と書いてある。もちろんああだこうだとつらつら書いてあるものの、私新聞なのであまり信用はできない。実際アサギの部下の報告では、王太子殿下は精霊召喚師を迎えて今、準備を整えているようだと伝えて来た。
新聞の一面に大きく記事を割いて描かれた、「新たなる精霊召喚師」なるものを見て、エリーラ・マグレーンは思わず溜め息を吐く。
「精霊召喚師、ね……」
「顔が硬いよ、エリーラ」
アサギが奥の部屋から出て来て、新聞片手に溜め息を吐くエリーラを心配そうに見る。まだ日も浅いと云うのに、既に随分前から居るような雰囲気になっている辺りが、アサギの懐の深さだと思う。彼は掛け値なしに優しい。部下にはもちろん、純粋な気持ちで来たわけでないエリーラにさえ。
そのことに少し罪悪感を覚えながら、エリーラはなんでもない顔をして微笑む。思わず力の入った新聞にくしゃりと皺が寄って、それがまるで自分の内面のように感じるのを無視して。
「すみません」
仕事中に私新聞を見ている場合ではないだろうと云うのに、アサギはまるで気にした様子もなく、その一面に居るアリス・ルヴァガを見てああと頷く。
「ああ、その娘がエリーラの親友なんだよね」
「ええ。──まさか、こんなことになるとは思いもしなかったけれど」
本当に思わなかった。
アリス・ルヴァガ。あの娘が連れて行かれたのは、本当に唐突のことであった。エリーラが知るよりも前に法術師はアリスの家に押し掛けていて、彼女が来た時既にアリスは逃げだしていた。残ったのは、育ての親ラナとダーク・クウォルト。彼らは何も語らない。
その後何度かラナには会ったものの、ダークと話ができたのは、出て行く少し前のことだ。自分は彼に許しを得てアリスの近くに居ることができた唯一の存在だと云うのに、そんな自分が彼女の危機に居合わせなかったこと、それに悔しさが押し寄せる。ダークと話すべきだと思いながらも、なんとなく顔を合わせ辛かった。
「ルヴァガの御子なんだから、こうなることもあるだろうね」
しかしアリス・ルヴァガを知らないアサギは、なんでもないことのように云う。それがまるで当然のことだとでも云うように、彼はあっさりと云い切った。
「知っていますか、ルヴァガのこと」
「知っている、とは云わないかな。僕はアリス・ルアと同い年だから、ちょうどルヴァガ災厄の年に生まれている。父上はともかく、面識すらないよ」
そう云えばアサギはアリスと同じ年なのだと思い出す。いつもエリーラがアリスの世話を焼いていることが多いからなかなか信じてもらえないが、エリーラは今年19歳。アリスより一つ下の生まれだ。早く大人になることを必要とされるこの国で、たった一つの年の差は大きい。
「召喚師がタブーにしているから、リーシュカさんの行方が話に出るぐらいかな。あんまり具体的な話をしてしまうとまた険悪になるからって、定成王はなさらなかった」
そこでにこりと笑った彼は、
「まあしがない商人にはわからないことだよ」
と冗談めかして微笑む。
アサギは不思議な人だと思う。優しさの裏に何かをひた隠している、そんな彼の本性がどんなものなのか、でも悪いものではない気はする。
「イーリアム城は近いですよね」
「──うん、そうだね」
それからアサギはぼうっと窓の方を見遣る。エリーラよりも後ろにあるその窓の向こうには、そびえ立つイーリアム城。
エリーラが数日前まで悩んでいたアリスへの気持ちと同じく、アサギも彼に対して複雑な気持ちがあるらしい。あまり深く突っ込んだことはない。アサギ自身の事情について、エリーラは何も知らないのと同じだ。
「特急馬車で行けば、間に合うかな……」
と、アサギはぶつぶつ呟く。
「アサギさん?」
「え、ああ、ごめん。──会いに行きたい?」
「え?」
「アリスさんに会いに行きたいでしょう、だったら行って来ても良いよ」
「でも私はアサギさんの助手を」
「元々、彼女を捜すのが目的だったんだから、それで良いと思うよ」
そう。そう云う雇用契約だったのだ。
純粋なる上司部下ではなく、お互いの利益のための、単なる利潤関係。エリーラはアリスを探すため、またお偉い人との繋がりを持つため、アサギはアリスに繋がるエリーラと云う人物を手に持って置くため。
だが商人にしては、アサギはあまりにも優しく情を持ち過ぎる。たった数日ながら、そうエリーラは思った。だからこそ、彼が微笑んで何を云うか検討が付いた。
「ああ、でも、まだ部下で居てくれるかな。せっかくなんだし」
「ええ、もちろんです」
だからこそ、エリーラも覚悟を決めている。
「あの、私の親友捜しはもう達成できました。なので私はもう、邪念なしでお仕事をしたいです」
「え、ああ、うん」
「何かお手伝い、できますか?」
エリーラのアリスを探すと云う目的も、偉い人の伝手を得ると云うのも達成された。だからエリーラの目的は達成され、純粋なる部下へとなるのだ。それが目的を達成したエリーラの、せめてもの恩返しである。エリーラとしては自分のぎりぎりのところで口を開いたと云うのに、アサギはぽかんとして彼女を見て仕舞いには笑い出した。
「どうしたのです?」
「ううん、律儀だなと思ってさ」
アサギはエリーラに反論の隙を与えず、
「なら今度は僕の番だね。とりあえず行って来てくれるかな、イーリアム城に」
「え?」
「これを持っていれば、とりあえず入れるだろうから持って行って」
「──え……」
云って渡されたのは、紋章。彼のすべてを表すその紋章を渡されたことに、庶民であるエリーラですらそれは戸惑うのに充分だった。貴族に取って名を表すそれは絶対で、何かが起こればすべてを失う。それを利潤だけの付き合いしかないエリーラに渡す、そのことに戸惑わないわけがない。
「アサギさん、これは……」
「それから手紙を、ウォレンさんに渡して欲しい」
渡されたのは手紙だった。エリーラの手にもなじむ、庶民に手を出せる手紙。封には簡単に、親愛なるウォレンさんへ、商人アサギとしか書いていない。いつもここに届く上質な羊皮紙を使った定例分しか書いていないものとは違う、 安い紙で埋めようとしているが、一語一語に心がこもった大切なもの。
アサギはそれを、紋章と共にエリーラに渡す。
「お願いできるかな、納品」
「でも……」
「僕はね、エリーラ。父上と違って家名なんてどうでも良いんだ。定成王は僕にとって遠い存在だったから、実のところあまりわからない。ただ、ウォレンさんは僕にとってなんだかんだ云いつつ、大切な人だから」
だから、これを渡して欲しい。
その心が真実であるかどうか、わざわざ疑う必要などなかった。家名なんてどうでも良いと云いながら、父のためにそれを守ろうとしている彼が、簡単な気持ちでそれをエリーラに渡すわけがない。この思いは本当だ。
エリーラは震える気持ちで、しかし毅然とした顔で渡された二つを手に持つ。あまりにも軽い、とても軽いそれは、エリーラの手一つで壊れてしまうだろう。簡単に皺が寄った私新聞のように、それらはあまりにも安くできている。だからこそ、これは大切にしなければならないのだ。
「きっとそのうち宣下が出たら、王太子軍として協力者を召集と思う。──それになんとか、間に合うと良いんだけどね」
「わかりました、受け取ります」
「ありがとう」
そこで彼はほっと安堵の溜め息を吐いて、ゆっくり微笑んだ。その顔を見ただけで、受け取って良かったのだと思った。そしてこれを、きちんと届けるべき相手に届けなければならない。
そこで空気がふっと弛緩したように思えた。 アサギもエリーラも何気なく話していたつもりだったが、お互いに緊張していたのだろうか。これででも、利潤だけの関係はなくなった。
「後は細かい事をいちいち書簡で送るかもしれないけれど、良いかな」
「あ、それなら、召喚獣を置いて行きますので、使ってやってください」
「そう? 助かるよ。家に帰れないといろいろ不便だよ」
「監視、されているのですか」
「うん、たぶん。まあ向こうも僕のことは、あまり頭に入っていないだろうけどね。これも全部、父上のおかげだよ。好きに動けてありがたいなぁ」
にこにことなんでもないことのようにアサギは云ったものの、その瞳が若干揺らいでいるのをエリーラは捉えた。
いつもならば家の専属がなんだってしてくれただろう。だから彼は家に帰ればいろいろ手を回してこの状況を打開することができるはずだ。しかし今、その家へ下手に近づけないこの状況は彼にとって苦痛でしかない。家が好きで仕方ないらしい彼は、特に。あの暖かい家族を大事にしている彼にとっては。エリーラにはわからないその感覚を大切にしている人は、なんだかとても大事にしたく思うのだ。
「もし御家の状態がわかれば、お知らせ致しますね」
「ありがとう、エリーラ。よろしく頼むよ」
アサギは今度こそ、なんの気負いもないように笑った。