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精霊物語─王太子の目覚め   作者: 痲時
第10章 幕開きの舞台
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第57話:ゴードンハウス


 サーム城主ヤン=ガンダバトル。南の血を受け継いだ彼は、大地のように黒い肌と岩のように頑丈な身体を持っていた。正しく、城主と云うにふさわしい。その隣に楚々と立つのは、リューゼ・サトレイガ。以前は王宮貴族であったが、当時の王よりサトレイガの土地をもらいそこを代々守って行く役目を担った一家だ。農業が盛んなこの町の領主サトレイガは、領主でありながら農学者でもある。ガンダバトルよりも頭二つ分小さく、細身の眼鏡をかけ、見ただけで学者前とした風貌をしている。


 その二人が、サーム城の前に立って待っていた。


 ウォレンは躊躇うことなく、馬から降りて彼らの前に立った。

 ここを訪れたのは、5年前の<返し礼>以来だろう。王宮から出ることができない国王の代わりに、王太子がその代わりとなって、年始に挨拶に来てくれた領主、城主へと挨拶返しに向かうのだ。あの時の頭は、王太子になることでいっぱいだった。他を顧みる余裕などなかった。


「この度は突然の訪問だと云うのに、こうして出迎えてくれたこと、感謝する」

 ウォレンは二人それぞれと目を合わせてから、その場に膝を付いた。

「この国をここまで捨てずに育ててくれたことも、感謝してもしきれない。逃げて済まなかった」

 慣れ合いの通用しない場で謝ることには、もちろん抵抗はあった。王たるものはいつだって、毅然と上を見て居なければならない。それがアリカラーナならなおさらだ。アリカラーナに住んでいた者は、王とはそういうものだと信じ込んでいるから、こうして弱々しい、人間らしい姿を見せると人々はあまり良い顔をしないだろう。

 神が跪くなど、人間のようで信仰心が失せる。


 そう教わったのはいつの頃だったが、気がつけばそんなことまで脳に刷り込まれ、だからと云って頂点に立ち続けることもできず、ウォレンは思い切れないまま王太子になっていた。

「だが私は、この5年近くを無駄にしたとは思わない」

 だからこそ、この時はチャンスでもあった。もちろん、あらゆるものを犠牲にした上でのことだ。そう考えた自分が愚かしく醜いと思ってしまい、嫌気のさすこともあった。

 ──得たものだって、あるだろう。

 だがアリスの一言は、ウォレンの重荷を簡単にも軽くしてくれる。本当は軽い荷物を重いと思い込んでいるウォレンを、アリスはしっかり前に立って事実を教えてくれる。正解ではないかもしれない、ただ彼女が思っていることの事実を、彼女なりに負担にならず教えてくれる。そのことが非常に自分の心を軽くしているのだと思うと、何所までもがんばれる気がした。


 ──だからウォレンだって、失ったとしてもそれと同じぐらい大切なものが見つかるはずだ。そしてその大切なものを守るために、ウォレンはアリカラーナになるんだろう。

 そうそのために、ウォレンはアリカラーナになると決めた。戻ると決めた時よりも、今の決意はゆるぎないものへと変化していることに気がつく。



「このアリカラーナは風土だけではない、人々もまた強い。次期王が捨てた国でも守りぬいてくれた人々が居るこのアリカラーナを、私も続けたいと思った」

 西の大陸では、王が死んだら次の日には掠奪者による別の国が立ちあげられ、住み難いと思ったら、即刻平和な何所かの国へと流れてしまうのだと云う。アリカラーナは島国と云う土地柄そういったことはないが、この不穏なる状況が嫌になる人だって居るだろう。だがそれでもこの5年、アリカラーナが嫌になって逃げた人など誰も居ない。逃げたのは、臆病な王太子だけだった。


 頭を下げるウォレンの前に進み出たのは、領主兼農学者のサトレイガのほうだ。

「アリカラーナは閉ざされた国ですから、他国に向かうことなど、誰も思いつかないことです。だからこそ、誰もがこの国に、この大地に、執着しているのだと思います。この大地を、殿下は何所へ連れて行くおつもりですか」

 大地を、と云う問いに、思わず笑いが漏れる。なんとも農学者らしい、いや、サトレイガらしい問いなのだろう。だからこそこの国は、本当におもしろいと感じられる。

「──私はずっと、地面ばかり見ていた。赤い絹の道や、学院の塗装された石畳や、考えられて植えられた花壇。すべてが自然にできたものはなく、過ごし易いように作られたものだ」

 そんな当たり前のことに、20歳のウォレンは気が付いていなかった。

「だがこの数年この大地を歩いて、いろいろな道があることを知った。友人と話していた時に気が付くべきだったことだが、自然にできた美しいものたちが、この国にはある。私はこの4年、ずっと外の世界で暮らして来た。たまに話してくれる人間と、屈託ない優しさに支えられて生きた」

 辛いことばかりではない、失ってばかりではない、だから自分は立って居られる。

「そういったものが、自然とできる国を、私は欲する。定成王が目指したような向上心はまるでない。ただ私はやはり、この国は美しくあって欲しい。

 貴公の申す通り、この国の人はこの国に執着している。私とて同じだ。今さらと思われても、今私が王宮へ向かわなければ、法術師の好きに法術を使ったら、この国がなくなってしまうから。この大地が滅んでしまうから」

 なくなるのが惜しい。そう思えたのだ。

 嫌なことばかりあったこの国だと云うのに、滅びてしまうのは、自分の勝手で滅びるのは、そしていつか、それを自分の目で見るのが。



 ずっと黙っていたガンダバトルが、一歩進んで口を開いた。

「殿下はシュタイン宰法をどうなさるおつもりですか」

「どう、とは。詳しく何を訊きたいのだ」

「もちろん、処分です。殿下を追い出し、数多くの重鎮を城に投獄させ、国を恣にしている輩です。私は国を乱す人を、どうしても許したくはない」

 武人らしい答えだ。南大陸では、馬賊を相手に素手で戦ったという武勇伝が残っているらしい。曲がったことが嫌いな武人にしかし、ウォレンはまだ解答を出せない。

「今はなんとも云えん。──私を放り出したことに関して云えば、やはりそれは謀反だろう。だが私は放り出されたために得たものもあるし、彼はその間民を蔑ろにしなかった。彼の本当の目的がなんなのか、陛下の忠臣であった彼の話は聞かなければならない」

 ただ、とウォレンは続ける。

「彼にとって良かれと云うことでも、現在彼がしているのはこの国を滅ぼす行為だ。民の許しもなく、それを勝手に行うことは許されない」

「それは……」

「人々が大切にしているこの大地を失うのを、黙って見て居られるほどお人よしにはなれない」

 きちんと報告を聞いたことはなかったが、サトレイガの表情を見ていればわかる。作物の高騰はおそらくこの不安定な気候の所為であり、彼がそれに疑問を持つのは当然だ。そしてウォレンも気付く。所詮、禁忌魔法はその場しのぎにしかならない。ルークの云う通りなのだ。4年も経てば当然ガタが来て、これはそのままアリカラーナ国の崩壊へと繋がる。


 初代が生きていた頃のアリカラーナに戻ってしまっては、彼らに申し訳がない。ちらと師走を見たところで、ガンダバトルが大きな身体を地面に落とした。

「我がサーム城へようこそ、歓迎致します、ウォルエイリレン王太子殿下」


・・・・・


 サトレイガに来たウォレンたちが次に目指すべきは皐月祠。そしてそのままトリュックから水無月祠を目指し、カロマロフに入るのが理想と云える。だがそのトリュックはシュタインを全面的に手伝っており、最近の気候変動に異議を唱えるサトレイガたちを、意地でもシュタイン側に入れようとしてたらしい。


 トリュックを説得したいと云うウォレンの希望は、彼らと付き合って来た二人から不可能であると判断された。

「あいつは無理でしょう、テルムの影響を受けてしまいましたから」

 ヤン=ガンダバトルは苦々しい顔をしながら云う。顔はいかめしい、いかにも武人らしいが、実のところはとても話し易く忠誠心の高い、温和な人物だった。彼がサトレイガと組んでうまくできることに納得する。領主と城主の相性が悪く関係がこじれて、対立関係に陥ることも少なくはない。年の溝や仕え方の違いから、そういった障害が多いのだ。だがサトレイガは問題がないと信じることができた。


「ほとんど宗教状態です、我々にもシュタイン宰法への絶対服従を進めてきました」

「断ったのか?」

「両者のお話を聞いてから、と思っていたので」

 サトレイガが楚々と微笑むその顔は、農学者と云うよりまるで軍師だ。何所かの軍略を考えるのがうまいが嫌いな領主を思い出して、ウォレンは思わず頬を緩める。

「私たち民の代表者がすべきことは、民に不安を与えぬことです。シュタイン宰法はその点うまく立ち回っておりますが、 農学者としてここ最近の不作には疑問を感じ得ません」

 気候に敏感なサトレイガは早い時点で気付いたらしいものの、王宮では通常通りの召喚が行われ、季節の流れに乱れはないはずだと答えを得た。王が崩御し王太子が行方不明、王宮封鎖と少々おかしな様子が続いたとしても、まさか精霊召喚師が監禁されているなど、思いもしないことだろう。その時は今年が豊作に恵まれなかったのだと、民たちと一緒に思うようにした。


 しかしその状態で3、4年が過ぎれば、なんらかの不審の種も育ち出す。

「だいたい、王宮を閉じる意味がわからん。なぜそのようなことをしたのだ」

「……正直、シュタインにも手探りな面があることが気になっているんだ」

 ウォレンだけではない、誰もが感じている疑問だ。それがおそらく、シュタイン側についている人の云い分にもなり得る。なんといっても、うまくない。その一言に尽きる。

「シュタインの目的が玉座だとしたら、4年前俺を殺してしまえば済んだはずだ。だがこの4年、追われることはあっても、命に関わるようなことはなかった」

 確かに王都を出てすぐは法術が飛んで来たり視線を感じたりと、追われてはいた。きっと殺すつもりなのだろうと最初こそ思っていたが、それにしては攻撃が手ぬるい。そしてアリスに出会った時に、その違いを確信した。アリスにこそ云えなかったが、シュタインはアリスを殺害しても構わない攻撃をしていた。ウォレンはあんな、下手したら町にも危害を加えてしまうような、目立つ攻撃をされていない。


 ならシュタインは、ウォレンを王宮から遠ざけることさえできればそれで良かったのか。シュタインの目的は未だはっきりとわからない。

「確実なのは、人霊の排除。そして禁忌魔法の確立」

 それだけが、ウォレンにわかっているシュタインの目的だ。だがそれも、決してうまくはない。人霊を祠に戻して精霊召喚師を監禁するだけでは、確実な排除にはならない。精霊召喚師という機能を止めるには、まずアリカラーナから廃止しなければならないが、シュタインはそれを知らないはずだ。知っているのは、アリカラーナになるはずだった、ウォレンだ。しかしそれを、何かの拍子に知ってしまった可能性も捨て切れない。


 ──俺も誰かが漏らしたなんて信じたくないよ、だけど何所からか漏れたのは事実だ。シュタインが何を目的としているのかわからないけれど、知っていながらの行動だと思う。


 以前イーリアム城にて、師走とそんな会話をした。あの時も今も、答えは出ないままだ。




「禁忌魔法とは……また、物騒なものを持ち出しますね」

 サトレイガの正直な感想に、ウォレンも頷く。この世の摂理を無視した禁忌魔法は物騒だ。

「だがそれは、使い方を間違えれば、の話だ。そうでしょう、ルークさん?」

 傍観を決め込んでいるルークに、ウォレンは言葉を投げかける。会議の場になるといつも隅の方で聞いているだけが多いルークは、おそらくウォレンに気を遣っているのだろう。自分の存在が迷惑になるとわかっていて、彼はあまり口を開かない。だがたとえ不利になったとしても、共に行きたいと云ってくれた。ウォレンにはそれだけで、ルークを連れて行くのに充分な理由だった。



 振られたルークはそうですねと、考える様子を見せて云う。

「もともと禁忌魔法とは、法術研究を進めるうちにできてしまったもので、その力のもとはジンです。ですからあれは、緊急の時のみ使用するつもりで封じたんですよ。法術師、召喚師、聖職者。どれも欠けてはならない存在だが、一時期欠けてしまった場合、万が一のことを考えて作られたものです」

 緊急の魔法が禁忌となったのは、封じたものの危険さを理解せず、使おうとしたからだ。

「あのルーク・レグホーン卿が、まさか今になって出て来るとは……思いもしませんでした」

 淡々と説明するルークに、サトレイガは動揺しきりだが、明確に拒否するような反応はない。ルークに会った者は誰もが驚き、それから判定の分かれ道は、そう変わらない。


 恐らくケーリーンに長く住む上流階級の法術師は、彼を裏切り者と判断しているだろうし、アスルに長く住む上流階級の召喚師は、彼を召喚師の仇としているだろう。つまりどちらにせよ、現在ルーク・レグホーンという男は、あまり歓迎されない男である。しかしだからと云って、つまみだすことができない、厄介な存在でもある。


「僕にはまだ、やらなければならないことがあるからね」

 アリカラーナ中に目をつけられている男はしかし、穏やかな様子でそう答えるだけだ。ウォレンも彼の事情については、細かいことはわかっていない。ただはっきり云えるのは、禁忌魔法を生み出した稀代の法術師だと云うこと。それだけである。




「さあ、では準備をしましょうか」

 突然、さも当たり前のように云われてウォレンは恐らく、間の抜けた顔でサトレイガを見ただろう。当の彼はと云えば、ウォレンと目を合わせると微笑む余裕まで持ち合わせている。

「殿下は、向かわれるのでしょう。──ラドリームに」

「……ああ」

 宗教状態にシュタインへの忠誠を誓っている西の隣町トリュックに行くことは不可能だと結論が出た。ならばこのサトレイガから北へ向かい、迂回して祠を回るしかない。そこで通るのは、アラムという町にあるラドリーム城。ウォレンの叔父が城主を務め、ここ数年連絡の取れない相手。ルーンの話では聖職者に力を貸し、城を留守にしている可能性もあるが、足を運びたいとは思っていた。


 わざわざそのことを気遣ってくれるサトレイガに、ウォレンは感服する。


「水無月祠はカロマロフの大地を踏んで行くことができると思います。しかし隣のトリュックが、それを大人しく見ているだけとは思えません」

 ウォレンたちが次に目指す水無月の祠は、ちょうどトリュックと隣町カロマロフの間に位置する。カロマロフは中立の立場を守っているだけだが、明らかに敵対しているトリュックから入るより断然良い。加えてラドリーム城はここサトレイガからトリュックを超えて北側にある、アラムという町にある。トリュックを超えてラドリーム城へ行き、ルフムからカロマロフへと回り水無月祠へと回るのが最適だろう。

「でしたら私たちにできるのは、王太子軍サトレイガとして、殿下をお守りすること。トリュックの兵たちをこちらに惹きつける間に、アラムへと進軍してください」

 その長い旅路を、彼らは気を引き締めて応援してくれるという。

「サトレイガ……」

「任せてください、これでも持久戦には自信があります」

「──ありがとう、心より感謝する」

 サトレイガの心遣いに、ウォレンは単純なお礼の言葉しか出せなかった。


・・・・・


 法術師ルーク・レグホーン、召喚師レイ=ルウ・カルヴァナ、侍従セナ・アティアーズ、イーリアム城城主イーリィ・マケル、ラドリーム城軍師ジーク・ズクーバなどなど、最初の頃から思い起こせば、ウォレンと共に行動する幹部も増えて来ている。

 だがそれと同時に、それぞれの立場からこなさなければならない仕事も増え、未だ王宮のことなどまるでわからないアリスは、人霊に頼るしかなかった。


 ──アリスはのんびりしておいでよ。終わったら祠に行くからさ。

 せめてその場にだけでも居ようとするのだが、師走はそうやってアリスを甘やかす。本当にこんな状態で、精霊召喚師などと崇められていて良いのだろうかと心配になる。だが実際アリスが居ても役に立てることはなく、大人しく師走の云うことを聞くしかないのが現状だ。



 のんびりしておいでという言の通り、アリスはのんびりさせてもらっている。

「庭に出てるのがちょうど良い季節になったなぁ」

「そうだな、すっかり春だ」

 3月も半ば、春の到来に喜ぶルーンの声に、アリスも賛同する。

 人霊が忙しくなるといつもイーリィが来てくれていたのだが、ルーンが来てからは彼がもっぱら近くに居ることが多くなった。以前駆けつけてくれたイーリィとルーンがばったり鉢合わせをし、苦い顔をしながらもイーリィはルーンにアリスの相手を回したらしい。つまり忙しいのだ。


「ルーンも行って良いよ。城塞の中は安全だろうし」

「いやでも、やっぱりね。俺も特に手伝うことないんだよ」

 現在聖職者は混乱のまっただ中に居る。それそうだ。宰聖が法術師を裏切って死亡し、各地の聖職者はとにかく大慌てらしい。城塞に居る者などは、他の術師との折り合いもあって、なかなか思う通りに動けない。聖職者はもともと、アリカラーナと云う存在に忠誠を誓っているだけあって、圧倒的にウォレンを支持するものばかりだが、そう簡単にいかないのがまた歯痒い。


 だからウォレンの元へと参じたルーンも、あまり中枢に入ると軋轢が生じるため、こうしてアリスのお守に回ってくれている。



 ルーンはとても気安いだけに複雑な立ち位置を聞くと、これでも聖職者の大司教なのだと思わされる。

「大変なんだね」

「あ、でも大丈夫。何かあったらちゃんと殿下のことはお守りするよ。絶対にね」

 普段話している限りではアスルに居たような、普通の男性と変わらないと云うのに、こうしたふとした瞬間に、聖職者の大司教なのだと思い知らされる。ウォレンのために命を投げられる、投げる命なら確実にウォレンを助ける。そう云い切ってしまうルーンを、同じく臣下の身としては尊敬してしまう。


 アリスもいつか、そこまで思い切ることができるのだろうか。聖職者と召喚師を同等に比べてはならないと思うが、今までのような生半可な気持ちのままではいけない気がしている。だんだんと知らされて来る王宮と云うものに怖気づいているわけではない。ただセナやウォレンの話を聞いていると、とても現実味が失せてきてしまう。だから実際、その現実を突きつけられた時、果たして自分が受け止められるかが不安になって来たのだ。

「……アリス?」

「え、あ、ごめん。何?」

 最近、なんでもない一言からつい考え込んでしまって、たまに話を聞き逃してしまう。

「謝るところじゃなあないんだけど……」

 だけどと云いながら、ルーンまで何か考え込んでしまう。いったい何が云いたいのだろうと思っていると、そうだと彼は手を打つ。

「お腹空いたし、ご飯食べに行こうか」

 真剣な顔をして何を考え込んでいるのかと思えば、結論はなぜかそこに辿り着いたようだ。思わず気が抜けて笑ってしまうと、ルーンはそうそうと頷く。

「それで良いんだよ」

「え?」

「アリスはたまーにすごく難しい顔してるからね。それぐらい気楽で良いと思うよ」

 ぽかんとしてついルーンを見てしまう。気を遣わせてしまったのだろうか。まるで今ここがアスルで、目の前に居るのがシェイドなのではないかと思えてしまった。

 ダークの友人とは思えないほど優しく穏やかなシェイド・グレイフォード=ナインは、アリスの受けられなかった試験を突破して、何所かの領主だか城主だかに仕官したと聞いている。彼はダークの友人であってアリスの友人ではないと思っていたが、彼はその考えを否定することなく、ただ淋しそうに笑っていた。たぶんシェイドは、友人のつもりで居てくれたのだと、エリーラが居てくれる今なら思える。


 シェイドはいつもそうやってアリスの気を遣ってくれた。彼ならきっと仕官してもうまくやっていけるだろう。見たことのない妻子は元気だろうか。


 アスルに戻れば、もしかしたらまた、会えるのではないだろうか。


「アリス……」

 飛んで来た声がシェイドとは違うもので、アリスはそこでようやくはっとする。

「あ……ごめん」

「もうそこまで来ると誤魔化せない、かな」

 苦笑したルーンは、アリスに視線を合わせて頭をなでる。

「悩んでることを話さなくても良いけどさ、そうやって見せてくれたほうが、助かる時もあるよ」

「ううん、違う」

 まるでこれでは子どものようだと思いながらも、アリスは首を振る。

「ただ今、ルーンが友だちと似てるなって思って。そしたらいろいろ思い出したから」

「そっか。──俺には故郷の思い出がないけど、今でもリアのことは思い出す」

 ルーンの前で斃れたと云うデュロウ・ライロエル。彼はルーンにとって、祖父のような人だ。そんな人が命を賭して倒れたばかりだと云うのに、アリスは失っていない故郷を思い出して泣きそうだ。自分の弱さが愚かしくて、アリスは唇を噛み締める。強くならなければならないと云うのに、こうしたほんの少しのきっかけで、アリスはアスルを思い出してしまう。


 悪いことばかりであったはずだと云うのに、どうしてこうも募るのだろう。


「今の俺を見て、きっとこういうだろうなとか。だから俺は、もっと強くなりたいんだ」

 今の自分を見て。

 ──アリスが泣いてるところなんて、見たことない。ずるいわ、ダーク!

 リンちゃんのいきり立つ声が響く。

 ──はいはい、良いからバデイルはこっち座ってなさい。アリス、ダークは外だよ。

 シェイドの柔らかい声が導いてくれた。

 ──おまえはどうして、そう急に泣くんだよ。定期的だと非常に面倒くさいから、もうちょっと頻繁に少しずつ爆発してくれ。

 呆れて茶化すダークの声。


 失ってはいない。確かにもうばらばらではあるが、確かにまだ、この手にある。いつでも戻すことができる。ならばアリスは、そのために一つひとつできることをしなければならない。




「ありがとう。──ルーンは充分、強いよ」

 アリスに比べたら、この人は強い。普段が少しだけ適当に見えるだけに、それが余計に頼もしく思えた。少しぼやけた視界だが、涙がこぼれることはなかった。アリスが泣くのは、今ではない。定期的が面倒だと云われようと、今は頻繁に泣いている場合ではないのだ。

 表情を引き締めると、ルーンは小さく笑った。

「アリスは、凄いね」

「え?」

「ううん、凄いなって思っただけ」

「凄いのは、ルーンでしょう。ルーンのおかげで落ち着いたんだから」

「そういうことじゃないんだけど」

 体制を戻したルーンは、元通りアリスの前に立つ。姿恰好は小柄なシェイドとは似ていないが、こうしていると懐かしく思えてしまうから不思議だ。

「ねえ、アリス、今度さ……」

 云いかけたところで、ざっと草むらが鳴った。二人の視線はそちらに向けられ、同時に声を漏らした。


「エース」

「殿下」

 珍しく表情のない顔で立っているのは、ウォレンに間違いない。

 ルーンがあまりにも慌てて膝をついたので、思わずアリスもやりそうになってしまったぐらいだ。だが今のウォレンにはそれだけの気迫があった。現れたらその場で頭を下げなければならないような、覇気のようなものが強く感じられて、立っているのが許されるのか少し不安になったぐらいだ。


 だがウォレンは気にした様子もなく、アリスへと視線を転じる。

「どうしたんだ、こんなところで」

「え、ああ、師走に云われた通り、散歩していたんだけど」

「ちょうど人霊の手が空いたところだ。祠に行くのなら、会いに行くと良い」

「え、でも……」

 なんだか怒っているような云い方に口答えができずルーンを見ると、彼はゆっくり頷いた。

「気をつけて行っておいで、アリス」

「ごめんね、ルーン。おかげでもう大丈夫だよ、ありがとう」

 アリスは後ろ髪引かれながらも、その場を後にした。


・・・・・


 去って行くアリスを見ながら、ウォレンはぼんやりと思う。何がこんなに苛立つのだろう。去来したもやもやとしたものはなかなか消えず、その背中を追っていれば見えるのかと思ったが、結局わからないままアリスの姿は消えて行った。



 クレナイの正体を知ったアリスと、まだきちんと話をしていない。

 ウォレンですら、彼が暗殺者であることを知った時、だいぶ衝撃を受けたのだ。アリスが驚かないはずはないと云うのに、彼女はまるでそれを見せない。その真意が知りたいのだが、最近は移動や会議でばたばたとしていてすっかり時間が取れなくなっている。

 振り返った先に居たルーンは、まだ跪いていた。

「ルーン、済まない、立ってくれ」

「いえ、殿下の前で、そのようなことはできません」

「リューシャンに育てられただけあって、相変わらず俺の前では固いな。──なら王太子として命令する、立ってくれ」

 普段は快活な青年なのだが、ガーニシシャルやウォレンの前ではいつも固かった。あの堅物リューシャン・バックボーンに育てられたらそうなるであろうが、その堅物の前ではあんなにも口が閉じないと云うのに、不思議な性格になったものである。

「まさか庭先で、こんな話し方をしていても仕方ないだろう。個人的に、訊きたいことがあるんだ」

「──はい、御命令とあれば」

 渋々と云った風に立ちあがった彼は、真っ直ぐにウォレンを見て来る。

 母は幼い頃既に亡くしているが、父は健在である。普段のルーンをそのままにしたような、ルーン曰く「口煩い親父」らしい。それがなぜリューシャンに拾われて聖職者になったかと云えば、ただはぐれたのをルーンがうまく説明できず、リューシャンが拾って帰ってしまったのだ。まさかそのまま聖職者になるとは思わなかったが、ルーンは八人兄姉弟妹の末っ子で、懸命に探した挙句聖職者の家に居たのを見つけた父は、里子に出したつもりでリューシャンに託したらしい。


 笑い話のような本当の話の結果、ルーンはここに居る。


「アリスは、元気だったか」

「……え、ああ、はい……。たぶん、もう大丈夫だと思います」

 ルーンはアリスが去った方を見ながら、しっかりと答える。

「最初は難しい顔をしていて、次には泣きそうだったので心配だったんですが、少し話したらいつもの顔にすぐ戻っていました。──アリスは……本当に凄い女性だと思います」

 確かに気がつくと、小難しい顔をしていることが多い。だがウォレンは、彼女の泣きそうな顔をと云うのを見たことがなかった。だからこそ、余計に心配になる。今までの彼女の生活からは考えられないようなところに今は身を置いているのだ。そろそろ限界が来てもおかしくはない、そうは思っていたのだが、彼女の防波堤はまだまだ高いようだ。


 それとも、その防波堤ぎりぎりのところで、ルーンがそれを沈めてくれたのだろうか。ウォレンにはできない、アリスを慰めること。ウォレンはアリスに、難題を吹っ掛けてばかりいる。どうにかして笑わせてやりたいのに、難しい顔をさせている原因はおそらく王太子と云う存在にある。




「どうしたら、俺はあいつを喜ばせることができるのだろうな」

「──え?」

「アリスには俺の所為で随分重たいものを、早い段階で辛い状況の中担わせてしまった。俺はあいつに、それ以上の幸せを返してやらないといけないのに」

「アリスはそんなこと、望んでいないでしょう。むしろもらったら、不思議がります」

 自分の中の割と真剣な悩みに即答されて、ウォレンは素直に驚いてしまう。ルーンが軍に加わってからまだ日が浅いというのに、すっかり相手をわかり切った返答だったからだ。

「私たち聖職者とは違って、アリスは召喚師でまだ殿下を知ってから日も浅い。それでもこうして殿下のために何かをしようと、必死なのだと思いますよ」

「俺のために、必死?」

「アリスは殿下から、何かをもらおうなんて思っていません。力になりたいと思っているのでしょう。それは殿下のお人柄が成したことですね」


 ──だがエースが王太子なら、私は考え直さなければならない。エースだとわかって、私はもう決めた。私が王宮に行く目的は捨てる。それが、エースという一人の人間を見て思った、私の答えだ。


 アリスはウォレンのために、目的を捨てるとわざわざ宣言してくれた。あの時の不思議な気持ちは未だ胸の中に暖かく残っている。そう、彼女は自分のために、何もかもを捨てる覚悟をしてくれた。その代わりに、大きなものを得るからだと。



 それだけの価値を、ウォレンはアリスに与えてあげられているのだろうか。どうしてもアリスのことを考えると不安になってしまい、何かしたいとウォレンも思ってしまう。もしかしてそれは、アリスも同じなのだろうか。

「そうか、ルーン。ありがとう」

「い、いえ。ただ思った通りべらべらと話し過ぎてしまいました、すみません」

「いいや、話したらすっきりとした。……が、これは愚痴に入るのか?」

「まさか、入りませんよ。殿下はそればかり気にされますね」

 臣下に愚痴を云うなど、上に立つ者としてはあってはならないと思っていた。それはウォレンにとって自然に身に付いたもので、おそらく立場上あまり自分のことを語れなかったことも関係しているだろう。


「俺もルーンのように、アリスを安心させる、何かをしてやりたいものだが」

 一応は納得したつもりだと云うのに、どうしてもまたそういった気持ちがもたげてくる。自分もルーンのように、何かをしてやらなければと焦る気持ちが募るのだ。

「殿下はアリスをその、大切に思われているのですね」

「……ああ、最初はいろいろと気になることがあって話しただけだったんだが、良い奴だよ」

 ルーンは少し困ったように笑ったものの、まさかと思ったことを言葉にはしなかった。


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