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カレーライスは恋の味 その①

「お、おい聞いたか東條⁉ あ、あのデンジャラスゾーンが、実は全員女だってよ! これはスクープだ、特大スクープだ!」

 朝から騒がしい沢城を一瞥し、僕は適当な返事。

「へえ、そいつはすげえな。驚いた」

 僕が椅子に座るのとほぼ同時、沢城はバンと勢いよく机を叩き、言った。

「反応うっす⁉ お前大丈夫かよ⁉」

「だから、驚いてんじゃねえか」

 元から知っていた情報を聞いて、驚けるわけがない。カバンから教科書を取り出し、僕は授業の準備をした。

 すると沢城は、僕の顔を覗き込むようにして。

「なんかお前……怪しいな」と言った。

 ドキリと心臓が撥ね上がり、僕は咄嗟に誤魔化す。

「い、いやいや! 怪しいって何が? 僕は本当に、心底驚いたぞ?」

「その割には、反応薄くないか?」

 沢城はジト目で僕を見つめる。

「ほら、あの、朝のニュースを見てたからさ、もうこれ以上驚けないって感じ……?」

「遅刻ギリギリで教室に入って来た癖に、ニュースを見ていられるほど、余裕があったと……そういうことだな?」

「ま、まあな」

 徐々に沢城は顔を近づけ、僕を見据える。

「やっぱお前、怪しい。怪しすぎる。何か隠してるだろ?」

 顔をぎこちなく背け、僕は言った。

「べ、別に?」

 僕と目が合うように回り込み、沢城の追及はとまらない。

「ちょっと疑問に思ったんだけど……デンジャラスゾーンは女性であることを暴露して、また再デビューしただろ? それで、そのメンバーの中にさ、東條恋子って女の子がいるんだけど……」

 まさか、沢城はもう気づいたのか⁉ 恋子が僕の妹だってことに。いや、まだそうと決まったわけじゃない。落ち着け……僕。

「へ、へえ……? 東條恋子、ねえ。それまた随分と変わった名前だな……」

「ほう、聞き方を変えようか。東條月人、お前には確か、妹がいたな?」

「いないよ?」

 僕の両瞼を強制的に開け、沢城は言った。

「い・る・よ・な?」

「……はい」

 沢城は両手を僕の瞼から離し、しきりに頷く。

「妹の名前は?」

 どうしよう……パッと偽名が思いつかない。ちょっとの間をあけ、僕は言った。

「東條、れ、じゃなくて、東條朱莉……」

 結局、僕のお袋の名前を使うことに。しかし、まだ沢城は納得がいかないようで。

「写真見せろ。お前の妹の写真を見て、それから判断してやろう」

「そんなものはない」

「じゃあ、携帯を見せろ」

「なんで」

「もしかしたら画像が入ってるかもしれないから」

 僕は焦った。途轍もなく焦った。どうしてかって? そりゃもちろん、僕の画像フォルダに、恋子の写真があるからだ。いや違うからね? 別に盗撮とかじゃなくて、ソファーで寝てる恋子を見て「ふ、可愛いな」って思っただけであり、それをちょっと写真に収めただけである。

 それはともかく、この状況をどう脱しようか。携帯を見せなければ、より疑われ、しかし決定的な証拠である携帯を見せれば、当然、恋子のことがばれる。

「どうした? 早く見せろ」

 僕は血の気が引き、顔が真っ青になるのが分かった。脂汗が額に滲み出て、足りない頭で必死に考える。すると、突然校舎に悲鳴が響き渡るのであった。

 僕のクラスメイトはざわつき、何か事件が起きたのかと、一斉に教室の外に出る。

「で……デンゾの玲緒奈ちゃんだぁぁぁぁぁ!」

 男の叫び声を皮切りに、みんなは驚き、そして同じように叫んだ。

「まじだ……まじで玲緒奈ちゃんじゃん⁉ やべぇぇぇぇぇ! 超可愛い!」

 いや、今までも普通に、玲緒奈はうちの学校にいただろ。それを今さらになって騒ぎ立てるとはな。と、それはいいとして、どうやら僕は九死に一生を得たみたいだ。

 沢城も、というより、沢城を筆頭にしてみんなは玲緒奈のもとへと駆けていき、この教室には僕一人だけ取り残されている。

 まだ玲緒奈の表情を見たわけではないから、どんな表情をしているかは分からない。でも、どうせ玲緒奈のことだ。鼻高々に、威張っているに決まっている。

「はあ……助かった」

 いつかはこうなると思ったけど、いざ問題に直面すると、どうしていいか分からなくなるものだ。今日は家に帰ったらすぐ、恋子と相談をしよう。

 ようやく騒ぎがおさまり、校舎に静寂が戻る。

 ぞろぞろと足音をたて、クラスメイトは帰還してきたようだ。頬杖をつきながら、僕はそのままボーっとしていると、突然、名前を呼ばれる。

「月人、ちょっといいか」

 教室の入口を見れば、そこには玲緒奈の姿が。

「え……どうしてお前、ここに……?」

 腕組をして、玲緒奈は考える。

「うーん。なんでだろうな? よく分かんねえ」

 さすがはアホの子、玲緒奈である。

「それで? 僕はどうすればいいんだ」

 最初こそ、知らないフリをしようかと思ったが、きっともう誤魔化せないことを悟り、僕は諦めた。たぶん、恋子のことがばれるのも時間の問題だ。

 玲緒奈は言った。

「とりあえず、話たいことがあるんだよ」

 そういえば、得意気な顔をしているものだとばかり思っていたが、玲緒奈をよく見れば、どこか悲し気である。

「分かった。じゃあ、屋上にでも行くか」

 授業が始まるまで、あとほんのわずかだが、どうにも玲緒奈のあの表情が気になり、少しだけ授業には遅れることにした。

 僕が腰を上げ、玲緒奈に近寄ると、力なく笑う。

「屋上は脚下」

「じゃあ、食堂?」

「それも脚下」

「教室?」

「脚下に決まってんだろうが」

 いつの日か、同じようなやり取りをしたことがあった。けど、今はもう、同じじゃないのか。玲緒奈は、全校生徒から注目される存在になってしまったのだから。

 僕が先陣を切り、とある場所へと向かう。僕らが前に進むたびに、生徒の群集が道を開け、まるでアーチをくぐっているような感覚だ。

 四方八方から視線は感じるし、なにやらヒソヒソ話が聞こえてくるし、全身から嫌な汗が吹き出す。

 でも、恋子や玲緒奈や裕理は、こういうプレッシャーの中で、今まで生きてきたのだと思うと、とんでもなく化物みたく思える。

 やっとの思いで僕らがたどり着いたのは、あの、青春の匂いが漂う体育館だ。まだホームルーム前ということで、生徒は一人もいない。

 と思ったけど、僕らの後を追いかけるようにして、かなりの生徒が体育館に入ってきた。

「やべえな、まじでしつこいっての」

 玲緒奈は疲れ切った顔で言う。

「なんていうかさ、ある程度は予測してたけど、まさかここまで大事になるとは思わなかったぜ」

「それは僕も同意見だ。ていうか、朝とか大変だったんじゃないか?」

玲緒奈は「もう懲り懲り……」といった目つきで言った。

「まあな、歩くたびに握手とかサイン求められるし……。でも、笑顔で対応しなきゃなんねえから、まじ疲れた」

 今の話を聞く限りでは、きっと恋子や裕理も同じ目にあっているのだろう。肩をがくりと下げる玲緒奈に向け、僕は言った。

「有名税ってやつか……。本当にお前たちは、大変なことになったな」

「ハッキリ言って、キツイっての……」

 玲緒奈はうんざりとして言う。

「しばらくうちら、学校行けなくなるし」

「どういうことだ?」

「なんかよく分かんねえけど、前より知名度が上がっちゃったみたいでよ。バラエティ番組の収録、それから演劇の稽古、終いにはライブの練習があんだよ。もう、これじゃあ、高校生って感じしねえな……」

 アイドルになるということは、つまりはこういうこと。僕に何か協力できることは、ない。今までは、正体を隠してアイドルをやっていたため、特に日常生活に支障をきたすことはなかったが、これからはもう変わってしまうだろう。

 遠い存在となりつつある玲緒奈に、一抹のさみしさを覚える。

「なあ、月人」

 玲緒奈は、いままで一番女性らしい顔つきになって、僕に言う。

「うちらが……バカみたいに人気出て、もう全然お前と会えなくなっても、ずっとうちの友達で……先輩で……いてくれるか?」

 たまにこうして、しおらしくなるから、可愛く思えちゃうんだよな。恋子と似てるというか、妙なところで意地を張り、だけどこれまた、妙なところで素直になる。

 変なやつだよ、玲緒奈は。

 僕はニコリと似合わない笑顔で、言った。

「ああ、もちろんだ!」


 慌ただしい朝を乗り越え、ようやく放課後を迎える。いちおうまだ、テスト前ということで、午前中で授業は終了した。

それから、あれこれと考えた末、僕は沢城には恋子、まあ妹が、デンゾのメンバーであることを伝え、みんなには内緒にしてくれと頼んだ。

 沢城は案外、さっぱりとしていて「分かった、誰にも言わない」と、約束をしてくれた。ちなみに、僕の選りすぐりのエロ本を餌にして黙らせたのは余談である。

 そして、この高校の有名人となったのは玲緒奈だけでなく、この僕もまた、同じような土俵に上がってしまった。

 やはり、玲緒奈と体育館で話をしていたことが原因である。けどまあ、玲緒奈に呼び出された時点で、僕もある程度の覚悟はしていた。だって、僕が話をしていたのは、あの人気アイドル、デンゾの玲緒奈なのだから。

ああ、それからもう一つ。僕の幼馴染の春香は、今日も学校に来なかった。しばらくの時間を要するというか、きっと、僕とのいざこざは、時間が解決してくれるだろう。

素早く上履きから外履きに。僕は少しだけ早歩きで校舎を出る。

「あ、ほらほら。あの人だよ、玲緒奈ちゃんとおしゃべりしてた人」

「あれが? うっそ、あり得ない。あんな地味な男の人が、ねえ……」

 一番厄介な、噂。新幹線並みの早さで、噂は広がってしまう。主に女子の口を通じて。この程度の噂ならまだしも、そのうち、あることないことをでっち上げられそうで怖い。

 僕は突き刺さるような視線を掻い潜り、やっとの思いで校門を出た。と、そこで、いきなり話しかけられる。

「月人、ちょっといいかしら」

 後ろから声がしたので振り向くと、見覚えのない女性が立っている。どこかで見たような制服だけど、帽子と黒ぶち眼鏡で完全に怪しい。

「ええっと……」

 僕は内心ビクビクしながら言う。

「どちら様、でしょうか?」

「私よ、私」

 いやだから誰だよ。心の中でツッコみをいれる。

「あ、そっか」

 何かを思い出したかのように、女性は帽子と眼鏡を外す。

「ん……? え⁉ 裕理……?」

 目を擦っても擦っても、やはり裕理にしか見えない。僕は焦る気持ちをおさえつつ、言った。

「まさか、双子⁉」

「違うよ!」

「じゃあ、妹さんとか?」

「だから違うわよ……」

 耳元で囁くように、女性は言った。

「私は裕理よ。変装をしないと、まともに街中を歩けなくて……」

 ようやく合点がいって、僕は全てを理解した。

「そっか……。それで、わざわざこんなところに何をしに来たんだ?」

「月人に会いに来たの。あとはついでに、玲緒奈の様子も見に来た、というところかしら」

 ふうん、僕に会いきたのか。何か理由があってのことだとは思うけど、ちょっぴり嬉しかったり。

「先に言っておくけど、玲緒奈なら先に帰ったと思うぞ」

 玲緒奈たち高校一年生は、僕ら高校二年生や高校三年生よりも、授業が終わる時間が早かったのだ。そういうわけで、恐らく、玲緒奈はもう学校にいない。

「そっか。まあ、いいかな」

 裕里は本当に、玲緒奈のことは、ついでぐらいにしか思っていないのだろう。玲緒奈がいないと分かっても、特に気にするような素振りは見せず、冷静である。

「それで、僕にどんな用事?」

 ここは学校のすぐ近くのため、いくら変装をしているとはいえ、ばれる可能性はじゅうぶん高い。僕は早速本題を切り出す。

 裕里は再び、眼鏡と帽子の変装セットを着用し、言った。

「お昼ご飯は、もう食べたかしら」

「お昼ご飯? いや……まだ食べてないけど、まさかそれが用事なわけじゃないだろ?」

 裕理は即答する。

「ううん、それが用事。月人と一緒にお昼ご飯を食べるのが、私の用事なの」

 冗談……ではなさそうだ。ゆったりとした笑顔で僕を包み込む。

「僕はかまわないけど、さすがにどこかのお店に入ったりしたら、ばれるんじゃないか?」

 足をモジモジとさせ、なんだかおしっこを我慢しているような素振り。

「お店じゃなくて……月人のお家で、私がご飯を作ってあげようかな……って」

 僕はすぐに耳の穴に指を突っ込む。最近あまり、耳掃除をしていないと思ったけど、これほどまでに耳垢が溜まっているとは思いもしなかった。

「悪い、もう一回……言ってくれ」

 耳まで真っ赤に染めて、裕理は言った。

「月人の家で……ご飯……作ろうかな……って」

「まじで⁉」

 こういう場面で、クールな対応をできるのがモテる秘訣。分かってる。分かってるけど、どうしても喜ばずにはいられなかったんだ。

「う、うん」

「手作り⁉ 手作りだよな⁉」

「そうだけど……」

「よっしゃぁぁぁぁぁぁ!」

 高々と拳を突き上げ、僕は勝ち誇る。通行人は僕のことを、哀れな目で見てくるが、そんなことはどうでもいい。いま、この瞬間、僕は人生における勝ち組になったのだから。

「つ、月人……!」

 裕里は慌てて言う。

「あんまり大きな声を出さないで……。ばれちゃう……」

 一気に笑顔から真顔にトランスフォームさせ、僕は言った。

「分かってる。僕もそこまでバカじゃない。さあ、行こうか」

「すごいにやけてるけど、大丈夫……?」

「え、まじで?」

 裕里はカバンから鏡を取り出し、僕へと向ける。

「ほらね?」

 そこには、欲望に満ち満ちた、醜い男の顔が、ていうか僕の顔があった。爪で頬を摘まみ、どうにか表情を戻す。

 呆れた様子の裕理を目にし、僕は「これじゃいかん!」と、思い直す。

「悪い、ちょっと浮かれすぎちゃって」

「ううん」

 裕里は微笑して言う。

「私は嬉しいかな、そこまで喜んでもらえるなら」

「とか言って、ついさっき、じゃっかん引いてただろ?」

「うん、少しだけ……ね」

 そこは否定しないのか。まあ、全て水に流すとしよう。僕は話を戻す。

「たぶんいま、家に食材が何もないから、どこかで買って行こうか」

「分かった」

僕らは近所のスーパーへと向け、ゆっくり歩き出す。

 

どうにも、裕理はカレーライスを作ってくれるようで、そのための食材を一通り買い、僕らは帰っている途中だ。

 当然、荷物は全て僕が持つ。こうして裕理と並んで歩いていると、なんだか新婚の夫婦みたいで、ソワソワと落ち着かない。

 ちょうど昼飯時なこともあり、民家から美味しそうな料理の匂いが漏れている。嗅いでいるだけでお腹が空きそうだ。

 これから振る舞われる裕理の手作り料理に心を弾ませ、僕は笑みを一つ零す。

 ちらりと横目で裕理の顔を見れば、僕だけではなく、同じように楽しそうな表情を浮かべていた。

「ねえ、月人」

 裕里は言う。

「私ね、まだ実感がわかないの」

「実感?」と、おうむ返しに僕は言った。

「私たち、もう嘘偽りなく、正面からファンの人たちと向き合えてるんだな、っていう実感」

 あれほど頭を悩ませていた、女であるという秘密。言ってしまえば、それが鎖のように裕理を縛りつけ、そして苦しめた。けど今は違う。もう何も隠すことなく、臆する必要もなく、本気でアイドルとして活動している。

 その実感が、いまだにわかないということか。

「そうだな……」

 僕は言う。

「三人がもう、男装せずにステージに上がる姿は想像できない。何て言うか、僕の中で、あのイメージが強すぎるんだよね」

 裕里は頬の筋肉をわずかに緩める。

「私ね……最近よく思うの。月人のおかげで、私たちはこうして活躍できてるんじゃないのかなって」

「僕のおかげ? いやいや、僕は何もしてないよ」

 謙遜でもなんでもなく、僕は本当にそう思っている。いくらか口出しをしたのは確かだが、結局のところ、行動しているのは裕理たちなわけだ。

「ううん」と、裕理は短い言葉で否定した。

「月人には、人の心を動かす才能みたいなものが、あると思う」

 久しぶりに、いや、初めて誰かに褒められた気がする。いかんせん、僕はめんどくさがりだし、あまり快活な方でもないし、そんなダメ人間である僕が褒められるはずがないのは重々承知している。恐らくお世辞なのだろうけど、それでも、評価されるのは気分が良い。

「買い被りだ、それは。そもそも、人の心を動かす才能なら、裕理たちみたいなアイドルの方があると思うけど」

 実際、僕だって恋子の懸命な姿を目にし、心を打たれたのだから。

 裕里はピタリと足を止め、言った。

「少し前に、月人は私のことを悲観的だって言ったでしょ?」

 言ったような、言ってないような……記憶が曖昧だ。これだけ目まぐるしい毎日を過ごしていたせいか、どうもあやふになってる部分が多い。

「言ったかもしれない」

「それ、そっくりそのまま返してあげる」

「え?」

 裕里は再び歩みを進める。僕は一瞬面食らったが、すぐにその背中を追いかける。

「つまり、僕が悲観的だって、言いたいのか?」

「月人は、もっと自分を認めてあげるべきよ」

「うーん……僕は何も取り得のない人間なんだけどなぁ……」

 視線を前に向けたまま、裕理は言った。

「さっきも言ったでしょう? 月人には、人の心を動かす才能があるって」

「言ったけど、とてもじゃないが、そうは思えない」

「よく思い出して」

 裕里はニコリと微笑みかけ、僕に言う。

「恋子が恋太郎に戻れなくなった時、僕に任せてください、そう言ったよね?」

 ああ、あの時は大変だった。下手したら僕は、今頃こうして呑気に歩いていられなかったかもしれないわけだし。

「それがどうかした?」

「月人があの時……話した人は、私たちのライブを総括してるすごく偉い人だったの。普通、いっかいの男子高校生に、あの緊急事態を任せるとは思えない」

「いや、でもさ、それは僕が恋子の兄だったからで、ちょっと状況が違うだろ」

 真剣な目つきで、裕理は隣を歩く僕を見つめる。

「覚悟はできているな、そう言われたでしょ。つまり、月人に全てを任せたのよ。それは兄だからとか、そういうこと関係なしに、あの人は月人を信用したの」

 そう言われてみれば、確かに、あの男は厳しい顔をしていたが、どこか僕を頼っているような、そんな感じだった気がする。

 けど、だからといって、たった一回活躍したぐらいで、僕は自分に自信を持てるほど単純な人間ではない。

「そうだといいな」

 僕は適当な言葉で誤魔化す。

「そういうところが、ちょっと悲観的な気がするかしら」

 悲観的というより、僕は慎重なタイプなんだろう。

「まあ、僕も裕理も、似た者同士ってことか。お互いに悲観的なわけだし」

 裕理は小さく笑う。

「とにかく、私が言いたかったのは、もっと自分に自信を持ってということよ」

「そりゃどうも」

 そこで、僕は気がついた。もしかして、裕理がわざわざ僕のもとへとやって来たのは、今の言葉を伝えたかったからではないかと。

「あのさ、裕理」

 僕は言う。

「僕との用事って、もしや、今の言葉を伝えることだったんじゃ……?」

「どうかしら」

 はぐらかされたことで、ますます確信をもった。

 そう考えれば、たぶん、僕に料理をご馳走する理由もなんとなく分かる気がする。裕理は僕への感謝の印として、料理を手作りする、ということなのでは……。

「まあ、すぐに分かると思う。何故私がこうして、月人に会いに来たのか」

 意味深な言葉を残し、裕理はもうすぐそこにある僕の家まで駆けて行く。

「あ、ちょ、ちょっと!」

 両手に重たい荷物を抱えているため、頑張っても追いつかない。なんだか僕と裕理の距離、というより、一般人と芸能人との間に存在する、見えない壁を目の当たりにしたようで、少し切ない気分である。

 追いかけても追いかけても、手を伸ばしても伸ばしても、届くことのないこの距離。裕理だけじゃない。玲緒奈や……恋子まで、どんどん霞んでいく。

 そこでようやく僕は理解した。

 僕は心の底からデンゾを応援しているようで、その実は、劣等感を抱き、引け目を感じ、今まで以上にやる気をなくし……そして、自分を見失った。

 ただヤケクソになって、あちこち駆けずり回っただけじゃないか。

「くそ……」

僕の周りには凄いやつが多すぎる。デンゾの三人だけじゃない。沢城は、人並み外れた人当たりの良さがあるし、春香だって、限りのない優しさを持ち合わせているし。

 それに比べて僕は、僕の取り柄は……一体なんだ?

 取り得がないのが取り柄?

 そんなつまらない冗談、やめてくれ。

 肩で息をしながら、僕は走るのをやめた。歩くのもやめた。なんだか、すべてがどうでもよくなった。もうこれ以上、僕は僕を傷つける必要はない。

 その場で打ちひしがれていると、裕理は少し遠くから僕を呼ぶ。仕方なく僕は歩き、トロトロと歩き、家を目指す。

 しばらく歩みを進め、ようやく家にたどり着いた。玄関の扉を開き、中に入る。

「あれ……?」

 すると、恋子の靴以外にもう一つ、見慣れた靴が脱ぎ捨てられていた。

「よう、月人。やっと帰ってきたか」

 靴を脱ごうと腰を屈めた僕の目の前に立ち、こちらを見下ろす一人の少女。ショーカットで、見た目に反して生意気で、愛嬌のある笑顔を浮かべるこの少女。

「玲緒奈……? どうしてここに」

「まあまあ、とりあえず上がれよ」

「ここは僕の家だ。普通それ、僕の台詞だろ……」

「細かいことは気にすんじゃねえ、ほら」

 僕の両手から荷物を奪い、リビングの方へと戻っていく。

「ふふ、今日は楽しいことになりそう」

 後ろで意地の悪く微笑む裕理を一瞥し、僕はいまだに疑問を禁じ得ないが、ひとまず上がる。リビングに入ると、いつものように恋子がソファーに座っていた。

「遅い。どんだけ待たせるんだっつうの」

 揃いも揃って、どうしたのだろう。今までにも、僕の家に来ることはあったが、昼飯時にこうして、顔を合わせるのは初めてかもしれない。

 僕は訝しげな顔で言った。

「あのさ、これ……どういうことだ?」

 恋子は不敵な笑みを浮かべ、言った。

「そのうち分かるんじゃん?」

「そのうちって……」

 テレビをつけ、恋子はそれ以上なにも言わなかった。

「月人、とりあえず座って」

 食卓の椅子を引き、僕に座るよう促す裕理。

「あ、ああ……分かった」

 制服から私服に着替えようと思ったが、なんとなくこの場から離れてはいけないような雰囲気があり、僕は言われた通り座る。

「なあ裕理、玉ねぎ切ってくれよ」

 台所の方から玲緒奈の声が。火の元を玲緒奈に任せるのは不安なため、手伝いをしようと僕が立ち上がると、裕理に静止させられる。

「月人は座ってて。玲緒奈は私が監視しておくから」

 まあ、裕理がいるなら、大丈夫かな。僕は座り直し、様子をうかがう。

「うちさ、玉ねぎ切れねえんだよ。目が痛くなるからまじ嫌い。だから裕理、頼んだぜ」

 面倒なことは他人に押しつける。さすがは玲緒奈だ。

「じゃあ、玉ねぎは私が切るから、玲緒奈はニンジン切っておいて」

「ジャガイモは?」

「玲緒奈にジャガイモは任せられないのよ。だからニンジンだけ」

「はあ? 意味分かんねえ」

 姉妹のようなやり取りに、僕は少しだけ笑う。台所で奮闘している裕理と玲緒奈、一方、恋子はと言えば。

「きゃははは! やば! それはないっしょ」

 この通り、テレビを観ることに夢中で、手伝うような素振りはなし。

「あのさ、恋子」

 僕は言う。

「お前は手伝わなくて、いいのか?」

 目を細め、眉を顰め、恋子は僕を睨む。

「なんであたしが手伝わなきゃいけないわけ?」

「ま、まあそうだな」

 だいたい、恋子は料理ができないから、いるだけ邪魔というものだ。リズム良く野菜を刻む音が、リビングに響き渡る。

 そしてまた、包丁をまな板に叩きつけるような、おっかない音も。

「ああ、もう! ニンジンまじ切れねえ! これじゃニンジン切る前に、うちがキレちまいそうだ……」

 僕はため息をつく。椅子から立ち上がると、玲緒奈のもとへと近寄る。

「おい玲緒奈、お前もしかして、料理とかやったことないの?」

 ニンジンと睨めっこをしていた玲緒奈は振り返り、険しい顔つきのまま言った。

「やってるし」

「例えば? 得意な料理とかさ」

 玲緒奈は即答する。

「冷凍食品!」

 僕は玲緒奈の頭を軽く小突いた。

「痛ってえな! なにすんだてめえ!」

「お前がアホだから」

「アホはお前だろうが! 冷凍食品なめんじゃねえぞ⁉」

 だめだ、やっぱりこいつはだめだ。

「ほら、もう一回包丁をかまえてみろ」

「うわっ! ちょっと……お前……」

 僕は玲緒奈の手を握り、正しい包丁の使い方を指導する。

「まず、親指と人差し指で刃元の中央をしっかりと握るだろ? そしたら、残りの三本の指で柄を握る」

「お、おう……」

 ちょっとだけ、玲緒奈の手が震えていることに気がつき、緊張しているのだと僕は思う。

「なに? もしかして緊張してんの?」

 僕の方が玲緒奈より身長が高い。そのため、玲緒奈は僕の顔を見上げる形で振り返る。

「べ、別に緊張なんかしてねえよ……」

「ふうん、そっか。それじゃ、次は素材の持ち方だな」

「素材の持ち方?」

 僕は玲緒奈の首をグイッと前に向けさせ、今度は左手を掴む。素材をきれいに切るためには、素材の持ち方も重要だったりするんだよな。

 まあ、これはお袋から教わったんだけど。

「中指、それから人差し指の第一関節を包丁の側面にあてて切る。分かったな?」

「分かった」

 玲緒奈は案外、のみこみが早く、言われたことはすぐにできるタイプの人間らしい。

 もはや僕の指導は必要なくなったところで、実感する。僕は玲緒奈の手を握っていたんだと。改めてよく見れば、男のゴツゴツとした感じはなく、透明で艶やかで、それでもって途轍もなく小さい。赤ちゃんの手みたいだ。

「ちょっとあんた」

 突然、背後から恋子の声がする。

「なにイチャイチャしてるわけ? キモイんですけど」

 ドキッと心臓が撥ね、僕は慌てて手を離そうとするも、いまは包丁を扱っている最中なことを思い出し、自分を落ち着かせる。

「別にそういうつもりじゃないって。ただ、包丁の使い方を教えてただけだろうが」

「ふうん……それじゃあもう、教え終わったんでしょ? 早く玲緒奈から離れろっつうの」

 僕の後ろからもの凄い圧力をかける恋子に耐えきれず、僕はそっと玲緒奈から距離を取る。

「あんたさ」

 恋子は言う。

「春香ちゃんと喧嘩したでしょ?」

 僕がちょうど食卓の椅子に座ったところで、恋子は僕の対面に座り、そう言った。

「まあ、な。そりゃ、幼馴染だって、喧嘩の一つや二つはするさ」

 あれが喧嘩なのかどうかは、いまいち分からないけど。とりあえず今は、そういうことにしておこう。

「昔あんた、春香ちゃんのこと好きだったよね?」

 予期せぬ恋子の一言に、僕は思わず言葉を失った。僕のことをからかうつもりはないようで、真面目な顔つきの恋子。僕は言った。

「もし、そうだとしたら……なんかあるのかよ?」

 語気を強めてしまい、恋子はわずかに怯える。いつも優しく接してきただけに、こう僕に強くあたられることに、不慣れなのだろう。

「悪い」と、僕は軽く謝罪をする。

「あたしはさ……」

 恋子は、珍しく僕の機嫌をうかがいながら言う。

「あんたが悪いとか、春香ちゃんが悪いとか、そういうこと言うつもりはない。でも、でもね……昔からずっと、仲が良いあんたらを見てて、だから、嫌なの……」

 僕は恋子の言葉を噛み締めながら、続きを聞く。

「あんたと春香ちゃんが! このまますれ違うのは嫌なの!」

 いつもみたく春香の味方をして、僕のことを罵倒するのかと思ったが……。なるほど。恋子はやはり、僕の可愛い妹だよ……まったく。

不器用ながらも、僕のことを心配しているのだろう。

僕は不安な表情の恋子に言った。

「僕は別に、春香とすれ違ってるつもりはないんだけどな」

「え? どういうこと……?」

「春香は、僕のことが好きなんだって、そう言ってきて――」

 遮るように、恋子は言う。

「なんて答えたの……?」

 僕は一間を置き、言った。

「女として見れないって……言った」

 大きくため息をつく恋子。何かをぶつぶつと呟き、目線を下にしたまま言った。

「言い方ってものがあるでしょ……」

「でも、好きじゃないなら、ハッキリ伝えなきゃ失礼だろ」

「どっちにしろ失礼だって。あんたのその言い方じゃ」

「そうか……?」

 そこで会話が途切れ、しばらくの沈黙。

 裕理と玲緒奈はかなり集中しているようで、お互いに無言で作業をする。

「でも」

 恋子は遠い目をして言う。

「あんたと春香ちゃんって、カップルって感じしないもんね。なんていうか、一生、つかず離れずってやつなのかな」

「それはまあ、幼馴染だからな」

 恋子はニコリと笑う。

「そうだね、たぶんそうなんだよ……あんたたちは」

 あんたたちは、という部分をやたらと強調しているように思う。まるで、僕と春香はくっつくことはないけど、他の女性となら話は別であるかのような。

 まあ、いつかは僕も、誰かと付き合ったりするんだろうけど。なんだか今の恋子の言葉が引っかかり、僕は顔を顰めた。

「それから」

 恋子は椅子から立ち上がり言う。

「春香ちゃんから伝言」

「春香から? 僕に?」

「あんた以外に誰がいんのよ」

 ジト目で僕を見つめ、恋子は言った。

「あんパン一つ、奢ってくれたら許してあげる、だって」

 あんパン……ねえ。春香の大好物のあんパンを奢る。要するにそれは、仲直りしよう、という意味なのだろう。それにしても、随分と立ち直りが早い。もっと時間のかかる問題だと思ったけど、そんなことはなかったようだ。

「春香らしいな……まったく」

 僕はそう、独り言を零すのであった。


それから、お米を炊き忘れるという多少のトラブルはあったものの、どうにかカレーを完成させ、僕らはようやく食卓に集う。正面には裕理と玲緒奈が隣り合って座り、そして僕は、恋子と隣り合う。お昼ご飯というより、ティータイムにさしかかっていたので、僕らはかなりお腹を空かせていた。

「ありがとな、裕理と玲緒奈。わざわざ料理を作ってくれて」

「どういたしまして」

 上品に笑う裕理を目にし、僕と一歳しか違わないのに、大人の女性らしさを感じる。

 一方で。

「まあ、感謝されて当然だよな。うちがこんだけ一生懸命作ったんだから、餌に食らいつく犬みたいに、月人は貪り食べるべきだっての」

 と、いつもながらの玲緒奈節を炸裂させるのであった。

「本当に感謝してるよ、二人には」

 すると、僕の隣に座る恋子は不機嫌になる。

「あたしにも感謝して欲しいんですけど」

「なんで?」

 平たい胸をポンと叩き、得意気に恋子は言った。

「あたしが、あんたと春香ちゃんの喧嘩、仲裁してあげたんだから。それを感謝しろって言ってんの」

 ああ、そういえば。あまり役に立ったとは思えないけど、いちおう春香とは仲直りできそうだし。ここは一つ、大人になって、お礼を言っておくべきか。

「ありがとな、恋子」

 ツンと鼻を上向きにさせ、恋子は照れてるのか怒ってるのか分からない表情。きっと、照れているんだろうけど。

「それじゃ、冷めないうちに食べようか」

 僕が両手を合わせ、食事を開始しようと思ったその時、裕理が言った。

「ちょっと待って、少し、話があるの」

 神妙な面持ちで、裕理は玲緒奈にそれとなく促す。

「なあ月人」

 玲緒奈は言う。

「お前はさ、うちらに色々と協力してくれたじゃんかよ?」

「だから……僕は何もしてないって」

 まただ。裕理と同じく、玲緒奈までもが僕を過大評価している。頭の隅に追いやった嫌な気持ちが、徐々に僕の中で暴れ出す。

「やめてくれ……」

 やめてくれ。もうこれ以上、僕に惨めな思いをさせないでくれ。

 玲緒奈は勢いよく立ち上がり、言った。

「そうやってまた逃げるのかよ……? 自信がないからって目を背けて、また今までみたいにつまんねえ人生送るつもりか?」

 玲緒奈に、ちょっと前に知り会った玲緒奈なんかに、僕の何が分かる……。

「お前は僕の何を知ってる……? 何も知らない癖に、適当なこと言うな」

「うちは知ってる」

 僕はとうとう大声をあげる。

「じゃあ言ってみろよ⁉ お前が何を知ってんのか……言ってみろよ⁉」

 玲緒奈は静かに目を閉じ、安らかな表情で言った。

「うちさ、月人は知らなかったかもしれないけど、お前と同じ小学校だったんだぜ?」

 小学校という言葉を聞き、僕はドキリとした。今みたくやる気のない僕になる前の、小学生の自分。毎日が楽しくて仕方がなかった小学生。誰よりも輝いていた……あの時の僕。

「憧れてたんだよ……」

 玲緒奈は言う。

「うちは月人に憧れてた……。なあ恋子、お前だって……小学生ん時の月人、カッコいいって思っただろ?」

 いきなり話を振られた恋子は「あ、あたし?」と、あたふたとする。

「ま、まあ……。あの時の兄貴は、なんていうかその……クラスのリーダー的存在だったし、学校中の人気者だったような……気がするけど。ていうか――」

 恋子は頭に疑問符を浮かべ、玲緒奈に言った。

「玲緒奈って、あたしとか兄貴と、同じ小学校だったの……?」

 玲緒奈は「ハハッ!」と、笑い飛ばす。

「気づかないのも無理ねえよ。だってうち、ガキの頃は、すげえ地味だったから」

 玲緒奈が……地味? いやいや、想像できない。

 ちょっとだけ苦い顔をして玲緒奈は言った。

「よくいるだろ? 地味で眼鏡で服装もダサくて、まともに会話もできないやつってさ」

 各クラスに一人はいる、冴えないやつ。まあ僕も限りなくそれに近い存在だけど。

 恋子は依然として困惑している。

「あ、あたし信じられないんですけど。玲緒奈が地味って、あり得なくない?」

「信じるも信じないもお前たち次第だけどよ、とにかく、小学生のうちは、やばかったぜ」

 このままでは、懐かしい思い出の暴露大会になってしまいそうなので、僕は話を戻した。

「それで……僕に憧れていたとか言ってたけど、つまりはどういうことだ?」

 楽しそうに傍観している裕理を一瞥し、僕は玲緒奈の言葉を待った。

「つまり……月人に憧れたうちは、真似したんだよ。口調とかジャージとか、色々な」

 ハッとして、僕は思い出す。僕は小学生の時、必ずジャージを着ていた。そして、前にコンビニ近くで玲緒奈と会った時、同じようにジャージを着ていたことを。さらに、今ではすっかり忘れていた昔の僕と、同じような喋り方をすることを。

「ああっ!」

 恋子は目を丸くして言う。

「確かに……言われてみれば、子供の頃の兄貴と、話し方がそっくりかも……」

 余計な一言を恋子は付け加える。

「バカっぽいところとか」

「バカは余計だ!」

 思わず僕はツッコミを入れる。

「どうしてあんたが怒ってるわけ? もう今のあんたは、昔のあんたとは違うでしょ」

「そうだけど……」と、僕はあやふな感情を胸に抱きながら黙った。それにしても、世間は狭いというか、意外なところで玲緒奈と僕らは出会っていたわけだ。

 人気アイドルデンジャラスゾーン。そのメンバー、知音玲緒奈の昔の姿は、今では想像もできない地味な女の子。おまけに、今の玲緒奈は昔の僕を匂わせる、言ってしまえば、僕に憧れた一人の少女である。

 不思議だ……。事実は小説よりも奇なり。正しくこれである。

「だからさ」

 玲緒奈は僕を指さして言う。

「うちはいまの月人が気に食わない。うちは愕然としたぜ……どうにかお前の高校を突き止めて、意気揚々と同じ学校に入学したはいいが、こんなに冴えない男になっちまったんだからよ」

 僕は玲緒奈の言葉に酷く傷つくのと同時に、ちょっとだけ嬉しい思いがこみあげる。だって、憧れの僕の背中を追いかけ、わざわざ同じ高校に入学してくれたのだから。

「にしても、まさか恋子の兄貴が月人だったとはな……」

「どういうことだ?」

「いや、うちはそもそも、ガキの頃から憧れてたのは月人じゃんかよ?」

「そうみたいだな」

「月人に妹がいるっつうことは知らなかったし。ていうか、まさかデンゾのメンバーの一人、東條恋子が、憧れの月人の妹なわけだぜ?」

「どういう運命の巡り合わせだよ、てことか?」

「そうそう、そんな感じ」

 まあ、そいつは確かに言えてるけど。僕はちらりとカレーライスを見る。まだ辛うじて湯気が立っているけど、これ以上、長話をすれば冷めてしまいそうだ。

 そんな、もの欲しそうな目でカレーを見つめる僕に気づいたのか、しばらく空気となっていた裕理は、話をまとめにかかる。

「だから言ったでしょう? 月人には人の心を動かす才能があるって」

 これまた恋子と同じく、裕理も余計な一言を付け加えるのであった。

「今となっては、玲緒奈の憧れの存在も、見る影がないのかもしれないわね」

 僕を除いて、つまりはデンゾのメンバーは、クスクスと嫌味な笑い声をあげる。

「ったく……いまの言葉がなけりゃ、心から僕は感動できたのによ……」

 

裕理と玲緒奈が作ったカレーライスはとても美味しかった。なんでも、隠し味に愛情を使ってるとかいう、ちょっと洒落た冗談を言った裕理に笑ったり。福神漬けがないと言う理由で、本気で怒る玲緒奈を宥めたり、

僕は今までにないほど、楽しい時間を過ごせた。


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