第39話:ルーク
例の「すごく面倒な男」の元へ行くのに、ウォレンは渋ることなく付いて来た。
「それで、何所へ行くんだ?」
「えっと、あれは診療所、だと思うんだけど……」
「あの調子じゃあ本当に医者やってるのかも怪しいでしょ」
師走は不機嫌そうに云い、その隣で弥生は黙りこくっている。どうも彼らとルークの関係がいまいちわからないのだが、アリスが口を出すことでもない。元王宮関係者で人霊と顔見知りならば、おそらくウォレンにも関係あるのだろう。事情さえわからないはずの弥生は、何所へ行くのとも聞かずただ静かに付いて来るだけだ。
エトルの端にある例の小さな診療所に辿り着くと、そこにルーク・レグホーンは立っていた。送って行こうかと申し出て自分で驚いていたあの時からずっと立っていたかのように、彼は入り口に立ち尽くしてアリスらを出迎えた。
「おや、思ったより早かったね」
ルークは相変わらずのんびりとした口調で云ったが、ウォレンを視界に入れた途端少しばかり眉を上げた。
「……これはこれは、王太子殿下自ら足を運ばせてしまったのかい」
それでも声の調子はやはりのんびりとしたもので、そこに膝を付くのも遅かった。
「罪人風情が飛んだ失礼を。──申し訳ございません、ウォルエイリレン王太子殿下」
「──ルークさん……、なのか?」
対するウォレンも顔色を変え、信じられないと云うように彼を見つめる。それには明らかな動揺が走っており、ごくりと生唾を飲み込む音が聞こえた。どちらかと云えば突然会談することになったウォレンの方が驚いており、王太子の訪問にもルークは落ち着いたものだ。もともとそう見える性格なのかもしれない。
「良く私などを覚えていてくださった。それだけで生きていた甲斐があったというものです」
「幾ら幼子だったの頃だったと云えど、ルーク・レグホーンを忘れるわけがない。頼む、立ってくれ」
云われるがまま立ち上がったルークは、ウォレンが云うほど上等な人物には見えない。それこそ町の診療所の医者にはぴったりの、落ち着いた雰囲気が好ましい物腰柔らかい男性だ。そんな彼は叩頭せず言葉のまま立ち上がり、表情の読めないままに微笑んだ。
「ありがとうございます、殿下」
「シュタインはずっと貴殿を捜していた。本当にずっと……」
「私一人に対して宰法の相手ぐらいならどうにでもなります。シュタイン卿のやり方はだいたい知っていますから」
「ひとりか? やはり……」
「彼女はここに居ります」
そう云ってルークは彼自身の胸を拳でとんっと叩き、ウォレンはそれを見て口を噤んだ。なんとも云えない沈黙が漂うと、ルークが申し訳なさそうに良ければ入りませんかと口を開く。ウォレンは躊躇することなく中に入り、ルークに促されるまま椅子に座った。事情を知らないアリスは入らぬ方が良いかと逡巡していたが、師走に押される形で入室した。
埃っぽく古さが漂うその診療所はしかし、アリスを懐かしい気持ちにさせた。アスルにある診療所も、こんな雰囲気だったのだ。医者にかかることはなかったが、たまに熱を出したダークの付き添いで行ったことがある。そこの看護士はダークを待つアリスにとても優しく、話し相手になってくれた。そういえば法術師がやって来て散々な目に遭わされた時も、あの診療所に駆け込んだ。思い出すと懐かしいが、それと矛盾して痛々しい思い出にもなっている。
「法術師も捜す相手が増えて大変だったのでしょう、探査の手が緩められておりました数年で、ついつい気を抜いてしまいました。マンチェロごとき……いや失礼、マンチェロ卿に見つかってしまいましてね」
アリスや人霊にも座るよう促すと、ルークはお茶を入れながら簡単な身の上話をする。ウォレンに頭を下げなかったのは王宮と決別したからだと思うが、それでも彼がウォレンに接する態度は臣下と云うより親しみが深い。
「慌てて痕跡を消したので居場所は割れていないと思うのですが、ひっそり動こうと思っていた矢先だったので、出鼻を挫かれてしまいました」
「動く?」
ウォレンは落ち着いた態度でルークの話に付き合っている。人霊はと云えば座ることもせず背後に立っているので、どんな面持ちで聞いているのかアリスにはわからなかった。ただルークを取り巻く何かがあることを、彼らは無言で語っている。
「ええ、こんなことはやめさせないといけません」
「いつ気が付いた?」
「ええと……2年前ぐらいでしょうか。王宮へ行かなければならないとはわかっていたんですが、まだやるべきことが残っているので、慎重にならざるを得なかったのです。申し訳ありません」
「王宮の近くでルークさんが姿を現したら、数で押さえつけられて終わってしまう。当然の判断だ」
ウォレンは同意してから、かいつまんでほとんどが知らない法術師の謀反を語る。話を聞いているうちにルークの表情は沈んで、仕舞いには嘆息と共に悔しそうに言葉を吐き出す。
「なぜそんな無茶を……シュタインも何を考えているのかわからないな」
「俺が邪魔なんだろうとは思っていたが……」
「定成王の御子である殿下を、シュタインが無下にするとは到底思えません」
ウォレンの表情に若干の緊張が走ったことに、ルークは気付いただろうか。何も知らないアリスは、そっとその応酬を見ていることしかできない。
問題の根本であるルークはウォレンに軽く微笑んだ。
「不肖ながら、殿下。私ルーク・レグホーンを、共に王宮へ向かわせて戴きたいと思います。これは私自身の問題でもあります。どうしたって私は、王宮へ行かなければならない」
「行けば法術師の、シュタインの思い通りになる。あいつはルークさんの力を求めている」
「それは失礼ながら、殿下とて同じではないでしょうか」
「それは……、そうだが」
「私はどうしても今、動かなければならない理由ができました」
「今動く、理由?」
ウォレンが訝しげな声を上げると、ルークはちらとアリスを見た。ほんの少しだけ目が合ったもののそれも一瞬で、ルークはすぐ視線をウォレンに戻した。ウォレンはそれに気が付いたのか、彼の冷静な無表情からは何も読み取れなかった。
「ちょっと預かってもらっていた宝物を見ようと思ったところを、横取りされてしまったので」
「……ルーク」
そう名前を呼んだのは後ろに立っている師走だった。しかし彼は師走を一瞥しただけで、またウォレンへと視線を戻す。
「加えて今の法術師の行い。──私が黙って見ているわけにはいきません」
「それは……、そうだな」
そう呟きつつも考えるような顔になって、ウォレンは黙り込んでしまう。アリスはそっとその顔を見てみるが、真剣な話をしている彼らを邪魔するのは気が引ける。それとなく人霊を見るも、弥生は無関係を装い、師走はアリスから視線を逸らす。
「私は一法術師として、恥ずべき態度を続けていたと思います」
ウォレンは返事をせず、ただルークを見た。
「自分の役割をわかっていたと云うのに、正直に出て行くこともせず、ただ個人を優先した結果、時が過ぎるのに身を任せて、こうして隠れていた次第です。おかげで陛下に謁見する機会も永遠に失われ、殿下にもご迷惑をおかけしたと思います」
ぴくりとウォレンの肩が動いた。陛下と云う言葉に、彼は異様なまでの反応を見せる。彼と父の複雑な関係は聞いているものの、その一言では片付けられない大きな問題が潜んでいるようだ。
「それを承知の上で、ウォルエイリレン王太子殿下。私を王宮へ、共に連れて行ってはもらえませんでしょうか」
ルークはその場に足を付いて、ウォレンに頭を垂れる。アリスはこういう場面を見て来て、自分はこの重圧に堪えられないと思えた。崇められて支持を仰がれること、それは今後アリスに求められたものであったが、未だアリスはその決意をできず、他人事のように見てしまう。
「──命をかけて、私の軍に入りたいか?」
ウォレンの声色が変わる。少しからかうようないつもの口調とは違い、その会話は既に、先ほどの親しい知人同士ではなく主従のものとなっていた。長年培って来た、彼の王子としての矜持を見た気がした。
「云っておくが、4年も国を放った私は、風当たりがあまり良くない」
「私はシュタインを止めたい、それだけです」
「玉座に私を据えることになる、それに不満はないか?」
「あろうはずがございません」
ルークはそこで、ふっと笑い顔を上げた。
「よくここまで立派になられました」
「そうなる為に、手伝って戴きたい。こちらからも頭を下げる」
ウォレンの周りに張っていた空気が、ふっと弛緩する。釣られるようにアリスも息を吐くと、相も変わらず綺麗とは云えない古い診療所の中だ。夢から冷めたような不思議な感覚に陥り、アリスはウォレンと云う男の強さを改めて思う。
エースとして会った時から、不思議な男だとは思っていた。王太子ウォルエイリレンとして会ってたった数日でしかないものの、それはやはりエースでだが時折暗い一面を見せる。その部分はどうにも、君主には向いていないように思えた。しかし彼は、まるでそんな一面など持ち合わせていないかのように、毅然とした態度で当たり前のように王太子としての心持ちを見せる。アリスにはできない。ただただ、そう思った。
「ありがとうございます」
立ち上がったルークはやはり笑ったままで、その穏やかな笑みに飲み込まれそうになる。
しかし瞬時に顔つきを変えると、ルークはじっとウォレンを見た。
「ところで殿下、この4年間、何をなさっていたかお聞きしてもよろしいでしょうか」
いつしかは国民からも訊かれるであろう、当然の質問をルークは口にした。アリスは思わず息を飲むが、ウォレンはただただ、じっとルークを見返すばかりだった。
「ルーク、ウォレンは……」
「師走、黙ってくれ」
今まで黙りを決め込んでいた師走が思わずと云った風に挟むものの、ウォレンはそれをぴしゃりと拒絶し、そしてそのままじっとルークを見るばかりだ。
「殿下はこの4年間、逃げていたわけではないでしょう。貴方はそんなことをするお方ではない。誰かが犠牲になってまで逃がしてくれたのだから、すぐにでも立ち上がろうとなさるでしょう。──でも貴方はそうしなかった。この4年間、絶対に動こうとしなかった。たとえ自分の信頼が失せていき、法術師の主導権になっても。そこまでして貴方は、国の為に何をしようとなさったのですか」
「──止めてくれ、俺はそんなできた奴ではない」
黙ってルークの言葉を聞いていたウォレンは、そこで突然アリスを振り返る。
「なあ、アリス。おまえは俺が何をしていたか、知っているだろう。国を捨てて昼寝をしていただけの男だ」
いきなり振られて答えられなかったわけではなく、アリスはあそこでウォレンが何をしていたのかを知らなかった。思わず答えに詰まるとそれがまるで肯定しているかのようで、しかしなんとも云うことができない自分がまたもどかしかった。
それを否定するかのように、ルークがまた口を挟む。
「殿下、ずっと気になっていることがあるのですが、ルナ王后陛下は何所におられるのですか?」
「母上は謀反より前に王宮を追われ、その後行方は……」
「殿下」
じっと見つめられたウォレンは渋る様子もなく、
「わかった、その通りだ」
と肯定の意を示した。その顔には諦めも失望もなく、ただ単調に事実を語るだけの、何の表情も浮かんでいないウォレンの素顔があるだけだった。
「消えた人霊と別れた俺はセナとの約束を破り、母上のもとへ逃げた。そう思ってくれて構わない」
「……それは、事実です」
先ほどの汚名を返上するつもりではなかったが、ついアリスは口出ししてしまう。穏やかな笑みも少し意地悪い笑みも、何かを考えている時の真剣な表情すら見せないウォレンが嫌だったのだ。表情のまるで浮かんでいない人形のような顔を見ていることが、その時のアリスには堪えられなかった。
しかし口を出した当人より、肯定された本人が驚きに目を見開いてアリスを見つめた。
「アリス……」
「だって私が知っていることってそれぐらいしかないから。エースはそう云っていたから」
──追い出されてすぐ、田舎に居る母上を訪れた。
それはアリスが「エース」と出会った時のことだ。彼は警戒の解けないアリスに、少しでも気を和らげてくれようとしたのか、自分のことを話してくれた。アリスにとってはそのことがとても印象に残っていた。それだけのことだったが、少しは役に立ったのだろうか。驚いていたウォレンの顔に、若干の笑みが浮かんだ。彼は何度か口を開いたものの、その度に何やら視線を逸らして言葉を飲み込む。余計な口出しをしてしまったかと思ったところで、ウォレンの桔梗の瞳がまたアリスを捉えた。
「──ありがとう、アリス」
「えっと、……うん?」
お礼を云われるようなことではなかったので、あまりにも穏やかに云われて面喰らった。逆にこちらが間の抜けた返事をしてしまったものの、ウォレンは何が満足したのか、先ほどの何所か薄らと恐ろしさを覚える顔ではなく、しっかりとした目つきでルークを見遣る。
「理由は今、云えない」
そのことを悔やむかのように言葉を吐き出したウォレンに比べて、ルークは冷静だった。まるで真実を探るかのように射るような瞳で彼を見透かし、覗き問い質しているようにも見えた。
「それで王后陛下は何所にいらっしゃるのです?」
「ルークさん、貴方が法術師の問題だと云ったことは、俺にも関わりがあることだ。術師が居なくなればアリカラーナは存続することができないだろう。今はまだ話すことができないが、俺が王座に戻った暁には、必ず話したいと思う」
「ウォレン」
「相談もなしにすまない、師走。アリカラーナやおまえたちの決断を無下にするわけではない。ただ俺は、この先この国をちゃんと作らなければならないと、そう思ったんだ」
ウォレンの桔梗とルークの鳶色が混じり、それは先に後者が外れた。彼は視線を離してそっとアリスを見たかと思うと、またウォレンに向き直った。
今度は視線を合わせることもなく、その場にそっと膝を付いて叩頭する。
「守人法術師ルーク・レグホーン、微力ながらウォルエイリレン王太子殿下のお力添えを致します」
・・・・・
追っ手に追われることもなく、今はまだ書簡を待っている状態で出発することもできない。やることを考えればたくさんあるのだろうが、別段急いで帰る必要もない。ウォレンが少し散歩したいと云い出し、それに弥生が付き合って出て行くと、残ったのはアリスと師走、そしてルークの三人となった。三人でイーリアム城に戻っても良かったが、ウォレンが待っていろというので大人しくしている。
そういえば、とアリスは思い出してルークを見遣る。
「ルークさんの頼みってなんだったの?」
「……ああ、もう叶ってしまったね。一緒にイーリアム城に連れて行ってもらいたかったんだ。殿下に同行の許可をお願いしたかった」
ルークは困ったように苦笑する。確かにそれならば偶然ではあるものの、一緒にウォレンが来たことで叶ってしまった。そうなるとアリスは返すことが何もできなくなってしまう。どうしようかと思ったのが伝わったわけではないだろうが、ルークはそんなアリスに向き直る。初めてちゃんと目が合った気がした。
「それじゃあ代わりに、僕の話を聞いてくれるかい」
「話ですか?」
「うん。……そうだね。何から話そうかなぁ」
「ルーク……」
「すみません、師走様。どう云ったら良いかわからなくて。──でも簡単なほうが良いね」
そう云ってアリスを見るルークの目はとても穏やかだった。
「君は法術が使えるね?」
だから唐突に爆弾を投げつけられて、アリスは動揺する。傍目にはどう見えていたかわからないが、おそらく驚いた様子はルークに伝わっただろう。ならば誤魔化したところでどうしようもない。
「……はい」
「アリス」
師走が小さく呼んでくれたが、アリスは小さく頭を振って彼を留める。穏やかで柔らかい雰囲気のルークにアリスは安心しているが、だがそれと同時に恐怖も感じていた。おそらくウォレンや人霊は感じないのだろう。彼の法術師としての恐ろしいほどの力が、法術を使えるアリスにはわかった。どんなに穏やかでもこの人はおそらく、町一つぐらいなら指一本で簡単に滅ぼせるほどの力を持っている。それとは逆に細やかで複雑な術式で、たった一つだけ残してすべてを消すことだってできてしまうのだろう。そういった微調整が一番難しいことを、アリスは感覚で知っていた。
ルークはアリスの返答に動じた様子もなく、むしろ小さく微笑み返す。力を持つ彼はしかし、そういった意思がないことをはっきりと伝えている。だからこそアリスはまだここに居られる。
「自分で制御できるかい?」
「ある程度は……」
なんでも簡単に記憶してしまう問題があるが、今ここでわざわざ云うほどではない。たかが暗記したいだけなのにジンが生まれているのなら、本当にやめなければならないが、今のところはどうにかできている。
「なら良いんだ。──あの時やっぱり、法術でアスルを守ったのはアリスだったんだね……」
「え?」
「僕は守人法術師ルーク・レグホーン。現在の調整者であり、君の父親だ」
師走が小さく溜め息を吐くのを、まるで他人事のように聞いている。
たぶん今ままでの何よりも動揺しても良いところだっただろう。だがアリスには、それが現実としてまだ入って来ない。父親という存在が希薄だからかもしれない。アスルは孤児が多いというのもあるが、ラナに育てられたアリスはそもそもが父親という存在を気に止めることもできなかった。だからぼんやりとそ事実を受け止めることしかできない。
そのアリスの反応をどう取ったのか、ルークは変わらない調子で続ける。
「信じてもらえなくても良い。ただ、いつまでも黙っているのは卑怯だろう? だから伝えておきたかった」
何かを云わなければならないのに、何も思いつかない。師走がアリスを見ているのはわかったが、アリスには彼を気遣うこともできない。
「まず、ごめん」
そんなアリスに焦れることなく、ルークは静かに頭を下げる。
「アリスの人生がややこしいことになって、たぶん今までたくさん苦労をしたと思う。それは僕らの所為だから本当にすまないと。本来ならその過酷な日々も僕らは一緒に見守るつもりだった。アリスが法術師なり召喚師なりそのほかの道なり、好きな道を進めるよう守っていくと。──でもそれができなくなって、辛い思いをさせてしまった。本当にごめん」
ただ、と続ける。
「たとえ同じことが起こっても、僕らは変わらない選択をするだろう。どんなに恨まれても、また同じ選択をすると断言できる。──呆れるかい?」
ルークはそう云いながらも、答えを求めていないように苦笑する。その溢れ出る力とは裏腹に、まったく自信のなさそうな弱々しい顔。
「えっとあの、……ありがとうございます」
何を云えば良いかわからなくて、少しずれた言葉が出てしまう。
「私は親という存在がよくわからない、そこまで深く考えたこともなかった。私には家族が居るから、それだけで充分だったんです」
さっきとは逆に、ルークは静かに聞いてくれている。親が居なくて悲しいと思ったことがないなど、本人を前に云うべきことではないとわかっていた。だがそれでも、アリスにはラナとダークで過ごして来たあの家族が、とても居心地が良いものだった。周囲から浮いていようと、法術が使えようと、召喚ができなかろうと、ラナとダークが居てくれたらそれだけで充分だった。
「だからその、……すみません」
「謝ることじゃあないよ。──むしろそれだけ幸せに思えたのなら、僕らも幸せだ」
「あ、でも居てくれたことは嬉しいから、やっぱりありがとうございます」
「──本当に、そっくりで困るね」
ルークは思わず伸びてしまったというように、アリスの頭にぽんと手を置く。20歳にもなってとは思うものの、ルークの手はひどくぎこちなくて、その嬉しそうな顔を見ていると、なんだか避けるのもはばかられた。嫌な気持ちはしないが、少しくすぐったい。師走も力が抜けたように、ルークを見遣る。
「ルーク……ありがと。話してくれて」
「いえ、黙っているつもりはありませんでしたから。……だって本当にリーシュカそっくりでしょう、師走様」
「うん、だからみんなびっくりしてるよ」
「あはは……、バーレンに会ったら泣いて喜んでくれるだろうね。今度教えてあげないと」
「バーレンに会ったの?」
「この20年で会ったのはバーレンぐらいですね。あの性格だからか、私にも優しいんです」
バーレン・メルクセウスはルヴァガ姉妹の侍従をしていた人物で、仕えるべき主が居ない今もなお、ルヴァガ家の屋敷を管理していると、以前師走から聞いていた。アリスにとっては遠い話だったが、こうして実際に話を聞くとまた意味が変わって来る。
「いつかアリスが来る時のためにと、屋敷を守ってくれている」
「私、が?」
「僕らのなかでは当たり前だったんだよ、本来はルヴァガの屋敷で暮らす予定だったんだから」
そう云って苦笑するルークの表情を見れば、彼にとってはその未来こそが当たり前だったのだと感じられた。アリスがこうして一人で居ることや、ルークの存在を知らずに育ったこと、それ自体は彼の望んだ未来ではなかった。確かに両親と一緒に王宮貴族として暮らせていたら、アリスはそれで幸せだったかもしれない。今みたいな歪んだ考え方も持たずに済んだだろう。だが、とアリスは思う。
しかしそれを口にする前に、外からの声が響いた。
「……だからあっちから来るんだろう?」
「……いきなりなんの話?」
外から聞こえて来る会話は、ウォレンと弥生だ。どうやら王太子の探索も気が済んだらしい。
「また落ち着いた時に、ちゃんと話すよ」
ルークはそうして話を打ち切ってしまった。
・・・・・
どうやらエントランスでも待ちきれなかったらしく、外へ出て4人の帰りを待っていたイーリィは、最初一人姿が増えていることに気付いたらしい。本来ならウォレンに小言を云うのが予定であったであろう彼は、彼らの影が近付いて来て、ようやくその五人目の顔を見てから顔色を変えた。
「レグホーン、卿?」
「久しぶりだね、イーリィ」
ルークはまるで数日ぶりに親友にでも会ったかのように、優しく微笑んだ。対するイーリィの顔は驚きで硬くなってしまっている。ルークの話からすると彼が王宮を追い出された頃、イーリィは12歳。城主にはなっていないだろうが、既に大人への道を踏み出している頃ではある。二人の様子を見るからには面識と云うよりも親交があったのだろうが、王宮とエトルではかなりの距離があり、いまいちその関係がどうなのかはわからない。ただ昔からエトル前城主が王宮に来る時、必ずイーリィを連れて来ていたことを覚えている。あの時まだ5歳であったウォレンよりも、ずっと彼との親交は深いのかもしれない。
「君の城に入ることを、許してもらえるかい」
「──もちろんです。お帰りを、お待ち申し上げておりました」
「城主にそこまで云って戴けるとは、術師冥利に尽きるね」
深々と頭を下げるイーリィと、柔らかく笑うルーク。どう築き上げられたものかはわからないが、見ている限りそこには確固たる信頼関係が見えた。
「ガーランダには無断でずっとエトルに住んでいたんだけどね」
「え、ずっとエトルにいらっしゃったのですか?」
「そうだよ」
「でもどうやって……?」
「いろいろ誤摩化して。ガーランダには悪いことをしたね、税金は住んだ分ちゃんと納めているけどね」
冗談っぽく彼は笑いイーリィもそれをようやく崩れた笑顔で受け止め、そこで止まっていた20年間の空白がすべて流れたように見えた。実際そんな簡単なものではないはずだが、それですべて許されたように見えた。その様子を見て、どうも羨ましく感じてしまう自分は浅ましいだろうか。許しを請う人が居て、許してくれる人が居る。その関係がとても羨ましい。もう許しを請う人はこの世に居らず、ただ罪悪感だけを抱えて生きて行くだけの自分とは違う。
呆然と見つめるように突っ立っていたウォレンを現実に引き戻したのは、突如として目の前に現れたイーリィの笑顔だった。先ほどルークに見せた顔と同じだと云うのに、なぜだかその後ろにささやかな殺気を感じるのは、気のせいではないだろう。イーリィは怒るときも嬉しい時も笑顔で居ることが多い。そして笑っていると云うのに、その表情がとても読み易い。
「殿下、随分とゆっくりのお帰りでしたね」
「ルークさんを迎えに行っていたからな」
「それを加えても、遅いですよねぇ」
にこにこと彼は先ほどの感動など幻想だったかのように、現実を突きつけてくる。ウォレンは思わず苦笑するしかない、それほど遅くなったつもりはなかったが、ルークの診療所へ行く前にも少しだけ寄り道をしたことは黙っていようと決めた。ちらとアリスに視線を向けると目が合い、それから彼女は小さく笑った。この自然の笑顔に、ウォレンはまた救われた気持ちになる。
しかし気を緩める間もなく、イーリィはさっさとウォレンを中に引き連れる。アリスと人霊、ルークもそれに引き続いて中に入る。イーリィがぷりぷりと怒って先を行くのに、アリスがなだめるようにして続いた。それに任せてウォレンが後ろに下がると、ルークがにこにこと笑っている。ここにも似たような笑顔を見せつけられて、思わず引き下がりそうになった。
しかしそこで少しお時間を戴けませんかと云われて、ウォレンは大人しくルークを自室に招いた。自室と云ってもウォレンがここに流れ着いて来て勝手に使い続けている客間である。脱走しにくいようにさらに上へ上へとあげようとする城主に反抗して、未だ2階に留まっていた。
「先ほどは貴重なお時間を戴いてすみませんでした」
「……気付いていたか」
「あまりにもわざとらしいお帰りだったのでびっくりしました。殿下にも不得意なことがあるんですね」
ルークはくつくつと笑うが、また頭を下げることを忘れない。わざわざ律儀だなと思う。
散歩をしたかったのは本当だ。先日アリスが流れ着いた大河の近くがどうなっているのか見たかった。あの時はもう助からないと肝を冷やしたほどだったのだ。だからどうやって助かったのか、改めて気になったので実際に見に行った。だがそれと同時に、ルーク・レグホーンとアリス・ルヴァガには、時間が必要なことぐらいウォレンもわかった。
「アリス・ルヴァガと共に私がここに居ることを、民の多くは快くは思わないでしょう」
ウォレンが勧めればルークは座るなり本題を切り出した。痛恨の事実を云われて、ウォレンも思わず言葉に困る。
「覚悟して来たのだろう」
「もちろん、そのつもりです」
「ルークさん、俺は元々風当たりが悪い。無論アリカラーナを継ぐ唯一の者として、支援してくれる貴族、城主、領主らは多く出て来るだろう。だが全体的に見て、あまり期待して良いことではないとわかっている」
ウォレンの言葉の本当のを意味を理解したわけはなく、文字通りに受け取ったらしいルークは黙って頷く。
「そこに貴殿が混じれば、必ずと云って良いほどに逃げる人が増える」
「──でしょうね」
当然のように、彼はそう続けた。自分が嫌われることなど当たり前だと云うように、自分が異分子であることを認めてしまったかのように。いつだって彼は、自分を否定しなかった。自分たちは間違っていないと云っていたのに。
たった5歳でしかなかったウォレンが時の流れを感じたと云うのに、彼を知る人はどれだけの変化を感じるだろうか。20年、それはあまりにも膨大な数だった。ルダウン・アガットは、クリュード・エンペルトは、ゼシオ・ローゼンは、チャディ・ゲレンデリオンは、ワラード・バイゼベルは。
クドーバ・ローゼンは──。
いったいどれだけの人が彼を信じ道を歩み、その復活を待ち望んでいただろうか。
ウォレンは4年、姿をくらました。それだけで支持率は下がる一方だ。20年、それはあまりにも長く信じて待っているには辛すぎる時の流れだ。
時には死の方が楽なこともある。だがそれでも、彼は戻って来た。何年間行方不明になっても戸籍が抹消されない特別なその存在は、それが抹消されるようなへまも冒さないまま戻って来たのだ。とある目的のために、それが本当に禁忌魔法だけのためなのか、ウォレンにはわからない。ただ自分がルークを受け入れた時から、自分のすべきことだけはわかっていた。
「だが俺はそれでも、貴方を連れて行かなければならない。本当にシュタインの使っているものが禁忌魔法ならば、彼らの考えを読むことができるのは、こちらには貴殿以外誰も居ない。加えて貴方ほどの信頼できる法術師が居ることは、俺に取って心強いことこの上ない。貴殿は法術師の問題だと云ったが、それはむしろアリカラーナたる俺にも見過ごせる問題ではないのだ」
「意見は一致しましたね」
「……ああ」
深いことは尋ねずに、お互い視線をかわして頷き合う。ルーク・レグホーンは信頼して良い人間だと、ウォレンは知っている。ルークは必ずウォレンに忠誠を誓うだろうことを、確約できる。
だが問題があるのは二人ではなく、それを支持する人が居ないと云う事実だ。
「味方にはここにルーク・レグホーンが居ることを全面的に公表する」
「シュタインの手駒にも教えるつもりですか?」
「ばれたところで、シュタインは何もできやしない。ルーク・レグホーンがここに居ることを知られてならないのは、無論国民だ」
かと云って隠しているのもウォレンは面倒だと思う。見つかった時に糾弾されさらに反感を喰らうだろう。ここはまた、相談すべきところだ。ウォレンの悩みをすぐに察したらしいルークは、そこで笑顔を崩し苦い顔をした。
「迷惑をおかけしているようですね」
「まさか」
ウォレンは逆に笑う。
「また会うことができて、本当に嬉しい。王太子としても、個人としても」
「……こんなことを云うのも、随分おこがましいとは思いますが」
ルークは眩しそうに、鳶色の瞳を細める。ウォレンはその瞳を思わず見つめて、何かが引っかかる気がしたのだが、それは形にならないまま彼の言葉が先に姿を現した。
「大きく、そして立派になられましたね。私が居た時は、まだあんなにお小さく居られたというのに」
その割には大人びておりましたが、と彼は続けた。彼の中でいったいどのようなウォルエイリレンが記憶されているのかはわからないが、ウォレンはその時を覚えている。3歳ぐらいからの記憶が、きちんと自分の記憶として残っている。だからこそ、苦しいこともある。
「むしろよくそんな幼い頃のことしか知らないのに信じようと思ったな」
「──殿下が覚えていらっしゃるかわかりませんが、ハーレントゥラス子卿に真っ直ぐぶつかって行ったのは、貴方だけでしたから」
ハーレントゥラス子卿という、聞きなれないものにウォレンは若干の記憶をたどらなければならなかった。サファイア城に閉じこもっている叔母シャエラリオンの子どもだと思い至るまでには、やはり時間がかかる。もはや誰もその存在を語るものは居ないからだ。当時のウォレンは特になんの躊躇いもなく他の従兄弟同様付き合うつもりで居た。しかし問題のハーレントゥラスの子どもは、母親であるシャエラリオンと四六時中一緒に居てウォレンの声掛けにも混じらなかった。だから記憶もあまり残っておらずおぼろげだ。最後に見たのはそう、シャエラリオンの自害騒ぎの時。
「シャエラリオン様と妻は友人でした。私も肩身の狭い身でしたから、ひとりで健気に御子を守ろうとするその姿をよく覚えているのです」
「……だが俺は、何もしてやれなかった」
シャエラリオンは子どもと一緒にサファイア城から飛び降りた。幸いにしてガーニシシャルがその場に居り、すぐ召喚師や法術師が出るところとなり命は助かった。ウォレンはたまたま親子が落ちた、サファイア城近くの城門師走門に居り、気を失ったシャエラリオンから子どもを離れさせようとしている大人たちを見た。子どもは気を失っていなかったらしく、返事をしない母親に必死にしがみついていたが、それも大人の力で簡単に剥がされてしまった。彼がシャエラリオンから離れたのは、初めてだったのではないだろうか。ウォレンはそれがとてもいけないことのように思えて、慌てて間に入ろうとしたが、結局大人たちが彼らを引き離すのを見ていることしかできなかった。
その去り際の、彼の悔しそうな目だけが記憶に残っている。あれ以来、何所に居るのかは誰も知らない。激高したガーニシシャルが何所かへやったとの噂だが、ウォレンが当然知るわけもない。
「……いえ、充分でしたよ。私たちも何もしてあげられませんでしたから」
「莫迦なと思わないで今一度聞いて戴きたいのですが、この国はすべて歪みから生まれております。召喚師、聖職者、法術師、すべて同じくして、力を生み出すことによって歪みを生んでいます。召喚師は召喚することによって歪みを生んでいますが、それをすべて人霊が調整しています。聖職者は力を強めるに連れて歪みを生みますが、代わりに自身の身を注いでいます。我々法術師は法術を使う度に歪みを生んでいますが、ケーリーンに立つ真柱がこの歪みの調整をしています」
「それが、この国の摂理であるな」
ウォレンは平生を装って返答する。何せこの問題は、今後この国の存亡に関わる。ウォレンの行動一つで、この国は滅んでしまうのだ。
そして一番重要なのが、 誰もそれを知らないことだと思う。
当然知らないルークも、自分の問題としてすらすら説明をしてくれる。
「法術は確かに歪みを生みます。その歪みを使った法術が、禁忌魔法です」
「歪みを、使う?」
「真柱にできる歪みを綺麗に排除することによって、我々は力を持っています。しかしその歪みを溜めるだけ溜めてそれを取ると、それは莫大な力となります」
「……危険、なんだな。本当に」
「ええ、これは法術師でもあまり知られていないことです。しかし詳しい研究も進んでいないでしょう」
それはそうだろう。禁忌魔法についてウォレンは詳しく知らない。20年前に起きたその事件を扱ったのはガーニシシャルであり、ウォレンは記憶こそあれど幼かった。ようやく生まれた唯一の子でありながら太子宣下を下されない、中途半端な存在であった。
中途半端な存在。それがまた、ちくりとウォレンの胸を抉る。
「術師が欠けるなどと云うのは、本来あってはならないこと。陛下はそれを阻止するがために、手段を選ばないこともあったかもしれません」
「……陛下のことは、悪いが俺にはわからない」
「殿下?」
ルーク・レグホーンは知らない。父になれなかった国王と、息子になれなかった王太子を。彼が出て行ったのは、ウォレンがまだ5つになる少し前のこと。早く大人になることを義務づけられていたウォレンは、幼きその日々を覚えている。ウォレンがいつから王宮を抜け出し始めたか、ウォレンがいつから父を陛下と呼ぶようになったか、ウォレンがいつからこの世界に、王子と云う地位に絶望して来たか。
もちろん、それを語ることは許されない。
「陛下がいったい何を望み何をなし得ようとしたのか、俺にはわからない。だからそれを、シュタインから、俺よりも知っているだろうシュタインから聞きたい」
「殿下……」
「それが俺にできる、陛下を理解すると云うことだ。最後に俺を呼んでくれた陛下に対する義務、そしてこれから陛下を継ぐ俺の役目だ」
たとえこれからアリカラーナを継ぐとしても、いやだからこそ、継ぐ前にウォレンはガーニシシャルを理解しなければならない。それは帰って来てから一番に決めた、自分の目標でもあった。今まで散々「陛下」と呼んで逃げて来た、最後に「ウォレン」と呼んでくれたあの人と、「父」と「息子」となって向き合わなければならない。アリカラーナを継ぐ前に、ルナに会う前に。それがウォレンがしておくべき、玉座への準備だ。あのような重たいものを、他の誰にも渡してはいけない。背負うべきは、自分であるべきだ。
そうは覚悟しているものの、陛下の話をする時ウォレンはいつだって緊張してしまう。その緊張ついでに、ウォレンは訊いてみる。
「それで……宝物の無事は確認できたのか」
「──ええ、唐突な横取りで焦りましたよ」
ルークは深々と溜め息を吐いた。それが本当に、感慨深いことのように。微笑んで軍に入りたいと云った時とは違い、彼の心がにじみ出たような、そんな声だった。ウォレンはガーニシシャルのことを、ルークはリィスのことを語りたくない。お互い立ち入られたくない領域だが、先に侵入されたウォレンはどうしても訊きたくなった。
「大河で彼女を見つけた時は、本当に焦りました。リーシュカが帰って来たのかと思った。あんまりにも突然のことで……」
「やはり貴方が動く理由と云うのは、アリスだったか」
「ええ。今私が個人として生きる目的は、彼女たちを見守ることだけですから」
「アリスは……」
「……大事な宝です」
リーシュカ・ルヴァガに似ている、その事実をルークも認めている。リーシュカ・ルヴァガの行方は、長いことわからないままである。アリカラーナの戸籍として残ってはいるものの、連絡が途絶えているため消息は不明だ。ただ彼女に似ているアリスを、ルークが放って置くことなどできないだろう。リィスもリーシュカも、彼に取っては大切な人なのだ。
それはウォレンを救ってくれたアリスに重なる。アリスはウォレンが助けてくれたと思っているが、実のところはほとんど、ウォレンがアリスに助けられている。初めて会った時はリーシュカ・ルヴァガに似たその容貌に驚かされた興味からだった。リーシュカと別れたのはもちろん幼い頃のことであった。しかし彼女は国外に出ているものの、「ルヴァガ家の末裔」という重要な位置に居たため、何かと話題になりその度に肖像画を見ている。
リーシュカ・ルヴァガの印象に加えて、アリスと云う聞き覚えのある名前に惹かれて、純粋な興味から彼女を連れて師走祠へと案内した。しかしその短い旅路の中で、ウォレンはアリスという人物に興味の対象を移していた。リーシュカ・ルヴァガと云う対象から、アリスという一人の人物に。再会してから、その思いはさらに強くなるばかりだ。
リーシュカ・ルヴァガに似ているアリス・ルヴァガを、ウォレンとしてはきちんと正さなければならないのだろうが、現在の対象はあくまでアリスだけだ。彼女は本当に良い意味で、ウォレンを驚かせてくれる。それが新鮮で不思議で、どう形容すれば良いのかよくわからない。ただ昔、下町に通っていた頃に戻れそうな、それよりもずっと昔、ルナと共に下町まで抜け出していた頃を思い出したような。
「──約束してください」
だからそんな安らぎをくれるアリスの負担を、せめて少しだけでも軽くしたかった。せめて巻き込まれることになってしまったアリスに、それに値することをしてあげたかった。
「アリスに、必ず真実を話すと」
しっかりとルークを見ると、彼の瞳が若干揺らいだ。今まで逸らすことなく物怖じなく、しっかりと歩いて来た彼が、わずかな動揺を見せた。リーシュカ、リィス、そしてアリス。その名は彼を動揺させるに充分なのだ。最強の法術師であると謳われる彼を、唯一動揺させるルヴァガの女たち。
「俺はあいつを巻き込んでしまった。ならせめて、できることをしてやりたい。アリスはきっと、召喚師になれずとも幸せに暮らせる未来があった。幸せに暮らせる場所と人とがあったはずだ。それを一遍に失ってこんなところに居る。その彼女にせめてもの償いを、巻き込んでしまった自分ができるせめてもの真実を教えてやりたい」
「──ええ、殿下。妻の名にかけて、必ず」
ルーク・レグホーンは瞳を閉じて笑いかけると、力強く頷いたのだった。閉じられた瞳は、アリスと同じ鳶色だった。