第51話:封じられた心
その報がアリカラーナの西側カームまで届いたのは、王太子殿下が受け取るより若干遅かった。ルフムより近いというのに遅れたのは、おそらくルーンのように誰かが手を引いてくれたわけではなく、あの混乱の最中、指示しなければならない人がここまで駆けて来たからである。
知らせを受けた時、アクラには断る術がなかった。ここはエルアーム城であり、その内部はもちろん城主のファルーンが取り仕切る。 来た者に不審がなければ、というよりも第一枢機卿が来たのだから何も考えず上げたって良いぐらいである。
リューシャン・バックボーンは相変わらず平然とした顔をしていた。ここまで来るのだって一苦労だったろうに、とアクラはどうでも良いことを考える。それほどこの現実から逃れたい気持ちが強かったとも云える。
「突然に押し掛けてしまって申し訳ありません、グランジェ城将」
「いやぁ、俺は構わないが……」
バックボーン第一枢機卿が来ていると聞いて、ファルーンが飛びつかないわけがない。何せ王宮の聖職者が謎の離脱をしてから、城内の聖職者は落ち着きがなくなっている。聖職者の動向がわかればこちらも落ち着くし状態が良くわかる。
だからこそ、リューシャンがアクラに会いに来たことなど、まったく聞かずに上げてしまったことに、居心地の悪さを覚えているのだ。
生真面目なリューシャンは相も変わらず射るような瞳でアクラを見た後、静かにその場に頭を下げた。
「お久しぶりです、アクラ様。突然の御訪問、申し訳ございません」
「初めまして、バックボーン枢機卿。カーム領主アクラ・ロスタリューです」
リューシャンの目が少し揺らいだが、しかし結局何も云わずにアクラを見ている。反応を楽しんでからくすりとアクラは笑って、
「それとも何かな、久しぶり、と返す方の用事かな」
厭味ったらしく返したと云うのに、彼は「はい」と生真面目に答える。デュロウ・ライロエルの子とも云われる、彼の右腕であり、古株の枢機卿。何所までも真面目で無駄口を叩かず、それでも忠誠心だけは忘れずに持ち続けている。
「今まで僕のことなんて、すっかり忘れて放って置いてくれたのにね」
「リアはアクラ様のことを忘れたりはなさいませんでした。むしろなかったことにしようとしているのは、アクラ様の方です」
「その通りだよ。だって僕は、なかったことにしたいから」
アクラはにっこりと微笑んだ。
自分がカームに来る以前のことは、すべてなかったことにしたい。それは本当だ。あの下らない出来事がすべて消えてしまえば、自分はアクラ・ロスタリューで居られる。ウォルエイリレンだけに忠誠を誓ってカームを守る、ただの領主になれる。それだけが今のアクラの望むこと。ウォレンにただ仕えること以外、今の彼は何も望まない。
「僕のここが、揺らぐことはない」
「どんなことがあっても、ですか」
「──状況に因るよ。ウォレン様に関わることなら、僕はなんだってする」
もしウォレンのためになるのなら、あの下らない出来事だって認めてあげても良い。祖母、父母が軽々死んでいったあの下らない経緯を語っても良いぐらいだ。
リューシャンは糸口を見つけたと思ったのか、もともと綺麗だった姿勢をさらに正し、また射るような瞳でアクラをしっかりと見据え淡々と語り出す。
「既にご存知の通り、デュロウ・リアは法術師シュタイン卿と契約し、イシュタル城に居た仲間を引き連れ、聖地ルフムに帰還しました。そしてデュロウ・リアは、先日ルフムの大聖堂で講演を行い、ウォルエイリレン王太子殿下の言が正しいことを公表致しました」
ウォレンの言とは、戴冠式の際、法術師が謀反を起こしてウォレンを追い出したと云うことだ。彼らは禁忌魔法を使い現在このアリカラーナを安定させている、と。
まさか精霊なしでこの国の気候が保つと思ってはいなかったが、事実この5年持ちこたえている。広大な領地を持つカームは気候が安定しているため、作物の不作など特に民からの意見は届かなかったが、農学者が多く住む海側の町サトレイガから、気候に対する質問が幾度が来た覚えがある。精霊召喚師の姿が見えず、人霊もしばらく顔を見ていないとなれば、それが事実である可能性は高い。最もアクラの場合、ウォレンが云ったのだから嘘のはずはないと信じているのだが、流石にそれだけで領主は勤められない。
「私はグレアル・ロア並びに法術師の行ないに関して口外しないことを、ここに宣誓する。と」
腰を低くあくまで淡々と話していたリューシャンが、まるで本当に契約のように語る。もちろん最初に契約の文言がない限りそれは契約としてかわされないのだが、それよりも何よりも、その言葉はアクラを、そしてファルーンさえも凍りつかせた。
「デュロウ・リアだけが契約し、デュロウ・リアが契約を破りました」
「──な……」
声を漏らしたのは同席していたファルーンで、アクラはその報告をぼんやりと聞いていた。
「私が出る一日前に、息を引き取られました」
契約を破った聖職者は、そのまま死に至る。アクラはそんなことで動揺しないはずだった。そんなものなど、契約を守って死ぬ者など腐るほど見て来た。下らない内紛で嘘を吐きまくる聖職者など、この目で腐るほど見て来たのだ。
──アクラ、貴方だけは正直に……。
正直に生きたはずの母は、そう云って死んでいった。
──アクラ様、どうか、どうか、私たちをお導きください。
ついでに思い出された、ライロエルに会った、最後のこと。
「そっか、ライロエル老が……」
だがあのライロエルまでがそんなことをするとは、思いもしなかった。彼とは散々、契約について話をした気がする。あんなにも愚かな死に方はないと、アクラは毎度ライロエルに云い、その度に彼は困ったように苦笑するのだ。
「アクラ?」
「……そう」
ファルーンが心配そうに声をかけてくるが、残念ながらそれに構ってやるほど余裕がなかった。もう誰にも執着などない、あるのはウォルエイリレンだけだと思っていたと云うのに、デュロウ・ライロエルが契約によって亡くなったことが、何よりも悔しいと感じられる。
「どうしてそう、僕の嫌なことばっかりするんだろう、あの人って」
嫌いだと断言したかった。だがどうしても、彼のことを思い出すとそう両断できるものでもなかった。
そんなアクラの心境などお構いなしに、リューシャンは相変わらず無表情のままあるものを出す。アクラには見飽きた例の代物、国王陛下より賜ることのできる、聖職者の誇り。
「デュロウ・リアから、十字を預かっております」
ああ、彼の用件はやはりそういうことだったのかと、アクラは苦笑するしかない。結局のところ、どんなに偽って隠したところで、自分の人生はそう変えることができないのだ。悲観になりかけたところに、リューシャンは出した十字架を仕舞った。
「次期王となる御方に預けたいと思います」
「……え、なんで?」
「それがデュロウ・リアに頼まれたことだからです」
アクラは、薄い唇を血が滲むほどに噛み締めた。
「もう新たな人生を歩んでいるため、本来かけるべき御方には必要ないであろうと」
切れた唇からじんわりと血の味がした。だがそうしていないと、泣きそうなぐらいの感情がアクラの中で渦巻いていた。 何所までも何所までも、アクラに嫌なことをする人だと、本当に思った。このどうしようもない胸中をうまく表わす術が思い当たらず、アクラはただただ、悔しかった。
「……本当にあの人は、どうしようもないほど莫迦だね」
「どうすることもできなかったと、リアも仰っていましたが」
「僕はウォレン様を一番に慕う者だと豪語できる。だから本来なら、それも間違ってはいないんだ」
ただ自分が嫌なだけなのだと、アクラは正直に云う。もう散々に振り回されて疲れてしまったから、もう振り回されるのは嫌なのだと。
自分の人生は自分で決める、そうすることができるのだから。そうすることができると教えてくれた、ウォルエイリレンだけに個人として仕える。だからアクラはどうしても、ここから出る気はなかった。
・・・・・
近くの卯月祠へ人霊卯月を起こしに行くため、アリスは軽く準備を済ませた。しかしまた付いて行くと云いだしたウォレンが、まだ会議のために出られないらしい。先に行っても良かったが、人霊に会いたがっているウォレンを置いて行くのも気が引けて、でもだからと云って待っている間は閑である。結果として、アリスは屋敷内を一人散歩していた。
エトル内は安全だから、この屋敷内なら一人でも問題ないと云われ、そういえばここ最近一人で居たことがないと思い出したアリスは、なんとなく一人で歩きたい気分になった。
一人で逃亡していた頃は、一人で居ることがこんなにも安らかになれるとは思いもしなかった。ただただ心から荒んで行くのがありありとわかって、ダークの言葉さえなければ死んでいたかもしれない。
──必ず、迎えに行く。
あの声を裏切って、アリスは大勢を手に入れた。覚悟も入れたつもりだ。だがどうしても、踏ん切りがつかないのはなぜなのだろう。
さて何所に行こうかとあたりを見回し振り返ったところで、そこに立っている青年と目が合う。正式に挨拶していなかったが、エルアーム城の軍師ジーク・ズクーバと共にウォレンに会いに来た、聖職者の青年だ。
「あ、っとすみません。邪魔をしてしまいましたか」
「え、いや」
少し驚いた所為か、短い返答をしてしまい、沈黙に襲われる。しかしそんな中途半端な空気を吹っ飛ばすように、青年は快活に笑ってそういえばと続ける。
「自己紹介がまだでしたね。初めまして、大司教ルーン・ワードソウドと申します」
「ああ、アリス・ルヴァガだ」
せっかく話の口火を切ってくれたのだと思って挨拶を返すと、ルーンはじっとアリスを見ている。
「えっと、どうかした?」
「え、いえ、その済みません。つい、綺麗な人だったので」
綺麗と云われることにまだ違和感を覚えながら、思わずその素直な発言に笑ってしまう。
「あー、何か失言しましたか、俺──ああ、いえ、私」
「ううん、いきなりだったから、ごめん」
「いえ、もうルアって聞くとカルヴァナ卿しか思い浮かばないので、まだまだ若くて綺麗な女性っていう印象がなかなか追いつかないんですよねー。それ以前もおじいさんだって聞いていたし、今はリアもロアもお年を召しているから、どうも……あ……」
そこで何かに気がついたように、突然頭をさげた。
「す、すみません、ルアに下らないことをべらべらと!」
「良いよ、普通に話してくれて」
「いえ、とんでもない。だってルアですよ、ルア」
ルアと聞くと確かにすごいが、アリス・ルアと聞くと敬称ではない気がして来ている。未だ精霊召喚師だと云う実感はなく、まるでぼんやり夢の中を歩いている感覚だが、いつかは自覚しなければならないこともわかっている。だが今はまだ、ウォレンに軽々しくエースと呼べている間は、まだただのアリス・ルヴァガで居たかった。
「大司教年数が先輩なんだから、良いんだよ」
むしろ大司教という肩書のほうが、よほど高位に聞こえる。アリスの周りに聖職者など居らず、こうして知り合うのも初めてのことだ。
だが困ったようにがりがりと頭を掻く様は、大司教という肩書きなど思い起こさせない、そこらへんに居そうな年頃の青年だった。
「……良いのかなぁ、リューシャンに怒られそうだ」
「リュ-シャン……、リューシャン・バックボーン枢機卿、かな」
「ああ、そうです。よく覚えていますね。俺の、私の父のような人で」
「良いよ、だから無理しなくて」
「あー……ごめん、ちょっと緊張してるんだ。ずっと城にこもっていたから、あんまり人とも会っていないんだよ。 殿下にお会いできて、ようやく言葉を思い出した気がするぐらいで……」
そういえば彼も、この4年間城に閉じ込められていた人なのだと気付くのが遅かった。4年もの間、外の世界と切り離されて城内に閉じ込められるなど、それこそ有り得ない話だ。
「体調は? 身体は見てもらわなくて大丈夫なのか?」
「一応ルフムに帰った時、みんな検査は受けたんだ。でも俺はもう大丈夫、殿下にお会いできたから」
そう云って笑う姿は、完全に安堵しきっていた。
聖職者は召喚師と同じく弟子を取るため、もともとアリカラーナへの信仰心が強いわけではない。孤児やそこらへんで行き倒れていた者たちがなることが多い。そんな人々でも、アリカラーナと云う対象にここまで絶対の信頼を置くことができるのだと驚いた。
そういえば、とルーンは云う。
「そういえばさっきの会議で聞いたんだけど、殿下と一緒に祠へ行くらしいね」
「え、会議終わったの?」
「会議って云うより、城内の俺の知っている限りの情報をお伝えしただけなんだけどね。 安否が気になる方が、殿下には大勢居るだろうし」
城に居るのは、ウォレンにとって身近な人々ばかりだ。その人たちが、4年もの間城の中に閉じ込められ安否もわからないなど、想像するだけで恐ろしいだろう。だからと云って、周りを聖職者だけで固められていたルーンも、彼らの現状を詳しく知っているわけではなく、せいぜい王候補者はそれなりに自由らしいこと、 たまに来る来訪者のことなどしか知らないようだ。
「そうか、みんな無事だと良いんだけど……」
「そう、だね。何度か探ることはしたんだけど、法術師とは厄介なものだよね」
アリカラーナが近くに居たのなら、聖職者の力は何倍にもできるという。だがそのアリカラーナが王宮に不在の場合、自然法術師に勝てる術などなかったらしい。
しかしそんな暗い話を吹き飛ばすように、ルーンはそうそうと快活に笑う。
「俺の話の後に城将とかと話し合っていたから、あと少しで終わると思うよ。祠に行くんでしょう?」
「うん、エースが行きたいと云っているから、それで待っていたんだけど……」
「そう、殿下が、祠に……」
昔のウォレンを知っている人は、今のウォレンを見て感嘆する者が多いと、アリスも気が付いていた。きっと昔のウォレンと大して変わってはいないのだが、大きく変化した部分があるのだと思う。今のウォレンしか知らないアリスにはわからないことだが、アリスと同じ年頃でも、ずっと王宮に居たルーンにはわかるのだろう。
「殿下がお変わりになられたのは、ルアのおかげなんだろうね」
「え、いや、違うと思うけど……。それより、アリスで良い」
「いやでも、流石にリューシャンにどやされるから……」
どうやら何よりも怖いのは殿下でもアリスでもなく、リューシャンらしい。確かに父親とは頼れる反面怖いものかもしれない、アリスにはまったくわからないが、ラナのようなものだと思えばわかり易い。ラナは心から頼れる人だったが、逆らうことだけはできない。
「じゃあ枢機卿には私が気にしないと云えば良い。正直まだ精霊召喚師だと云う実感すらないんだ、だからルーンが……」
「アリスー、そろそろ行けるみたいよー!」
屋敷の入り口のほうから、エリーラの叫び声がする。
「あ、ごめん、もう行かないと」
云ってアリスが歩き出すと、
「いってらっしゃい、アリス」
ルーンは少し照れたように笑って返してくれた。
祠はすぐ近いと云うことなので、またしてもアリスが人霊と共に出ることにした。 俺も行くと云ったウォレンに、イーリィは疲れたのかどうぞご自由にと云うだけだった。だがその代わり、
「はぁ、なんでおまえが付いて来るんだ」
「殿下の後ろには私が控えているのが常ですから」
相変わらずにこにこと笑顔を浮かべて付いて来るセナは、さも当たり前のように答えた。
「エリーラも別に良かったのに」
「だって祠でしょう? 気になるんだもの、付いて行って良いのなら行くわ」
エトル領内は安全でしょうと太鼓判を押してくれたイーリィに申し訳ない気持ちになりながら、アリスは歩を進める。本来ならアリスが弥生と二人で行くつもりだったのだが、気が付けば五人にも増えている。そして本来一緒に行くはずだった弥生は、如月にバトンタッチしてしまい、その如月も後ろでにこにこと微笑んでいるだけだ。
「それにしても卯月、か」
賑やかになった一団の先頭で、ウォレンがぽつりと呟く。
「どうかしたのか、エース」
「ん、いや」
「──ウォレン殿下」
ずっと黙って付いて来てい如月が、ぽつりと主の主を呼ぶ。足を止めて振り返ったウォレンには、苦笑しか浮かんでいない。
「あいつだけ起こさないわけにもいかないだろう?」
「……ええ、一応は」
「なら、仕方ない。この現状であいつを起こすのは、少々不憫にも思えるが」
ウォレンは云って、海とは真逆の、国の中心へと目を向けた。ウォレンの、人霊の住んでいた王宮で何があったのかアリスは知らない。
だがその複雑な胸中を吹き飛ばすように、如月はいつも通りの笑顔で云う。
「ご心配には及びません、殿下。あの娘は強いのですよ」
それは如月にしては珍しく、師走を叱る時のような、きっぱりとした物云いでアリスも驚いた。しかしウォレンはその理由を察したのか、そうだなと頷いた。
「行こう」
彼らの主たるアリスは何も知ることができず、ウォレンに促されるまま先へと進んだ。5人目の人霊を起こすために。
・・・・・
「メイリーシャ!」
帰って来たルジンダから久しぶりに名を呼ばれて、メイリーシャはそっちにびっくりしてしまった。
「どうしたの、ルジンダ」
「見つけたよ、良さそうな場所を!」
「本当に?」
動くにも動けなかった状態から、アルクトゥラス家はこっそりと動き始めていた。バックロウはおまえに任せるよと云いながらもバックアップを忘れず、ルジンダは次期ルダウン=ハードク家当主として手伝ってくれている。あくまでメイリーシャがアルクトゥラス家当主として動く手伝いだ。
メイリーシャが考え出した地味な案を、二人ともあくまで彼女を中心にやってくれている。そう、これはあくまでウォレンに加担しながらも、アルクトゥラス当主メイリーシャという存在を知らしめるための動きでもある。失敗は許されないと気を張りながらも、わくわくしている自分が居た。
使えない子どもであった自分が、こうしてウォレンの役に立てていることが嬉しい。転がり込んで来た当主の座とは云え、父の後継ぎとして恥じない行動をしたい。協力してくれるルダウン=ハードクのためにも、アルクトゥラス当主として働きたい。いろいろな気持ちが混じり合って、メイリーシャは不謹慎ながら、毎日が楽しくて仕方がない。寝台に寝ているだけの日々よりはずっとずっと楽しい。
地図を広げてルジンダが隣に座ると、
「まあ、場所としては穴場かもしれないけど、ここ」
「──え?」
ルジンダが指し示した地図の場所は、
「ルダウン=ハードク家の、裏?」
「うん。お隣の下級貴族の土地だ」
ルダウン=ハードク家はかろうじて王宮貴族の敷地にぶら下がっている。その裏は既に王都に住まう下級貴族の土地である。どういうことかと思って首を傾げると、ルジンダは優しく説明してくれる。
「たぶん、だけど。殿下は新しいルアと一緒に回っているんだと思う」
「ええ、それは私もそう思うわ」
「師走様はもういらっしゃるようだから、最終目的地は霜月祠。こっち側から王宮へ行くには、ここの土地を取っておくことは大切じゃないかな。大河の向こう側から王都に入るにしても、僕らがここを抑えておくことは充分意味があるはずだよ」
ウォレンが出て来たとは云え、未だ領主には日和見が多い。そしてルダウン=ハードク家のある王都北西側の町は、日和見である。ウォレンたちが通る時になって動いてくれたら良いが、アリカラーナ不在の5年間は、絶対無敵のアリカラーナの印象を弱くし、町と云うのが存外強くなってしまった。無論、反抗心が芽生えた町ばかりではないが、やはり近いところで絶対的な仲間は居るべきだ。
ルジンダの素早い動きに感謝し、メイリーシャは立ち上がる。
「じゃあ早速、動きましょうか」
「ああ、うん。従兄上が帰ったら……」
「バックロウが居る必要はないわ、スタンダーさんかルジンダで大丈夫よ」
「どういう、こと?」
もともと、バックロウに頼るつもりはなかった。もちろんメイリーシャが動くためのサポートはしてもらうつもりだが、 彼はアルクトゥラスの婿としてメイリーシャを支えるだけで良いのだ。
今回ウォレンのために動くのは、アルクトゥラス家当主だ。多くの貴族は、ローウォルトが王位継承権を欲し、シャルンガーがその息子を勘当したと認識して居る。だからアルクトゥラス卿は、どちらにも属して居ない、云わば分裂した状態なのだと。
だがそれは違う。
アルクトゥラスの全権を担ってるのは、もうシャルンガーではない。王宮貴族領地の端に住んでいる、このメイリーシャ・レイ・アルクトゥラスなのである。だから彼女が動くことは、第2トゥラス、アルクの意思を伝えることに繋がる。
シャルンガーがメイリーシャに全権を与えたことを、誰も信じていないのだ。
それを知らしめるために、メイリーシャは動かなければならない。メイリーシャがここに居ることが正しいのだと、彼女が貫いて来た道は正しいのだと、認めてもらうために。
「今私を助けてくれるのに必要なのはルダウン=ハードク家の代表よ。ビネイルさんは既に継承権を放棄しているんだから、スタンダーさんか貴方でないと」
「──従兄上は何所に?」
「さあ、バックロウはバックロウなりに動いているらしいわ。それを待っていたら何もできないもの、行きましょう、ルジンダ」
「あ、でも従姉上」
また呼び方が戻ったと、メイリーシャはつい悲しくなる。だがそれを引きずっているわけにもいかない。今メイリーシャは当主としての仕事をし始めているのだ。
「行きましょう、ルジンダ。私、莫迦にされたまま、引き下がるわけにはいかないのよ」
変人と云われてはいるが、バックロウはとても強く優しい人だとメイリーシャは知っている。そのバックロウがあんな顔をするのを、メイリーシャは見て居られない。そしてバックロウを弱らせたナナリータを、絶対に見返してやらなければならないと、妙な意地が沸いていた。
そこへ侍従ハルガンが、少々困り顔でやって来た。
「メイリーシャ様、お忙しいところ大変申し訳ないのですが、我が当主から申し出がありまして……」
「バーアンドから?」
バーアンドは下流貴族で本来王族と関わりなど持たないが、ハルガンの実家である上、ルダウン=ハードク家からは近いため、メイリーシャは幼い頃から彼の家とは親しくしてもらっていた。気の良い当主を思い出して、メイリーシャは暖かい気持ちになると同時に、こんな時にどうしたのかと思わないでもない。あくまで下流貴族であるという心構えを忘れず、いつだって下出に出ているような人なのだ。
「ぜひメイリーシャ様にお会いして欲しい方が居るようで、恐縮ですがすぐにでもこちらへ伺いたいとのこと」
「すぐに?」
ご無礼をとハルガンは頭を下げるが、メイリーシャが気にかかるのは、あのご老人がそんな唐突な願いに出るほどの用事がどんなものなのかだ。
「バーアンドが良ければ、いつでも構わないけれど……そんなに急いでいるのなら私が向かった方が早いのではなくて?」
「いえいえ、アルクトゥラス当主が御自ら、それはとんでもないことでございます。メイリーシャ様、そろそろ細かいことであろうとも、当主としてのご自覚を持ってくださいませ」
自分が当主だという自覚は正にあるのだが、ハルガンの云う通り、細かいことになるとつい忘れる。病弱な引きこもりトゥラスと云われてはいるが、病気がなかったらナナリータと良い勝負を張れるほどの暴れ馬である。それはバックロウとの結婚の際、だいぶわがままを云って散々にわかったことだろうが、それを単なるわがままだと取られたままでいるのは、非常に悔しい。
ハルガンは生真面目な顔をして、暴れ馬の当主を諭す。
「病状が悪化されたら大変です」
「そこまで弱くないわ」
「いいえ」
長年世話をしていただけある、メイリーシャの身体のことであるのに、そうきっぱりと云われてしまっては流石の彼女も苦笑しか返せない。
「はいはい、わかったわ。すぐにでもどうぞと、良ければ召喚獣を飛ばして上げたいのだけれど」
「向こうが法術で書簡を寄越したので、すぐ返すことは可能です。ご心配なさらずに」
「法術で?」
はてと考える。バーアンドは気の良いご老人だが、果たしてあの家に今高値となっている法術師が雇えるかどうかは微妙なところだ。我が家のことと云えど、ハルガンも胸中は不思議でいっぱいらしい。
「とりあえず、返しておきますので、申し訳ございませんが、お時間を戴けるようお願い致します」
「ええ、こちらこそお願い」
不可思議ながらも久しぶりの客人が来ることに、メイリーシャの心は踊った。彼女には考えもつかないほど事態が進んでいたことなど、この時は思いつきもしなかった。




