親父の背中は大きい、ようで小さいかも
今週はテスト一週間前ということあって、午前中で授業が終わった。ここ最近、春香は体調を崩しているようで、学校へ来ていない。
本来であれば、テスト三日前ぐらいから、春香と勉強をするのだが、体調が悪いんじゃ仕方あるまい。代わりに、春香のもとへとお見舞いをすることにした。
どうせ今から急いで勉強をしても、悪足掻きに過ぎないしな。
まあ、沢城のやつから「お前は絶対にお見舞いへ行くべきだ」と、念を押されたため、それが僕の背中を後押しした、というのもあるが。
結局、僕は春香が心配なのだ。一人の幼馴染として、春香のことを放っておけない。
車の排ガスの匂いに顔を顰めながら、僕は歩く。
「そういえば……最近春香の家、行ってないな……」
周りに誰もいないのをいいことに、僕は独り言をつぶやく。昔は毎日のように通ったこの道も、今ではすっかり、懐かしいものとなってしまった。
ひらりはらりと宙を舞う木の葉を見て、僕は思う。「なんだか僕みたいだ」と。恋子がアイドルだと聞かされ、それからというもの、自分の立ち位置が分からないまま、とにかく奔走してきた。いや、大したことはしていないが、それでも、恋子の悩みを聞いたり、裕理にアドバイスをしたり、玲緒奈に……いや、玲緒奈には特に手助けをした記憶はないな。
とにかく、僕なりに協力してきたつもりである。
恋子の自宅ライブを見て、感激し、心を打たれ、僕も何かに一生懸命頑張りたいと思った。そしてデンゾのライブへと足を運び、その思いはよりいっそう強いものとなった。
けど……それなのに、今の僕は果たして、どうだろう。
ただでさえ取り柄のない僕は、このまま恋子たちにちょっとした口出しをすることで、たったそれだけで、満足しているんじゃないか?
何もしていないのに、何かをしたような気になって、それじゃあ結局、自己満足だ。
ピタリと足を止める。
沸々とこみ上げる嫌悪感。
「僕はやっぱり、ダメ人間じゃないか」
気づかぬうちに、春香の家の前に到着していた。なんてことのないよくある一軒家で、見事に周りの景色に溶け込んでいる。
ここにあることに、違和感を感じさせない。あって当然な感じ。
僕はインターホンを押し、応答を待つ。
「はい、ってあれ? 月人君……?」
素っ頓狂な春香の声が聞こえた。
「ああ、僕だよ。お見舞いに来たぞ」
両手をプラプラとさせ、手土産を持ってきていないことを、それとなく伝える。
「ふふ、月人君って、ほんと気が利かないね。ちょっと待ってて」
家の中から階段を急いで下りてくる音が。そんなに急がなくてもいいのに。
「いらっしゃい。どうぞ」
パジャマ姿の春香がひょっこり顔を出す。見た感じ、体調が悪そうには見えないけど……。まあ、春香の性格を考慮すると、学校をさぼるとは思えないから、きっと具合が悪かったのは確かなんだろう。
「お邪魔します」
脱いだ靴を丁寧に揃え、僕は家の中に上がる。そのまま春香の部屋へと通され、クッションを尻にひき、座る。春香はベッドに腰を下ろす。
「えへへ……。まさか来てくれるとは思わなかったなあ……」
自分がパジャマ姿なのを恥じているのか、春香はモジモジと身体をくねらせた。
「それにしても、変わらないな、この部屋は」
すんすんと鼻を動かすと、石鹸のような爽やかな匂いが僕の鼻腔をくすぐる。ぐるりと部屋を見渡せば、本棚にはびっしりと本が詰まっており、机の上にも本が数冊置いてある。
そういえば本が好きだったんだなと、忘れるはずのない春香の趣味を思い出す。どこか懐かしい存在となってしまったような気がする。
いままでは、春香とずっと一緒にいたのに、それが少しづつ変わり始めて……。
「どうしたの?」
春香は不思議そうに僕を見る。
「なんだか月人君、悲しい表情してる……」
僕はかぶりを振って、すぐに笑顔で呑みこむ。
「いや、そんなことないよ。それで、どうだ? もう具合は良くなったのか?」
僕の瞳の奥の、そのまたさらに奥を見据えるような春香の眼差し。全てを見透かされているようで、僕は思わず目を逸らす。
「うん、もう大丈夫だよ。ちょっと、風邪気味だったんだぁ」
「そ、そうか」
ここで話が途切れ、沈黙。まじまじと女の子の部屋を見るわけにもいかないから、僕は視線を下にして、春香が話し出すのを待った。
「あのね、月人君」
春香は言う。
「あたし、月人君のことは、昔から見てるんだよ?」
突然の言葉に、僕は「どういうこと?」と、聞き返す。
「だからね、月人君がどんなことを考えてるのか、なんとなくだけど分かる。いま、何かに悩んでるんだよね?」
ごくりと唾をのみ、僕は驚く。
「ど、どうして分かった?」
「だから言ったでしょう? あたしは月人君のこと、昔から……ううん、今でもずっと見つめ続けてるんだから」
春香の表情をうかがうと、そこには怖いぐらいに真剣である。
「そうか……まあ、幼馴染だもんな」
この張りつめた空気を変えるべく、適当なことを言った。しかし、春香の表情は依然として硬い。
「逃げるの?」
「逃げる? いったい何から逃げるんだよ」
「あたしから」
「……え?」
ギュッと拳を握りしめ、春香は意を決したような面持ち。
「あたしの気持ち、知ってるくせに……知ってたくせに……」
「お、落ち着け? な?」
春香はベッドから勢いよく立ち上がると、身体をわずかに震わせ、言った。
「あたし……あたしは……月人君のことが、好き……月人君のことが、ずっとずっとずっと、ずっと好きだった!」
ハアハアと荒い呼吸を繰り返す。
「あたしはこんなに月人君のことが好きなのに、月人君はあたしのことを全然見てくれない……。もうやだよ……こんなの……あたしもう疲れたよ……!」
鈍器で頭を殴られたように、僕の思考が一気に鈍る。どんなことを言えばいいのかが分からなくて、どんな謝罪をすればいいのかが分からなくて……。
けど、何かを言わずにはいられなくて。
「ごめん」と、一言だけ、僕は静かに告げた。
春香はいまにも泣き出しそう。ずっと隠してきた気持ちを僕に打ち明けたのだから、そうとうな覚悟があった上での決断だったのだろう。
いや、違うか。
もう、耐えられなかったんだ。濁流のごとく感情が溢れ出し、とうとう我慢ができなくなり、こうして言った。言ってしまった。
「やっぱり……月人君は、あたしの気持ち、知ってたんだよね……?」
「ごめん」
「知ってたのに、気づかないフリをしてたんだよね……?」
「ごめん」
「最低だよ……月人君は最低だよ……⁉」
「……ごめん」
とうとう両手で顔を覆い、春香は泣き崩れた。春香の嗚咽が響き渡るこの空間に、僕は何とも言えない居心地の悪さを覚えながらも、心のどこかで安心している自分がいた。
もう、鈍感なフリをしなくてもいいんだ。
もうこれで、これ以上、春香を傷つけないで済む。
結局、僕は自分が一番可愛いのだろう。もっと早くに、春香の気持ちに気がついたあの時に、僕はなんらかの答えを示すべきだった。
確かに、あの時はまだ、僕は自分の気持ちがよく分からず、悩んでいたのは事実。けど、それならそれで、「僕はどうしていいか分からない」と、言えばよかっただけの話だ。
それなのに、僕は結論を出すことを恐れ、春香との関係が壊れることを懸念し、結果として、春香を悩ませ、傷つけ、苦しめた。
やはり僕は、最低だ。春香の言う通り、最低な男だ。
僕は遠い目で春香を見る。視線を外せばいまにも消えてしまいそうで、僕は見つめ続ける。
「あたしじゃ……」
春香は顔を伏せたまま言う。
「あたしじゃだめなのかな……。月人君の隣を歩くのは、あたしじゃだめなの……⁉」
数瞬、僕は迷った。心が揺らぎ、また逃げてしまいたいと思う。けど、それもほんのわずかの時間。僕はもう全てを諦め、春香との関係が壊れることを覚悟し、言った。
「ごめん。僕は春香を、好きになれない。春香を女性として見るのは、無理だ」
悲痛な顔で、春香は細切れに言葉を紡ぐ。
「どうして……」
僕の心は、張り裂けそうだ。
「どうして……」
頭が真っ白になる。
「どうして……」
僕はそっと、目を閉じた。
「どうして……それならどうしてもっと早く言ってくれなかったの⁉ あたしは散々待ってたのに……待ち続けてたのに! どうしてよ……⁉」
「ごめん、春香を苦しませて、ごめん」
「あたしはそんな言葉聞きたいんじゃないの! あたしはただ……月人君から……好きって……言って欲しかっただけなのに……!」
「ごめん」
機械のように、淡々と僕は謝る。ごめん、ごめん……春香。
「もういい……もういいよ。月人君の気持ちはよく分かったから……もう、いい」
春香は、初めて僕を、本気の憎悪をこめ、睨んだ。背筋が凍り付くような眼差しで、睨んだ。
これで、良かったのか? 僕は果たして、こんな結末を望んでいたのだろうか。ただ、春香と一緒に、彼女としてではなく、一緒に笑い合っていたかった。それだけなのに。
どうしてこんなことになった。
いや、僕が全て悪い。何もかも僕のせいだ。
泣きじゃくる春香を一瞥し、僕は言った。
「ごめんな。それじゃあ――」
それじゃあ、また明日? 僕と春香に次はあるのか? 僕はそこで言葉を区切り、春香の家を立ち去った。
昼下がりの青空が灰色に変わり、見慣れたはずの景色がどこかよそよそしい。当てもなく歩き続け、たどり着いたのは地元の駅。
たぶん、一人になりたくなかったんだ。
一人でいれば、色々なことを考え、そして悩んでしまう。だから僕は、こうも人通りの多い駅を目指して歩いてきたのかもしれない。
僕と同じように、制服姿の学生。携帯を耳にあて、早歩きをするサラリーマン。喫茶店に入る若い女性。どの人を見ても、表情こそいたって普通だが、なんとなく幸せそうに見える。
改札近くにある柱に寄りかかり、僕はぼんやりと、真っ白な頭で考える。何を考えればいいのかすら分からないが、考える。
僕は、こうして悩む時は必ず、まず春香に相談をするのだが、その春香も今となっては頼れない。頼れるはずがない。
長いため息をつく。
これからどうするべきなのか。それを考えなければ。春香と仲直り? いや、そもそも喧嘩をしたわけではなく、本音をお互いにぶつけあっただけである。どっちが悪いとか、まあ僕が全面的に悪いのだが、それをもう一度謝ったところで何も解決できない。
それなら、春香と距離をとるべき? これもまた違う。それじゃあ結局、また逃げているだけだ。じゃあ、僕はどうすればいい?
誰も答えを知らない数学の問題を解くのと同じように、いくら考えても無駄。考えても無駄なら、考えない。けどそれじゃあ、また逃げてしまっている。
どうどうめぐり、悪循環……つまりは、ジレンマか。解決策を考えるか、それとも考えないかの二択を迫られ、どっちが正解かも分からず、悩む。
胸のあたりがチクリと痛み、僕は顔を顰めた。
僕は役立たずだ。無能だ。何もかもが嫌になり、僕はその場にしゃがみこむ。人目を気にしていられるほど、心に余裕がない。
誰かに僕の話を聞いて欲しくて、携帯を開き、アドレス帳を見るも、春香、恋子、裕理、玲緒奈、親父、沢城、しか登録されていない。
この中で、何かいいアドバイスをくれそうな人は……いない、と思う。
「どんだけ友達少ないんだよ……僕は」
いまさらになって、僕は自分の友人関係を反省した。
「あれ、月人。お前こんなところで何やってんだよ?」
タイミングがいいのか悪いのかは分からないが、すぐに親父の声だと気づいた。キョロキョロとあたりを見回せば、こじゃれた洋服を着た親父の姿が目に入る。
「どうした? 恋子と喧嘩でもしたのか?」
いつも変わらず、能天気に笑う親父を見て、僕は心から安堵した。親父だけは、いつもまで変わらない、僕の味方をしてくれる、そんな気がした。
「親父……」
僕は言う。
「ちょっと話があるんだけど、いま大丈夫?」
呑気にあくびをしてから、親父は言った。
「かまわないぞ。ちょうどいま、仕事から帰ってきたところだ」
そういえば、最近仕事が大変だとか言っていたから、きっと昨日からずっと、仕事をしていて、それでようやくこの時間に帰ってこれた。そんな感じだろう。
少し親父に申し訳ない気がしたが、とりあえず話をしてみることに。
「あのさ、実は……春香と、その、まずいことになってさ」
「春香ちゃん?」と、親父は言う。
「そう、まさか忘れたわけじゃないだろ? 僕の幼馴染の春香だよ」
「もちろん覚えているとも。それにしても、まさかお前が、あの春香ちゃんと喧嘩をするとはな」
くいくいと、親父は指で前を指し示す。たぶん、歩きながら話そうということだ。僕は指示された通り歩き、そして、単刀直入に言った。
「春香がさ、僕のことが好きだって、言ってきたんだよ」
「それでお前は、断った、そうだな?」
親父は楽しそうに笑いながら、そう言った。
「ああ……。僕は前から春香の気持ちを知っていて、それで春香も前から、僕が気づいてることを知っていて……」
肩をぐるぐると回しながら、親父はあくまでもニヤニヤとした表情で言った。
「幼馴染にありがちな話だな。かくいう俺と母さんだってそうだったし」
「え? 親父と、お袋が幼馴染……?」
意外な事実を耳にして、僕は目を丸くする。
「まつ、お前と恋子には特に言ったことなかったけど、そうなんだよ」
懐かしい記憶を振り返っているような、どこか遠い目をして親父は言う。
「お前たちとはちょっと、状況が違うけど、俺はガキの頃から母さんのことが好きでな、それはもう何回もアプローチしたさ。でも、母さんはなかなか頷いてくれなくて、結局そのまま中学、高校と、終わってしまった」
そんなに長い間、お袋に猛アタックしたのか。よく言えば情熱的、悪く言えばただのストーカーである。
「じゃあ、そんなお袋が、どうして親父と結婚をする気になったんだ?」
「はは!」と、大袈裟に笑い、親父は言う。
「諦めたのさ」
「諦めた?」
「そう、同じ大学に入って、それでも母さんにラブコールを送り続けたら、母さんは諦めて俺と、付き合ってくれたんだよ」
「うわ……それ、冗談だよな……?」
完全にドン引きをした僕を見ても、まったく動じることなく、あっけらかんと言った。
「まさか、これは事実だ」
さっきまで、春香のことで悩んでいた自分がアホらしく思えるほど、親父がアホに思える。
「そしてそのまま、親父とお袋は結婚をしたと」
頬をポリポリと掻き、いまさら恥じらう親父。
「そういうことになるな」
「なるほど……」
今は亡きお袋を想い、僕は合掌。とんだ迷惑な男に捕まって、お袋も大変だったのか。
「だからさ」
親父は真面目な顔つきになり言う。
「春香ちゃんとお前は、きっと、どんなに喧嘩しても、いつまでたっても幼馴染であることに変わりはない。だから、しばらく気まずくなると思うけど、それもすぐに解消されるよ」
ちょっとだけ、親父はカッコつけて。
「それが幼馴染ってものだ」
妙に説得力のある言葉に、僕は何度も頷き、言った。
「そっか……。ありがとう、親父。かなり気分が楽になった」
親父は片手をフラフラとさせる。
「やめろやめろ、俺は別に、感謝されるようなことを言ったつもりはない」
「はいはい」
こうして、親父の話の甲斐あって、僕はまた前を向き歩き出すのであった。




