Episode13 あの夕陽と、約束。
そのまま握っていたらスマホを落としちゃいそうで、私はそっとそれをポケットに滑り込ませた。
蒲田くん、いつから私の悩みに気付いていたんだろう。
ふとそう思った。
それに前は、あんな配慮のできる優しい人じゃなかったのに。
無邪気な性格は変わらないまま、大人っぽくなってる。いつの間にか蒲田くんがずいぶん先を行っているような気がして、私は大差を付けて負かされたような気持ちになった。同時に、さっきまでの大きな悩みがひとつ丸ごと、あのたった一分の通話で消滅したのを、ひしひしと感じていた。
絵を見る。
さっきと寸分変わらず、絵の中ではフリージアの花が揺れている。
私は小さな声で、尋ねた。
「……ねぇ。運命に素直になるって、これでいいの?」
その意気だよ。
気のせいかな、そんな声が聞こえた。
私がはっとした時には、自転車のスタンドが下ろされる大きな音が目黒川に響き渡っていた。夕陽に照らされたデッキを見つめる私の視界に、別の人の影が飛び込んできた。
あ、って私は声を上げた。なぜってその影を作っていたのが、さっき私が自転車を修理してあげた男の子だったからだ。
「……姉ちゃん、見つけた」
男の子は途切れ途切れに息をしながら、私を見上げていた。そして呆気に取られてる私に向かって、バールを突き出した。
「これ、返さなきゃって思って」
私のこと、探しててくれたんだ……。
なぜだろう。
出されたバールを見ていたら、急に泣けてきた。
頬を拭った私を前に男の子は怪訝そうに眉を寄せて、次に神妙な顔つきになる。
「姉ちゃん、その、ごめんね。さっきは笑っちゃったけどさ、オレすごく助かったから。ありがとう」
違うの。涙が出るのはきっと違う理由なの。そう言ってあげたくても口が開かなくて、私は早々に諦めた。
でも、その心遣いは死ぬほど嬉しかった。
私はそっと、震える手を差し出す。心配そうに眉根を寄せながら、男の子がそこにバールを置いてくれた。冷たくて重たくて、でも今日までの私の日々に深く深く寄り添い続けてくれた私の相「棒」が、戻ってきた。
えへへ、おかえり。そう言って撫でてあげたくなったのは、きっと私が変だからじゃない。
……これで、プラマイゼロに落ち着いたのかもしれない。ううん、きっと、そうだ。
蒲田くんとの件は解決して、バールも戻ってきた。笑われた分や転んだ分くらい、黒目さんの絵が補ってくれる。
何だかんだで損得勘定をしてしまう自分が、可笑しかった。私は男の子を振り返って、深々と礼をした。
「私こそ、ありがとう」
男の子、目をばちくりさせてる。私はうーんと伸びをして、男の子の隣に並んだ。摩天楼の間に消えようとしていた夕陽が、そこからだと一際眩しく見えた。
「……姉ちゃん、なんか変わってるね」
男の子が不思議そうな声を上げた。
「そうかもしれないね」
そう言って私も微笑んだ。そうだね、あんなにバカ正直に『プラスマイナスゼロ』の落ち着きどころを探していた私は、変だったのかもしれない。
でも、今は。少し変われた私が、ここにいる。
「あれ、他の友達はどうしたの?」
ふっと気づいて尋ねたら、男の子はさっと青くなった。「あ、置いてきちゃった」
「追いかけてあげなよ」
言われなくてもその気になったらしい。男の子はぱって自転車に飛び乗った。
飛び乗りざま、笑った。
「姉ちゃん、帰り道でカバン落とすなよー!」
「もう落とさないよ!」
むっとして言い返した時には、男の子はもう駆け出していた。茜色の滲んだアスファルトの上を、自転車の形をした影が遠ざかっていく。
こんな子にムキになれるなんて、私も順調に無邪気になれてるかな?
絵を見ずに私はそう訊いた。そのくらいでいいんだよ、って答えてくれた気がした。
初めまして、五反田の街。
初めまして、この街に暮らす皆さん。
そしてお久しぶりです、あの空で輝く夕陽さん。
私、約束するよ。色んなことを頑張るって。見かけの運が多少悪くたって、それを跳ね返すくらいの気概で頑張るって。そうしていつも、笑顔でいるって。
あの煌めく太陽があれば、『プラスマイナスゼロの法則』は必ずある。ううん、勝手に動作してくれる。だから私は安心して、自分の頑張りを続ければいい。頑張ったその分だけ、私たちはちゃんと報われる。夕陽が道端に咲くどんな花たちも、綺麗な姿に照らし出してくれるように。
それが本当かどうかは実のところ、今の私にはまだよく分からない。でも、信じてみようかなって思えるんだ。その方がきっと、楽しいもん!
明日からの日々を、四月からの新学期を、笑って楽しく暮らせるように。
それが今日からの、私と夕陽の、約束。
「よっし、帰ろうっと!」
大きく大きく伸びをしてみせた私の前を、行く手を。遥かな彼方から届いた夕方の光が、確かに照らしていた。




