第37話:王太子ウォルエイリレン
それはまだ、年が明ける前のこと。イシュタル歴498年師走の頃まで遡る。
レイシュ町の入り口で倒れていた一人の怪我人を保護したと聞いた、エトル領主ガーランダとエトルにあるイーリアム城城主イーリィは、詳しい事情を聞くためにすぐ彼の元を訪れた。幸い怪我は大したことはないようで、外傷は見たところ包帯を巻いた腕だけだ。彼は起き上がって寝台の上から外の景色を眺めていた。
「失礼」
扉を開けても彼がこちらを向かなかったので、イーリィが声を出した。それでも怪我人は振り向かず、じっと窓を見つめていた。海岸に近いイーリアム城はここから弥生祠と、薄らだが遠い東の大陸が見える。先代がずっと守って来た、美しいイーリアム城の宝である。
「休んでいるところ済まないが、事は急ぐ。話を聞きたいんだが、容態は大丈夫かな」
「……ああ、別に。傷は大したことではないから」
聞いていないと思っていたが、相手は小さな声でしかしはっきりと答えた。相も変わらずこちらを振り返らないので、イーリィは失礼だと思いながらもずかずか部屋に入り込んだ。反してガーランダは、黙ったまま戸に背を預けている。イーリアム城に運ばれた限り、イーリィの仕事だと分をわきまえてくれたのだろう。
イーリィは一つ咳払いをすると、少し間を開けて寝台の横に立った。
「レイシュ町に居たというが、それに間違いはないか?」
客人は質問に答えずしばらく黙っていた。さっきから彼は助けてくれたことに対する詫びも、挨拶すらもなしだ。流石のイーリィもしびれを切らしたちょうどその時になって、彼はいきなり寝台から降りて彼らの前に頭を下げた。
「申し訳ないが、頼みがある」
突然のことにぽかんとしてしまって、イーリィは口を挟めなかった。虚を突かれたのはガーランダも同じらしく、寄りかかっていた扉から離れたようだ。キィと鈍い音がして、扉が静かに閉じる音がした。
その間にも、無礼な怪我人は続ける。
「もしまだ無責任なウォルエイリレンを信じているのならば……」
しかし流石のイーリィも、そればかりは聞き逃せなかった。腰元に手が行きそうになるのを抑えながら、彼にしては大きな声で叫ぶ。
「幾ら怪我人と云えども、王太子殿下に失礼な物云いは……!」
「──安心した」
もし怪我人でなかったら、その前にもっと何かを云っていたら、流石のイーリィも手を出していたかもしれない。それほど激昂した。しかしそれに対して、彼が漏らした感想はそれだけである。ぽかんとしているイーリィに頓着せず、彼は今までの小さな声ではなく、やけにはっきりとした、しっかりと地に着いた声でよどみなく話し始めた。
「レイシュ町で見習い召喚師が法術師に襲われていた。海岸で襲撃されてはぐれてしまったから所在は知れないが、うまく行っていればおそらくこちらに向かっているとは思う。至急彼女を助ける準備をして欲しい」
「見習い……召喚師?」
先ほど聞いたばかりの情報だが、唐突の豹変ぶりにイーリィはすぐ付いていけない。しかし男は相変わらず頭を下げたまま続ける。
「王太子を信じているのなら、彼女を助けて欲しい。彼女がこの国の救いなんだ」
「ウォルエイリレン殿下が玉座に即けるのなら、私たちは何の苦労も惜しまない」
黙り込んでいたガーランダが話さないイーリィの代わりとばかりに口を開いた。どうやら実り有りと判断して、動けないイーリィの代わりに話を進めてくれる。こういう時に自分の若さを不甲斐なく思う。
「とりあえず彼女を助ければ、何らかの突破口があるのだろう?」
「もしまだ王太子を、玉座に就けたいと思っているのなら」
「……手配しよう、イーリィ。ケーリーンの連中に見つかったら、せっかくの糸口が全部シュタイン宰法に回ってしまう」
イーリィは含みのある口調にどうも素直になれなかったが、ガーランダはそれがウォルエイリレン王太子殿下の得になると知れると即座に動いた。そうだ、今は迷っている場合ではない。
イーリィが自分を叱咤し頷いて、近くの部下を呼びつけ早速手配をする。事が終わってイーリィが戻ってくれば、相変わらず頭を下げていた男が、
「助かった、ありがとう」
感慨深く云ったかと思うと、そこでようやく二人の前に顔を上げた。
少しは髪が整えられていたら、無精で伸びた髭がなかったら、すぐにそれと気付いたろう。しかしイーリィはその顔をじっくり見なければ、彼だと気が付かなかった。しかしイーリィとガーランダを確と見つめるその桔梗の瞳で、即座に彼だとわかった。重苦しい沈黙が続き、やがて彼が口を開いた。
「──遅くなった上心配をかけ、失礼な発言を済まなかった」
イーリィはしかし彼だとわかっても、言葉を紡げずに居た。どんなにこの日を待ちわびたことだろうか。何度もこの日のことを考えては、もう一生ないのかと打ちひしがれたこともあった。だが今その現実に直面して、あまりの嬉しさに、あまりの現実味のなさに言葉が出せなかった。
カタンと、後ろでガーランダが動く音がした。
「──無事のご帰還、何よりです。ウォルエイリレン王太子殿下」
普段冷静なガーランダの声も、若干掠れていた。それに目の前の彼は頷いて、弱々しく微笑んだ。
「ずるいことをして来て悪かった。例の見習い召喚師を法術師が攻撃していた所為もあって、怪我人のふりして倒れているのが、一番危険が少なく速かったんだ」
そう云って話す声はそう、間違うことなどない。ずっと待ち焦がれていた。
しかし尚も立ち尽くすイーリィに、その男は苦笑して云う。
「イーリィ、どうした。──役立たずの王太子にようやく愛想を尽かしたか」
イーリィはやはり声も出せずに、ただ不適に笑うその主君の顔を見上げるばかりだった。
本当に、こんな日がやって来たのか──。
さっきまで絶望に打ちひしがれていたというのに。さっきまで諦めかけていたというのに。
イーリィはようやくにして、弱々しく膝を折って、その場に叩頭する。
「お帰り、お待ちしておりました」
声は掠れていた。だがそれでも、イーリィは今までの分を絞り出すかの如く続けた。
「ずっとずっと、お待ちしておりました」
「……イーリィ、もし望むのなら殴って良いぞ」
「何を仰いますか! 私は、私は……この日を、待ちわびておりました」
イーリィはそこで顔を上げた。そこには相変わらず覇気の強い、桔梗の瞳が彼を見下ろしている。そう、見下すのではない、優しく見下ろしているのだ。
「ご無事で何よりでした、ウォルエイリレン王太子殿下」
「ああ。イーリィ、ガーランダ、本当にありがとう」
男は、怪我人は、いや、ウォルエイリレン・エース・イシュタルは、そこで静かに微笑んで頷いた。
「他にもこんな役立たたずの俺を支持し続けてくれている辛抱強い奴は居るのか?」
「ええ、減ってはおりますが、仲間は居ます。 殿下がお帰りになられたことを伝えれば、おそらく増えると思います」
「そうか。……二人共、立ってくれないか」
当初は渋ったものの、後ろでガーランダが立ち上がった気配を感じ、イーリィも渋々立ち上がる。
「こんなことを云うのは、一回だけだ。何も云わず聞いてくれ」
二人の臣下は文句なく頷いた。
「この4年間、俺が何をしていたとしても逃げたと思われるだろう。。から俺は、俺なんかが王になるのは間違っている気がしてならない。だがそんなことを云ったらと、おまえたちは憤るのだろうな。俺は自分が血筋だからだとかいう理由で玉座を目指さない。逃げ出した王太子なんて、許してくれないだろう。ただ俺を信じてくれた人々の為に、玉座を目指そうと思う」
そこで彼は、二人の臣下をその強い桔梗の瞳で見つめた。
「こんな俺に、ついて来てくれるだろうか」
「喜んで」
「何を云わなくとも、貴方は私たちの主君です」
「変わらない二人に会えて、俺は嬉しいよ」
ウォルエイリレンは一歩足を踏み出すと、そっと手を差し出した。動揺するイーリィに、しかし彼は無言のまま彼を見つめる。イーリィは頭を下げてからその尊い手を取り強く握った。この手があれば、なんでもできる。そう思ってしまうほど、それはイーリィにとって多きな意味を持った。
手を結んだ後、ガーランダは静かに口を開いた。
「それでは早速動きましょう。さっきの見習い召喚師のことですが、ちょうど私たちもその話を聞いて、不審に思っていたところなのです」
「……その話をするにはまず二つ、伝えなければならないことがある。まずはシュタイン宰法を主にした法術師が、あの戴冠式の日、俺に謀反を起こしたということ」
「謀反」
このアリカラーナに不似合いなその言葉に今まで以上の不穏な空気を読み取り、イーリィは気を引き締める。この国がこの国たり得ているのは初代アリカラーナの血縁がこの国を治めるためであり、だからこそ人霊によって守られる。ずっとそう信じられていたからか、この国で謀反を企むような歴史はあまりない。あまり、というのが残念なところではあるが、あったとしても王族同士でのいざこざなのだ。
「陛下が亡くなられてから、何所となくおかしな空気はあった。あちこち伏線を張ってはいたものの甘かったようだ。今はまだ話せないが俺が数年姿をくらました理由にも問題がある。……これはまた、後に必ず全員に伝える話だから待っていて欲しい」
今はまだ話せないというその言葉だけで、この4年間待っていた甲斐があったとイーリィは思う。彼がなんの意味もなく4年もの間国を放置できたとは思えない。それだけの理由が必ずあると信じてはいた。だがあまりにも長すぎるその時は、なかなかうまい理由を作り出せずに居た。ガーランダも同じ思いなのか、特に反対の声は上がらない。当然と云えば当然だ。
「もうひとつ、は……」
ウォルエイリレンはそう云いながらも、なかなか口を開こうとしない。逆に唇を噛み締めて、そのまま言葉を飲み込んでしまいそうだった。だが自分を奮い立たせるように、彼は毅然と顔を上げてイーリィたちにその重たい一言を告げた。
「ルウラ・カルヴァナが、死んだ」
そしてそれがもたらした波紋は、小さくなかった。イーリィは情けなくも、また声を出せない。
「推測の域を過ぎないが、たぶん確実だろうと思う」
淡々と続けるウォルエイリレンは無表情だった。
「俺が集めた情報の限りだと、そう考えるのが妥当だ。あのカルヴァナがこんな状況でこもっているなんて有り得ない、なんらかの手を尽くすはずだ。たぶんそのあらゆる手が失敗して、最後の手段だったのだろう。──カルヴァナはおそらく、自害したんだ。そうすれば精霊が蘇り新たな精霊召喚師が選ばれる。結果法術師の謀反は明らかになり、少しは信頼のない王太子の風当たりも良くなる」
「──カルヴァナ宰喚が……亡くなられた」
「まったく、カルヴァナらしいことをしてくれるよな」
「では殿下、今追われている召喚師というのは……」
「そう。彼女こそ新しい精霊召喚師だ。だから法術師は彼女を狙っている。殺すことではなく、捕獲することに意味がある。法術師の膝元に置いておけば、精霊を眠らせて法術師は潔白だと云うことになる。そのうち人霊が起き上がらないことが問題になり、やがて精霊召喚師という地位がなくなる。人霊に頼らず法術師が四季を与えることになるだろう。──今のように」
「……今も法術師が四季を? しかし四季は問題なく……まさか……」
そういえば農作物がなかなか育たないというような話と共に、気候の安定しない時があることが話題にもなった。イーリィは人間の割にすぐその可能性に思い当たり薄ら寒くなる。
「そう、禁忌魔法だ」
「シュタイン宰法が、そのようなことを……」
ウォルエイリレンが頷くと、後ろでガーランダも驚きを現した。
「彼女はなぜ狙われているのかすらわからず逃げていた。だから師走祠に行くために海岸まで連れて行ったんだが、そこで油断したか襲撃を受けて分かれてしまった」
「それでは今、その方は何所に?」
「……わからない。うまく行って師走を目覚めさせていれば、こちらに来るだろうが、レイシュからエトルに来るには、あのケーリーンを通らなければならない。捕まらなければ良いが、人霊だってうまく目覚めさせても二人だ。あまり力がない」
「早く行方を追わなければなりませんね」
「そう。──法術師は彼女を追っていた。その時俺は彼女と行動したから、俺が戻って来たことも既に突き止めているだろう。そして俺が今王座を目指したところで、大して同士が集まらないことも知っている。だからこそ、この精霊召喚師の存在は彼らに取って致命的だったはずだ。精霊召喚師が居るとなれば、民だって法術師の謀反を信じないわけにはいかなくなる。彼女こそ、俺たちにチャンスをくれる唯一の存在なんだ」
「かしこまりました。さらに人員を割いて、彼女を捜索します」
「頼む。──何があっても彼女は助けたい。俺の所為で巻き込まれた犠牲者とも云える立場だからな……」
彼はただただ、そのことを憂えている様子だった。
・・・・・
朝議と朝食まで済ませてから、ようやく応接室に落ち着いて人霊やイーリィに、アリスとウォレンの関係を説明することができた。
「殿下、そういった重要なことはきちんとおっしゃってください。様々なことが一度に起きて、アリス・ルアはただでさえ混乱していらっしゃるのに……」
困惑したアリスに同情したのか、イーリィが主君を少しばかり冷ややかな目で見る。それに対してエースことウォルエイリレンは頭をぽりぽりと掻いて、昨晩同様、殊勝に頭を下げる。
「いや、だからすまなかったと思っている」
だがアリスはアリスで大して気にしていなかった。「王太子」という名の元に隠れたその存在が、アリスは気になってしかたなかった。人霊たちをあんなにも虜にする人物とはいったいどんな人なのだろう、そういった純粋な興味からだった。そんな人物がどんな国を興すのか興味があった。
「アリス」
「ん?」
「それで、おまえは俺に付いて来てくれるのかな」
きょとんとしてウォレンを見つめた。それは周囲も同じ気持ちだったらしく、イーリィがおもしろいぐらい目を丸くしている。
「どうして急にそんなこと?」
「確認だ。──おまえが精霊召喚師であろうと、付いて来たくないと云われればそれまでだからな。加えておまえは俺の所為で被害を被ったわけだ。俺を憎んでも良い位置に居る」
「殿下……!」
「──意地の悪い奴だな」
イーリィが思わずと云った風に立ち上がったが、アリスは気に留めることなく答える。人霊たちも顔を固くしてウォレンを見ている。まさかそんなことを云うとは思わなかったのだろう。
だがアリスには見えていた。ウォレンがアリスに何を云わせたいのかも、何を見ようとしているのかも、すべて見え見えだった。
「幾ら何を云っても、私は付いて行くと決めた。だからここに来た。そう云ったはずだ」
「そうか」
ウォレンはそう答えただけで、今の無礼に謝ろうともしなかった。アリスはそれがなんとなくおかしくなって、思わず笑ってしまう。
「エースの欠点を見つけた」
「ん?」
「そうやって全部、自分だけで片付けようとするんだな。エース一人だけでは、今まで犠牲になった人々を助けるなんて不可能だよ」
ウォレンは表情こそ変えないものの、桔梗の瞳が若干揺れ動いた。それがアリスの云っていることを、事実だと認めている。それはずいぶん、素直な反応だった。
「犠牲になった人々を助ける手は、王になることだ。それしかない。そしてそのためには、多くの人手が居る。──いい加減それを認めた方が良い」
ウォレンの口元が動いたが、何もせずにまた閉じられた。本当は悔しさに唇を噛み締めたい思いなのだろう。だがアリスはそれを抑えるように、その気持ちを否定しないよう、ゆっくりとその無表情に云い聞かせるよう話した。
「だがそれは、何も悪いことではないはずだ。迷惑をかけたと思う者たちは、最後まで巻き込んでしまえば良い。もちろんその間に命の危険にさらされることもあるだろうがそれも覚悟の上だ。最後まで行き着いたときに迎える気持ちは、決して嫌なものではないだろう」
「──参った」
愉快そうに笑った後、ウォレンはアリスを真っ直ぐに見遣った。
「ありがとう、アリス。おまえが居てくれて、こちらはとても助かっているんだ。おまえの真意を疑ったわけではない、ただおまえが何を云うのか興味があったんだ。試すような云いかたをして済まなかった」
「──誓約する」
アリスが力強く即答すると、ウォレンはまた無邪気に微笑んだ。
聖職者に取って契約が命を賭けた絆だとすれば、召喚師に取っての誓約がそれに当たる。ほとんどは王師近衛隊の召喚師が王への誓約へ使う言葉で、神聖視されるべきものなのだが、それに誇りを持つ気持ちを誰でも持てと云うことなのか、召喚師での約束の最上級は誓約だ。
約を誓う。自分の力をくれる人霊に、それを束ねる精霊召喚師に、そして自分の仕えるべき主に自分の術師としてのすべてを賭けて信頼すると誓うこと。それは召喚師に取って決して軽く口にできる言葉ではないが、アリスは自然とそう答えていた。もう、ここに来て、彼がそうなら、決まっていたことなのだ。
──必ず、迎えに行く。
何度も思い返しては元気をもらった言葉を思い出し胸が痛んだが、かぶりを振って追い払った。
場が落ち着いたところで、ウォレンはさてと仕切り直すように手を軽く叩いた。
「念願の精霊召喚師様が協力してもらえることになったから、俺たちは次の行動に出なくてはならない。ガーランダには所用を任せたが、アトーヤ、その後の状勢を教えて欲しい」
「は」
応接室の端に控えていた老爺が、しずしずと前に進み出た。ほっそりとしているが背は高くしゃんと背筋を伸ばしているからか、その堂々とした気風には気圧される。年齢はかなりの上であろうが、ただの老人ではない雰囲気が漂っている。アトーヤ・ハ・レスタはイーリアム城城主を支える軍師である。彼は元々ケーリーンの法術師であったが、ケーリーンとエトルでもめ事が起こった時、法術師のやり方に反発し追放宣告を受けた。それをイーリィの前の城主ヴェスタイン・エイグラーが、王宮と協力して権力を行使し、国外追放を取り消させイーリアム城の軍師に抜擢したのだ。以来彼は、ここの城主という城主に命を預けて働いている。
このような説明はすべて睦月がしてくれた。彼女の淡々とした説明で、アリスは周囲で当たり前のように済んでしまうわからないことを、なんとか必死に覚えていた。法術を意図せず使ってしまわないよう努力しながら覚えるのは、身体に染み付いてしまっているからか難しいことだ。
「ケーリーンの兵たちはひとまず城に戻ったようで、王都からの指示待ちでございます。エトル側のカーレーンの森で幾らか見張っているものが居るようですが、問題にするほどのことではありますまい」
「そのカーレーンの森の奴らは使えるのか?」
「今は様子を見ているだけでございます」
カーレーンの森はレイシュ町南から、ケーリーン、エトル、その南サトレイガまで続く大きな森である。王都イシュタルから東にある町を、さらに二手に大きく分けているのがこの森だ。アリスの故郷であるアスルとケーリーンの間から始まる森で、これが長らく法術師から召喚師を守ったとアスルでは云われている。最もケーリーンでは法術師を召喚師から守ったと云われているのだろう。複雑だがアリスにはそういう理由で馴染みのある森だった。アスルの子どもは幼い頃からあの森の先へ行ってはいけないと云い聞かされて来た。
そのカーレーンの森はエトルの西にあるのだが、どうやら敵はそこで状況を見ているようである。エトルとケーリーンの境には河が流れているために、他に目立たず城を監視できる場所がないからであろう。ここからカーレーンの森は少しばかり遠い。おそらくは法術師の力を存分に発揮しての仕事なのだろう。
「どう思う、イーリィ」
「今動くのは危険だと思います、もう少し待つしかないでしょうね、せめてエルアームからの返事が来るまでは待つべきだと思います」
「だろうな」
下手に動いたところで捕まるだけだ。四方は敵ばかりである。
「出しちゃえば良いんじゃないの?」
黙りこくってアリスの横に座っていた師走が、けろりと発言した。そのあまりの軽さにアリスは思わず笑いそうになって慌てて堪えたものの、振られたウォレンも師走らしさに少し笑みを見せながら答える。
「なんだ、師走」
「もうもったいぶってないで、宣言を出しちゃった方が良いと思う。曖昧さを残している町を味方につけるチャンスなんだ、時間もないことだし」
「宣言?」
「決まってるだろ、精霊召喚師の到着を証明するんだ」
アリスはそう云われてようやく腑に落ちた。すっかり忘れていた。王太子軍にとって、自分が一番の切り札であり、法術師を世論の敵にできることを。そのためにアリスがここに来たことを、アリスが存在することを証明しなければならない。もちろん法術師の謀反を証明することは難しいだろうが、新しい精霊召喚師が居る意味を伝えることはできる。
ウォレンは睦月の言に明朗に頷いた。
「宣言はもう出すつもりだ。だが流石に今日じゃアリスが落ち着かないだろうし準備もある。明日の日没前になるか」
「おそれながら殿下、宣言を出すのに、もう少しお待ち戴きたいのです」
アトーヤが自ら意見を出すのは珍しいらしく、イーリィが少し驚いた顔を見せる。しかしウォレンは慌てることすらなく、ただ静かに彼を促すだけだ。
「どうしたんだ?」
「エルアームやクラファームからの返事は明日か翌々日には届くことでしょう。しかし……ラドリームからは依然として連絡がございません。それが少し心残りでございます」
ラドリーム城。ここエトルからカーレーンの森を挟んで隣にあるアラムの西にある城塞だ。その北側には王都イシュタルが広がっていて、ラドリーム城から一望できるほど王都に近い。
それはある種、一番危険である、ということだった。
イーリアム城も町こそ違えど法術師の本拠地であるケーリーンのすぐ横にあるために、危険と云えば危険であった。しかしその間にはソルン河とカーレーンの森があり、彼らもそう簡単に手は出せなかったのだ。だが自然が守ってくれたエトルと比べて、アラムは危険だった。アラムのすぐ横は王都で、北隣の森の奥地にあるテルムにはエントーム城がある。そこは法術師との繋がりが濃く、今回の謀反に一役買った町であるという情報もある。
ウォレンはそれとわかるぐらいに顔を歪ませた。
「……非常に嫌な動きだ。レイシャンと最後に連絡を取ったのはいつだった?」
「二年……、いえ、一年前ですか、497年師走の月でございます」
「レイシャンが寝返ったとは思いたくないが、何かあったと思う方がもっと嫌だな」
「殿下、エリングトゥラス城将が寝返ることなど、あろうはずがございません」
「それは素直に認める。不穏だがあの方のことだから、何か策を思い付いて実行している途中かもしれない。何も云わなかったということは、漏れてしまったら絶対にできない作戦なのだろう。──さて、どう動くのやら」
「本日クラファームにも書簡を出しました。時間がないのは重々承知しております。ですが取り敢えずは一番遠いクラファームからの返答が来るまで、お待ち戴けないでしょうか」
ウォレンに味方してくれている城塞は4つ。そのうちクラファームが一番遠い。直接の速達であろうが、返答までには時間がかかる。一番遠い彼らからの連絡を待つ間に、ラドリーム城からなんらかのアクセスがないかを待つ。要するに、意味を持たせるための時間稼ぎだ。
アリスはそこまで考えて、そういえばとウォレンを見る。
「エース、大事な話し合い中に悪いんだが、王都を目指すのに、私も共に行くのだろう?」
「ああ、もちろんだ」
「だったら祠に沿って旅をするということになって、随分骨が折れるが」
王太子の王都遷都に時間をかけることは、考えるまでもなくあまり良くない。ウォレンが出て来た限り今年の10月で戸籍が抹消される恐れはなくなったものの、それでも時が経てば経つだけ、ウォレンの地位は危うくなるはずだ。なるべく早く王宮に戻るに越したことはない。
ウォレンが戻って来たことに関して、シュタインはまだ動きを見せていない。それはウォレンも表立って帰って来たと云う宣言をしていないからである。これからウォレンが宣言を出してシュタインからの返事がどう出るか、それが問題だ。
シュタイン宰相との交渉は決裂することが当たり前として、ウォレンたちは話をしている。ならば彼らがすべきは、すぐ王宮へ出向いてシュタインと直接対決をすることではないだろうか。アリスに付き添っていたら、かなりの時間を喰うことになってしまう。ウォレンはしかしまるで心配していないように、ああと頷く。
「まだきちんと考えていないが、祠を回ることは決めているんだ」
「だがエースが祠を回る必要は……」
「王宮へ戻るのは簡単だ。王太子として王宮へ帰還し、責任をあるべき場所に戻す。それですべて終わる。しかし丸くは収まらない。簡単にシュタインが俺を王宮に入れるわけなどなく、また入れたところで、行方不明だった王太子がいきなりそんな横暴をしたら、何所までが真実と国民が認めてくれるか。──戸籍がなくなる寸前で、国王の地位が惜しくなったと取られる方が大きいだろう。どれだけ時間がかかろうが、人霊を起こし、民に顔を見せることはしなければならないと俺は思っている」
翳りが見えたものの、桔梗の瞳は相変わらず強い眼光を放っている。それがウォレンの決めたことなのだろう。4年間姿をくらまして逃げてしまった民への、精いっぱいの罪滅ぼしと自分の覚悟を見せるための。だとしたら、それに対してアリスがとやかく云う権利はない。
「なら返事を待つうちに、私は弥生を起こしてこよう」
「ああ、そう云えば。──寄って来なかったのか」
「寄れる状況じゃなかったんだ、領地境でもうケツルム兵が見えたから」
「よし、なら城塞からの返事を待とう。これから弥生を起こしに行く。その間に策を練って、情報を集めよう。特にレイシャンの情報が集められれば良いが、取り敢えず町に出てみようと思う」
「……お言葉ですが、殿下」
「大丈夫だって、エトルは安全だ。俺がここに居ることを皆知っている」
「殿下のお顔を知らない方も居るのですよ」
「それは好都合だ」
「ですが、殿下……」
「レイシャンが気にかかる。俺なりに何か、したいんだ」
焦れたようにイーリィに噛み付くウォレンに何か察したらしい城主は、彼の瞳をじっと見つめた後、少し溜め息を吐いてから頷いた。
「──かしこまりました。ですがどうか、お供をお連れください。アティアーズ子卿が居ないのです、大事な御身をお守りできるよう」
「……ああ、わかっているよ」
ウォレンは先ほどの笑顔が嘘だったかのように、若干淋しそうに微笑んだ。
「じゃあ、アリス。行こうか」
まるで何もなかったかのように突然振られて、アリスは言葉に詰まる。しかしウォレンはいつもの調子で微笑んで、
「弥生、起こしに行こう」
「えっと……」
アリスの戸惑い顔を勘違いしたらしいウォレンは、
「疲れているのなら、明日でも良いが」
「いや、そうじゃなくて、だってエースは……」
「俺? 俺は大丈夫だよ。どうせ外に出ないといけないからな。守ってくれるのが精霊召喚師と人霊なら、ここの城主だって許してくれるさ」
その隣でイーリィが引き攣った笑いを広げていることに、きっと気が付いての言だろう。そのイーリィと目を合わせれば、彼はしょうがないと云うようにこくりと頷いた。
「──すみません、お願いできますか、アリス・ルア」
「え、でも……」
召喚すらできたことのない、未だ精霊召喚師としての力がなんなのかもまるでわかっていない。そんな自分にウォレンの身を守ることができるわけがない。そう出かかったものの最後まで云うのは止めておいた。
アリスはウォルエイリレンを守ることを決めたのだから、今さら拒んでも仕方がない。人霊が居るのが最大の強みだが、いざとなったらアリスには切り札がある。ウォレンには知られたくない、禁忌の力。もう使わないと約束をしたが、彼を守るためなら使うしかない。
アリスがそっと息を吐くと、ぽんと頭に手が置かれた。大きくて暖かい、安心する手。
「安心しろ、俺は強いんだ。知っているだろう?」
冗談めかしてウォレンが云うのを聞いて、アリスは自然と顔をほころばせた。それに安心したのか、ウォレンはぽんぽんと軽く頭を叩くと、行くかと微笑む。誰を連れて行くべきかと思ってちらりと後ろに控えている三人を見ると、何やら頭を付き合わせてああでもないこうでもないと言葉を交わしている。
「私は寝起きのあいつと口を聞きたくない」
「私が行っても良いですよ」
「やめとこう、如月。余計あれの機嫌を損ねるから。俺が行けば良いんだろ」
「だが師走は弱い」
「そうですね、少し頼りないです」
「あのなぁ、じゃあ睦月おまえが行けよ」
「ごめんだね」
「やっぱりここは私が」
「頼りなくても良いから、師走にしたらどうだ」
立ち止まっていたアリスに気が付いたウォレンが、人霊の会議に横入りした。睦月は憮然と、弥生はにこにこと、師走は苦りきった顔でウォレンを見つめる。アリスには何がなんだかわからなかったものの、結局ウォレンと師走とアリスで、弥生祠に向かうことになった。これ以上人を増やしたくないとごねるウォレンに、イーリィは召喚獣数匹を付けることで許諾した。
外に出ると、昨日と変わらずの良い天気である。これが法術師の生み出した天候なのだろうか。確かに如月にしては随分と天気が良い。
「エース、そうだ」
と、アリスは思い出して云う。
「寄りたいところがあるんだ」
「寄りたいところ?」
「弥生を起こしてからで良いんだけど」
云いながら師走を見ると、彼は若干顔を引き攣らせて頷いた。
「ちょっと……いやだいぶ面倒なことになるけど」
「面倒?」
「うん、大河からエトルに来て、すごく面倒な男に助けてもらったんだ」
「面倒な、男……」
「まあ、処遇はウォレンが会ってから決めてよ」
「あ、ああ」
ウォレンは疑問を感じたようだが、承諾してくれた。師走はそれ以上説明することもなくアリスに微笑んだだけだが、大丈夫なのだろう。ルーク・レグホーンについてアリスはよくわからない。ただ助けてくれた恩を返したい、それだけの人だ。だから過去に何をしていようと、彼の人柄を信じたいと思う。
「それからウォレン」
師走はさもついでと云うようにウォレンを見て、またウォレンも師走を見た。桔梗と瑠璃が混じり合い、呼んだ師走も呼ばれたウォレンも、しばらく無言のまま見つめ合っていた。
「──おかえり」
「……ただいま」
どちらも小さかったものの、はっきりとした声が出て、二人は無言で手を合わせた。そこには言葉では表せないほどの信頼関係ができあがっていて、アリスはぼうっとそれを見つめていた。それはアリスがどうがんばったところで、今は得られない関係のように思えたのだ。突然現れたアリスには入る余地のない、長い間に築き上げられた関係。
しかし師走はその壁を吹き飛ばすかのように、同時にアリスを振り向いて行こうと手招いた。ウォレンをと見れば、優しく微笑んで頷く。
「それにしてもびっくりしたよ、まさかアリスがあの時探していたのがウォレンだったとは」
先を行く師走が楽しそうに語り出す。そういえば旅の始めはすべて師走からで、彼はアリスの今までを知っている人だった。そしてウォレンは、それより少し前のアリスを知っている。
「あれは少し不意打ちだったな。まぁ結果、アリスが無事に祠へ渡れて良かったよ」
海岸でのことを思い出したのか、ウォレンは苦笑する。
「少し気を抜いていたからな」
「気を抜いた?」
「いや、アリスがようやくちゃんと眠ったから」
アリスは思わぬところから弾が出て、返す言葉を失った。するとウォレンはくすくす笑いながら、
「まったく眠ろうとしないから、やっと少しは信じてもらえたかって気を抜いたんだ」
「それは……」
「そりゃあ見知らぬ男と一緒に居て、早く眠れって方が無理だよ」
「でもな、師走。数日一緒に居て少しぐらい信用が欲しいだろう?」
「胡散臭いんだよ、ウォレンは」
二人はああだこうだと云い合いながら、アリスに合わせて歩いてくれる。そんな彼らを見て、胸がほっと暖かくなった。ウォレンがその時を覚えていてくれることに、繋がっていると思えたのだ。それならいつしか、二人のような関係が、アリスとウォレンにも築けるのだろうか。主従として確固とした信頼関係が、アリカラーナを信じられる未来が。
「エースは私の唯一の主だったな」
「そうなるな」
「それはそれで変な感じがする」
「そうだな、俺もおかしな気がするよ」
くつくつと笑うのは、またあの時のアリスの頑な態度を思い出しているからなのか。そうやって自然に笑うウォレンの顔は、やはりあの時のエースの顔で見ているとアリスも落ち着いた。
「でも、精霊召喚師は王に仕えるものなのだろう?」
「もちろん、そうだ」
「なら、私がエースに臣下として跪くのは、もうしばらく後にしても良いか?」
「うん?」
ウォレンは立ち止まってアリスを見る。釣られたように師走も止まり、アリスも足を止めて、ただ唯一の主とされるその男を見つめた。エースとしてアリスの前に現れた時よりも、身だしなみは整えられている。伸びた髪はそのままに王族が着るには質素な刺繍もほとんどない綿をまとっている彼はしかし、瞳の強さだけは同じだ。桔梗の暖かさも涼しさも持っている人を安心させると同時に強い覇気を感じられる目。
「本当のことを云えば、まだ私は私自身の問題について整理ができていない。取りあえず今の目標は人霊を集めてエースを玉座に据えることだ。エースは玉座に即かない限り王太子で、私は正式に王に仕えてはいない。──云いわけがましいが、そういうことで、しばらくは友人で居てくれるとありがたい」
エースは気易く話してくれと云ったが、それに甘えて慣れ慣れしくしているのはいけないことではないのだろうか。アリスはそこから少し考えた。厄介者扱いだった自分がいきなり偉くなって、気安い恩人がその唯一の上司だと云われ、要するにアリスはまだ、そう簡単に態度を変えることは自分もできないのではないか。ただの時間稼ぎには変わりないし、いつかはウォレンを王として崇めなくてはならないのだろうが、それでもアリスはもう少し、彼をエースとして、一人の友人として知り合いたかった。許されるのならエースと過ごしたあの時間をやり直したかった。今度こそ心から、信頼して。
「無礼を承知で云ったが、怒ったか?」
ずっと黙りこくっているので心配になって顔を覗き込むと、ウォレンは必死に笑いをかみ殺して居た。アリスに見られて気が緩んだのか、ふっと吹き出す。
「な……」
「やー、悪い、悪い。……いや、おまえは本当、変わった奴だなと思って」
「何がだ?」
「良いよ、理解しなくても。おまえみたいな友人が居ると、こちらも気が楽だな」
どういう意味だと尋ねようとしたアリスに、それを阻むよう手を差し出された。
「よろしく、アリス」
そう云って笑いながら、出された大きな手。出会った時も、そう云えばこんなやり取りをしたことを思い出す。その時は握ることなどなかったが、かばう時引っ張られた手は剣士特有の硬い手だった。
「ああ、よろしく」
アリスはその大きく暖かい手を取った。
──ごめんね、ダーク。
頭の中で、別の人物を思い浮かべながら。