表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
精霊物語─王太子の目覚め   作者: 痲時
第12章 約束だから
31/36

第67話:約束があるからさ


 目の前でにこにこと笑う父親を見ながら、ルーシアはまたしても思った。

「ルーシア・ムーア・イリシャントゥラス第3子卿、これは当主命令だよ」

 恐ろしい顔だ、と。時にこの人はトゥラスの中で一番怖いのではないかとも。剣を持ったシャルンガーより、城主であるレイシャンより、暗殺者を引き連れたスティークより、そんな明確なものを持って居ない自分の父こそが、一番恐ろしい人なのではないかと。いつだって笑顔でのんびりとしているくせに、その裏には恐ろしい顔が宿っている。


 幼い頃、父は怒らない人間なのだと思っていた。優しくていつも笑顔の理想の父。だが10歳の時に気が付いた。父は怒らないのではない、怒る時に笑いながら威圧するのだと。それがわかった時は父のことがしばらく怖くて仕方なかったが、だからと云って普段温厚な父を避けたら不審であるし、()()()が父親を避けるなど許すわけもない。

 しかしだんだんと成長するに連れて、それは怒りではなく熱意なのだと理解して来た。真剣だから恐ろしく、その裏には悲しみが宿っている。彼は深く、傷付いているのだ。親と云うものも自分と同じく人の心を持ち、喜ぶと同時に、悲しみもするのだ。そんな単純なことに確と気が付いたのはいつだったろうか。思いを過去に飛ばすが、記憶は彼女自身曖昧であまり思い出せず、加えて笑顔が恐ろしい顔の当主に、これ以上黙りを決め込むこともできなかった。背筋をぴっと伸ばし、しっかり目を見つめてから、「第3子卿イリシャン、承りました」

「──そう、良かった」

 ルーシアが頭を下げて云えば、恐ろしく真剣な表情は次第にいつもの笑顔へと変わる。実のところ先ほどまでも笑顔だったのだが、その裏では笑っていない、なんとも言葉にすると珍妙だが、笑顔で恐ろしい顔をしていたのだ。威圧溢れる笑顔とでも形容すれば良いのだろうか、レグルスアンド・バルド=サン・イリシャントゥラスは、ただ恐ろしい男だと思う。



 しかしそんな恐ろしさなど微塵も感じさせない笑顔で、今度は座っているダズータとアサジークに頭を下げた。

「兄上たちもすみませんねー、こんなところまで乗り込んでしまって」

「いや、私もおまえに賛成だ」

 ダズータもアサジークもそんな義弟に慣れてしまっているのか、こんな時でも冷静である。どうせならレグルスアンドの恐ろしさに気付かず反発して欲しかったのだが、義理とは云え兄である以上、彼の性格を知らないわけがない。それにダズータは結局のところ、ルーシアに味方をしてくれないのである。攻撃性のない伯父たちは、こぞってルーシアを閉じ込める方向へと話を進めた。

「マリノが参加を発表して、義勇軍は大きく動きつつある。あまり下手な動きはしない方が良いだろう」

「後はセランティオンの方が問題だけれど、それはどうするんだい?」

「ああ、そっちは片付けたから大丈夫ですよー」

 何をどう片付けたのかわからないものの、笑顔でそう云われると他に返す言葉もない。それはルーシアにしろダズータにしろ、尋ねたアサジークにしろ然りだ。ルーシアよりもずっとレグルスアンドと云う男との付き合い方を承知している。


「ご協力に感謝します、ダズータ兄上、アサジーク兄上」

 ご満悦な当主の顔を見ていると、ルーシアとしては悔しい思いが募る。先ほどの恐ろしいまでに真剣な父の表情を忘れたわけではなかったが、内に閉ざしている元来の勝ち気が勝り口を開いてしまう。

「でもお父様、私、本当は……」

「ルーシア、現状を理解しなさい。イリシャンは保留を取っているんだ。それは当主の意向であり、おまえは子卿としてそれを汲まなければならない。わかるか?」

 ルーシアの声に答えたのはダズータで、いつも通り正論である。腹が立つのは正論だからだ。間違ってはいない。未だ保留の立場を取るものは多い。それはこの混乱した国が悪いのだから、自分や家族の保身が一番に来るのも当然だ。



 だがそれでも、胸のもやが取れない。


「私はウォレン様に国王に、アリカラーナになって欲しいのです」

「それは僕だって同じだよ」

 にこにことレグルスアンドは云う。

「でもウォレンが王になることより、もっと大事なものがあるからね」

「エリンケ様が王になって、それの安全が保証されるのですか?」

「どうだろうねぇ。でもエリンケが王になって保証されるのなら、僕は彼に膝を折っても良いよー」

「お父様、お言葉が過ぎます!」

 幾らトゥラスとは云え、云って良いことと悪いことがある。所詮、トゥラスなど王の代理に過ぎない。しかもほとんどない確率の駒でしかないのだ。幾らガーニシシャルと同じ血を引くレグルスアンドと云えど、ウォルエイリレンへの侮辱はガーニシシャルへの侮辱と直結し、それは許されるものではない。


 だがレグルスアンドは平然としている。

「何を怒っているんだよ、ルーシア。エリンケだって兄上の御子なんだよー?」

「それはそうかもしれませんが……」

 ルーシア自身、エリンケと会話したことがなく、どのような人物だかわからない。生まれる以前から父親に見放されている彼には、同情の余地もあるだろう。だがルーシアにの選択肢はウォルエイリレンしかなかった。従兄としてももちろん、王として立つのはウォルエイリレンしか居ないと思っていた。次期王候補に名を挙げて置きながら、何もしないでふんぞり返っている男は好ましくない。



 思わず嘆息してしまうと、レグルスアンドの瞳がまた不穏に揺れ動いた。

「まあ、君が何を云おうとね、ルーシア」

 父を取り巻く雰囲気が変化した。先ほどの妙な威圧感に取り巻かれると、ルーシアは言葉を紡ぐことができなくなる。

「おまえができることなんて、ないんだよ」

 ルーシアはただ静かに、息を吐き出した。

 恐怖とかそう云うものを超えて、ただ単純に、父の云うことに得心したのだ。レグルスアンドの云うことはいちいち当たっていて、何より、醜い自分が居る。






 そもそもなぜルジェストーバ王立学院の理事長室で、親族会議と称して父親から釘を刺さなければならないのか。その原因はルーシア自身にあった。それはルーシア自身も理解している。


 先日セランティオン王立劇団の王都公演が開かれ、その劇を見に行った。いつもなら従兄ディルレインからもらえるチケットが送られて来ないのは不思議であったものの、見に行きたい気持ちが勝ってルーシアは足を運んだのだ。

 チケットは配られない、公演内容は伏せられ、出演者が書かれた程度だった。そんなスタンスを取った劇を、ルーシアは敢えて見に行った。チケットを従妹のマリノから渡された時おかしいと思ったが、それでもセランティオン王立劇団の公演は毎回見に行っていたし、今回も逃したくはなかった。



 それが、まずかったのだ。

 彼らが行ったのは宰法を批難する内容であり、その中で主演ディルレインが演じたのは、明らかにウォルエイリレンの立ち位置だった。要するに、ウォルエイリレンを擁護した演劇だったのである。


 現在、王太子軍と宰法軍の戦いに、トゥラスはそれぞれ意見を分かれた立場を持っている。マリノの父であるバーテントゥラス当主ヴァーレンキッドは王太子軍に付いているが、イリシャントゥラス当主レグルスアンドは、争いには関わらない意思を示していた。レグルスアンドはこれでも召喚師側で力を持っているため、彼の発言影響はでかい。しかし勝利がどちらに転ぶのかわからない以上、レグルスアンドは中立を保つことを選んだ。自分の家が無事であれば、他のことなどどうでも良い。彼らしい考え方だ。


 だからこそイリシャン子卿であるルーシアが劇を見に行ったことは問題視される。


 内容が伏せられていたから、まだなんとでも誤摩化せるであろうが、おかしいと思いつつ足を運んだ軽率さとその後の行動について、当主より叱責を受け今に至る。被害を受けたレグルスアンドが、わざわざ学院まで足を運んだのである。当然、その前にディルレインに口出しすることも忘れなかったらしい。ディルレインに要らぬ迷惑をかけてしまったこと、それがルーシアの心を何よりも重たくしていた。





 ──俺を批難しろ。周りに少し、聞こえるよう大袈裟に、だ。

 ディルレインにそう云われても、できなかったことを思い出す。

 百歩譲ってよくわからない演目の劇を見に行ったのは良いだろう。ルーシアは演劇科の生徒であり、将来は女優になれる自負もあるほど勉強熱心だ。だから問題は、そんな演目をした劇団に対して、不謹慎だと咎めることもせずに最後まで観劇したルーシアの態度に向けられる。王太子軍貴族からは勧誘が、宰法軍貴族からは理由を尋ねる書簡が何通か父親宛に来てしまったらしい。


 失敗したのだ。──ルーシア・ムーア・イリシャントゥラスは。

 誰もが憧れるルーシアと云う存在が、久しぶりにやらかした失敗であった。またやってしまった、とルーシアは思う。いつだって憧れの人には近づけない。ルーシアの憧れてい女人はこんな下らない失敗を犯さない人だった。失敗したとしても、うまくカバーできる人だった。きっと彼女だったら、イリシャン子卿としての立場からと前置いて、彼の態度を正当化したはずだ。あの時ルーシアはディルレインを批難できなかったが、正当化することもできなかった。貴方は間違っていない、私が今日ここに来たことが間違っていた。ただその一言が云えず、ルーシアはただ、謝るしか脳がなかった。


 不自然ながらディルレインが立ち回ってくれたおかげで、それほどの被害を被ったわけではないらしい。何通の書簡は様子を探るようなものであったとレグルスアンドは云う。それがせめてもの救いだ。




 だがルーシアの気持ちを重たくしているのは、それでもない。

 何所までも自分は醜く、誰の期待にも答えられない。そんな自分が、溜まらなく嫌いになる。

 ディルレインに批難しろと云われた時、ルーシアはそうすべきだと思った。イリシャン子卿と云う自分の立場を理解していたつもりだった。だがその隣で従妹マリノは、惜しみない本音の賞賛をディルレインに贈っていた。

 ──すごい、すごかったよ! ウォレン従兄にも観てもらいたいぐらいだった! 演劇評価の良さって正直よくわかんないけど、でもすごいじっと見入っちゃったよ!

 マリノにはいつだって悪意などない。素直に思ったことを口にしているだけで、それはある意味で父親に似た直情型の性分なのだろう。


 だがそれが許されないルーシアに取って、弱みを見せつけられているようにしか感じられない。ルーシアだってディルレインの素晴らしい演技に、喝采したかった。一番に感動を伝えたかった。素晴らしい演技だったと、ルーシアの本音を伝えたかった。


 だと云うのに伝えたい相手に気遣われフォローされ、さらに答えられないなんて惨めでしかない。


 マリノを恨んでいるわけではない。どんな複雑に感じても、彼女はルーシアにとって幼い頃からの大事な親友なのだ。だがそれだけに、相手が眩しくなって見える度、ルーシアの心は抉られる。



 嫌いな相手など居ない、むしろみんな大好きだ。なのにどうして、こんなにも心苦しく痛々しい気持ちになるのだろうか。ルーシアはまたしても、頭を下げる。

「ご迷惑をおかけして済みませんでした、お父様。ダズータ伯父様、アサジーク伯父様。それでもセランティオン王立劇団の演技は勉強になりましたので、それを参考に卒業制作に打ち込みたいと思います」

 空虚な気持ちを持て余しながら、ルーシアは居並ぶ大人たちの前で、頭を下げ続ける。美人で器量良し、しっかり者で演技もうまい。賞賛されるルーシアの肩にあるのは、人々の重苦しいまでの善意であり、それは到底、振り払えるものではなかった。


 周囲の空気が弛緩するのを感じながら、ルーシアはただ、顔を上げずに答えを待った。






「失礼します」

 ルーシアには拷問とも云えるその時間を破ったのは、ダズータの秘書ベル=ドアだった。相も変わらずにこにこと微笑みながら全員を一瞥した後、そっと頭を下げた。

「ご会談中失礼をさせて戴きます。──理事、お客様がお見えですが」

「また客か」

「あ、僕たちは客じゃないですからねー」

「客ではなくても勝手に人の場所にずかずか入り込んで来るのだから邪魔は邪魔だ」

 ダズータは臆することもなく義弟をばっさりと切り捨てると、ベル=ドアに向き直る。

「それで、客と云うのは?」

「はい、ショウディトゥラス卿です」

 まさかの第8の伯父の名が出て来て、辺りには疑問の輪が広がった。

「おまえたちまさか、打ち合わせて来たわけではないのだろうな?」

「まさかぁ、僕は当主としての責務を果たす為に足を運んだだけですよー」

「おまえはもうしゃべらなくて良い、頭が痛くなる」

 先ほどまでの畏怖は何所へやら、へらへらと答えるレグルスアンドにダズータはかぶりを振ると、通すようベル=ドアに促す。




「どうもダズータ兄さん忙しい時に……おや、なんだこの大所帯は」

「狙って来たわけではないのなら許してやろう」

「勘弁してくださいよ、私がわざわざレグルスアンドの居る時に狙って来ると思いますか?」

「それは酷いのではないんですかねー、クルーフクス兄上?」

 兄たちが一斉に会すと、レグルスアンドは途端末っ子らしく見える。正確に云えばシャエラリオンが末っ子なのだが、彼女はあまり数えられないので彼にそれが与えられる。そして彼は、それをうまく使いこなしてしまう、器用な人間なのだと、我が父ながら思う。



 レグルスアンドを主に無視して、クルーフクスはダズータに向き直る。信頼関係は実の弟よりも義理の兄のほうが強いようだ。

「実は、会わせたい人が居りまして」

「会わせたい人?」

「すみません、失礼します」

 2人の会話が始まると共に入って来た少女に、誰もが言葉を失った。しかしルーシアは自然と、その名を出していた。

「──サシャ」

「お久しぶりです、ルーシアさん」

 若干熱の入った声で呼ばれて、また懐かしさが込み上げる。一端名前を呼ぶと、懐かしさが嬉しさに変化して、思わず駆け寄ってしまう。

「久しぶりね! 元気でやっていたの?」

「ええ、もちろん。でもここまで来るのにすごい緊張してしまって」

 サシャ・オルトリュース、今年14を迎える、ルーシアの従妹。城下町の一般家庭で過ごす彼女はよくトゥラス領内を訪問していたが、最近はその機会も減ってしまって本当に久しぶりの唐突なことだった。ともなれば、緊張するのも当然だろうが、ルジェストーバに顔を出した理由がわからない。




「よく来てくれた、サシャ」

 そう云って立ち上がったのは、この部屋の主であるダズータだ。

「ダズータ伯父様、先日は書簡をありがとうございました。父の現状を詳しく教えてくださいませんか」


・・・・・


「知らん」

 スティーク・ド=レス・ダカンタトゥラスは冷たく突き放して椅子をくるくる回した。農業用台車の車輪を本革張りの高級椅子に取り付けた、グラン特製の椅子が当主はお気に入りなのである。それは一応文机の前に置いてあるものの、マホガニー製のその文机がきちんとした用途で使われたことは数えるほどしかない。

 既に相手にする気がない態度に、わざわざ王宮から足を運んだググーリ・ド・マンチェロが苛つくのも当然と云えよう。

「失礼ですが、貴殿の侍従でしょう? 貴殿にも非はあると思うのですが」

「ないないあるわけない、俺は知らん」

 だいたい、とスティークは背を向けながら続ける。

「なんでおまえに咎めらないといけねぇんだよ、マンチェロ王法師さん?」

「咎めてなんておりません、意見を述べに参っただけです」

「だからお咎めだろうが。おまえがわざわざ領地まで来る辺り、天変地異だぜ」

 いかにもな不快顔しかしていなかったスティークがそこでにやりと笑うと、マンチェロも若干ここが何所だか思い出したらしく、その目に怯えが入った。



 ダカンタトゥラス領内に来た王法師ググーリ・ド・マンチェロ。それはスティークが覚えている限り、10年ぶりぐらいのダカンタへのお客である。スティークがグランを抱えて領内にこもってからと云うもの、誰もが怯えてここには来なくなったのだ。嫡子も居ないとなれば、尚のこと。政略結婚に勤しむ貴族方は、このような場所に無縁なのだ。



 だがマンチェロは果敢にも、さらに喰ってかかった。

「良くない傾向だからです。暗殺業を推奨するわけではないんですよ?」

「暗殺業を推奨していない奴らが、どうしてバルト兄さんを殺そうとしたんだろうな?」

 クロードバルトの居場所が王宮とばれてしまったことに、マンチェロは焦っているようだった。彼らの主シュタインがどう考えているかは知らないが、取り敢えずのところ、マンチェロは仕事を邪魔されそのことに対して甚くご立腹である。

「パルツァントゥラス卿には、こちらから無理を云ってご滞在戴いているのです。法術師で研究を早いところ進めたいのに、どうやら流行病があるらしいので」

「あはは、咄嗟によくそんな嘘思い吐くよなぁ。おまえ文士にでもなれば?」

「嘘などではなくっ……」

「俺に嘘吐いたところでどうしようもねぇよ。──そう、あれは遡ることイシュタル歴499年如月上旬のことだった」

 忌々しげに顔を引き攣らせ激高直前のマンチェロを気にせず、スティークはまるで講談のように話を始める。

「ウォルエイリレン王太子殿下が宣下を出してしばらくした頃、美しくて可憐な第12位トゥラスダカンタ当主、つまり俺スティーク様が、なんだか知らんが迷い込んでしまった王宮、暦門内で、第9位トゥラスパルツァン当主クロードバルトは、第5位トゥラスシュベル当主ナナリータと何やら楽しいお話し合いをしていて、そこへスティーク様が加わって話をしたところによると、彼はかわいい弟の来訪を喜びたくさんの話をしてださったが、別段病人の話はしていなかった」

「な……」

 莫迦莫迦しい話を打ち切ると、マンチェロは真っ赤になる直前であった顔を、今度は真っ青にしてぶるぶると震えている。忙しい奴である。王宮に忍び込んだことは、気が付かれていなかったらしい。流石グランだと思う。




「ま、おまえがどう思おうと勝手だがな。──俺はこれからちょいと出ないと行けない。しばらく領地を留守にするんだ。おまえと無駄話している場合じゃない。美人な官吏ならともかく、おっさんの相手をする趣味は持ち合わせていないものでな」

「ダカンタトゥラス卿、貴殿のしていることは……!」

 また少々顔を紅潮させて激高し始めたマンチェロに対して、ついに我慢の限界が来る。その美しい顔付きからは想像できないぐらいの強さで、スティークはどしんと文机を叩いた。ヒビが入ったような音がしたが、スティークは気にした風もなくにやりと口の端を上げて、目の前で絶句しているマンチェロの顔を真っ直ぐ見遣る。

「あんまりしつこく喰い下がると、おまえにその手が伸びることになるぜ?」

 そこで前を見据えたまま口の片端を上げたまま笑うと、

「クレナイマスター・アカツキも帰ったからな、おまえを潰すなんて簡単なことだ」

 厭味ったらしく云ってみれば、マンチェロの顔がまた青くなった。

「あ、どうして殺しに来ないのかとか思った? 思ったよな? ウォレンがそんなこと、頼むわけないからだよ。簡単だろう? だが、俺は生憎とそんなお優しくない。したいことを邪魔されるのは大嫌いなんだ。これ以上無駄話を続けると云うのなら、価値もないがおまえの首、もらってやっても良い」

 激高する時ににこにこと笑う癖は、もしかしたら侍従から移ったのかもしれない。言葉を失ってビビっているマンチェロを見ながら、スティークはそんなことを考える。



「俺とクレナイを混ぜこぜにしないでくれよ。俺は別件で忙しい」

 今度は小さく机を叩くと、ちょうど良い具合にグランが降ちて来た。仕事から戻って来たのだ。

「おお、お帰り」

「ただいま戻りました、当主」

「おまえやり過ぎじゃねぇの? そんなにわざと血付けて遊んで来なくても……ってか腕持って入るんじゃねぇ」

「そんなことありませんよ、結構控えめにしましたし、今回は腕が証拠なんで証拠を持って行かないと依頼主に ……って、当主、また文机を駄目にされたのですか?」

「駄目にしてねぇよ、まだまだ使える。ちょっとひびが入った程度だ」

「一応高級品なんですから、ストレス発散したい時はそちらの安物でしてくださいと申したはずですが?」

「わざわざ振り返ってストレス発散とかしてられる場合じゃねぇだろ」

 当主は呵々と笑い、侍従は眉間に皺を寄せて仕方ないなぁと云う顔。どうしようもない主に侍従が嘆息する場面に見えないこともないが、その前には二つに割れ損ねた文机(あくまで高級品)、侍従の服には血(しかも返り血)、そして片手には何やら見たくはないが人間の腕(本物)。


 何をどう見たって、普通ではない。


 しかし嘆息した侍従は、そこでようやく気が付いたとでも云うように、マンチェロの方を見遣った。その顔には、少量の血液が付いている。

「おや、ここにも死にたがりが居るんですか」

「最近思うんだけどさ、アカツキっておまえに似たんじゃないか?」

「弟分ですが今はマスターですよ。止めてください、彼を僕のような者と一緒にするのは」

「──グラン=クレナイ……!」

「こんにちは、マンチェロ王法師。ご無沙汰しておりますね」

 その血まみれの姿とは似合いもしない笑顔を振りまいて、彼は答える。

「お話があるのなら受けますが、着替えて来ても良いですかね。ああそれとも、そのまま殺されたいのなら、後で着替えるのも面倒なので、このままお受けいたしますが」

 どうします? と笑顔で問われて、彼らは固まる。


「後は二人でやってくれる? 俺そろそろ行かないといけないからさ」

「マンチェロ王法師は当主に御用向きでいらっしゃったのですよ、当主が逃げてどうします」

「話なら破談、後は好きにやってくれる? できれば二度と敷居をまたがない程度に」

「かしこまりました、当主」

 マンチェロに取って、恐怖の時間が始まった。


「だって俺は、約束があるからさ」

 スティークは悲鳴を後に、領地を出た。


・・・・・


「まさかなぁ」

 ディルレインは今朝の国新聞を投げ捨てる。

「各地の聖職者がエリンケ様に平伏しているようです」

「参るよなぁ」

 ディルレインがしているのは、ウォルエイリレンという人物を国民に知ってもらうという地道な作業である。こういうこと一つで支持率は下がり、不安がごちゃ混ぜになる。

「どういうことなんですか?」

「──まぁ、俺にもいまいちよくわかってないんだが」

 小首を傾げるラリードに、情けなく答えを出せない。聖職者が王に服従する原理と云うものを、ディルレインは知らなかった。おそらくほとんどの者が知らないだろう。トゥラスと云うのは術師と距離を置いている。もちろん術師の王宮貴族との婚姻などはあるが、その場合術師が術師であることを辞めなければならない。法術師は血によって継承されるため、<脱術の儀>と云うものをアリカラーナの前でやらなければならないほどだ。



 先日唐突に、アリカラーナ中の聖職者が、反ウォレンを訴え出したのである。


 聖職者全員が対王太子など、悲惨にも程がある。ただの民主運動でしかないディルレインの活動は、こういった簡単なできごとでふらりと右にも左にもずれるのだ。あの従順な聖職者が王太子に牙を向くということは、やはり王太子は嘘を並べているのではないか。宰喚ルウラ・ヴァンデレミオン・カルヴァナは生存していたことだし……、と街の噂がここまで聞こえて来る気がしてしまう。いったい何があったのかはわからないが、聖職者を動かすとは余程のことで、シュタインの本気がどれほどなのか考えてしまう。

 そういえば、とそこでふいに思い出す。

「あいつら、無事か?」

「ええ。ルジェストーバ生徒に被害はございません。ただイリシャントゥラスが王太子軍派だと見られる傾向が生まれました」

 そのことには舌打ちしたくなる。明らかに自分のミスであった。公演内容は事前に伏せていたが、ルーシアが来ることは予想の範囲内である。マリノに固く釘を刺すか、ルーシアに来るなと一言云っておけば良かったのだ。それを怠ったディルレインにその騒ぎの責はある。イリシャン当主レグルスアンドがお小言を云いに来る前に頭を下げたかったが、生憎と先手を打たれてしまい、ディルレインとしては申し訳ない気持ちがさらに募った。


 レグルスアンドは非情ではない。むしろ優しい人だと思う。だが自分が守るべき対象が危険に晒されると、どんなものにも冷酷にできる。今回もできればウォルエイリレンに付きたいでのあろうが、もしウォルエイリレンが負けたら家族を危険に晒すわけであり、彼が一番避けようとしていることだ。




 レグルスアンドの守りたい気持ちは、わからなくはない。だからこそ、どんなに非情だと思われようと、誰も彼を嫌いにはならないのだ。

「無事なのか?」

「ええ、ディルレイン様の機転が利いているのと、イリシャントゥラス卿が早々に手を打たれたのが」

「それは良かった。ルーシアに書簡を書くから送っておいてくれないか。あいつはきっとまた自分を責めてこもるだろうから」

「お言葉ですがディルレイン様、それは……」

 と、クレバーは珍しく歯切れが悪い。クレバーは以前から、ディルレインに釘を刺している。ルーシアにあまり優しくしないように、ルーシアを傷付けないようにと、採算お小言をもらっている。その気持ちは当然わかるのだが、それとこれとは今回は別だ。

「心配だからだ。それ以上はないし、誰かを経由して渡してくれ」

「ご存知なら、それで良いのですが」

 引き下がるクレバーも、何所かほっとしている様子だ。


 気が付いていないわけがない、ルーシアがディルレインを好いていることぐらい、よく好意を向けられて来たディルレインがわからないわけもない。それに答えられないのなら身をわきまえろというクレバーは、正しいのだ。



「まぁでも、ディルレイン様は御身内が大好きですからね」

 突然後ろから声が降って来て、振り返ればそこには美女と小さなエリーラの姿があった。

「お父さん、ただいま。ディルレイン様、いらっしゃいませ」

「──ああ、おかえり、エリーラ。そのお連れ様は……?」

「帰り道に会ったの」

「どうもお久しぶりです、ディルレイン様」

 美女は優雅に微笑むものの、ディルレインはその顔を見て絶句してしまう。

「突然お訪ねして申し訳ございません、ディルレイン様とは幼い頃からのお知り合いでして」

「あ、ディルレイン様のご友人ですか、どうも」

 ラリードは丁重に頭を下げるが、ディルレインは二の句が出ない。

「ディルレイン様、その反応もおもしろいものですが、そろそろ何か云うことは思いつきました?」

 云うこと、とディルレインは小さく呟く。

「お褒めの言葉とかを戴けたら、私は最高にお喜びができるのですが」

「──よく、やったな」

「ええ、やりましたよ。お兄様たちに先を越されて、少々悔しかったので私なりに努力致しましたの」

 にっこりと微笑むその姿は、正しく貴族令嬢にふさわしい。街中を歩いていれば、何人かは振り返るのではないだろうか。だがディルレインとしては、そんな容姿などどうでも良い。


「ならその、成功譚を聞くとしようか。ルーシュベル」

 できることなら云いたくはなかったものの、冷静に話を続けるため、ディルレインは()()の名を呼んだ。

「あーあ、もうばれちゃうんだ。流石ディルさんだなー」

 美女からあっけらかんとした明らかに男の声が出たことに、あまり動揺を見せないラリードも、一緒に来たエリーラも、親子そろって言葉を失ったのだった。

「クロウズから楽しいこと聞いたんだ、ご褒美に仲間に入れてよ」


・・・・・


 突然、軍内部の聖職者とルフムに居る聖職者全員からの攻撃を受けたウォルエイリレンは、宰聖ライロエルの墓参りさえできないまま、ルフムから水無月祠を経由し、隣町カロマロフへと逃げて来た。


「お待ち申し上げておりました、ウォルエイリレン王太子殿下」

 城主シアーカレン・トリルオールが膝を付いて頭を下げれば、その下に居る臣下もそろって膝を付いた。ウォレンの帰還をクラファーム城は喜んで受け入れてくれたのだ。そこには時間の流れも何もなく、ただウォレンを信頼しての気持ちが感じられた。




 しかしウォレンは、その人数を見て表情を引き締める。

「ここも、か」

「……はい。既にご存知のようですね」

 城主のシアーカレンは名の通り、召喚師五家トリルオール家の者で、現在の当主の孫に当たる。彼女の父とイリシャントゥラスの深交が深いこともあり、ウォレンも全面的に信頼している。同じ術師として聖職者に同情しているのか、閉じ込めなければならなかった部下を痛んでいるのか、沈痛な面持ちを見せたものの、次の瞬間にはお入りくださいとウォレンに勧める。



「聖職者は一つの部屋にまとめてあります。しばらくの間でしたら、何事もないでしょうが」

 ウォレンの姿を見たらどうなるかわからないと、シアーカレンは不安そうに教えてくれる。それはそうだ。今の聖職者は、ウォレンを見つけたらとりあえず捕獲するという思考にある。



「詳しいことはまだ話せないが……そうだな。少し策を練ってからにする。済まないがクラファームはすぐに出て、取り急ぎ大河を越えてカームに向かう」

「は」

「大河は長いがしかし、人霊の手ばかり借りられない。急ぐとは云え、準備は怠らないように」

 ──解決方法は一つだけ、カージナカル様に助けを求めてください。

 自分から逃れた玉座を目指すために、犠牲にしなければならないものはある。覚悟はしていたつもりだったが、頼るつもりもなかった相手に過酷な選択を迫るまでになると、流石に良心が痛む。


 それでもウォレンは、決めた以上道を進まなければならない。


 たとえそれが、誰かの人生を変えるものになっても。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ