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精霊物語─王太子の目覚め   作者: 痲時
第9章 回りだした時計
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第49話:国の心


 王都イシュタルにある王宮ムーン城。それは南の水無月門に一番近く、また客人を迎える迎賓館としても使われていた。グレアル・シュタインは珍客を迎え入れるために、久しぶりにそこまで足を運んだ。

「お久しゅうございます、シュタイン宰法」

 シュタインと目が合った途端、珍客は頭を下げてかしこまる。少しの間を置いて上げた顔は、少々疲れているようなものの生気が宿っており、近く50年目の生を受けるとも思えないほど、若々しさを醸し出していた。彫りの深い顔立ちは先々代当主に、がっしりとした体躯は先代に似ていた。


「久しいな、ゴウドウ」

 シュタインは小さく笑って、大人しく珍客を迎えた。

 ゴウドウ・ワアド・アティアーズ、現在アティアーズ家の当主である。

 アティアーズ家と云えば、少なからずとも王都では叩頭に値するほどの貴族だ。マルディ、セナと続いて王の侍従を拝命しており、王家とはかなりの昵懇である。王宮貴族が侍従などとおかしく思われるが、王からの信任厚く、他の貴族も上に出ることができない特別な理由がある。



 そんなアティアーズ家当主に呼び出されたのは、シュタインのほうであった。

「それで何用か」

「いえ、殿下の様子はどうかと思いまして」

「イーリアム城を出立した、という話は聞いているが」

 他には特に、とシュタインはかぶりを振る。ゴウドウは一瞬顔をしかめたものの、次の瞬間には気持ち悪いほどの笑みを浮かべていた。それはシュタインが見飽きているあの侍従長セナ・ロウズ・アティアーズとは似ても似つかない。二人を並べて親子と思う人は、誰も居ないだろう。

「我々アティアーズ家はシュタイン宰法並びに法術師諸君に力を貸すことにしました」

「ほう? なぜ、あのアティアーズが」

「それを申せば、イシュタル城に入れてもらえるのでしょうか」

「……そうだな、完全にエリンケ様を擁護するというのなら、考えないでもない」

 ゴウドウ・ワアド・アティアーズ。果たしてどのような使い道があるものかと、シュタインは既に頭を巡らせていた。


・・・・・


 スティーク・ド=レス・ダカンタトゥラスはその日、似合わないセラネートゥラス領を訪れた。

「ただいまー」

 ひょっこりと本邸広間の窓から顔を出せば、バラスターが顔をぎょっとさせた。こうしてちゃんとリアクションを取ってくれることがないため、逆にスティークが驚いてしまう。

「莫迦、おまえ……何をしているんだ!」

「あ、バラスター兄さんが慌てた。すげぇ貴重なもん見たからしばらく死なないなぁ俺」

「ふざけたこと云っている場合か! さっさと入れ!」

「あはは、済みませんねー」

 ひょいっと慣れた様子で中に入ると、バラスターは溜め息を吐いたものの、おそらくはヴァーレンキッドも同じことをしているのだろう。それ以上騒ぐこともしなかった。バラスターは常に呆れている表情しか見ないため、驚かせて出し抜けけたことが単純に嬉しいなどと、子どもっぽいことを思う。


「でも俺としては結構呼びましたけど?」

 ちゃんと玄関でねと付け足しながら、堂々とソファに腰掛ける。玄関から呼びかけて音沙汰がないからこうして窓から覗いたのだが、どうやらお気に召さなかったようだ。既に文句を云う気力すらないのか、バラスターは憑きものが落ちたかのように静かになる。もちろんそれがいつものバラスターなのだが、この温度差の激しさには毎度驚かされる。

「ああ済まない。少々ごたついていてな……」

「ごたつく?」

「ああ、その……セレナが、身籠ったらしくてな」

「へぇ……」

 別段おかしな話ではない、むしろめでたい話だったが、バラスターの態度にスティークは思わず目を細めてしまう。

「それはおめでとうございます」

 セラネートゥラス家の三女セレナ・ルックが、学友であり先代安寧王世代の王族であった、まだ新しい王宮貴族アネックス家の長男ベストーダ・ラージェルと恋愛結婚を果たしたのは、学院卒業後であるから18歳になる年のことだ。ルジェに通う令嬢というものの人生は高等部で卒業し、15歳で結婚、17歳で出産というのがお決まりの道である。セレナは大等部を出て遅れている上、結婚してからもう3年経つ。時期当主になる身として、そして現当主としてその報告は手放しで喜ぶところだ。


「ああ、ありがとう」

 しかし現当主バラスターは、何所かしらきまり悪そうだ。生真面目なことだと、スティークはやはり笑ってしまう。

「素直に喜んでやったらどうですか、跡継ぎですよ? ってあー、バラスター兄さんはセラネーに続いて欲しくないのでしたよね」

「別に続くのを拒むつもりはないが、続ける必要もないと思っていた。別段、反対はしていない」

 テーズランドは結婚していない、グローシアは不在、二女も三女も結婚したものの子どもは居ない数年が続いていた。孫ができることは素直に嬉しいのだろうが、彼の真面目な気質がそれを許さない。


 生真面目さから来ているのか、他に何か理由があるのか、おそらく両者であろう。

「シャンランのデージンだって去年3人目が生まれたばかりですし、レグルスアンドの野郎ですら3年前に生んでます。別に気にするようなことでもないと思いますけど?」

 安寧王11番目の子ゴルゴーデン・バン・シャンラントゥラスの長男デージンは、ウォレンと同い年ながら彼よりも早く結婚を果たし、既に子どもが3人居る。その3人目である二女フェルーネは無事に1歳を迎えたはずだ。

 それはまだしも、安寧王14番目の子レグルスアンド・バルド=サン・イリシャントゥラスに至っては、3年前37歳にして3人目を授かったのだ。兄弟姉妹が子どもを生むのは、8年前ゴルゴーデンの末男ロッグで、はたまた7年前ヴァーレンキッドの二女ユキノで終わりだと思ったものだが、甘かったらしい。もしかしたら触発されてまた誰か子どもを作るかもしれない。金を出し惜しみする身としては、勘弁して欲しい。

 まあ父である安寧王が60近くまで子どもを作ったのだから、たった40で文句も云えない。加えてレグルスアンドの三女ロードリアについては、スティークと云えど仕方ないと思える。のんびりマイペースな人物ではあるものの、家族愛が異常なほど強い彼はそれなりに傷を負っているらしく、二女ルーシアが大きくなって不安になったのだろうとスティークは勝手に想像した。


 とにかく、彼らは普通に暮らしているのだ。

 少なくとも、赤ん坊が生まれて罪悪感に沈むようなことはしていない。幾ら王が居らずとも、めでたいことはめでたいことで祝ってやって良いのだ。


「バラスター兄さんの仕事は喜んでやることですよ」

「スティーク……」

「報告はまた今度にします」

 よっと勢いよく立ちあがると、バラスターは深々と溜め息を吐いた。いつものような呆れた溜め息ではなく、自分で自分を落ち着かせるような、弱々しい溜め息。

「……いや、スティーク。今してくれ」

「そうですか?」

「ああ。……さっき診断が終わってわかったばかりで、私が取り乱していただけだ。マリークアントとテーズランドが付いているから、今は良い」

「わかりました」

 バラスターとはわかり難い男だと、またしても思う。

 だからスティークは彼が苦手で、あまり近寄らないようにしていた。だがこういうところが好きだった。生真面目でちゃんと情に厚い。王が居ないでごたついている王宮に、末女が不在のセラネートゥラス。こんな大変な時に、浮ついてしまう自分が許せないのだ。

 本当なら、嬉しいであろうに。

 もしかしたらこういうところも、安寧王ガーニシシャルに似ていたかもしれないと思う。



 スティークがまたしてもどっかり長椅子に腰かけても、バラスターは顔をしかめなかった。

「クロードバルト兄さん、居ましたよ」

「なにっ……!」

「至っていつも通り、腹立たしいぐらいにクロードバルト兄さんです。あのむかっ腹立つ対応はクロードバルト兄さんにしかできません、偽者でもないです」

「あのなぁ……」

 呆れたように溜め息を吐かれたものの、実際そうなのだから仕方がない。無意識に人を苛立たせる天才こそ、クロードバルトだと思っている。スティークはそこらへん、ちゃんと自覚があるのであれよりはましだと思っているが、周囲の目は似たり寄ったりだろう。

「どうやらムーン城とエメラルド城にそれぞれ、今まで通り暮らしています。ムーン城にはダズマリ、エメラルド城にはクロードバルト兄さん。たぶん残りはイシュタル城でしょうね。──えっと? ハードリュークとメリーアンだけか?」

「取られているのはショウディか」

「ギャラクスはも朝帰りしてたら危なかったでしょうね」

「あの莫迦息子は変に運が良いが使えないな。誰に似たんだ」

「僕ではありません、キッドですキッド」

 白々しく答えるが、バラスターはスティークをねめつけた。

 ダカンタから女遊び、バーテンから素行の悪さを受け継いだとされるのは、シャンラントゥラスの三男ギャラクスだった。厳格当主ゴルゴーデン、指導者長男デージン、総括者二男ズークラクトから考えるに、何をどうやっても聞き間違えかと思うのだが、まごう方なく彼はシャンランの三男なのだった。そしてそのシャンラントゥラスの二男に二女を嫁に行かせたバラスターは、残念ながら切っても切れない親戚関係がますます強くなっていると云える。



 それに比べたら関係の薄いスティークであるか、ギャラクスにダカンタの名で尾ひれが付いていることはまともに不服だ。ヴァーレンキッドはおかしなところで真面目さがあるから女遊びは推奨しないだろうし、間違いなく女を教えたのはスティークなのだが、敢えてそれは黙っておく。そんなことをばらしたら順序で一つ上の兄に殺されてしまう。近しい相手に殺されるのは嫌だ。しかもそれがゴルゴーデンともなれば、バラスターよりも恐ろしさは倍増する。


 グランが集めてくれた情報を付け足せば、スティークの仕事はひとまず終わりだ。次の命令を訊いてやっても良かったが、やらないといけないことができた。



「動くのか、スティーク」

 バラスターが一応尋ねたのは、スティークが関わると面倒なことになるからだろう。だが流石のスティークも、聞いた以上見過ごすことができないこともある。

「えー、あー、一応そのつもりです。ついでに立ち聞きしてきたんですが、やっぱりシュタインの野郎、バルト兄さんを殺そうとしているので」

 そう云えば云うの忘れていたと思ってさらりと云えば、バラスターは顔を青くした。今日のバラスターは表情豊かだと、どうでも良いことを思う。おそらく脳内に意味が知れ渡って何か云おうとしたのだろうが、その前にスティークは先手を打った。

「まあでも、俺が行かなくてもあの人簡単に死にませんけどね。暦門の中の薬草が栽培されている庭は出入り自由で、王宮薬師はイシュタル門の中に居るそうですから」

「あ……」

 その可能性に思い立ったらしく、今度こそ本当に、バラスターの顔から血の気が引いている。そういうところではやはり、この人はきちんと人の血が流れていると実感できる。


「やろうと思えばあの人、大量に人殺せるんですよ」

 クロードバルトは薬師だ。ただ素直すぎるが故に何もしなかっただけで、我慢が利かなくなったらきっと彼は自分の自由を得るために、簡単に人を殺して脱出するだろう。


 ──冬に、咲く。

 そう云って誤魔化しただけのあの空き地にいったい何が咲くのか、残念ながら追求することはできなかった。


・・・・・


 ケィス・アードルトはその日、いつもより軽やかな足取りで家を出た。走るように町の中を駆け抜ける間、おはようの挨拶をたくさんの人から受けて、返しながらいつもの私新聞屋の前へと辿り着く。少しばかり古ぼけた、安っぽいその店に勢い良く入ると大声を上げた。

「ベルーグおじさーん、おはよう!」

 中でばたばたと動き回っていた人たちがぴたりと止まり、その中でも大柄で縦にも横にも伸びた中年の男性ががははと大笑する。

「おお、ケィス。今日も元気だな!」

「これからカレンに手紙を出しに行くんだ。何か伝えたいことある?」

「あー、カレンちゃんかー……」

 ケィスとしては極めて明るく云ったつもりだったのだが、ベルーグは厳つい顔立ちには似合わないような淋しそうな顔をする。

「元気で、やってるのか」

「うん、お屋敷様の人も良い人みたいだよ」

「そりゃあ良い! だがまぁ年寄りの本音としちゃあ、そろそろ何所か裕福な家庭でも入って父さんと母さん養ってやって欲しいがね」

「だと良いね」

 ケィスは苦笑しながらも、否定せず受け答える。


 カレンの想い人は確かにお偉いさんだが、それがうまくいくかは正直微妙なところだ。だからこそ出て行くと云ったカレンに驚いたし引き止めもした。

 だが彼女は生まれ育った町よりも、彼を選んだ。

 そのことを少し淋しく思いつつ、あいつだったら仕方がないとも思う。




 ベルーグはがじがじと頭を掻きむしると、仕切り直すかのようにばんっと手を叩いた。それを合図にケィスの話を聞いていた全員が慌てたように動き出す。仕事しろ! の合図であると、ケィスは幼い頃からの付き合いで理解していた。


 ベルーグは山積みにされていた中から、一部の新聞を取り出した。

「おい、ケィス、これ今朝の新聞だ。持って行け」

「え、良いの?」

「ああ、ああ、一部ぐらいくれてやる。今回は飛ぶように売れているしな! 国新聞なんかに負けはしねぇぜ。──まぁ情報としては、少し遅かったけどな」

「ありがとうベルーグおじさん、太っ腹だね!」

 大笑しながら投げ飛ばされたそれを、ケィスは器用にも受け取る。

「まあめでたいからな、あの王太子が帰ったんだ。私新聞の中じゃあ、一番のネタだぜ!」

 すごいじゃん、と返したつもりの声はしかし、音声として出なかった。

 ケィスは渡された新聞の一面を見て固まった。文字通りそれを見た途端、思考も行動も何もかも止まって、その一点をまじまじと見てしまった。


 ベルーグの云う通り、それはイーリアム城に王太子が帰還し、宣下を行ったことだった。彼が主張することを細かにわかり易く書き、中央には演説する一人の男性とまた別に一人の女性の姿がある。珍しくカラーで書かれたその絵に、ケィスは引き寄せられた。



 そして次の瞬間、玄関から一気に駆け寄ると、新聞から目を離さないままベルーグに詰め寄る。

「……おじさん! これってバリーさんが描いたの?」

「え、ああ、そうだ。あいつがいつも顔は描いている」

「バリーさん、何所?!」

「中に居るぜ、徹夜だ」

「ちょっと、ごめん!」

 慌てて普段は滅多に入らない奥へ向かうと、ベルーグと正反対に縦にも横にも小さい中年の男が机でぐったりとしていた。




「バリーさん!」

「……おお、ケィス。朝から元気だね」

 ケィスの大声に顔をしかめながらも、柔らかく挨拶をしてくれる。基本的に優しい人なのだが、徹夜明けはあまり機嫌が良くない。だから普段は話さないようにしているのだが、今日ばかりは構っていられなかった。

「この新聞の人、誰?」

 思わぬことに、自分の声が震えていた。

「──はぁ、誰って殿下じゃないか」

「……でん、か」

「王太子殿下帰還と王座奪還の宣言だよ、殿下と……新しい精霊召喚師だな。実際に見たものだ」

「……王太子、でん、か」

 あまりの事の大きさに、ぞくりとした。

 彼が来ていた日。

 彼が去って行った日。

 あれはいつのことだったろうか。ルジェストーバに通い、ルダウン=ハードク家を下に見られる家。普通に考えて、そんな名家はたくさんない。どうしてか、頭が回らない。


 ただ、ケィスにはその絵から思い出される彼との思い出しか出てこなかった。

 紺に近い黒髪、すっと伸びる鼻筋にほっそりとした顎の端正な顔立ち。それをすべて魅惑と足らしめている、力強い桔梗の瞳。絵でもその人相がよくわかった。髪も背もぐっと伸びて時の流れを表しているが、それでもケィスは一目見て彼だと理解できた。





 あまりことに放心していると、流石のバリーもおかしく思ったようだ。へたりと力なくその場に座り込んでしまったケィスに駆け寄り、心配そうな顔を向ける。

「おいおい、ケィス。大丈夫か?」

「だい、じょうぶ……」

「あ、ケィス、居た居た。店に行ったのに居ないから……」

 ケィスがなんとか答えたそのすぐ後に、場違いな明るい声が響いた。この24年、ずっと聞いて来た幼馴染の声を聞いても、今は立ち上がる気力がなかった。そんなケィスを見て、訪れたレガー・グルドレイは顔をしかめる。

「どうしたんだ、ケィス」

「レガー、ちょうど良かった。大声で乗り込んで来たと思ったら、今度は黙りなんだよ」

「ケィス?」

 レガーはそっと近寄ってケィスの顔を覗き見るが、彼女はそれを振り切るようにかぶりを振って、震える手で新聞を渡す。

「レガー……これ、見た?」

 云って新聞を渡す自分の声は、やはり震えていた。いつも男っぽくて気丈なケィスが動揺するほどのことだとレガーも察してくれて、黙ってケィスから新聞を受け取り、それをじっと見つめる。彼の表情に、変化はない。

「レガー?」

「おいおい、おまえたち店ん中で騒ぎは……」

 流石に不審に思ったのか、店から奥へと入って来たベルーグに、レガーは小さく頭を下げると、新聞を持ったまま黙って出て行った。

「レガー?」

 慌てて立ち上がろうとして少しふらついたものの、なんとか立ち上がってレガーを追いかける。彼はケィスのことなどまるで気にせず、ずんずんと慣れ親しんだ道を歩いて行く。向かった先にケィスはあっと息を飲み、ようやく辿り着いた時も黙って彼に付いて行くことしかできなかった。

「ラリード!」

「──朝っぱらから元気だねぇ、おはよう」

 扉を蹴散らすかのように入って来た幼馴染に、ラリード・サッスンはしかし気にもせず朝食を続けようとする。しかしそれを遮るかのようにレガーは無断で中に入ると、

「ほらよ」

 と新聞を投げるように卓へと放り出した。




 それからぐっとかがみ込んで座るラリードに視線を合わせると、

「エースが王太子殿下だって、いつから知っていた?」

 レガーのものとも思えないような、低い声が響き渡る。どくんと心音が早く聞こえたのは、気のせいではないだろう。一つは自分が驚いてしまったことが事実と認められたこと、そしてもう一つは、ラリードがとっくにそれと知っていたこと。



「……10年前だね」

 ラリードはそっと溜め息を吐きながら、放り出された新聞を見つめて云う。その答えにケィスはまた身体が震えて力がなくなりそうになるのを感じ、ぐっと堪えた。

「最初確信はなかったよ。ルジェに通っているって時点で凄いなぁぐらいにしか。でも精霊を使い、アセット家の令嬢に慕われ、ルダウン=ハードク家を下に見るって相当でしょう」

「……だから、あんな必死にカレンを止めたの?」


 ──エースを、捜したいの。

 カレンがエースを探すため、下町貴族へ奉公に出ると決断した時。ケィスもレガーも止められなかった。彼女がエースを慕っていたことは知っていたし、彼らも突然連絡の取れなくなった友人がどうしているかは気になっていたのだ。

 しかしいつも冷静で穏やかなラリードは、真剣にカレンを思い留まらせようとした。それを振り切って家出同然で出て行った彼女とは、それ以来ラリードとは音信普通だ。カレンもラリードも自分は悪くないと主張する。そしてケィスも、二人共悪くないとは思う。確かにいきなり居なくなった一人の男を探す為に出て行くのは無謀だし、ラリードが心配して止めるのはわかる。だがカレンはカレンで女中として立派に働いている。どちらもどちらだと思ったのだ。ラリードの気持ちがこれほど真剣なものから来ているとは、つゆ知らず。


 ラリードは苦い笑みを浮かべる。

「だって無謀でしょう。ただの王都屋敷の女中が捜せる相手じゃないよ。それに彼には、たくさんの縁談話が舞い込んでいたんだ。どちらにしろ、カレンは傷付くだろう」

「カレンに教えれば良かったじゃない」

「教えたところで、信じないよ。そんなの嘘だよって云って結局大河を渡ったさ」

 だってカレンだからと続けられた言葉には、長い年月を共に暮らした深みがある。もう一人の幼馴染、カレン・ルナンベスという人間をよく知る二人は、それに対する言葉が思いつかずに黙り込んだ。




 静まり返る一階とは裏腹に、ばたばたと上で賑やかな物音がした。「もう駄目でしょ!」と子どもを叱る妻の声が響いている。あれがラリードの日常で守ろうとしている日々だ。カレンにも同じように、幸せになってもらいたいと思う彼は、あまりにも優しすぎる。優しすぎるからこそ、カレンを引き止めることができなかった。

 ラリードはそっと新聞から目を離すと、ケィスを仰ぎ見る。

「カレンはもう、知っている?」

「あ、えっと、でもこの間の手紙に王太子殿下が帰還されてって書いてあったけど、エースは相変わらず見つからないって……」

「気が付かないかもしれないね。私新聞が今日発行されたと云うことは、国新聞はもっと前に発行されているはずだ。お屋敷では新聞なんて毎日ちゃんと買うだろう。だけど国新聞がどうなっているか、僕らにはわからない。──でもいつかは、知らないといけないことだってわかってはいたんだよ」

「そうだね……」

 長年溜め込んでいたラリードの辛さを思えば、ケィスはただそういうことしかできなかった。



 珍しく黙っていたレガーがすっと背筋を伸ばすと、何かを決意するかのように口を開いた。

「ラリード、俺は殿下を、いや、エースを応援する」

 ケィスが驚いて彼を見るも、まったくレガーは頓着しない。

「あいつの顔、忘れられないんだ。特にたまに愚痴った時の、あの辛そうな顔」

 云われて思い出す、エースと云う少年の、時折見せる翳りを。カレンもそれを心配して、しかし何も相談してくれない彼に焦れて喧嘩することもあった。彼はいつでも笑っていたものの、ふとした瞬間に諦観したような目を見せる。

 そしてたまに本当に気分が悪そうな時、ぽつりぽつりと自分のことを話し、

 ──ごめん、愚痴だった。

 と最後には笑って済ましてしまう、諦め顔。


「俺らには俺らで貧乏の苦しさがあるけどさ、あいつにはあいつで別の苦労がある。華やかで羨ましいぐらいにしか思っていない、俺たちにはわからない苦労が」

「居なくなったのも、それが理由?」

「違う、14歳になったからだよ」

 ラリードが間髪入れずに云うので、小首を傾げるケィスに、彼は少し困ったように笑う。

「調べたから知っているよ、殿下のこと。カレンが最後に会った日の翌日、太子宣下が下されているんだ」

「あ……」

「彼なりの王太子殿下としての、けじめだったんじゃないかなって僕は思ってる」


 ──手に入らない、尊いものだからじゃあないか。

 カレンからの又聞きでしかない、その言葉を思い出す。カレンたち庶民の暮らしを、彼はそう評したと云う。そう評した後、彼はしばらく姿を見せず、そのまま今に至って居る。



 突然現れた貴族の少年は、道に迷っていた。案内したカレンに礼をしようと戻って来て、それから気まぐれに遊びに来てくれた。彼は給金のもらい方もお金の使い方も買い物の仕方も、何一つ知らなかった。だが一つ知る度に興味深そうに頷いて笑うその顔に、誰もが好感を持った。そうしているうちに時は流れて、彼が来る回数がだんだんと減り、そして彼は突然居なくなったのだ。



「どうして何も話してくれなかったのかな」

 ケィスとしては無念が付きまとう。王太子殿下だからと云ってエースはエースだった。みんなの好きなエースだ。だがそれでも、彼はすべてを語ってくれなかった。レガーはしかし、

「でも俺は、あいつなりに話してくれたと思うんだ。嘘を吐かないで、真実を」

 ルジェストーバに通っていること、剣術が楽しいこと、従弟が強いこと、剣術を諦めたこと、友人を連れて来たこと、今度縁談をすること。思い出せばエースは、小さなことだったものの、それなりに多くを語ってくれていた。隔離された世界である王宮と云う名の元で過ごす、彼なりの真実を。そうだねと肯定しながらも、ラリードは苦笑する。

「話してくれた方が、カレンにとっては良かったと思うけど」

 エースを捜して出て行ってしまったカレンは、相変わらず嫁にも行かず女中仕事をしている。

「でもたぶん、エースもいろいろと悩んだと思うよ。云うべきか云わないべきか、上に立つ人ってたくさん考えるでしょう。自分のことだけではなく、云ったことで回りに与える影響とか」

 幼等部から学校に通っていたケィスやレガーと違い、ラリードは学校へ行っていた年数が短い。中等部からサッスン家へ養子入りして来た彼は、それまでの生活を多く語らない。それでも彼の思考は非常に柔軟で広く、ケィスが思いつかないような客観的な見方ができる。彼が教師として仕事をしていられるのも、そういう頭の良さがあるからなのだろう。貴族関連に詳しいのは、他家の養子に入り王族と結婚した実弟のためだと思われるが、最近はその話も聞かない。もしかしたらエースの情報はそっちからラリードに入っているのかもしれない。カレンに遠慮をして口にしていないだけで、ラリードはいつだってみんなのことを考えている。




 そんなラリードと、レガー、カレン、そしてエースと過ごした日々を、ケィスは今も忘れていない。あの時のために何ができるかと思ったところで、ラリードが突然、口調を和らげた。

「エリーラ、いつまでそこに居るつもりだい?」

「あ……」

 えへへっと扉の向こうに隠れていたエリーラは、くるくる回りながらラリードの前に出て来た。金色のくせっ毛がふわりと広がり、隙間から見えた大きな瞳は母譲りだろうか。

「さっきからどたどた足音が聞こえると思ったら……」

「ごめんなさーい、でもね、お母さんが内緒だったら良いよって」

「内緒を話したら内緒じゃなくなるじゃないか」

「あ、そっか」

 くすくすと笑いあう父子を見ていると、とても落ち着いた心持ちになる。父との会話が終わると、少女はぱっと目を輝かせてレガーに飛びついた。

「おはよう、レガーお兄ちゃん!」

「おお、いっちょまえに盗み聞きとは悪い子だな、おまえは」

 ぐりぐりと頭を掻き回すと、エリーラはさっと身を翻してぷぅとふくれる。

「子ども扱いしないで、エリーラ、もう8歳なの、レディなのよ」

「はいはい失礼しました、エリーラお嬢様」

 驚くまでに成長したエリーラ・サッスンは、どうやらレガーに初恋とやらを奪われたらしい。にやにやと笑ってからかっていたものの、最近はケィスも口を出さない。何か云った途端に、またレガーに冷ややかな目で見られるのが怖かった。ケィスとしては軽口を叩いていた方がとても楽だったのに、それすらできなくなっている。


 ケィスの心情など知るはずもないエリーラは、満面の笑みを浮かべている。

「じゃあ今度、一緒におでかけしよう?」

「え、ああ良いけど、一旦畑戻らねぇと親父にどやされちまう」

「あ、じゃあエリーラも一緒にするっ!」

「だーめ。この間無断でやらせたら、俺がラリードに殺されかけたんだから」

「大丈夫だよ! だってエリーラは7年もしたら、レガーお兄ちゃんを手伝うんだから。結婚して一緒に畑仕事するの、そしたら良いでしょ?」

「かわいい嫁は歓迎するけど、俺ラリードの息子になるのは嫌だなぁ」

 何所からどう見ても親子が兄妹にしか見えないのだが、エリーラにはフィルターがかかっており、レガーの嫁は自分しか居ないと信じ込んでいる。いつからそう云うようになったのか、ケィスも覚えていない。元気なおてんば娘が急に色気づいて自分の幼馴染に惚れてしまうなど、父親としては頭が痛いだろう。


「レガーが息子とか、冗談でも嫌だよね……」

「あのなぁ……、だったら娘の見る目を養え」

「そうだね。止めといた方が良いよ、こんな男にエリーラはもったいない」

「おい、こら! 少しは柔らかく云え!」

「柔らかく云ってこれぐらいだよ。ね、ケィス、レガーにはエリーラじゃあないでしょう」

 いきなり話を振られてケィスが驚いた顔をすると、レガーはすっと表情をなくす。今の今までエリーラに笑顔を振りまいていたレガーが突然無表情になると、とてつもなく怖くなる。

「え、あーそうかな? ──えっと、あたし……ベルーグおじさんに謝って来るね!」

 その場に居るのが居たたまれず、ケィスは脱兎のごとく逃げだした。


 生まれ育ったこの町が大好きだ。下町と云われようと、スラム街が近かろうと、生まれ育ったこの町にはもらったものがたくさんある。周りは結婚して嫁いだり、家業を継いで自立しているが、それでもケィスは自分の家を離れられなかった。

 カレンが居なくなる時に止めたい気持ちが少しでもあったのはきっと、この環境がなくなってしまうことを恐れたからだ。ケィスとレガーで莫迦を云い、ラリードがたしなめてカレンが場を和ませる。四人の幼馴染はそうやって一緒に生きて来た。だがカレンが去ってラリードが結婚し、なくなりはしなかったものの周囲は変容していった。しかしケィスの心はいつまでも子どもで、なかなかそれに付いて行くことが難しい。


 何かが変化することを恐れてしまう自分に嫌気が差しつつも、まだうまく制御ができない。できることならもう少し、子どもで居たい。カレンのエース探しが見つかるまでは、私もまだ──。そう思っていた部分があったことに、我ながら嫌になる。

 ベルーグに謝りに行く足取りは、先ほどとは真逆にただただ重たかった。


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