覚悟
色々と驚くべきことがあった昨日は終わり、また今日が始まる。
きっと、ずっと、何も起こらない退屈な生活を送るのだろうと、呑気に考えていた自分が今となっては恨めしい。
それはもちろん、何かが起きることを期待していた自分がいたのは否めない。
けど、こんな形で僕の日常が変わるとは思いもしなかった。
良いのか悪いのか、それはまだよく分からない。
それでも、最高の形で幕引きできることを願い、そして頑張ろう。
ずっと昔、とっくに忘れていたあの高揚感を胸に抱き、僕は教室へと入る。先を予測できないからこそ、明日に希望するものだ。
変わろう。何かを変えよう。自分は変わらなくてもいいんだ。周りを変えていければ、それでいい。
「よう東條! なんか今日のお前、活き活きしてんじゃん」
片手を上げ、沢城は二コリと笑みを零す。それに応えるように、僕も笑う。
「まあな」
「何か良いことでもあったのか?」
「そりゃ、生きてれば良いことの一つや二つぐらい、あるだろうさ」
鳩のように目を丸くし、沢城は驚く。
「お……おう。確かにな……」
訝しげな表情で見つめる沢城を一瞥し、僕は自分の席へと向かう。すると、たった数日会っていないだけなのに、懐かしい気がするあの幼馴染の姿が。
「久しぶりだな、春香」
「久しぶりだな、月人」
え? どうしちゃったのこいつ。いつもみたくスローペースな口調ではなく、ハキハキと、しかも僕っぽく話す春香を前に、呆然とした。
「冗談だよ、月人君。おはよう」
「び、ビビらせんなよ……とうとう僕の幼馴染が、頭おかしくなったのかと思ったぞ」
「酷いなぁ……」
お決まりの、あの人をイラつかせるような遅いしゃべり方で、春香は言う。
「幼馴染のあたしに、そんな暴言を吐くなんて、酷いよ月人君……」
春香は緩く微笑む。よかった。やっぱり春香は、春香なんだ。
僕はカバンを自分の席の上に置き、言った。
「あんパンだっけ?」
「ううん」
視線を下にして春香は言う。
「それも冗談……だよ」
悲しいような、切ないような、春香は微妙な表情である。
「そうか……冗談か」
お互いに無言。だけど居心地がいい。僕は瞼を閉じ、春香の机に寄りかかる。と、そこに闖入者が。
「なんだなんだぁ……? 教室でイチャついてんじゃねえぞ、お前ら」
眉を顰め、沢城は僕と春香を交互に見まわす。
「別にそんなんじゃねえよ、アホが」
「そうだよ沢城君、あたしと月人君は、ただの幼馴染なんだからぁ」
心の奥底が、ちょっぴり疼く。ちらりと横目で見ると、そこには全てが吹っ切れたかのような、快活な顔をした春香がいた。
それを目にし、僕はやや頬の筋肉を緩めた。
「そうだな……僕と春香は、幼馴染なんだから」
「ふうん……そうか」と、沢城は満面の笑み。
「よかったよかった。元通りになって、俺は安心したよ」
僕ら三人は顔を見合わせ、同時に笑った。
授業を寝ずに、ちゃんと聞いたのは何時ぶりだろう。苦手な数学も、どういうわけか面白く感じたり、得意の国語で自ら手を上げ意見を言ったり。
まあ、相変わらず宿題を忘れ「あっれぇ……おっかしいなぁ……確かにカバンに入れたはずなんですけど、あは、あはは……」と、常套句を言ったのはさておき。
テスト前ということもさておき……。
僕は春香と沢城と、放課後の教室で駄弁っていた。今日あった出来事を話たり、テストがやばいとか焦ったり、沢城の顔芸に腹筋を崩壊させたりと、楽しい時間である。
春香の「そろそろあたし、バイトに行かなきゃ」という発言で、とりあえずお開きに。
そして今は、下駄箱から正門に向け歩いてる途中だ。
「あのさ、春香」
僕は隣を歩く春香に言う。
「バイトってどんなのやってるの?」
「あ、それ俺も気になる。教えてくれよ」
カバンを振り回しながら、沢城は春香の顔を覗き込む。
「この近くに、古本屋があるでしょ? そこでバイトしてるんだぁ」
「「ああ、やっぱり」」
僕も沢城も予想できていた春香の回答に、苦笑いをした。
「まあ、本の虫の春香が、コンビニとかファミレスとか、服屋の店員とかやってる姿は想像できないもんな」
「言えてる。こんな遅いしゃべり方じゃ、そういうところの店員は務まらないし」
「い~らっしゃ~い~ま~せ~、ってか?」
僕が大げさに春香の口ぶりを真似ると、沢城は腹を抱えて笑った。
「もう……そんなに遅くないよ」
口をへの字にさせ、春香は拗ねる。
昼下がりの陽射しを身体いっぱいに浴びながら、僕は大きく背伸び。遅れを取り戻すべく、二人を追いかけるようにして走ると、あっという間に正門についてしまった。
「それじゃ、また明日」
「うん、また明日ね、月人君」
「あばよ、東條」
散り散りに別れ、僕はその場に立ち止まる。後ろを振り返り、とりあえず一言。
「さっきからコソコソ、何やってるんだ?」
近くにあった茂みから、ガサゴソと音がする。
もう誰がそこにいるのかは、予測できてるけど。しばらく待つも、なかなか出てくるような素振りを見せない。僕は言った。
「玲於奈、出てこいよ」
ようやく観念したのか、玲於奈は申し訳なさそうな顔をして出てくる。
「どうして分かったんだよ……」
制服についた葉っぱを払い、玲於奈は僕の言葉を待つ。
「だってお前、茂みから頭が半分だけ出てるし」
今さらになって頭を両手で隠し、玲於奈は照れた。
「やらかした……。うちとしたことが、とんだヘマをしちまったぜ」
「はいはい。それで?」
僕は肩を竦め言う。
「僕になんか用か?」
「いやいや、大した用事じゃねえんだよ」
「言ってみろ」
「いや、だから別に大したことじゃねえっての」
「なんだ? もしかして僕に言いにくいことだったり?」
「それは……その……」
視線をあちらこちらに彷徨わせ、玲於奈は慌てふためく。
そこで僕は思い出した。「そういえば……玲於奈は、僕のことが好きなんだっけ」と。それとなく玲於奈に視線を送ると、通常よりも頬を赤く染め、玲於奈らしからぬ様子である。
両手を握ったり開いたり、踵をトントンと地面につけたり、明らかに不自然だ。
緊張が伝染し、僕は自分の顔が熱くなるのを感じる。
「ま、まあ……玲於奈にも色々、事情ってものがあるだろうし、無理に言わなくていいぞ? ていうか言うな。うん、いいからもう」
「なんだよその投げやりな感じ……気に入らねえあ……」
「そうか? そんなことはない。僕はいつでも真剣だ」
「嘘ついてんじぇねえぞ? うちはお前が真剣な顔をしたとこ、見たことないっての」
「お前こそ嘘つくなよ」
「嘘じゃねえし」
僕は素直にムカついた。ああ言えばこう言うな玲於奈は、僕をジト目で見つめる。しかし、すぐに逸らす。と思いきやまた僕の目を見て、何故かこのタイミングで照れるのであった。
「な、なんだよ……僕の顔になにかついてるのか?」
口元を袖でごしごしと拭くと、玲於奈は言った。
「ちょっとうちに……付き合ってくれよ」
突拍子もない玲於奈の言葉に、僕はさほど驚きはしなかった。
こうなることが予測できていたわけではないが、いつかはこうなると、心の中で薄々感じていたのかもしれない。
二つ返事で了承、とはいかず、少しの間をあけ僕は言った。
「それはつまり、デートのお誘い、ってことでいいんだよな?」
「で、デート⁉」
「違うのか?」
呼吸のできない魚みたく、玲於奈は口を何度もパクつかせる。
「ち、違くねえよ! そうだけど……さ」
そうだけど?
「なんていうか月人、女慣れしてね?」
そう思われても無理ないか。あらかじめ心の準備をしていたからこそ、すんなりとデートなんて言えたけど、普通はもっと歯痒いやりとりを展開するところなのだろう。
言ってしまおうか……。
僕は数瞬、思考を巡らせた結果、恋子から聞いたという旨を伝えることにした。
「あのさ、玲於奈」
僕は静かに言う。
「実は、お前が僕のこと好きだって、知ってるんだよ」
「え?」
風の音に掻き消されてしまうような声で、玲於奈はそう一言だけ疑問を述べた。いまだに「まさか!」という思いがあるのか、玲於奈は両手をばたつかせて言う。
「な、なんで月人が知ってるんだよ……⁉ だって、だって……あり得ないだろ……? ふざけたこと言ってんじゃねえよ!」
「落ち着け。恋子から聞いたんだよ、全部。玲於奈と裕理が僕を好いてることも、それが原因で、ちょっとした仲違いをしてることも、全部な……」
「そんなのって……」
玲於奈は華奢な身体を震わせて言う。
「そんなのってねえよ! うちがお前に言ったならまだしも……なんで恋子に言われなきゃなんねえわけ⁉ ありえねえから!」
このまま僕が知っていることを隠し、そのう上であれこれするのはフェアじゃない。だから僕は後悔してないし、むしろ、これでようやく向き合えた気がする。
まあでも、本人からすれば、意味分かんないし、怒りが抑えられないだろう。
「玲於奈……お前の気持ちはよく分かる。けど、知ってしまったもんは、仕方ない。だからさ、ここは一つ、僕の話を聞いて欲しい」
純粋な、それこそ乙女の眼差しで僕を見据え、玲於奈は小さく頷いた。
「正直に言うとな、僕にはまだ荷が重いというか、人を好きになるってのがどういうことか分からないんだよ。ああ、だけど、お前が僕を好きって知った時は、すげえ嬉しかったぞ? 心臓がバクバクして……苦しくて……柄じゃないけど、めちゃくちゃ悩んだし」
「それなら――」
片手で玲於奈の言葉を静止。
「だけど、この気持ちが……好きとかそういうことなのかはよく分からない。まだ分からないんだよ……」
ぐっと喉元まで出かかった言葉を我慢するように、玲於奈は黙る。
「だからさ、もう少し考えさせてくれないか? 玲於奈が本気なのは分かる。それだからこそ、僕も本気でお前と向き合いたい」
ようやく昂った感情を制御できたのか、そっと僕から視線を外し、玲於奈は言った。
「お前ってやつは……ずるい男だな……」
ずるい男……ねえ。
「逃げてるようにしか思えないぜ。お前のその言葉じゃ……よ。けど、仕方ねえから待ってやるよ。お前が答えを出せるまで……待ってやる」
上から目線なことは、もういまに始まったことじゃない。たぶん僕は、こんな年下の女の子にすら、格下に見られているのだろう。別にいいけどさ。
「ありがとよ」
「だけど、条件がある」
「条件?」
「そう、条件。ちゃんと裕理にも、言っておけよ? それこそ月人の言葉を借りるとすれば、フェアじゃねえからな」
僕が裕理の気持ちを知っていることを、ちゃんと、伝えておけということか。
「鼻からそのつもりだ」
玲於奈はショートカットの髪を撫でる。その様子を観察しながら、改めて僕は思った。こんなに可愛い子が、どうして僕なんかを好きになったのか、と。
一世を風靡するアイドルなんだから、カッコいい人といくらでも付き合えるだろうに。それなのに、なぜ僕を選んだ。
男は顔が全てじゃないと思うけど、かといって、僕は性格が良いわけでもなく、経済力があるわけでもない。
「どうして……」
僕の口から自然と言葉が漏れる。
「どうして僕のことを好きになった?」
玲於奈は頬を小指で掻く。
「さあな……。うちにもよく、分かんねえんだ。でも、この気持ちが確かなのは、よく分かるぜ。だって、いまもこうして月人と話てるだけでも、緊張するし、ソワソワするし、つまりはそういうことだろ、きっとよ」
そんな曖昧な感情で……いや、そんなもの……なのだろう。どこが好きとか、そんなことはいくらでも言えるかもしれないけど、それが好きな理由なんかじゃないんだ。
理由なんて分からない。その通りだよな。
最初はなんとなく気になって、それから次第にその人のことばかりを見るようになって、気づいたら好きになってた。
そうだな……かく言う僕にも、そんな時期があったっけ。
「よく分かったよ、玲於奈の気持ちは」
僕が二コリと微笑みかけると、玲於奈は恥じらいながら言った。
「あ、あんましこっち見んなよな……」
「はいはい」
雲ひとつない綺麗な空を見上げ、僕は言葉を零す。
「そういえば……どうする? デート」
「ああ……まあ、なんていうか、やっぱりいいや」
「しないのか?」
「そういうこった」
残念な気持ちがしなくもないが、ここはひとまず、そういうことにしておくか。
「駆け抜けじゃんかよ、うちだけこっそりデートするんじゃ」
妙なところで礼儀正しい。けど、そうだな。確かに後々、面倒なことになりそうだし。いまはとにかく、裕理と話をするのが先である。
「了解。じゃあ、また今度な」
手を軽く振り、僕は玲於奈に背を向ける。すると、こんな言葉を投げかけてきた。
「うちは絶対、月人を振り向かせてやる……。だから月人、覚悟しておけよ?」
覚悟しなきゃいけないほど、乱暴なことされるのかねえ……。僕は後ろ向きのまま、言った。
「玲於奈こそ覚悟しておけよ? 僕の出す答えが、とんでもない答えになる可能性だってあるんだからさ」